手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

顔 2

顔 2

 

 プロマジシャンの価値は顔です。長くマジシャンを続けていると、マジシャンらしい顔になって行くのです。これはアマチュアでは達成できません。アマチュアでマジックがうまい人はたくさんいますが、技は素晴らしくても、顔がマジシャンではないのです。 

 一つの仕事を続けていれば、教師は教師の顔になって行きますし、医者は医者の顔になって行きます。医者が趣味でマジックをしても、顔は医者です。それでいいのです。アマチュアは本業を長く続けていれば、本業の顔になって行くのは当然なのです。アマチュアは本業を大切にすべきです。むしろ医者であるのにマジシャンの顔をしていたら変です。

 

 ただし、プロが気を付けなければいけないことは副業です。今の時代のように、コロナで舞台活動が出来ないとなると、ほかに仕事をしなければ生きては行けません。何らかのアルバイトをすることは致し方のないことです。

 然し、そのアルバイトを長く続けていると、徐々に体に染みついて行きます。コンビニで働いていればコンビニの店員になって行きますし、飲食店でアルバイトをしていれば飲食店の店員になって行きます。

 自称俳優だと言う人は私の周囲にもいますが、そうした人と一緒にいると、動作が何となく居酒屋の店員を思わせるとか、コンビニの店員をのような人がいます。それは長時間話をしていると、顔や動作に出てきます。

 自称俳優に、年間何日俳優をしているのかと尋ねると、自主公演を年に二回開き、その都度、一か月稽古をして、本番を三日すると言います。つまり俳優は年に二か月しかしていないのです。あとはずっと水商売をしているのです。それを十年続けていれば俳優とは言い難く、顔はすっかり「お水」の顔になっています。

 顔は決して作ってできるものではありません。自然自然と日ごろの動作が体に身についてきて、やがて顔がそれにふさわしいものになって行きます。

 

 江戸から明治にかけて、東京に寄席がたくさんできました。寄席と言うのは、初期のころは、飲食店の二階を借りて、そこで数人の噺家が落語を聞かせたり、講釈を聞かせたりしていたものが始まりで、専門の寄席と言うのは少なかったようです。

 噺家自体も、噺だけで生活して行ける人は東京でも数人で、みんな昼はほかの仕事をしていたようです。噺家の多くは大工、左官、鳶などの仕事をしていて、晩になると寄席に出ていたそうです。当然噺家の多くは職人の顔をしていたわけで、話し言葉も職人丸出しだったわけです。

 「するってぇと何かい、あっしに一杯呑ませてくれるてぇのかい」。などと言う口調は、職人の口調であって、江戸の標準語ではないのです。喋っている人が大工だったり左官だったりするためにそんな口調で語っているのです。

 噺家は昭和になっても職人や商売をしていた人が多かったと言いますから、これが噺家の顔、と言う顔はなかなか生まれづらかったのではないかと思います。方やあっちの座敷、こっちの宴会と引っ張りだこの人気噺家がいた陰で、じっと職人仕事をしながら、夜に上がる寄席の舞台を生きがいにしていた噺家もまた大勢いたわけです。

 

 話は戻って、よくマジックの雑誌に、手首から先だけの写真で、コインやカードを解説している人がありますが、もし演者がプロであったなら、あんな写真は撮らせないはずです。マジックにとって大切なのは、手順と同等に表情が大事です。表情の見えない写真などマジックではないのです。

 そのことはyoutubeでマジックを種明かししている人も同様です。手先だけで解説してもそれは演技にはなりません。それは種明かしをしているだけです(種明かしをしているのですからその通りです)。その映像を見た人は種を覚えたことにしかなりません。これでは芸能としてのマジックは育ちません。

 また、顔を覆面して演技するのもダメです。顔を出せない理由があるのかもしれませんが、覆面してマジックをしていてはショウにはなりません。お客様にすれば得体のしれない人に思えて、警戒心が先に立ってしまいます。マスクをする、サングラスをすると言うのは、演者が自らの心を閉ざしています。これは芸能の否定なのです。

 こんなことをしていては、いつまでたってもマジシャンとお客様との心がつながりません。種がわかるかわからないか、お客様を挑発しているだけでしかないのです。これではお客様がマジシャンを育ててやろうと言う、暖かな心は芽生えないのです。

 

 話は変わりますが、私が幼いころは紙芝居屋さんが町内の子供の集まる場所にやってきて、連日紙芝居を見せてくれました。子供たちはスカスカの煎餅を買って、それを食べながら紙芝居を見るのが楽しみでした。然し、いつの間にか紙芝居屋さんは来なくなりました。

