手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

暮れ 正月

暮れ 正月

 

 昨日(24日)近所のコンビニの店頭で、一日中アルバイトのお兄さんお姉さんがケーキを販売していました。クリスマスイヴですから、ケーキ販売も当然でしょうし、お店もある程度売れると見込んでの販売なのでしょう。

 然し、一日外に立ってケーキを販売するのは大変な仕事です。駅に行く途中、コンビニでバイトのお姉さんがサンタクロースの衣装を着て立っていました。大きなケーキや小さなケーキ、シャンパンなどいろいろ並べて販売しています。

 立ち止まって近付いて、一瞬、一つ買おうかと思いましたが、どうせ夜になれば娘が有名店のケーキ屋さんからケーキを買ってくるはずです。

 そうなると私が思い付きで買ったコンビニのケーキなど、目もくれないはずです。「 余計な物を買わないで」。とあっさり否定されそうです。スィーツに関しては私が関与しないほうがいいのです。「そう思うと買えないなぁ」、と、そのまま駅に行きました。

 買い物を済ませ、数時間して戻ってくると、同じ店に、今度はバイトのお兄さんがサンタクロース姿で、立っています。

 何か買って少しでもバイトを楽にさせてあげようかな。と思い、商品を物色しますが、その都度女房と、娘の顔が浮かび、買ったら苦情を言われるに違いありませんから、結局眺めるだけです。

 それでも私がこうして立っていれば、つられて買おうとするお客さんもいるのではないかと思い。少し物色する振りをして立っていました。考えれば大きなお世話なのです。結局私は買わずに帰りました。

 私は小学生のころマッチ売りの少女と言う童話を呼んだことがあります。子供心に感動して涙を流しました。その話は、ヨーロッパのある街のクリスマスイヴの話でした。

 

 寒いクリスマスイヴの日に、少女が街頭でマッチを売っています。少女の売っているマッチは、幾つものローソクに火を灯しやすいように、長い棒状に作られた特別のマッチです。

 少女は道行く人に声をかけますが、一本も売れません。夜は更けて来て人通りもなくなり、朝から何も食べていない少女は空腹と寒さで耐えられなくなります。

 道端にしゃがみこんでしまった少女は、余りの寒さから、売り物のマッチをこすって火を付けます。

 火は、とても暖かく、手先や顔を温めてくれます。然し、やがて消えてしまいます。もう一本火をつけると、また暖かくなり、死んだ父親や母親が出て来て、かわいがってくれた日々を思い出します。その思い出も、マッチの炎が消えるとともに消えてしまいます。慌てて少女はマッチを燃やします。

 そうして少女はすべてのマッチを燃やしてしまいました。翌朝、クリスマスの日に、道端に、マッチの燃えさしが散らばった中で、倒れている少女をがいました。少女は凍死していました。その顔は幸せそうでした。

 

 子供心にこの話は心に響きました。少女を助けてあげられない自分にもどかしさを感じました。何とかしてやれないものか。とずっと考えていました。

 そんな思いがこの年になるまで心の中に残っていて、クリスマスになると店頭でケーキを販売するバイトのお兄さんに協力してあげたくなるのでしょう。でも結局買わないのですから、ただの冷やかしです。金も出さなきゃ助けもしない、いやな親父です。

 

 そして昨晩私の家の食卓は、シャンペンに鶏のもも肉と、海鮮サラダ、フランスパン。そしてケーキはブッシュドノエルを頂きました。

 ブッシュドノエルは今までも何度か見たことはありますが、食べるのは今回が初めてです。丸太の形を模したケーキで、ロ-ルケーキの一種でしょう。クリスマスに食べる物だそうです。欧州の暖炉のある生活から生まれた丸太状のケーキなのでしょう。

 とても贅沢な食事でした。鶏モモ肉のローストチキンは勿論旨いのですが、私にとっては、都城の牟田町の酒場で食べた鶏モモに塩を振って、炭火で焼いただけの、あの鶏の半身の方がうまいと感じました。但しそのことは女房や娘には言えません。秘密です。

 店中炭火でいぶされて、もうもうと立ち上る煙の中で、焼酎と共に食べたあの鶏の半身、あれを超えた鶏は今までお目にかかったことがありません。

 「また、都城に行きたいな、行ったら必ずあの鶏の半身を食べるんだ」。そんなことを心に思ってクリスマスイヴを過ごしました。同時に、ブッシュドノエルを食べつつ、その素材の良さに感動しましたが、あのコンビニのお兄さんはまだ声を枯らしてケーキを打っているのだろうか、と頭の中をかすめました。

