手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

コロナ後の世界はどうなる 2

コロナ後の世界はどうなる 2

 

飲食店の減少

 今回のコロナ禍で最も被害を受けたのは飲食店でしょう。政府は満足な補償もせずに、規制ばかりして、多くの飲食店や関連業者を倒産させています。

 昨日(9日)も、西村大臣は、ニュースで、酒の元売り店に酒を売らないように、国税庁から圧力をかけるだの、銀行と協調して、ルールを守らない飲食店に融資をやめさせるだの。政治家が国民を脅迫していました。

 いくら日本人がおとなしいからと言って、この発言は今のコロナの影響を受けて、生きるか死ぬかの状況にある飲食店に革命を起こさせるに十分なものの言いようです。それにしても飲食店は軽く見られています。

 この西村大臣の発言だけでなく、今回のコロナに関して、自民党はつくづく頼れない政党であることを露呈しました。と言って、他の政党なら大丈夫かと言うと、自民党以上に頼りない人ばかりです。仕方なく自民党に任せているのが現状です。

 あれもダメ、これもダメと言っては前に進みません今度の選挙で世の中を変えてくれるような能力のある人を探しましょう。

 

 私の知る限り、昭和の時代は、パブ、バー、スナックなどと言った、やたらとアルコールを飲ませる小さな店がたくさんありました。その店は商店街の脇道に数件並んで商売していたり、あるいは、住宅街にまで入り込んでポツンと一軒だけ商売していたり、そこかしこにあったのです。

 お客様は、独身サラリーマンとか、単なる酒飲とかが、仕事帰りに素直に家に帰らずに、二、三軒スナックをはしごして帰る人が大勢いたのです。当時は、寂しさを酒で紛らわす人が多かったのでしょう。

 しかし、そうした店も、せいぜい昭和の時代までがピークだったように思います。平成に入ると、人は毎晩だらだらと酒を飲んで歩くようなことをしなくなって行きます。

 代わりに居酒屋のような、いろいろ料理を食べながら酒を飲み、人と会話をするような場所が増えて行きました。昭和と平成ではアルコールの呑み方がより健全になって行ったと思います。

 食事のレパートリーも豊富になり、高級な食べ物が普通の商店街の飲食店でも食べられるようになりました。と、同時に外食チェーン店が続々現れるようになりました。

 高円寺の駅前は物の見事にチェーン店が並んでいます。マクドナルド、ケンタッキー・フライド・チキン、日高屋富士そば、かつや、天丼てんやなどなど。

 それに反比例するかのように、昔から商売していた個人の飲食店が廃業するようになりました。私などは、食べに行く店が減って、この先どこで食事をしたらいいか、悩んでしまいます。

 高円寺は、このコロナ禍でどこの店も意気消沈しています。いい料理を出す店もあるのですが、お客様が入って来ないらしく、店の外に弁当を出し、500円程度で販売しています。どれだけ売れるかは知りませんが、500円でいい味を提供することは容易ではないでしょう。

 私はいつも散歩がてら商店街を歩いていますが、「この店はこの先大丈夫だろうか」。などといらぬ推測をしてしまいます。政府は飲食店をいじめ過ぎました。恐らく高円寺は、二、三年後には、空き店(あきだな)が連なる、地方都市によくあるような寂しい商店街になりそうです。

 

乞食の登場

 私は、24歳の時に初めてロサンゼルスのマジックキャッスルに出演しました。キャッスルは、ハリウッドのメイン通りの一本裏にあります。チャイニーズシアターにも近く、5分も歩けばにぎやかな通りに出ます。

 初めてハリウッドに行った時には、レストランも、個人商店もずらりと並んでいて、通りは賑やかでした。怪しげな黒人が所々立っていて、観光客のバッグなどを狙っているかのような人もいました。それでもまだ町は穏やかだったのです。

 それが10年も経つと、個人商店は軒並み撤退していました。見渡す限り空き店です。レストランは、残っていましたが、食べ物もサービスも質が落ちて、とても入って食べられる店ではありませんでした。「ハリウッドのメインストリートがこれでは、観光客も来ないだろう」。

 実際町の治安が悪くなり、乞食が増えました。仕事もなく一日中立っている黒人がたくさんいます。一人で歩くのは男でも危険だと感じるほどでした。

 それがさらに10年経つと、ロサンゼルス市も、観光地がこれではいけないと気が付いたらしく、地下鉄を開通させ、お土産を売るテナントビルを作り、レストラン街を作り、町の景観は一変しました。

 然し、それから10年、3年前にロサンゼルスに行った時に、街を歩いてみると、金をかけたテナントビルは残っていましたが、周辺の空き店は依然として残ったまま、治安も悪く、そのギャップが少しも埋まっていません。