 私が中学生になったころ、偶然空き地でその紙芝居屋さんを見つけました。ハンチング帽をかぶり、黒縁の眼鏡をかけて、やせて小さな体つきは、私が五歳のころに見た紙芝居屋さんそのものでした。無論、昔よりも年を取って貧相になっていました。私は思わず走って自転車を追いかけて行き、「おじさーん」、と大きな声で呼びかけました。

 すると、おじさんは信じられないような暴力的な言葉を投げてきました。「うるせぇ、このやろ、来るんじゃねぇ」。と言って、自転車で走り去って行きました。私は素直な気持ちで子供の頃に紙芝居を見せてもらったことを伝えたかったのです。然しおじさんは逃げ去って行きました。

 昔なら、空き地に行けばすぐに30人も40人もの子供が集まって、にぎやかに紙芝居が出来たのに、その空き地で見たときには、子供が3人4人しかいませんでした。テレビが普及して、子供は紙芝居を見なくなったのです。

 そんな流行から取り残された姿を、大きくなった昔の子供に見られるのは恥ずかしかったのでしょうか。幼いころのおじさんの語り口は今も忘れていません。子供心に魅力的な話し方で、毎日紙芝居を見るのが楽しみでした。それゆえに10年近くたって空き地で見つけたときには嬉しかったのです。

 然しおじさんは逃げて行きました。なぜ逃げたのか、中学生だった私には皆目わかりませんでした。今にして思えば、時代を終えた芸にすがって生きる姿が恥かしかったのでしょう。おじさんは、恥ずかしさとみじめさと貧しさのないまぜになった複雑な表情をしていました。

 過ぎ去った芸にすがって生きるのは恥ずかしい行為なのでしょうか。そうなら私も古い芸能をなりわいとしている身として、おじさんの姿を自分事と考えなければいけません。私はあまりに堂々と何の恥じらいもなく古い芸能を演じていますが、私の芸にも、あの恥じらいとみじめさが見えなければ、本当の芸能ではないのかも知れません。芸とは恥ずかしいもの。おじさんの芸こそ本物。おじさん顔は萎れて、歪んで卑屈でした。でも嫌な顔ではなかったのです。十年経ってもすぐにわかるようないい顔だったのです。あの顔は今も忘れられません。

続く

 

 

 以前に、マジシャンはほかの社会のトップに比べて、いい顔をした人が少ないと話しました。あまりに漠然としたいい方です。私の言ういい顔とはどんな顔か、もう少し詳しくお話ししましょう。

 いい顔とは奇麗な顔を指しているのではありません。一つの仕事を50年、60年とやり続けていると、その職業でなければ出てこないような、独特な顔になって行きます。そんな人を見ると、「あぁ、この人は一つの職業を長く続け来たなんだなぁ」。と、顔を見て納得します。

 毎日木を削って、木工作品を作る。土をひねって壺や茶碗を作る。機(はた)を織って、織物を作る。第一線の舞台女優として、常に客席を満席にし続けている。オーケストラの指揮者として、一癖も二癖もある演奏家たちを統率して、優れた音楽を提供し続けている。

 なんにしても、一つことを続けてくれば、その生き方は独自であるわけで、そこから出来てきた人格や、表情は誰も作り得ないもので、しかも、長く生きるには偽物では通用しません。こうした顔に接すると、一緒にいるだけでその人の人生を体感したようで、幸せな気分に浸れます。

 然し、社会のトップの人と長い時間一緒にいると言う機会はなかなかありません。そうした時間を手に入れたとしたなら、それは人生の至福の時と言えます。遠目にわずかな時間トップの人を見るのと、いろいろ質問をして話を聞くのとでは大違いです。時に話をしたことで全くその人を誤解していたと気づくこともあります。

 

 私がマジック界でいい顔をしている人だったと思うのは、昔でいえば、アダチ龍光師匠です。ロープ切りだの、リングなどを得意にしていて、およそ派手さもなく、一人で喋りながらお客様を笑わせていた人ですが、晩年に行くに従って、喋りは噛んで含めるような味わい深いものになり、お客様も年寄りの昔話を聞くかのようにのんびり楽しんでいました。

 テレビにもよく出ていましたので、道を歩くとみんな知っていました。地味で自己主張をせず、穏やかな人柄で、みんなに愛されました。小学校の校長先生のような風貌で、度のきつい眼鏡をかけ、口ひげを生やし、いつも黒のタキシードでマジックをします。私は年を取ったらこういう顔の人になりたいと思っていました。然し今その年齢に近づいて思うことは、なかなか歳が近づいたからと言って、あの境地には至りません。あの人柄、あの芸にはなかなか到達できないのです。好々爺であり、すべてを悟っていながら、まだどこか少しインチキ臭い。そんな裏も表もある顔がマジシャンの到達すべき顔なのだと思います。