私はこうして暖かい部屋の中で家族と幸せにクリスマスイヴを祝っているけども、バイトのお兄さんはどうしているのか。

 

 寒い冬の夜中に、ケーキが売れずに、声も枯れ、空腹になり、道端にしゃがみこんだバイトのお兄さんが、売り物のケーキを一口食べ、「あぁ、昔、母親がケーキを買って来てくれたなぁ」、と子供のころを思い出します。

 ふるさとの母親を思い出し、母親に可愛がってもらった日々を思い出し、ここで働いたバイト料で故郷に帰り、正月には母親に孝行してやろう。と思います。

 然し、余りの寒さに耐えられず、売り物のシャンペンにまで手を出して、ついついシャンペンを飲みだします。飲めば機嫌が良くなり、クリスマスソングの一つも歌い出します。

 そうなるとシャンペンは止まりません。次々に栓を抜き、飲み干して、外で上機嫌になっていると、店長がやって来て、カンカンに怒ります。そこでバイトのお兄さんは、

 「いいじゃないですか、僕がケーキとシャンペン代を払えばいいんでしょ」。と、居直り、バイト料と相殺にして、さっさとサンタの衣装を脱ぎ捨てて、寒空の中を去って行きます。

 一人駅に向かって歩きながら、「あーぁ、これでバイト代もなくなった。今年も故郷に帰れそうもないなぁ。でも、ケーキとシャンペンでクリスマスイヴを祝えたのだから、まっ、いいか」。と、将来の不安よりも、今の気分を優先させて、鼻歌を歌いながら帰って行きました、その顔は幸せそうでした。

 現代童話「ケーキ売りのお兄さん」終わり。

 

明日はブログを休みます。

 

指導の型

指導の型

 

 指導をする人にも千差万別で、様々な教え方をします。初心者がマジックを習いに行くと、指導家の教え方に戸惑うことがしばしばあります。私も随分いろいろな人からマジックを学んできましたが、その教え方は随分違っていました。

 

 極端な例は、スライディーニとダイヴァーノンでした。スライディーニは徹底した同一性を求めました。演技の細かな技法は勿論。セリフから、テーブルを前にして座る位置、椅子の角度、テーブルクロスを膝に掛ける長さからそのしぐさまで、

事細かに指導し、何度も何度も一つ一つを指導して行きました。

 師の演技は、全てに理由があり、セリフやしぐさのタイミングにマジックの種や技法を忍び込ませていました(マジックと言うものは元々そうしたものですが)。

 師は、たった今、習いに来た生徒にすら自分と同じことをするように求めました。スライディーニの演技は、スライディーニになりきらない限り完成しないと、当人は信じて疑いませんでした。実際指導の内容はそっくり自分の演技をなぞらせることに終始しました。

 そこへ行くとダイヴァーノンの教え方は至ってシンプルでした。指導と言うよりも解説に近く、あくまで現象を教えます。生徒がパームが下手でも、スチールが未熟でもほとんど指摘しません。細かな部分にはこだわらないのです。

 あくまで大筋で理解していればそれでいいと言う教え方でした。習う側からするといい指導家です。然し、実はこの教え方には大きな落とし穴があります。

 ヴァーノンはおおらかで、寛大な人のように見えますが、実は、そうではありません。しっかり人の技量を見ているのです。相手が出来ないからと言って事細かに教えようとはしません。できないことは出来ないとあきらめているのです。できない人を追いかけてまで教えてやるほど親切な人ではないのです。

 ある意味ヴァーノンはアメリカ的な人です。1時間レッスンをしたら、その範囲の指導しかしません。そこから先の生徒の成長に関与しないのです。

 ところが、高木重朗先生がヴァーノンに習っているところをしばしばキャッスル(ロサンゼルスのマジックキャッスル)で見ていると、高木先生は、度々突っ込んだ質問をしていました。こうしたときの師は真剣で、小さな技も詳しく話していましたし、日頃人に伝えないようなマジックの核心部分も話していました。

 つまり師は人の技量に対して指導を変えていたのです。疑問の度合いの深い人にはそれにこたえる懐の深さがありました。

どちらがいい指導家かという質問は難しいと思いますが、確実に、プロとして生きて行きたいと言う人を指導するには、スラーディーニのやり方の方が実践的です。なぜなら既にできている手順をそっくり移して、それを演じてもいいと言うわけですので、結果として短期間に人を育てることが出来ます。