 大通りにはハリウッドマジックと言うマジックショップもあったのですが、周辺の環境が悪化してとても商売が出来る状態ではなくなったのでしょう。閉店してしまいました。

 街並みを散歩していると、知らずに空き店の並ぶ汚れた通りに入ってしまい、そこには、乞食や黒人がしゃがみ込んでいて通行人に金をせびります。40年前の繁華街はどこに行ってしまったのかと、不思議な思いがします。

 

 高円寺が、ハリウッドになるとは思いません。日本は福祉がアメリカ以上に充実していますから、いきなり乞食や物取りが通りにあふれるとは思えません。私はずっとそう思っていましたが、このコロナ禍で考えがぐらついて来ました。それは数の多寡の違いだけであって、必ず日本にも乞食は現れると思うようになりました。この先失業者は増えるでしょう。

 物取りや乞食がいないことが日本の町の誇りだったものが、どうやら、数年もすると、アメリカと同じ運命をたどることになりそうです。

 

 イギリスは今も、連日3万人のコロナ感染者を出しているそうです。にもかかわらずサッカーの試合に6万人も観客集めて、彼らはビールを飲みながら声を枯らして声援しています。

 不思議です。日本ではなぜ8時までしか飲食店が営業できないのでしょうか。なぜアルコールを売ってはいけないのでしょう。なぜオリンピックを無観客でしなければならないのでしょうか。あまりに世界の流れと日本のしていることにギャップがあり過ぎませんか。

 政府は国民に生命を守るために致し方ない。と言うでしょう、国民の生命を守るのはアメリカもイギリスの政府もしています。しかし日本のように、酒の元売り業者に国税庁から圧力をかけて、酒を売らないようにしろだの、金融機関に、言って酒を売る店に金を貸さないようにしろなどと言う大臣は、欧米には一人として存在しません。

 強者が強者の理屈をかざすと、弱者は萎縮するほかはありません。かくして、社会は二極になり、貧しい人はとことん貧しくなります。飲食店が流行っていた頃は、学生バイトや、パートのおばさんにまで仕事が回っていたのに、飲食店に圧力をかけてつぶしてしまっては多くの人は生きてはいけません。強者の理屈でコロナを押さえつけようとした結果、乞食のあふれる街にならないことを祈るばかりです。

続く

 

 

 

 

 

コロナ後の世界はどうなる 1

コロナ後の世界はどうなる 1

 

 コロナワクチンが普及し始めたものの、同時にデルタ菌が蔓延して、予断を許さない状況ではあります。然し、大きく眺めたなら、コロナにようやく終息の可能性が見えて来ました。この先一年後、二年後の生活はどうなるかを少し考えて見ましょう。

 これは飽くまでマジシャンである私の単なる推測ですので、根拠などは曖昧です。世間話として聞いてください。

 

 地方移住者が増える

 コロナ禍によって在宅勤務が増えた結果、仕事は必ずしも、社員一同が、同じ時間に会社に集合して、決まった時間働くことが絶対必要と言うわけではないことに気付いたようです。

 商品販売も、ネットが中心になりつつあって、24時間いつでも注文すれば簡単に商品が手に入るようになったわけです。

 そうなると、年中買い物をする必要もないですし、自宅で働く人が何も東京の中心街に住んでいる理由もなくなります。

 かつては、東京の家賃が高すぎて、郊外に引っ越す人も多くいましたが、郊外と言えども東京への通勤を軸に考えると、手ごろな場所は限られていて、快適な生活を送るために、十分なスペースを手に入れることは難しかったのです。

 然し、ネットの普及や在宅勤務が、長らくの通勤時間から解放されたわけです。すなわち、価値観を変えて考えたなら、山奥の古民家などに住むことも可能になったわけで、家賃一万円程度で、数百坪の家を借りて住むことも可能です。

 都内で10万から15万ほどのアパートを借りて住んだとしても、2DKか3K程度(30~40㎡)の広さしか手に入らないことを思えば、いっそ、山奥や、瀬戸内海の島などに住んだほうが、生き方も変化があって面白そうですし、子供を育てるにも、家賃の面でも絶対に有利です。

 どこに暮らしても同じ給料が取れるなら、家賃が安く、生活環境のいいところに住んで、余った収入で趣味を充実させるとか、毎年海外旅行にでも出かけたほうがよっぽど快適な生活を送ることが出来るでしょう。

 無論そうした生き方は、限られたスキルを持ったサラリーマンか自営業者でなければ達成できないのでしょうが、この先、そろそろそうした生き方をする人たちが世間でも目立つようになるはずです。

 

 実際、ネットの普及は、地方に住む人にとっては千載一遇のチャンスです。かつては地方に住むことは何から何まで不便だったのですが、ネットの普及により、「田舎」が消滅したと言っていいでしょう。物の売り買いも、知識の吸収も、発信も、どこに住んでいても一瞬に世界とつながります。

 そうであるなら、高い家賃を払って東京に住む理由はないのです。

 