 

 いい顔と言う点では、初代の引田天功さんと言う人は、素晴らしいいい男でした。背が高く、肉付きが良く、顔は甘い顔立ちで、巨人の高橋由伸さんのような雰囲気がありました。然し、45歳と言う年齢で亡くなったためか、人としての面白みとか、厚みと言ったものは感じられませんでした。

 女性関係はやりたい放題で、あのまま生きていたら結婚詐欺で訴えられただろうと思う話がいくつもありました。まったく危ない人生で、あの時心筋梗塞で死んだことは、名誉の死であり、天の恵みだったと思います。

 性格は、猜疑心の強い人で、いつも後輩に自分の立場を侵されると言う恐怖心にさいなまれ、若手の家に電話しては、「お前の演技はまるでなっていない」。と嫌味を言い、若手がテレビ出演する際には、わざわざプロデューサーに電話してその若手を外したりしました。

 私もそれをされた一人です。随分迷惑をこうむりました。然し、当人はその時の都合だけで生きているわけですから、悪気などなく、全く無意識に若手の邪魔をしました。

 天功さんの悪行を語ればきりがありません。でも、テレビの業界など少しでもかじれば、先輩と称する人はそんな人ばかりです。テレビで成功する人の席はあまりに少ないのです。引田天功と言えども、その社会でしがみついて生きて行かなければならない一人なのだと思えば、それもやむなしなのかと思います。

 然し、この業界のトップの顔としては未完成だったように思います。もっともっと年を取っていい性格も悪い性格も説得力が出てきたならば、それはそれで含みのあるいい顔になって行ったのかもしれません。45歳と言うのはまだまだ生な年齢だったのでしょう。インチキ臭さは多分に持ち合わせていましたが、この業界を代表とする顔と称するには物足りない顔だったと思います。

 

 今、マジック界でいい顔をしているなぁ、と思うのは、マギー司郎さんです。60になったぐらいから、急に穏やかな顔になって行って、いい人相になったように思います。かつてのアダチ龍光師を彷彿とさせます。

 お客様も、マギーさんのマジックに一切期待せず、ただボヤっと眺めていて、マギー司郎と一緒にいることを幸せと感じているようです。いいですねぇ、マギー司郎の芸に費用対効果を求める人はいません。ただ彼が存在していることに満足をしています。芸人の理想です。

 

 海外の人でいい顔と言うと誰でしょうか。古くは、チャニングポロック、フレッドカプス、ノームニールセンは、他を圧倒するほどいい顔をしています。そこを別格とするなら、サルバノのはいい顔をしていました。小型のフレッドカプスのような演技をするマジシャンで、優れたテクニックを持ち、それなりにマエストロの風貌も備えていながら、どことなくインチキ臭く、話をしていると、矛盾の塊のような人でした。

 ポーランド人ですが、ユダヤ人が嫌いで、ユダヤ人の狡さや、周囲と溶け込まない協調性のなさなど、彼の話を聞いていると、ヨーロッパ人がなぜユダヤ人を嫌うのかがよくわかりました。そうでありながら、人類愛を平気で語るような人でした。その矛盾がまたまたこの人の魅力なのでしょう。

 興味の尽きない人でした。かつても東欧で生きて行くのは幾多の苦しい人生だったと思いますが、晩年は、顔からは灰汁(あく)が抜けて、見飽きのしない何ともいい顔になっていました。

続く

 

時雨で玉ひで

時雨で玉ひで

 

 一昨日(17日)は玉ひでの公演でした。このところ人の集まりもよく。この日は満席でした。もっともっとたくさんお客様が集まるなら、一日二回開催にしたいと思います。更にもっと増えたならそれを二日開催にしたいと思います。そんな日が早く来たならいいなぁ、と思います。

 そのうち、玉ひでの玄関先よりも手妻のショウの行列がたくさん並んで、その行列目当てにダフ屋が出るくらいになったなら素晴らしいと思います。ダフ屋は出る、綿あめ屋は出る、たこ焼き屋は出る。門前市をなす勢いになったなら、私の芸は本物です。

 

 一昨日の若手は4本出演しました。前田将太、早稲田康平さん、せとなさん、戸崎拓也さんの4本です。全体のバランスを考えて、前田は私の演技の間に入れました。前半は早稲田、せとな、戸崎の3本でした。いつもは忙しくて、じっくり若手を見ることが出来ませんでしたが、この時は全員しっかり見ました。

 

 早稲田さんは、つかみでカードマニュピレーションを快調速で演じました。これがオープニングにとてもいい雰囲気を作りました。軽くファンカードを見せ、そのあとすぐに連続出しをしてさらりと見せています。