 但し、その教え方では大きなマジシャンは育ちません。相手の創造力、個性を認めていないのですから、そっくり自分を真似させると言うことは、そこから先に育ってくるであろう創造の芽を摘み取ってしまうことになります。

 

 これは昔から、「師の半芸」と言って、余り師匠に傾倒しすぎて、師匠そっくり真似て演じる芸人が育っても、それは結局師匠の半分の技量にも至らないと言うことが言われています。

芸能が芸術である以上、そこに創造がなければなりません。創造とは自分の人生の中で体験して掴んで行く様々な事象を芸能に置き換えて語って行く作業です。そこが未熟ではどれほど真似がうまくても「師の半芸」なのです。

 と、こういうふうに書くと、すぐに、「その通り、いくら人の真似をしても無駄だ。自分のオリジナルこそすべてだ」。と言って、怪しげな作品を作り出す人がいます。

 これも大きな落とし穴です。しっかり基礎指導を受けていない人が、いきなりオリジナルを語っても、わがままが育つだけです。ほとんど先に発展しません。

 私の知る限りにおいても、若いうちに一つ二つ珍しいことを考えて話題になった人が、5年もすると全く人の噂から消えて行きます。想像が定着しないのです。

 自分の作品がどこまでオリジナルなのか、今のマジックの世界がどこまで発展していて、自分は一体どこに位置しているのか、が分からなければ、無駄なオリジナル粗製乱発して終わる結果になります。

 能書きをたれる前にまず小学校には入らなければいけません。そして中学校を卒業して、更に専門学校なり大学で学び、その上で自分の世界を見つめて行かなければ何も生まれません。

 ヴァーノンと言う人は、若い人で、土足で侵入してくるような人たちに、ピシゃッとドアを閉めてしまいます。そして理解の低い人には「あぁ、それでいい。うまいよ、よく出来ている」、と言って何も語らないのです。それを親切な親父だと思ったら大間違いです。

 

 私がスラーディーニ的なのか、ダイヴァーノン的なのかと問われても、恐れ多いことです。あえて言うならどちらでもありません。

 昔からの手妻の教え方は、一挙一足、事細かに教えて行き、昔の型に沿って指導をします。連理、引き出し、蒸籠、蝶、などは方が残っていて、決まりがありますから、まずそれは尊重して指導します。然し、昔のように、必ずこうしなければいけないと言う教え方はしません。

 私はあまり細かなことにはこだわらない指導の仕方をします。私と違ったやり方で覚えた人も、大きく違っていなければ注意もしません。むしろ変えて演じてもいいと言います。

 何人もが全く私と同じ演技をする必要はないのです。基本さえしっかり学んだなら、後は変えて行っても構いません。変えると言うことが発展につながる場合もあるのですから。発展の芽を摘むようなことを指導家がしてはいけません。

 ある意味、昔の社会は、流派や一門によって人を縛ってきた傾向がありました。それが結局、明治以降、大量に入って来た西洋奇術に数で押し流されて、手妻はマジック界の片隅に追いやられて行ってしまったように思います。

 明治維新以来150余年、ずっと下り坂だった手妻がこの10年、ようやく日の目を見るようになりました。これをまた元も子も無くしてしまってはいけません。残しつつ、守りつつ、発展させなければなりません。教え方も一つではなく、生徒もまた同じ人を作る必要はないのです。

続く

模様替え

模様替え

 

 先日一階のアトリエにある大道具を猿ヶ京に持って行って、道具が無くなった分部屋を広く使って、稽古スペースを広げようと考えていると言う話をしました。

 然し、いざ道具を運ぼうとしたときに、水芸の話が来てしまい、しばらく道具はそのままにすることにしました。そうした結果、アトリエには、水芸だけでなく、10月のリサイタルで使った峰の桜、ギロチン、一里四方取り寄せ、と言った大道具がひしめき合って。狭い稽古スペースを一層狭くしています。

 やむなく稽古をする際は道具を外に出して稽古していますが、どれもかなり大きな道具ですので、ほんの少し移動するだけでもかなり苦労します。

 さっさと猿ヶ京に持って行ってしまえばいいのですが、いざ大道具を移動するとなると、2トントラックを借りなければならず、人の手配もしなければなりません。

 また、運んだ後に水芸などの注文が来た時には、またトラックと人手を手配しなければなりません。その手間と経費を考えると、簡単に移動は出来ません。いいタイミングを読んで行動しなければならないわけです。