 山手線の混雑がなくなる。家は広くなる。

 どうしても東京に住まなければならないと言う人が減って行くと、当然、都市の人口は減少し、交通機関は緩和されます。かつてのラッシュは嘘のように解決されるでしょう。

 都内のアパートも、価格が下がります。今6畳で6万円くらいの家賃を取っているなら、二、三年のうちに同額で8畳の部屋に住めるようになるでしょう。

 逆に言えば、アパート業で生活している人にとってはそれだけうまい収益にはならなくなって行くわけです。そのことは、貸店舗なども同様です。

 飲食店などは今回のコロナ禍で、廃業する人が続出し、かつての商店街の賑わいは失われて行くと思います。然しそれは不幸なことではありません。わずか一間半、二間程度の狭小な店舗は借り手が減って、狭い店舗は統合されて、広い貸店舗が増えるようになるでしょう。店は広くなっても、当然家賃が下がりますから、商売をする人にとっては有利になるはずです。

 家を借りることの価値観も変わって行くはずです。今まで、敷金礼金保証金など、家賃の6か月分もの金を事前に支払わなければならなかった考え方は成り立たなくなります。

 これまで、店を借りるために1000万円もの保証金を出さなければならなかったものが、コロナ禍で店が減少したことにより、古い賃貸のシステムは崩れるでしょう、

 アメリカ並みに、前家賃2か月分を払えばいつでも店が開けるようになる時代が来ると思います。逆に、考え方を切り替えない限り、空き店は永久に空いたままになるはずです。

 

 駅が中心ではなくなる

 在宅ワークが進むと、会社に通う理由がありませんから、自宅が駅から何分という価値観がなくなるでしょう。ヨーロッパの都市で、不動産のチラシを見たときに、駅から何分という見出しは一つもありませんでした。

 考えたら当然なことで、ヨーロッパでその町に住む人と言うのは、列車に乗って毎日通勤する人なんてほとんどいないのです。通勤は大概徒歩か、自転車で、同じ街中の会社や、役所、学校に通うのです。日本もこの先、ヨーロッパの中都市並みの生活になって行くと思います。

 ヨーロッパのアパートは、築200年などと言うのがざらにありましたし。そこはシャワーはあっても風呂がない。5階の部屋でエレベーターもないそんな部屋がいくらもありました。それでいて、旧市内にあるアパートは相当に高い家賃でした。

 ドイツの町では、ピノキオが住んでいたような三角屋根の家をアパートにして住んでいました。そこに住んでいるお婆さんが裏庭で、洗濯板を使って洗濯をしていました。今どき日本でも洗濯板は珍しいのに、生活水準の高いドイツ人ですらこんな地味な生活をしているのに驚きました。

 然しその生活の仕方にはゆとりがありました。お婆さんの家は奇麗なのです。窓辺には花が飾ってあり、カーテンがかかっていてしゃれていました。家具はどれも古いものでしたが、室内は広々としていて奇麗でした。この生活には十分満足しているように見えました。

 洗濯板を使っての洗濯は大変かもしれませんが、トータルして見たならむしろ豊かさを感じました。こうした生活を日本が出来るようになるのはいつのことだろう。と、その時は思いましたが、コロナ以降の世界を考えると、案外日本も、精神的に豊かな時代がそこまで来ているのかも知れません。コロナは何もかも人を不幸にしたわけではないのかも知れません。

続く

 

 

大谷選手への杞憂 2

大谷選手への杞憂 2

 

 大谷選手の快進撃は続きます。まるでエンジェルスイコール大谷選手であるかのごとく、エンジェルスの試合はことごとく大谷選手が人気をさらっています。

 もともと大リーグの中でもエンジェルスは、観客の呼べない地味な球団だったのです。その理由は明らかで弱かったのです。エンジェルスの赤いシャツを着て応援に出かける人は変わり者のように見られていたのです。

 それが、今やみんなが赤いシャツを奪うようにして買い求め、子供たちにとっては夢と希望の象徴になっています。エンジェルスの地元の試合だけでなく、他の球団との試合でもエンジェルスのシャツは売れています。シャツが売れたからどうこう言うものではありませんが、それが大谷効果であることは間違いありません。

 

 ピッチャーでバッターと言う、いわゆる二刀流としての活動は、今から100年前にベーブルースと言う、アメリカ野球界で神と崇められている選手がすでに歴史的な記録を残しています。アメリカの野球界は、このベーブルースを支柱となって成り立っているわけです。

 ところが、ここへ来て、大谷選手が、二刀流をやってのけ、しかも記録でベーブルースを超えようとしています。100年間誰も越えられなかった神聖な世界に大谷選手は踏み込んだわけです。