 そのあと喋りながらお客様に千円札を借りて、一万円にし、また元の千円に戻し、その千円にサインをしてもらい、たばこ状に丸めて火をつけます。そして手の中に入れて消してしまいます。そのあと紙袋からレモンを取り出し、レモンの中から印のある千円が出てきます。

 千円を使っての演技も手順になっていますし、全体が手馴れています。一度は一万円になった札を千円に戻したときの、お客様の失望感をもっと膨らませて面白く話をこしらえたなら一芸として完成するでしょう。喋りが充実すれば、より早稲田さんの手順としてお客様に認知されるでしょう。

 

 せとなさんは2年前に、彼が高校生の時に一度マジックマイスターに出演してもらっています。手順はほぼ同じものですが、前に見たときよりも落ち着きが出てきて、いい仕上がりになっています。

 グラスとウォンドを持ち、空中からシルクが出現して、ウォンドが何度も玉に変化します。その玉が出たり消えたり、グラスの中に入ったり、お終いは増えて8つ玉になります。よくまとまった手順です。総体に地味な演技ですが、これはこれでありでしょう。

 8つ玉の後は喋りながらのカード当て、現象も、喋りも、もう少し工夫の欲しいところです。まだ自分のスタイルと言うものが出来ていません。これから何度もこの舞台に出て、この手順をまとめていったらいいと思います。

 

 戸崎拓也さんはシルクの出現からシルクのカラーチェンジ、そこからロープシルクにつながり、メキシカンロープの手順を演じます。メキシカンロープ自体、今、演じる人が少なくなってしまって珍しいもになってしまいました。このマジックを持ってくるところが彼のマジック好きの証でしょう。

 メキシカンの、たくさんの輪になったロープから一本持って、ノットを作って、そのノットが外れて、小さな輪が出来ます。この辺りが彼の工夫です。いくつもの小さな輪が出来て、小さな輪がつながったりします。随分地味な手順ですが、これはこれで面白いと思います。

 この日は緊張していたのか、演技が走り気味で、何となくすかすかした演技に見えてしまいました。手順自体があっさりしたものなだけに、もう少し気持ちを入れて演じないと、お客様に演者の意思が伝わりません。持ち時間は決してつなぎの時間ではありません。自身の発表の場ですから、自分の主張を徹底的に籠めた演技を期待します。

 この日の三人の演技は、お客様には好評でした。脇で見ていても基本的な部分でもお客様から歓声が上がります。逆に考えれば、一般のお客様はほとんど生のマジックを見たことがないのです。マジックはまだまだ入場料を支払ってでも見に行く芸能として認知されていないのです。

 

 そのあと私が二つ引き出しと、紙片の曲。お椀と玉、若狭通いの水、の四作を演じました。そのあと、前田が三段返しと金輪の曲を演じました。三段返しと言うのは、米と水、そして紙うどんを一緒に演じたもので、米、水、うどんの三作で三段返しです。

 金輪の曲はいつも演じている。和のリンキングリング。三段返しと金輪を一緒に演じると15分あります。15分間お客様を飽きさせずに見せるのは簡単ではありません。前田には本舞台で15分を任せたのは初めてです。

 幸いお客様が真剣に見てくださいましたので、問題なくできましたが、私が聞いているとどうも喋りが固い。まだ自分が心を開いて喋っていません。もう少し話に遊びが出て来て、自分を素直に語るようになったなら、お客様はリラックスして、安心して長時間見ていられるようになるでしょう。

 今のところは教科書通りに演じることでまぁまぁ及第点です。

 

 そのあと再度私が出て、蝶のたはむれです。蝋燭明かりを使って、客席を一周して蝶を飛ばします。お客様にこの場の絵柄を焼き付けたいがために、直火の蝋燭を使って江戸時代のやり方で演じています。幸い好評です。

 

 さてこうして4月の公演も終わりました。終演後は出演者と楽屋で雑談をしました。極力若い人といろいろなことを話しておこうと思います。大して役に立つ話もできませんが、ここでの話はあとで役に立つこともあると思います。

 アメリカのこと、韓国のこと、FISMのこと、リサイタルの開き方、自主公演の仕方、などなど、4時に解散。車で帰宅をしました。

 この日は朝から小雨が降ったりやんだりしていました。だんだん暖かくはなくなってきましたが、ぱっと晴れないのがうっとおしくて冴えません。

 時雨そぼ降る中を外堀通りを走ると、並木も外堀も桜の花が散って、葉の茂った桜の木が並んでいます。そこに恵みの雨を受けて、緑が生き生きとした桜の姿を眺めていると、実に心地よく景色に見とれてしまいました。