 と言うわけで、猿ヶ京行きを躊躇しているうちに今年ももう終わりに近づいてしまいました。相変わらず道具に圧迫されています。困ったなぁ、と考えているうちに、女房が趣味でしているスペイン舞踊の先生のお家があって、たまたま舞踊の稽古場を修理することになり、しばらく大工さんが入るために部屋が空くと聞きました。そうなら、その修理の期間だけでも道具を置かせていただけないかとお願いすると、快く了解していただけました。

 そこで早速、今日、前田と学生さんを頼んで道具を舞踊の稽古場に運ぶことになりました。同じ高円寺ですので、そう大した移動ではありません。また、仮に、水芸などの仕事の依頼が来てもすぐに運び出すことが出来ます。助かりました。

 このため午前中は道具の移動をします。

 

 今年の私の仕事納めは31日です。大晦日までみっちり仕事が続きます。仕事と言っても指導ばかりです。これほど連日指導をする人生が来るとは考えてもいませんでした。

 まぁ、舞台の数が減ってしまっている現状では致し方ないことです。少しでもマジックに携われて、自身のマジックが生かせるのですから幸せです。そして、習いたいとう人が増えています。いいことか悪いことかはわかりません。

 今まであまり肌って指導を宣伝してこなかったのですが、いろいろな伝手から習いたい人が来るようになりました。今は時間にゆとりがあるから、指導もいいのですが、余り指導を増やしてしまうと、舞台が忙しくなったときに稽古を休まなければならなくなります。

 そうなったときに、生徒さんに迷惑が掛かります。指導の時間は際限なく増やさないほうがいいのではないか。いやいや将来のことを考えると、早々舞台が忙しくなるとも考えられません。もっと積極的に指導に回った方が良いのではないか。思案するところです。

 日本舞踊のお師匠さんや、長唄のお師匠さんなどは、ネットを利用して、リモート(同時配信)で日本全国の愛好家に指導しています。全くマンツーマンで指導がされていますが、結構時間を取られるために大変だと言っています。

 確かに映像を頼りに距離の離れたところに住んでいる人に指導をするのは簡単ではありません。それでも離島などに住んでいて、日ごろ指導を受けられない人にはこのシステムは有り難いことかとは思います。

 ただ、それを私がすることが良いことなのかどうかと考えると躊躇してしまいます。マジックの指導はよほど相手のことが分かっている人に指導しないと、あとで問題がたくさん出て来ます。

 習った傍から「また教え」して、たちまち家元になってしまう人があります。DVDでレクチャーして道具ごと販売する人がいます。中には種明かしをする人がいます。

 別段種明かしをするわけではなくても、稽古もしないままあちこちでひどい演技を見せて、種明かしに近いことをしてしまう人もいます。一度教えてしまえば、そこから先は追いかけて苦情を言っても全く無駄なのです。

 指導は肌ってするものではありません。指導の押し売りなどは決してしてはいけないのです。よくよく相手を見定めたうえでなければ安易な指導は出来ないのです。

 然し、同時に、誰かに教えなければ芸の継承は絶えてしまいます。芸能を残す、と言う点では芸能実演家がその経験を誰かに伝えて行かなければなりません。考え方や種仕掛けを紙やDVDで残しても、それは抜け殻にすぎません。

 習う方でも、実際に先輩芸人のいい演技を目の当たりに見て、ものすごい拍手を聞いた後に、楽屋なり、舞台脇などで語ってもらう経験談ほど身に染みるものはありません。こんな一瞬を経験したときに、全ての考えが突き抜けて、自分が何をしなければいけないかがわかるのです。

 指導も同様です。教える内容だけでもなく、何気に先生が指導中に語っていたことや、ちょっとした仕草などが、どれもこれも貴重な体験であり、アドバイスになります。それを直接手に入れた時の感動は計り知れないものになります。

 時々、「俺は誰からも習わずに、DVDやビデオでマジックを覚えた」。と自慢する人がいますが、それは自慢ではないのです。誰からも習わなかったのではなく、誰からも相手にされなかったのです。つまり、誰からも芸を継承されていないことです。芸能は直接継承されない限り伝わりません。

 継承とは種仕掛けではないのです。

 まだ親父が元気だったころ、よく私の家に来て泊まって行きました。すぐに家に来ないで必ず駅前の寿司屋でビールと刺身を頼んで飲んでいます。そして店から電話をして私を呼びます。酒と肴と話し相手がいたなら親父は幸せなのです。

 いつも上機嫌で昔の話をします。屈託のない人で、昔の話を面白可笑しく話します。人に言えないようなバカバカしい話もします。話をしながら刺身をつまみ、ビールを飲む、その姿が如何にも根っからの芸人で、陽気で、無邪気でした。