 そのためアメリカの球界は大騒ぎです。ベーブルースの記録を塗り替える選手が現れたわけですから。しかもそれが日本人であり(大リーグでは白系アメリカ人か、黒人か、カリブ海のラテン系が多い中で日本人は少数です)、若い選手であり、ハンサムであり、と、大谷選手は、あらゆる魅力を備えています。つまりスターなのです。

 このところ、アメリカの野球界は、サッカーに押され、フットボールに押され、バスケットボールに押され、大きく観客が減少しています。この先、2リーグ制も維持できるかどうかが危ぶまれます。そこに現れた大谷選手はまさに救世主なのです。

 

 なぜ大谷選手に期待が集まっているかと言うなら。一つは無論、ホームランを量産する選手だからですが、実は、それだけではありません。彼の野球は見ていて面白いのです。

 今、なぜ野球が観客を減らしているかと言うなら、野球はテレビで見ているとおよそ動きが少ないのです。サッカーやラグビーは全員が一丸となって激しく動きます。

 ところが野球はピッチャーとバッターの駆け引きが中心で、他の選手は、ただ立ちん棒を続けます。時折飛んでくるフライを捕まえる程度で、殆ど用事がありません。攻める選手は、バッターのみで、他の連中はベンチで自分たちの試合を見ています。野球ファンならこの状況を普通のことと考えますが、他のスポーツと比べると動きの少ない、迫力に欠けるスポーツなのです。

 然し、この野球のルールに大谷選手は果敢に切り込んでいます。先ず彼が、ピッチャーとしてマウンドに上がると、徹底して四球(フォァボール)を嫌います。

 大谷選手もフォァボールをしないわけではありませんが、それは結果であって、明らかに敬遠して球を投げることはしないのです。

 彼は、フォァボールがいかに野球をつまらなくしているかを知っているのです。そのため彼は徹底して、球速と技術を駆使してボールを投げます。真っ向から技で勝負するのです。当然バッターも本気になります。

 彼のピッチャースタイルを、数字だけ見て悪く言う人がありますが、大切なことはその姿勢です。常に逃げずに真っ向から戦いを挑んでいるのです。彼がサムライと呼ばれる所以です。この姿勢こそ高く評価しなければいけません。大谷選手の野球は常に緊迫感があり面白いのです。

 と同時にバッターとしての活躍です。ここでも彼はあからさまに相手の投げるフォァボールを嫌います。大谷選手を敬遠する相手ピッチャーに対して露骨に嫌な顔をします。観客も同様にブーイングをします。彼が求めている野球は飽くまで正々堂々としたものなのです。そのまっすぐな姿勢が多くの観客の心を引き付けています。

 そして、盗塁です。彼は、フォァボールで一塁に送られると、まるでその仕返しのごとく、盗塁をします。先ほど野球はピッチャーとバッターの駆け引きに終始する、と書きましたが、ここで大谷選手は、マウンドを広く使って、盗塁を駆使します。そうすることで野球がワイドなスポーツに変わり、観客はショウを見るかのように喜びます。先週のサヨナラ駆け込みホームインなどはまさに大谷選手の目指していた野球です。あれを見た観客は、野球が動きがないとは誰も思わないでしょう。打ったバッターの印象よりも、駆け込んだ大谷選手がクローズアップされ、観客は大騒ぎでした。

 ああした試合を見るにつけ。「我々は歴史的なヒーローと同じ時代に生きているのだなぁ」。と実感します。私がここで言うまでもなく、大谷選手は自身の持てる技術を駆使して野球を面白く見せています。それは偉大な才能なのです。

 

 と、ここまで大谷選手を礼賛しましたが、前回の「大谷選手への杞憂」に書いた通り、私の大谷選手への杞憂は消えません。彼のしていることは極めて危険なことであり、明らかな無理を連日繰り返しているのです。

 ピッチャーをやって翌日にはバッターとしてマウンドに立つなどと言う行為は、まさに命綱を付けずに空中ブランコや、綱渡りをする世界と同じです。如何に観客に受けるからと言って、余りに刹那的な生き方です。

 今の彼は、体に相当無理がかかっているはずです。それでなくても一度、肩の大きな手術をしています。それが完治して、「もう大丈夫」。と言うわけではないはずです。人には言えない痛みを抱えているはずです。160㎞の球を一球一球投げると言うことは、日々選手生命が縮まっているのです。

 今年MVPに選ばれて、オールスター試合に出られたのなら、もうピッチャーはやめて、バッターに専念してほしいと思います。ベーブルースも同じく、途中からバッターに専念したのですから。

 お客様も大谷選手の無理を煽るようなことはやめてください。彼の才能を一日も長く見られるように共に願ってください。

続く

梅雨のさ中に

梅雨にさ中に

 

 連日雨が降るのは梅雨(つゆ)の季節だから致し方ないとは思いますが、どうもこの5,6年は、梅雨になると土砂降りの雨になって、それが必ずと言っていいほどがけ崩れが発生したり、川の土手が決壊して災害をもたらします。自然災害がいとも簡単に、住宅を呑み込んで行きます。