 そしてふと、昔安いファンカードで「雨のパリ」と言うタイトルで、ぼんやりとした雨もよいのパリの大通り風景が描かれたカードがあったのを思い出しました。扇状にして広げると、全く予想しなかった色彩が出てきます。子供心に奇麗だと感心しました。今、窓の外から見る外堀通りはその絵柄とは違いますが、この風景も結構いいなぁ、ファンカードにしたら奇麗かなぁ、と、五十数年前の自分の思いがよみがえり、自分の心が十代の頃と何も変わっていないことに気付きました。

続く

 

御贔屓様との接し方 3

御贔屓様との接し方 3

 

 今日(17日)は、昼から玉ひででの公演です。実は私が玉ひでさんの舞台で毎月公演するのは、ご贔屓さんとのご縁をつなぐためであり、同時に新しいご贔屓さんを作って行くことが目的なのです。

 現在のところ、40人入る客席に、20人を限定として公演しています。常識的に考えたならこれでは収入になりません。然し、問題ありません。別段収入を得るために公演しているわけではないのです。あえて毎月公演している理由は手妻をご覧になりたいお客様との縁を絶やさないためです。

 私は長く舞台活動を続けてきましたので、私には少なからず手妻を見たいと言うお客様がいます。また、たまにテレビなどに出演すると、必ず、「藤山さんはどこで公演しているのですか」。と言う問い合わせがあります。そうしたお客様の質問に、半年先や一年先のリサイタル公演のスケジュールの話をしても、人の興味はつながりません。

 「毎月人形町玉ひでさんで公演していますよ」。と言えば、お客様は行きやすいですし、日程も作りやすいでしょう。必ず、そこに行けば、私を見られると言う場所を持つことはご贔屓さんを作るためには大切なことなのです。

 また、出演依頼の電話が来る時に、いちいち電話で内容を話すよりも、「今月、玉ひでさんで公演がありますから、そちらでご覧になりませんか」。と、公演にご招待して、一度見ていただき、それから出演の打ち合わせをしたほうが、相手方も安心して出演依頼ができるわけです。

 あくまで玉ひではショウケースとして宣伝に利用しているわけです。ここの舞台で演じて収入を得ようと考えても、それは知れたものです。それよりも手妻を、市民会館や、ホテルのパーティーなどで買っていただいたなら、何十倍もの収入になるわけですから、結果として玉ひでの舞台は大きな効果を生むことにになります。

 

 合わせて、玉ひででは弟子の前田や、若いマジシャンの出演の場を設けています。前田は、まだ自分自身で出演の場を作るようなことはできません。然し、一人で稽古ばかりしていても上達はしません。お客様の反応を確かめつつ演技を作って行かなければ、プロの演技は完成しないのです。それは若いマジシャンも同様です。

 なぜ日本のマジック界のレベルがこうも低迷しているかと言うなら、日本でショウを演じる場所が少なくなってしまったからです。演じる場所がたくさんあれば、それに比例して上手いマジシャンも現れます。そうであるなら、私のように長くマジシャンとして生きてきたものは、若い人が出演できる舞台を積極的に作って行かなければいけません。少しでも舞台のチャンスを作って、熱意ある人には出演を呼び掛けています。

 玉ひでは靴を履いて演じることのできない座敷の舞台ですので、タキシードを着た人にはやりにくい場所です。然し、どんな場所でも、そこにお客様がいて、マジックを見たいと思ってくださるなら、その場は有り難い場所です。ここを勉強の場と考えて、自身の演技を作って行こうと考えているのなら、どんどん活用したらよいのです。

 幸い出演希望者は増えています。もっともっと増えて来たなら、日にちを変えて若手だけの一日を作ってもいいと考えています。そして、こうした場を、東京だけでなく、大阪でも、名古屋でも、福岡でも仙台でも、作って行こうと考えています。何とか年間20日くらいは、日本中を回ることで舞台のチャンスがあれば随分若いマジシャンには励みになると思います。それを数年のうちに作り上げたいと考えています。

 

 さて、こうした活動を私のお客様に見ていただき、弟子を育てる、若手の場を作る、ショウケースとして利用する、ご贔屓さんと語らいをする(これは今は、コロナでできない状況です)。と、私の活動全般を見ていただくことで、ご贔屓さんはより緊密にマジックを捉えて下り、一層のご支援がいただけるものと考えている次第です。

 魏贔屓産地うのは、砕いていうなら、外部の人に仲間になっていただくことなのです。そのためには実際にマジシャンが日頃どのような活動をしているのか、を包み隠さず見せることが大切で、すべてをひっくるめて、納得の上でご贔屓になっていただくことが大切だと考えています。