 私はそんな親父を見て、「あぁ、こんな雰囲気が出せたらどんなにいいだろう」。と思っていました。私は親父から直接喋りの芸を習ったことはありませんでしたが、のべつ脇で見ていて学びました。芸人の生き方は継承したようです。

 今あの時の親父の年になって、親父が何を伝えたかったのか、時々気付くことがあります。さてそれを誰にどう残して行くのか。余すところあと数日。早や歳は暮れようとしています。

続く

 

ミラビリア発刊

ミラビリア発刊

 

 昨日和泉圭佑さんが事務所に訪ねて来て、新しいマジック雑誌、ミラビリア(mirabilia=ラテン語で不思議の意味)を持参してくれました。和泉さんとは、秋口から何度か電話でやり取りをしたり、私の事務所で打ち合わせをするなどして、雑誌を出したい意向を伺いました。

 多くのマジック情報が、ネットやDVDで取引される中で、紙媒体が通用するかどうかは冒険だろうと言う人があります。

 ただ、私のように毎日ブログを書いている者からすると、文章を読みたいと言う人は依然として底堅くいることは把握しています。現実に、私のブログはかつて、「そもそもプロと言うものは」、の読者が、もっともっと書いてほしいと熱望するために、2年前から始めたことで、毎日平均300人が見ています。ちょっと話題の事件でもあれば、すぐに700人くらいの読者数になります。

 私は紙媒体でマジックに接したい人は日本全体で1000人程度はいるだろうと考えています。そうした人たちの気持ちをうまく掬って、興味を膨らませられる雑誌が出たなら、十分雑誌はやっていけると思います。

 

 さて、そこで届いた雑誌を拝読。なかなか野心的な内容です。先ずマジック雑誌によくある種仕掛けの解説が皆無です。延々とカードと手の絵が続く解説本のごとき雑誌ではありません。マジックマニアならそうしたものを喜ぶかも知れませんが、世間一般の雑誌と言うものは、演じる人(プロ、セミプロ、マニア)のための物ではなく、野球でも、プロレスでも、演劇でも、それを見て楽しむ人たちが圧倒的に支持をして購読しています。

 マジック雑誌が一般の読者を掴めないのは、あのカードの絵と手の絵が延々と続く、いわば演じる人のためのネタ元と言った意味の、半分指導書になっている内容のために発行部数が伸びないのです。専門書は専門書で必要ですが、一般書店で販売するものではないのです。

 ミラビリアがこの先、一般書店で販売されるかどうかは分かりませんが、少なくとも、少数のマニアのみを相手にしてはいないと言うことは分かります。

 これまで、マジック雑誌に出て来るマジシャンは、マジックの解説者ではあっても、少しもスターとして扱われていないのです。彼らが何を考えてマジックをしているのか、マジシャンとしてお客様とどう関わり合いを持とうとしているのか。そこを伝へようとする雑誌がなかったのです。そのため、お客様はマジックの世界に近付いて来ません。マジックを純粋に楽しもうとする人にとって、マジックの種の解説は不要なのです。

 

 今回のメインは小野坂東(おのさかとん)さんです。随分ページを割いて東さんの考え方が語られています。また、この雑誌の創刊号を飾る意味で、戦前からの機関紙の話や、マジッククラブの話が詳しく出て来ます。70年以上にわたる戦後日本のマジック史を語ることのできる人、もう今となっては東さん以外いないでしょう。第一号を飾るにふさわしい人を選んでいます。随所に貴重な資料が出て来ますし、注釈が丁寧なのも好感が持てます。

 

 次に台湾のマジシャンで、サニーチェンのお話。彼は2年前、ダイヤモンドプリンセス号に乗って、マジックショウをしていました。横浜から香港に行き、また横浜に戻るコースです。ところが船内でコロナが発生して、大騒ぎとなります。結局彼は飛行機で台湾に戻ることになったのですが、その間の3か月間の様子をレポートしています。まことに興味深い内容です。

 この事件のため、彼は台湾に戻り、時の人になり、マスコミで引っ張りだこだったそうです。人生何が幸いし、何が不幸になるのかわかりません。

 

 次は大久保康平さんの、「この先マジックはなくなります」と言うタイトルで、和泉さんとの対談。きっちり根拠を示して話されているので面白いです。いろいろな技術が発展して、古典的なマジックの技術を使わなくてもマジックが出来てしまう今の世界で、マジシャンは不思議をどうとらえるのか、何を不思議として提供できるのか。もうすでに起こっている事象からこの先のマジックを考えて行く興味深い話です。