 私が子供のころの梅雨と言うのは、ひたすらしとしとと雨が降ったり、時雨と言って、一時わずかに雨が降って地面を濡らし、雨が上がった後はカラッと晴れて、生け垣の紫陽花が雨の水を得て生き生きとし、決まって大きな葉にでんでんむしが留まっていたのを記憶しています。そんな風景が梅雨の雨だったように思います。

 その頃は、川の土手が決壊するような梅雨は考えられず、台風でもなければ洪水は起こらなかったように思います。

ところが最近の雨は極端です。降れば必ず死者が出ます。死者は決まって老人や障害者です。

 この老人と言う人たちが、以前の私なら全くの他人ごとだったのですが、テレビで放送されている被災者の年齢を見ると、60歳、70歳と言った人たちです。

 60歳なら私よりも若いではありませんか。「私よりも若い人が、家の中にいて崖崩れに巻き込まれるとは、素早く逃げ出す手段はなかったのか」。と勝手に推測しますが、実際はそんな状況ではなかったのでしょう。

 

 恐らくがけ崩れに遭った人は、家のテレビで大雨のニュースを見ながら、「大変だなぁ」。と、呑気に構えていたところを、突然裏山が崩れ出して、逃げる間もなく一気に押しつぶされたのでしょう。

 当人にすれば、映像を眺めていたらいきなり現実に遭遇したわけです。ホラー映画を見て、喜んでいるうちに、後ろに本物のジェイスンがチェーンソーを持って立っているようなものです。気付いたときにはどうにもならなかったのでしょう。

 

 でも、日本ほど生活程度が高く、社会資本がしっかりと充実している国が、大雨のたびにいとも簡単に人が死ぬと言うのは何とも理解しがたいことです。もう少し死者が出ないようにはならないものでしょうか。

 日本には、山の迫った地域に住んでいる人はたくさんいます。また川沿い、海沿いに住んでいる人もたくさんいます。そして雨は毎年降ります。

 雨が降れば必ず災害が起きて死者が出ます。それを何とか事前に避難を呼び掛けることはできないものでしょうか。

 何もかも市や県に任せて、堤防や、砂防ダムを作らせるのは実はあまり得策ではないと思います。ダムも堤防も必要ではありますが、近年の集中豪雨を見ると、どんな堤防も豪雨に合ったらひとたまりもありません。

 がけ崩れも、昔のように、山林をこまめに植林したり間伐をしたりする人手がいるならまだ崖崩れも防げるでしょうが、今、日本中の山林を車で飛ばしてみるとわかりますが、山林は倒木が放ったらかされたままで、山は荒れ放題です。手入れをする人が足らなすぎるのです。

 昭和40年代くらいから、東南アジアやカナダの安い材木が入って来るようになると、日本の材木製造は、やって行けなくなります。加えて業界の高齢化が一層人手不足につながっています。日本の山林は優れた松、杉、檜が育っていながら、価格が見合わないために放置され、それが倒木となり、腐るにまかせています。

 昔、山持ちで、杉、檜を切り出して、町に出荷していたなどと言う人は村の中でも大金持ちだったのですが、今はもう誰も手を出さない業種になってしまったようです。

 それでも最近、国産の材木で家具を作る。建築資材を作る会社が出て来たようです。こうした会社を支援すれば林業は復活するでしょう。然し、如何せん、日本全体の山の荒廃には追い付かないのでしょう。

 災害のたびに堤防や、砂防ダムを作れと大騒ぎをしますが、市町村がすべての住人に安全を提供するのは不可能です。

 むしろ、初めから、「ここは絶対に危険な地域です。ここに家を建てるなら、自己責任で住んで下さい」。とはっきり言うことの方が正しいと思います。無論、大雨の際には非難は呼びかけるにせよ。守り切れない場所も必ずあると言うことを事前に住人に伝えておくことは重要でしょう。

 

 ところで私が多少なりとも山林に知識があるのは、実は私を支援してくださる社長が、松茸山を持っているからです。高上征夫さんと仰って、岡山市に住んでいらっしゃいます。岡山の有漢町(うかんちょう)に山林をお持ちで、毎年10月ごろ、仲間を集めて山に登り、松茸採りをしています。私もたびたび呼ばれ、採れるときには背負篭に一杯松茸が取れます。

 高島屋デパートなどで見ると、一本、二本、小さな笊に乗って一万円とか二万円とかする松茸が、山に入るとそこかしこに生えています。嘘のような話です。それを集まった有志がみんなで採って回ります。

 傾斜のきつい山中を一時間も歩き回ると、汗びっしょりになります。そこで、山林の中で、採った松茸と、持参の牛肉で焼き肉パーティーをします。ビールを飲みながら、今取った松茸を焼いてほおばるのは最高の喜びです。