 

 また演じる若手同士も、何人も一緒になって舞台をすることが大切です。なかなかマジシャンが何本も一緒になる仕事場と言うのは少ないのです。仲間同士が演技が終わってお茶を飲みながら様々な話をすることは有意義です。私が若いころも、随分古い芸人さんやマジシャンから楽屋で色々な話を聞きました。それは今もいろいろに役に立っています。

 一人で部屋の中でマジックの稽古をしていては、結局同じことを繰り返すだけに終わってしまいます。新しい考え方。独自の発想などと言うものは人と交わっていない限り手に入らないのです。人との縁があるから普段知り得ない情報がたくさん手に入るのです。マジシャン同士の交流の薄くなった今日としては、なんとしても楽屋の語らいは復活させなければいけないと考えています。

 と、様々なことを考えつつ、玉ひでさんの舞台を続けています。来月からは、大樹が、単独で毎月、玉ひで公演をするそうです。いいことです。自分で公演をして、そこから手妻やマジックを発信していったらいいと思います。 

 同じ場所で活動すると言うことは、同じ演技ばかりできませんから、創作活動をしなければならなくなります。自然自然に作品も増えてきて、それが財産になって行きます。お客様を作り、仕事を作り、作品を作り、いいことづくめなわけです。そうならマジシャンはみんな自主公演をすべきなのです。そこを躊躇していては先がなくなってしまいます。少しでも意欲のあるマジシャンが出てくることを望んでいます。

 と言うわけで、これから玉ひでに向かいます。

続く

 

 明日はブログをお休みします。

御贔屓様との接し方 2

御贔屓様との接し方 2

 

 昨日(15日)に、長唄人間国宝、吉住慈恭さんが、熱烈なご贔屓から番町の家屋敷を一軒プレゼントされたと言う話をしました。番町と言うのは今も昔も屋敷街です。四谷の駅からビルの裏道を皇居に向かって歩いてゆくと。閑静で、大きな屋敷が並ぶ街並みが続きます。その一角の家をもらったのですから豪儀な話です。然し、これは珍しいことではありません。

 噺家三遊亭円歌師匠も番町に住んでおられますが、その家はファンがくれたものだと聞いています。

 

 なぜお客様が芸能人に対して、家をあげたいと思うほどの気持ちになるのでしょう。単なるファンではなく、演じている芸の何かがお客様の琴線に触れ、身内意識が生まれて、子供に財産を残すような気持と同じ気持ちを抱いて家をあげるのでしょうか。

 お客様が、自分の家族や子供と同じ気持ちに至るほど芸に感じ入る、と言う気持ちが本当に生まれるのでしょうか。

 貴族が芸術家のパトロンとなって生活の面倒を見る話は、かつての貴族社会の中でよくあった話です。ワグナーとルードヴィッヒ二世の関係は有名ですし、大なり小なり有名な音楽家や画家にはパトロンがついています。いや、今も、音楽家や絵画の世界などでは、パトロンが存在し、年額でまとまった支援を受けている芸術家は少なくないのです。

 

 さて、お客様が芸能、芸術作品に触れて、パトロン、ご贔屓様になってくれるのはどんな時なのでしょうか。芸術家が何をしたならお客様がそこまで入れ込んでくれるのでしょうか。

 1つは、人を超えた才能を持っている。

 2つ目は、通常の人が体験したことのない人生を体験している。

 3つ目は、独自の作品を持ち、深い世界へ誘ってくれる。

 4つ目は、愛される要素を持っている。

 5つ目は、人に見えないものが見える。

 このうち一つでも二つでも備えた芸能人ならばお客様は彼らの作った作品にのめり込むのではないかと思います。然し、多くの場合、公演のチケットを数枚買って見に来てくれるというファンはけっこういるとしても、家財産を提供してまでのめり込むと言うお客様は珍しいと思います。

 そこまで行くには、思いっきり強烈な磁力や、魔法がないと一ファンを熱烈なご贔屓にするまでには至らないでしょう。但し、私でも経験がありますが、多分に芸能は、うまく話の中にお客様を引き込むと、お客様はそこから先は自分で筋を膨らませ、自ら夢の世界に入り込んでしまうことがあります。

 

 私事で恐縮ですが、私が、蝶を演じる前に、蝶の芸を覚えたいきさつを話してゆくことを考え出し、実際蝶の芸の本質を話し始めると、かなりのお客様が、話の中で勝手に独り歩きを始め、そこから暗示にかかったかのように蝶の世界で夢想をするお客様があります。こんな時、私は、