 

 次は私の「そもプロ!」です。10年ぶりに続きを書いています。プロとして生きるにはどうするか、話はたいして発展しないうちに紙面が終わってしまいましたが、いろいろな話の種は撒きました。次回に一つ一つお話しして行きます。期待していただきたいと思います。

 

 次は、MHさんの発想の原点を探る話。「アイディアはきのこから生まれる」きのこの写真が美しく、全くマジックの種を解説していないところがいいですね。

 

 と言うわけで、従来のマジック雑誌とは全く違った内容になっています。写真が多く、美しい紙面です。マジシャンがそれぞれ芸術家として格調高く取り上げられています。こんな雑誌が定着したなら日本も成熟したマジック界が醸成されて行くでしょう。正直私はこういう雑誌が欲しかったのです。ぜひ今後も支援したいと思います。

 

 購読を希望される方は下記へ、

株式会社プレイフェア

112-0001

東京都文京区白山5-14-8

03-6902-0678

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一冊1200円。

 

 

魔の30代

魔の30代

 

 去る18日、神田沙也加さんが札幌のホテルで転落死して亡くなりました。恐らく自殺でしょう。両親は松田聖子神田正輝、芸能界で生きて行くには何一つ不自由のない環境に育ち、実際、俳優として、歌手としていろいろな大きな舞台に出演し、18日も、翌日から札幌で、マイフェアレディの主演として舞台に立つ予定だったものが、彼女の突然の死を迎え、さぞや周囲の出演者や舞台関係者は困惑していることと思います。

 

 数日前、私のブログで、昔京都に行って、テレビ番組の撮影で水芸を指導した話を書きました。実はこの時指導した女性が、神田沙也加さんでした。彼女の女優デビューで、まだ16歳か17歳だったと思います。

 この年で、水戸黄門と言う看板番組で準主役を張ったのですから、親の影響力は大きいと言えます。

 この時は、水戸黄門の特別番組で、沙也加さんは水芸一座の娘太夫として、番組の中で水芸を披露しました。初めて会った印象は、小柄で、目が大きく、愛嬌があって、お母さんによく似ていると思いました。

 芸能界では伝統的に、大物になると予想されるような新人のデビューに、よく水芸の太夫をさせます。お母さんの松田聖子さんも、多分デビューの際に水芸をしたと思います。

 私も何度か有名タレントのご指導をしました。水芸は出世のための儀式のようなものなのでしょう。

 

 実際に沙也加さんはその後、芝居に歌に活躍をします。そして30代を迎え、この先は今までの経験を活かし、安泰に芸能生活を送って行けるかと考えていた矢先の死亡の知らせでした。

 一体彼女に何があったのかはわかりません。但し、30代と言う年齢は、芸能人にとって、とても危険な年齢です。まるでジェットコースターの急上昇急降下を繰り返すような毎日で、少しも心の安定などありません。

 芸能の世界は、早い人は10代から名前売れ、当人もよくわからないうちに人気が出る人がいます。また、普通に20代で芸能の世界に入って、ほんの2,3年で頭角を現す人もいます。つまり素材が良ければすぐに売れるのです。

 ところがここが大きな落とし穴になります。余りに簡単に成功を掴んでしまうと、その先、本当に芸能が分かってくる30代までに走り疲れてしまいます。人生の真ん中で中だるみしてしまうのです。

 若いうちに大きな収入を上げると、周囲の人がバカに見えて、急に尊大になったり、わがままを言うようになったり、性格が変わって行きます。

 私生活でも、誰もが憧れるような相手と結婚をしたり、子供が出来て幸せな家庭を築いたりします。ところがそれがわずか2,3年で破綻して、子供を手放さなければならなくなったり。稼いだ収入の半分を奥さんに持っていかれたり。せっかく建てた豪邸を売りに出したり。わずか数年のうちにとんでもない変化の人生を送ることになります。

 良かれと思ってしていることが、ことごとく世間の批判の対象になり、仕事から人間関係から、私生活から性格に至るまでマスコミに叩かれまくったりします。

 別段、普段がどんな性格をしていても、いい芸を提供していれば問題はないはずです。有名人で性格の悪い人は山ほどいます。然し、性格うんぬんよりも、肝心の自分の芸が本当にやりたいことが見つかっていなかったり、今していることが未熟だったりすると、潮が引くように支持者が離れて行きます。