 松茸はなかなか採れないと言われますが、実は、山の世話をする人がいた時代はいくらでも採れたのです。傾斜地で適度に湿気を含んでいる山で、落ちた枝をこまめに拾って、地面の通気性を良くしておけば、松茸の菌が繁殖して幾らでも松茸が採れます。

 その昔は、薪に使う小枝を村の人が熱心に拾っていたため、黙っていても山は奇麗に管理されていたのです。それが人が山の手入れをしなくなると、地面の湿気が多すぎて、松枯れ病が発生して松を枯らし、枯た木が倒れ、放置されるに及んで山林は死滅します。

 知人の社長は、しょっちゅう山に登って、自身の山を掃除しています。年に一、二度、仲間に松茸を取らせて人の喜ぶ顔が見たいがために、日頃せっせと山に登って山の手入れをしているのです。まったく善意の塊のような人です。お陰で篭一杯の松茸が取れます。

 よくよく考えて見れば、昔に戻って、山の地面の下草を刈って、枝を集め、ほんの少し掃除をしてやれば、その見返りに松茸は育ち、木は枯れず、病気も出ず、倒木を防ぎます。そうなれば山の地肌は強くなり、がけ崩れも起きないのです。

 国産の材木を建築資材として使えば、世界的な資源の枯渇を防ぐことが出来て、輸入を減らすことに役立ちます。その上、がけ崩れも起きにくくなり、人の災害も減るわけです。

 元はと言えば、山に入って落ちた枝をまめに拾うことがすべての基本なのでしょう。それがあらゆる人の生活を好循環にするわけです。決して砂防ダムや、堤防を作ることが安全対策ではないのです。

続く

コロナ以降

コロナ以降

 

 ワクチンが普及し始めて、少しずつですが、重苦しい雰囲気は薄れて来たように見えます。この一年半で多くの人の生活に狂いが生じ、財産を減らした人も多かったのではないかと思います。

 財産と言うのは直接的なお金だけではなく、人とのつながり、仕事の継続、家族とのつながり、日常生活の安定、など。あらゆるところで破綻をきたしたのではないかと思います。

 

 それでも生活の復旧が始まってきたのは幸いです。アメリカのロサンゼルスにあるマジックキャッスルは再開され、連日観客を集めてショウを始めました。

 ロサンゼルスは、ニューヨーク、シカゴ、ラスベガスと並んでマジシャンが多く住んでいる町です。然し、たびたびロサンゼルスに出かけ、アメリカのマジシャンと話をしてみると、ロサンゼルスでマジック活動をすることは簡単ではないようです。

 東京や大阪と比べると、マジックショウが発生するチャンスは少ないように見えます。また、ロサンゼルスに住んでいて、ニューヨークやシカゴの仕事の依頼が来るかと言うと、これも難しいようです。

 東京に住んで大阪、名古屋に行くのとは訳が違うのです。ニューヨークは飛行機で4時間以上もかかります。東京、北京よりも遠いのです。交通費も安くはありません。

 仮に、ロサンゼルスで少し話題を集めているマジシャンがいたとして、ニューヨークの人たちがネットなどで情報を得たとして、交通費を負担してまでロサンゼルスのマジシャンを呼ぶかどうか。費用面で難しいのです。つまり、アメリカの大都市をまたいで仕事が出来る人と言うのは相当にビッグな人だけなのです。

 

 アメリカと日本を比べると、人の集中度が違いすぎます。東京を関東地方と捉えると、人口は3500万人います。大阪を関西地方と捉えると人口は2500万人います。これほどの人口が密集した国と言うのは日本以外存在しません。

 いや、人口だけを言ったら同様な国もあるでしょう。然し3500万人が、平均400万円くらいの年収を持っている国となると、日本を置いて他にはありません。

 かなりゆとりのある生活をして暮らしている人が3500万人いるのです。こうした国は世界を見渡してもそうそうあるわけではありません。日本でマジシャンとして暮らすと言うことは、高所得で人口の密集した恵まれた活動環境があればこそ幸いしていると言えます。

 実際、アメリカの地方都市で暮らしてみると、なかなかショウを見せるチャンスが見当たりません。そうなると、生き方は二極になります。

 つまり、全米どこでも知られているようなビッグなマジシャンをめざすか、近所のお宅の子供を相手に、お誕生日にショウを見せるマジシャンになるかの二択です。

 ちょっとしゃれたセンスのあるステージマジシャン。などと言うポジションは、日本にいればこそ生きては行けますが、アメリカの地方都市にいては仕事を得るのは難しいのです。

 無論、ラスベガスなどのオーディションに出て、評価を勝ち取れば道は開けます。同様に、ロサンゼルスで生活しているマジシャンにとって、自分のアクトを見せて、次なる仕事場を見つけるためのショウケースとなる場所がマジックキャッスルなわけです。