 「私がもう少し気持ちを入れ込んで、憑依して蝶の世界を語って行ったら、お客様の心は、意のままに動かすことができるなぁ」。と思います。

 実際、私が蝶の演技の奥の話をすると、お客様はがぜん蝶を見る目が変わって行きました。私の手妻の熱烈なファンが増えてきたのです。私の手妻を、繰り返し繰り返し見に来るお客様がいます。自分が見てよかったために、子供を連れてくるお客様がいます。「こうした芸能を子供に見せておきたい」。と仰ってくれます。

 奥さんを連れてくるお客様がいます。「結婚記念日に夫婦で蝶を見に来ました」。などと仰ってくれます。二人は蝶から何を感じ取ったのでしょうか。

 仲間を何人もつれてくるお客様もいらっしゃいます。有難いことです。お客様の中で蝶の芸が勝手に独り歩きを始めています。そんなお客様に支えられて、口コミでファンが広がり、蝶の芸は続いています。

 多くのお客様は蝶をマジックとして捉えていません。どんな種仕掛けで蝶を飛ばしているのか、などと考えて見てはいないのです。蝶はマジックでも手妻でもなく、彼ら彼女らの夢の世界なのです。そうした中で私は、人をひっかけてやろうとか、驚かせてやろうなどとは考えていません。そんな必要はないのです。私は魔法の粉のかけ方を習得してしまっているのです。

 しかし同時に、そこへお客様を連れて行くことの危険さも理解できます。つまりここから先は、カリスマ占い師や、超能力者、宗教家、詐欺師などが身に着けている、ありもしないことをあると言い、見えていないことを自分だけは見えていると言う世界です。

 マジックと詐欺の大きな違いは、自分には普通には見えないものが見える。だから自分の言うことを聞きなさいと言って、善良な市民を巻き込んで、人を食い物にする行為があるかどうかです。最終的にか金品に話をつなげてしまう行為こそ詐欺行為です。

 然し、芸能人が求めていないのに、お客様の方から金品を持ってくると言うのは詐欺行為ではないでしょう。でも、多少怪しげではあります。

 ここまで来ると、芸能も詐欺も宗教も紙一重なのかもしれません。ただそうした中で、ありもしない世界にお客様を引き込んで、夢想の世界を見せる。そこでとどめるならばそれは罪ではありません。そこからお客様の金品を奪うのでなければ、許されるでしょう。マジシャンが芸能と詐欺の逆目をはっきり認識して、舞台の上だけで夢想の世界を見せているならそれは素晴らしいイリュージョンと言えるでしょう。

 

 夏目漱石は、噺家の三代目柳家小さんの話芸にはまり込み、当代一の名人とほめちぎって言います。小さんの落語の細部まで認めたうえで、「小さんと同じ部屋にいて、同じ空気を呼吸していると思うとそれだけで幸せだ」。と書いています。最大の賛辞と言えるでしょう。漱石が小さんに家をプレゼントしたのかどうかは分かりませんが、ここまで小さんの話芸を信奉していたなら、いざとなれば家一軒くらいは贈ったかも知れません。漱石が小さんを見る思いはまさに、小さんの魔法の粉がたっぷり漱石にかかっています。

 御贔屓様としてのお客様は有り難いことと感じていますが、それ以上の関係には至らないように注意しなければいけません。あまりにお客様が芸能に入れ込むとその先は危険です。芸能はあくまで舞台の上にとどめなければいけません。

続く

 

玉ひで公演

 17日の玉ひで公演は満席です。5月6月以降のお申し込みをお願いします。詳細は東京イリュージョンをご参照ください。

 

御贔屓(ごひいき)様の接し方 1

御贔屓(ごひいき)様の接し方

 

 私が10代20代の頃は、私の親父が漫談家だったこともあって、よくお笑い芸人や、落語家との付き合いが多く(それは今も続いています)、彼らからとても多くのことを学びました。

 お笑い芸人は、今も昔も、売れている人は大きく稼ぎますが、売れるまでは殆ど稼げずに大変な苦労をします。多くは、女房や、彼女に食べさせてもらったり、水商売を手伝ったりしてわずかな小遣いを作って暮らしていました。

 御贔屓客でもいればそのお客様から小遣いをもらったりして少しは助けてもらえますが、私の知る限り、お笑い芸人でご贔屓との付き合い方のうまい芸人をあまり見ることはありませんでした。

 ご贔屓を作ることのうまいのは噺家(はなしか)で、一度見込んだお客様には、くらいついて何が何でもご贔屓にしてしまう噺家を何人も見ました。小遣いをくれそうな社長にはバーでも、寿司屋でもついて行って、場をにぎやかして、周囲を笑わせ、まるで太鼓持ちのように一緒に遊んで小遣いをもらいます。