 ところが、そんなさ中に、とんでもない成功が訪れたりします。家庭は離婚して、仕事仲間が持ち逃げをし、信じていた親友が別のチームを作って成功したりと、生活面ではぐちゃぐちゃな人生を送っている最中に、映画の主人公になって大当たりをしたり、テレビ番組が当たったり、小説を書いたら大当たりしたりと、天国と地獄が行き交い、自分のしていること何が何だが全く見えなくなって行きます。全く芸能人の30代と言うのは天国と地獄が同居します。

 

 私の経験でもそうでした。成功と失敗が同居して、いいのか悪いのか見当もつかない人生でした。今にして思えば、30代の成功なんて本当の成功ではないのです。大成功と思っていることが実はちっぽけな成功なのです。30代で慢心していると、その先の成功は来なくなります。

 ここで一度立ち止まって、自分が本当にしたかったことは何なのか、本当にしたいことのために、今の自分に何が欠けているかを真剣に考えなくてはいけないのです。ところが混乱の日々の中で自分を考えると言うのは難しいことです。それでも、30代でしっかり自分を考えないとその先がありません。

 本当の成功は40代でやって来ます。40代で成功を掴めば、その先50代になっても60代になってもこの道で生きて行けます。

 仕事にかまけて、忙しい、時間がないと言って問題を後回しにして行くと、ある日どうにもならないことになります。

 

 神田沙也加さんが最近声が出なくなって悩んでいたと聞きました。歌手で声が出なければ芸能生活を奪われたようなものです。当人苦しみは相当なものだったでしょう。

 

 昔、大阪の歌舞伎役者で初代中村鴈次郎と言う名優がいました。鴈次郎は大阪一の二枚目で、芝居がうまく、声が良く、申し分のない役者でした、しかし仲間が鴈次郎を妬み、ある日鴈次郎に水銀を飲ませます。水銀は猛毒で、のどに張り付くと声が出なくなります。闘病の末、鴈次郎の声はしわがれ声になりました。人生のどん底を経験したのです。

 然し、その後にセリフ回しを工夫して、その声がまるで芝居のうまみであるかのように、セリフに魅力が出て、多くの観客を引き付けたのです。

 人生は何が不幸で幸せなのかはわかりません。只のいい男の、うまい役者から、水銀を飲んで以降は鴈次郎にしか出せない独自の魅力を備えた役者になったのです。

 

 沙也加さんは、誰にも頼れず、自分自身で悩み、答えが見いだせずに命を落としたのではないかと思います。でも、どんな時でも生きて行く道はあるはずです。誰か頼れる仲間が一人でも近くにいたなら、彼女を救うことが出来たでしょう。

 沙也加さんとは、至って薄い縁ではありましたが、花の先がけから、花の散りゆくまでを見たことになります。合掌。

続く

12本リング幻想

12本リング幻想

 

師走の玉ひで

 一昨日(18日)は、年内最終の玉ひで公演でした。コロナ禍にあって、今年一年何とか続けて行けたことは幸いでした。

 二年前の予想では中国や台湾や韓国の観光客が押し寄せて、連日満席の客席を前に手妻を演じている予定でした。それが全く予定が外れてしまいました。でも何とか続けて行かなければなりません。以下、一昨日の感想です。

 

 一本目は早稲田康平さん。カードマニュピレーションから始まり、間にシンブルが入りました。やおら喋りに入って、ロープ切りから三本ロープまでの手順。その後に、オレンジ、レモン、エッグの中からお客様のサインしたシルクが出るマジック。これも頻繁に演じている手順なのでしょう。手慣れた演技でまとめました。

 二本目はせとなさん。お客様が指定したカードがデックの中で裏向きになって出てくるなどのカードを見せつつ、蝋燭の煙を使ってカードが変化する手順をいくつか演じました。煙はいい演出です。煙をもっと効果的に使うともっといい演技になると思います。

 三本目は前田将太。今回は卵の袋と紙卵、それに金輪の曲を続けて演じました。全体で15分の演技です。どの演技も何十回も演じて来たものですので不安はありません。この先はもっと自分の個性が出て来るように工夫しなければなりません。

 休憩後は私の手妻。引き出し、サムタイ、若狭通いの水、蝶でした。私のファンの方がお客様を連れてきてくれて、熱心に見てくれました。有難いことと思います。終わったあとは皆さんと記念写真まで撮りました。

 来年も毎月第三土曜日に催します。どうぞお越しください。

 