 

 この一年半の、キャッスルの閉鎖は、ロサンゼルスのマジシャンにとってはえらく堪えたと思います。

 ようやく再開されたことは幸いです。さて、そうなら我々海外のマジシャンが、キャッスルに出演するのはいつのことでしょう。少なくともこの先半年は、海外マジシャンは受け入れないでしょう。それから先は、と言えば、アメリカ国内のマジシャンに舞台を提供するのが手いっぱいで、日本のマジシャンのことなど考えてはいないと思います。

 つまり早くとも一年後くらいにならないと日本人のキャッスル出演は無理でしょう。これから一年何をするか、これがこの先のキーワードになりそうです。

 

 大学のマジック研究会は、一年生との接触がないために、新入生を勧誘することが出来ません。この二年間。まったく世代が絶えてしまっています。彼らが活動再開するのは、来春でしょうか。やはり一年待たなければ、おいそれと新入生の勧誘は難しいでしょう。

 同様に、アマチュアマジッククラブです。彼らの多くはボランティアを目的として、地域でマジックを披露しています。然しこのコロナの騒ぎで、幼稚園や、老人ホームを慰問することが出来ません。

 そうなると披露する場がありませんので、活動も不活発になっています。すると当然のごとく、アマチュアを顧客としていたマジックショップの小道具の売り上げが減少します。今まで何でもなく回っていたものが、コロナによってマジック関係者の生活のサイクルが狂って来てしまいました。

 ワクチンの普及などで、多少明るい兆しが見えてきたことは幸いですが、あらゆる生活が復旧するのにはまだ一年はかかるとみてよいでしょう。

 そうであるなら、これからの一年をどうプランするかを考える必要があります。今までのブランクをうまく次の時代につなげて行かなければ世間はどんどん狭くなり、活動の幅も狭まってしまいます。

 ただ一年先を漠然と待っていても、一年を無駄に使ってしまうだけに終わります。今のうちに、少し新しい試みもしなければなりません。

 私も10月のリサイタル(10月25日 座・高円寺)のために、新作マジックを作っています。いろいろ苦労もありますが、自分自身が前に進んでいると、日々充実します。ちょっとした工夫や発想が自分の頭の中で滞っていた空気を入れ替えます。やはり創造の中に身を置くことは気持ちを浄化します。

 うまく行かないことをいくら悩んでいてもうまく行きません。さぁ、そろそろ起き上がってまず自分自身が前に進みましょう。道が開けるのはそれからです。

続く

 

 今月の17日(土)人形町玉ひでで手妻の公演があります。若手のマジックは、早稲田康平さん、せとなさん、前田将太です。まだ若干お席があります。ご興味ございましたら東京イリュージョンまでお申し込みください。

 

お申し込みフォーム

https://mailform.mface.jp/frms/tokyoillusion/6uueieah59jy

峯ゼミ盛況

峯ゼミ盛況

 昨日(7月4日)は一昨日(3日)から続く長雨で、熱海では崖崩れで亡くなる人が出るほどの被害が出ました。新幹線も一時は止まり、名古屋の峯村さんが無事に来れるかどうか、心配をしました。

 私は朝9時前に東京都議会の選挙に行きました。今回の選挙は、全く精彩がありません。もっと争点を明確にした資料など配布すればよいものをと思います。

 そもそも、前回の選挙で小池さんが「市民ファーストの会」と言う政党を立ち上げたときに7つのマニフェストを公約しましたが、結局何一つ達成できてはいません。嘘を言い続けて、達成できないとあれば市民ファーストの議員、並びにほかの政党の立候補者に対しても、マニフェストの達成度を明示するチェックシートなどを作って厳しく審査すべきです。できないことは言わない、言ったことはやる。その審判をする場が選挙でなければ選挙の意味はありません。何とも不快な思いを抱きつつ選挙に行き、その後、雨の中を神田神保町で開催される峯ゼミに出かけました。

 

 峯ゼミの盛況

 参加者10名、予定の通り、13時から開始されました。3時40分までの二時間40分。皆さんと受講しました、その感想は、思った通りの充実度でした。まさに私が望んでいた、実践のための指導の場でした。

 峯ゼミの目的は明快で、ここからスライハンドのエキスパートを生み出して行くことです。もっと具体的に言えば、海外のコンテストで、入賞する実力を持ったマジシャンを育てることであり、同時にスライハンドによって舞台活動をして行けるマジシャンを育てることです。

 今、世界的にスライハンドマジシャンが育たないのは、スライハンドが古いから、時代に合っていないからではありません。

 何がスライハンドかを知らない人たちが、よくわからないままマジックをしているから、多くのお客様の支持が得られないのです。

 スライハンドは世界的にも昭和30(1960)年代にピークに達します。然し、その後、劇場が減少して行くにつれ、下降線をたどり、1970年代末にはキャバレーショウが激減し、一層衰退して行きます。

