手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

峯ゼミ盛況

峯ゼミ盛況

 昨日(7月4日)は一昨日(3日)から続く長雨で、熱海では崖崩れで亡くなる人が出るほどの被害が出ました。新幹線も一時は止まり、名古屋の峯村さんが無事に来れるかどうか、心配をしました。

 私は朝9時前に東京都議会の選挙に行きました。今回の選挙は、全く精彩がありません。もっと争点を明確にした資料など配布すればよいものをと思います。

 そもそも、前回の選挙で小池さんが「市民ファーストの会」と言う政党を立ち上げたときに7つのマニフェストを公約しましたが、結局何一つ達成できてはいません。嘘を言い続けて、達成できないとあれば市民ファーストの議員、並びにほかの政党の立候補者に対しても、マニフェストの達成度を明示するチェックシートなどを作って厳しく審査すべきです。できないことは言わない、言ったことはやる。その審判をする場が選挙でなければ選挙の意味はありません。何とも不快な思いを抱きつつ選挙に行き、その後、雨の中を神田神保町で開催される峯ゼミに出かけました。

 

 峯ゼミの盛況

 参加者10名、予定の通り、13時から開始されました。3時40分までの二時間40分。皆さんと受講しました、その感想は、思った通りの充実度でした。まさに私が望んでいた、実践のための指導の場でした。

 峯ゼミの目的は明快で、ここからスライハンドのエキスパートを生み出して行くことです。もっと具体的に言えば、海外のコンテストで、入賞する実力を持ったマジシャンを育てることであり、同時にスライハンドによって舞台活動をして行けるマジシャンを育てることです。

 今、世界的にスライハンドマジシャンが育たないのは、スライハンドが古いから、時代に合っていないからではありません。

 何がスライハンドかを知らない人たちが、よくわからないままマジックをしているから、多くのお客様の支持が得られないのです。

 スライハンドは世界的にも昭和30(1960)年代にピークに達します。然し、その後、劇場が減少して行くにつれ、下降線をたどり、1970年代末にはキャバレーショウが激減し、一層衰退して行きます。

 その後、辛うじて、日本では学生のマジック研究会がスライハンドを守って行きます。それに影響を受けた韓国の若いマジシャンがスライハンドに熱を上げ、韓国で活況を呈します。

 ですが、その実。韓国でやっている演技は、スライハンドと呼ぶには疑問符が付きました。四つ玉のシェルの裏やカードの裏を黒く塗ったり、糸でカードを吊ったり、あちこち糸を張りまくったり、と、実践に耐えられないようなおかしなマジックをする人ががたくさん現れました。

 一回こっきりのコンテスト手順なら有効かも知れませんが、実際、その演技をどこで見せるのかと考えたなら、コンテスト以外では見せられない手順だと思います。かくしてスライハンドは見せる場を持たないマジックになって行ったのです。

 

 この状況を危惧して、峯村健二さんは今回の「峯ゼミ」を立ち上げました。そのゼミは、私の思った通り、是非多くの愛好家に伝えるべき内容でした。

 

 内容がどんなものであったかを文字にしたら、余りにそっけないものです。ボールのパス、パームの仕方、ボールのプロダクション、シルクとボールのパスパーム、どれも基本的なことばかりでした。二時間以上指導して、ボールが一個から二個に増えないのです。然し、この日の参加者は大変な感動をしたようです。

 如何に日ごろ基本を習わずにスライハンドを演じていたか、基礎中の基礎を一つ一つ習ってゆくうちに、スライハンドがどうして成り立っているのかが、まるで氷が解けて、中から若い芽が出て来るように、美しい姿が現れて来ました。

 恐らく今回の参加者は、一つ一つの技法にどんな知識が詰まっているのかもよく分からず、似たような演技をしていたのでしょう。

 何でもない動作はとかく見過ごされてしまいますが、その何でもない動作が、何でもないわけではなく、実はかなりの技法を組み合わせてなんでもなく見せて演じていたことが分かったときに、スライハンドの奥の深さを知ることになるのです。

 参加者は一様に、満足したようです。こうした指導は今や日本でしか行われず、しかもこのゼミでしか受けられなくなってしまいました。みんな来月参加することを待ち遠しく思ったことでしょう。

 

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 名古屋のマジック界は百年の歴史を持っています。古くは、大正時代からアメリカで活躍した石田天海師が昭和33年に日本に帰国をし、生まれ故郷の名古屋に戻って暮らすようになりました。

 天から降って湧いたかのような出来事に、地元のマジッククラブの有志は狂喜し、各マジックラブが天海師から指導を受け、名古屋はたちまち日本のマジック界で最も高いレベルを持つようになります。

 そこからアマチュア、プロ、セミプロがたくさん輩出し、伊藤勝彦氏、テンヨーの近藤氏、沢浩氏、スピリット百瀬故人、松浦天海故人、続々名人上手が生まれました。峯村健二さんはいわばその末裔に当たるわけで、国立名古屋大学のマジック研究会に所属したことで、天海師以来の名古屋の財産をそっくり相続することになります。

 如何に天海さんが素晴らしいと言っても、百年前の演技ではやはり時代のずれが生じます。それを現代に生かしてゆくには、センスが必要です。峯村さんはこれまでのスライハンドを一度解体して、自身のセンスで再構築し、新たなスライハンドを作り上げました。

 現代の日本でスライハンドの将来を見据えて、指導のできる人は彼をおいて他になく、峯村さんの口から直接習えることはマジック界にいるものにとって最高の幸運と言えます。

 

 4時に会場を出て、私と峯村さん、前田の3人は、日本橋のたいめい軒に行きました。店は百年の歴史を持ちます。今回は店が改築のため移転して日本橋を挟んで、三越側の川筋に移りました。

 頼むものは、ボルシチコールスロー、(これは定番で、初代以来、値段据え置きで、ふたつ頼んで100円と言う安さ)、レバカツフライに、メンチカツ。庶民的なネタばかりです。私にとっては、この店の、少し濃いめにバターを効かせたデミグラソースが、昭和の昔を思い出させる味で忘れられません。血糖値や尿酸値などの言葉のなかった時代の、こってりしたソースをかけて食べるカツは絶品です。

 そのあとにタンポポオムライス。映画の伊丹監督が愛したオムライスで、映画のたんぽぽの中に登場します。オムレツが乗ったチキンライスの、オムレツをナイフで切ると、ふたつに分かれて広がり、オムレツの裏が出て来て、半熟卵によるオムライスになります。この店の名物です。

 これでハイボールを一杯、盛り上がります。しめはこの店の隠れた名物のラーメンです。さすがに一人一杯は多すぎますので、シェアしていただきました。これで十分満足して、峯村さんは名古屋に帰って行きました。めでたし、めでたし。

続く