 12本リング幻想

 事務所に戻って、大阪セッションのDVDをじっくり見ました。伝々さんも、バーディーさんも、鈴木駿さんも、Hannaさんも、熱演揃いですごい迫力でした。その中でザッキーさんの12本リングが前半のショウでは大健闘でした。当のザッキーさんもこれほど客席が熱狂し、歓声が上がるとは予想もしていなかったようです。

 彼が私のところに尋ねて来て、プロになりたいと言ったのは、2年半前でした。いろいろ話を聞くうちに、得意芸と言うものが見当たらず、持ちネタも少ないことが分かり。私は「みっちり基礎を勉強することです。真面目に勤めたら12本リングを教えてあげましょう」。と言いました。

 ザッキーさんは以前に私の12本の手順を見ていますが、初めの内は、12本の破壊力を理解していなかったようです。「まぁ、習えるものなら学んでおこう」。と言うくらいの気持ちでレッスンを受けていたのです。

 私は約束通り2年間でロープやシルク、シンブルなどの基礎指導をし、その後12本の指導をしました。

 

 私の20代は12本リングとサムタイでどれほど稼いだか知れません。それまで。一人で喋りを交えて、ロープやシルク、卵の袋などをやっていたものを、12本リングを手順に加えた瞬間、それまでの演技と格が一段上がったことを実感しました。

 12本リングは圧倒的な破壊力を持っています。どこで演じてもすさまじい反応が来るのです。それはなぜかと言うと、12本には、他のリングをはるかに超えた不思議さがあるのです。

 まず初めに全部のリングをお客様に渡せるのです。これほどフェアなリング手順は他にありません。

 後半は造形作りです。12本は、リングの本数が多いため造形が奇麗です。ひとしきり造形を演じた後に、畳みかけるようにリングを外して行けば、一種のカタルシスさえ生まれて来ます。ちょうどチャンバラで悪人をバッタバッタと切り倒すようなあの爽快感を観客も味わい、終わった瞬間、お客様は思わず拍手をしてしまうのです。

 無論、私が演じる以前の12本リングはこうしたものではありませんでした。古い手順はリングのつなぎ外しが未熟で、お客様に渡したリングを戻してもらってから、外しもしないでそのまま造形を演じていました。その造形も、喋りながら、形を説明するために何とも冗長でした、スピード感とは無縁だったのです。

 私は20歳で習った時に、習っている最中も、もう既にどことどこを直すか、青写真を描いていました。昭和40年代ですら、若い人は誰も演じようとはしない手順でしたが、私には直せば素晴らしい手順になると言う確証がありました。

 昭和40年代のリングの主流は3本でした。然し私は、お客様に渡さないリングはいくら奇麗に演じても演者の自己満足にしかならないのではないか。と考えていました。但し、私の考えは当時は少数派でした。

 どこかで私の考えが正しいことを実証して見せなければいけません。そこで、12本の手順を作り替えたのです。

 実際その後、この手順を演じると、仕事は面白いように来るようになりました。

 

 さて、30代の末から、私は手妻に特化するようになりました。洋服を着なくなったのです。そうなると12本の出番も少なくなりました。

 私としても、私が残したい手順を誰も演じなくなることは寂しいものです。そこで、私のところに熱心に通う人には12本を指導することにしました。たまたまザッキーさん、古林さん、早稲田さんは私のそうした思いと交差した形で指導を受けることになったのです。そうして彼らは12本リングを習得したのです。もし私が今もタキシードを着て演技をしていたなら、得意芸を手放すことはなかったのです。ある意味チャンスを手に入れたわけです。

 

 最近は12本の価値に気付いた人が増えて来て、教えてほしいと言う人が出て来ました。無論、教えることはやぶさかではありません。然し、誰でもいい、と言うわけではありません。

 その人の技量と、人柄を見て、安易に又教えしない人で、勝手にDVDに出して売らないような人で、きっちり演じられて、次の時代に継承してくれる人でなければ教えることは出来ないのです。

 

 実際習ってみると、細かなテクニックや、型の秘密がいくつも隠されています。一つ一つが歴史の蓄積で、簡単に教えられるものではないのです。「受けそうなネタだから、ちょっと教えて」。と言われて、「はいどうぞ」と言うわけにはいかないのです。

 簡単にネットやDVDで、種仕掛けを取引する考え方とは真逆に位置する芸能です。これは手妻と同じです。そこのところがよく分かった人のみ、伝授しています。そんなものは古いとお考えでしょうか。でもこうしなければ芸能は残りません。DVDで分かったと思うのは幻想です。どこまで行っても実がないのです。

続く