 その後、辛うじて、日本では学生のマジック研究会がスライハンドを守って行きます。それに影響を受けた韓国の若いマジシャンがスライハンドに熱を上げ、韓国で活況を呈します。

 ですが、その実。韓国でやっている演技は、スライハンドと呼ぶには疑問符が付きました。四つ玉のシェルの裏やカードの裏を黒く塗ったり、糸でカードを吊ったり、あちこち糸を張りまくったり、と、実践に耐えられないようなおかしなマジックをする人ががたくさん現れました。

 一回こっきりのコンテスト手順なら有効かも知れませんが、実際、その演技をどこで見せるのかと考えたなら、コンテスト以外では見せられない手順だと思います。かくしてスライハンドは見せる場を持たないマジックになって行ったのです。

 

 この状況を危惧して、峯村健二さんは今回の「峯ゼミ」を立ち上げました。そのゼミは、私の思った通り、是非多くの愛好家に伝えるべき内容でした。

 

 内容がどんなものであったかを文字にしたら、余りにそっけないものです。ボールのパス、パームの仕方、ボールのプロダクション、シルクとボールのパスパーム、どれも基本的なことばかりでした。二時間以上指導して、ボールが一個から二個に増えないのです。然し、この日の参加者は大変な感動をしたようです。

 如何に日ごろ基本を習わずにスライハンドを演じていたか、基礎中の基礎を一つ一つ習ってゆくうちに、スライハンドがどうして成り立っているのかが、まるで氷が解けて、中から若い芽が出て来るように、美しい姿が現れて来ました。

 恐らく今回の参加者は、一つ一つの技法にどんな知識が詰まっているのかもよく分からず、似たような演技をしていたのでしょう。

 何でもない動作はとかく見過ごされてしまいますが、その何でもない動作が、何でもないわけではなく、実はかなりの技法を組み合わせてなんでもなく見せて演じていたことが分かったときに、スライハンドの奥の深さを知ることになるのです。

 参加者は一様に、満足したようです。こうした指導は今や日本でしか行われず、しかもこのゼミでしか受けられなくなってしまいました。みんな来月参加することを待ち遠しく思ったことでしょう。

 

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 名古屋のマジック界は百年の歴史を持っています。古くは、大正時代からアメリカで活躍した石田天海師が昭和33年に日本に帰国をし、生まれ故郷の名古屋に戻って暮らすようになりました。

 天から降って湧いたかのような出来事に、地元のマジッククラブの有志は狂喜し、各マジックラブが天海師から指導を受け、名古屋はたちまち日本のマジック界で最も高いレベルを持つようになります。

 そこからアマチュア、プロ、セミプロがたくさん輩出し、伊藤勝彦氏、テンヨーの近藤氏、沢浩氏、スピリット百瀬故人、松浦天海故人、続々名人上手が生まれました。峯村健二さんはいわばその末裔に当たるわけで、国立名古屋大学のマジック研究会に所属したことで、天海師以来の名古屋の財産をそっくり相続することになります。

 如何に天海さんが素晴らしいと言っても、百年前の演技ではやはり時代のずれが生じます。それを現代に生かしてゆくには、センスが必要です。峯村さんはこれまでのスライハンドを一度解体して、自身のセンスで再構築し、新たなスライハンドを作り上げました。

 現代の日本でスライハンドの将来を見据えて、指導のできる人は彼をおいて他になく、峯村さんの口から直接習えることはマジック界にいるものにとって最高の幸運と言えます。

 

 4時に会場を出て、私と峯村さん、前田の3人は、日本橋のたいめい軒に行きました。店は百年の歴史を持ちます。今回は店が改築のため移転して日本橋を挟んで、三越側の川筋に移りました。

 頼むものは、ボルシチコールスロー、(これは定番で、初代以来、値段据え置きで、ふたつ頼んで100円と言う安さ)、レバカツフライに、メンチカツ。庶民的なネタばかりです。私にとっては、この店の、少し濃いめにバターを効かせたデミグラソースが、昭和の昔を思い出させる味で忘れられません。血糖値や尿酸値などの言葉のなかった時代の、こってりしたソースをかけて食べるカツは絶品です。

 そのあとにタンポポオムライス。映画の伊丹監督が愛したオムライスで、映画のたんぽぽの中に登場します。オムレツが乗ったチキンライスの、オムレツをナイフで切ると、ふたつに分かれて広がり、オムレツの裏が出て来て、半熟卵によるオムライスになります。この店の名物です。

 これでハイボールを一杯、盛り上がります。しめはこの店の隠れた名物のラーメンです。さすがに一人一杯は多すぎますので、シェアしていただきました。これで十分満足して、峯村さんは名古屋に帰って行きました。めでたし、めでたし。

続く