 社長がゴルフに行くときには、一緒にゴルフをして、コンペで司会をしたり、釣りに出かけたり、極端な人は、社長が、どこそこの焼き立てのパンが好きだと知ると、早朝に有名店のパン屋に出かけ、社長の好みのパンを買い、毎朝、社長の自宅に焼き立てのパンを届けたり、全く涙ぐましい努力をして社長から小遣いをもらっていました。

 噺家には前座、二つ目、真打、と言う階級があり、昇進をすると寄席で出世披露をします。その際の配り物や、幟(のぼり)、暖簾(のれん)、引幕、新しい着物などをこしらえなければならず。大きな費用がかかります。付き合いのうまい噺家は、ご贔屓に頼んですべてを揃えてもらいますが、ご贔屓がいなければ自己負担になります。

 そのため彼らは日頃から必至でご贔屓客を作るためにあちこちで遊びながらお客様を探しています。

 

 私の親父は、さほどにご贔屓客をあくせく追いかけることはしていませんでしたが、親父は日常が面白い人でしたから自然とお客様がいて、よくお客さんと一緒に飲みに出かけていました。中には、社長の家族と一緒に海外旅行にまで連れて行ってもらったり、息子さんの結婚式で司会をしたりと、随分入れ込んで面倒を見てくれる社長がいました。中にはラドーの時計をくれる社長もいました、但し3日で動かなくなりました。

 「社長はいい人なんだよ。一度紹介してあげるよ」。などと親父に言われて出かけてみると、その社長が見るからにやくざの顔をしていて、建設会社社長とは言いながら、連れて歩いている社員がこれまた絵にかいた通りのやくざ。

 当時私は学生で、立派なマジシャンになりたいと考えていたのに、やくざやチンピラの皆さんに囲まれて、親父から「な、いい社長だろ」、と言われても素直にうなづくことも出来ず、どんな顔でいたらいいのかも分からず、場違いな中で居づらくて困りました。

 帰る道々私は親父に「私をこんなところに連れて来ないでくれ」、と、散々に苦情を言いました。

 そんなこわもての社長ですが、マジックを見る目は実に素直で、私のマジックを喜んで見てくれました。その後会社の宴会に呼んでくれたり、社長の経営するバーでマジックをしたり、私が、藤山新太郎を名乗って披露をしたときには、松竹演芸場に花輪を送ってくれて、お祝いの品まで送ってくれました。

 そうすると、私もいつしか、社長のこわもての顔に慣れて行き、社長がいい人に見えてきました。私にも免疫が育ってきたのです。親父のことを悪くは言えません。まぁ、昭和の芸人とやくざは何かと付き合いを持っていたのです。

 

 ただし、ご贔屓様と言うのは、怪しげな人たちばかりではありません。むしろ、社会的に地位の高い、マジックを純粋に愛する方々も多くいて、何彼となく気を配ってくれて芸人やマジシャンを支援してくれました。

 私にとっての最大の御贔屓様は、クロネコヤマトの元社長の都築幹彦さんと、千葉大学名誉教授の多湖輝先生でした。このお二人が平成10年以降から最近お亡くなりになるまで、私や、弟子や、手妻を応援してくださったことはどれほど助けになったことかわかりません。いろいろな分野のアッパークラスのお客様を紹介してくださったり、大きなイベントを紹介してくださったり、随分と舞台活動を助けて下さいました。

 私の40代は、作品つくりに苦心し、弟子を育て、手妻を体系化し、著作を出しと、えらい忙しい時期でした。そんな時期にタイムリーに実力ある支援者が現れて、惜しみなくチケットを買ってくれたり、資金提供をしてくれたことは不思議な人生のめぐりあわせだったと思っています。

 

 話は少し変わりますが、明治の長唄界の名人で、四代目吉住小三郎と言う人がいました。元来が吉住流の跡取りで、本来なら何の不自由もなく長唄の家元となる人だったのですが、門閥の争いに巻き込まれ、芝居小屋に出勤が出来なくなります。当時の長唄は、日本舞踊や、歌舞伎のBGMの演奏で生活をしていたのですが、歌舞伎に出られないとなると、全く失業も同然になります。小三郎はやむなく稽古屋の先生を始めます。

 この時小三郎は舞踊の伴奏でない、純粋な演奏会のための長唄を考えるようになります。今日では何でもないことですが、明治大正期にあっては画期的なことでした。ところが、指導をしてゆくうちに、長唄演奏の矛盾に気付きます。

 今まで役者の舞踊に合わせて唄を唄っていたため、視覚的に見てお客様に筋が伝わっていたものが、舞踊なしで演奏すると、言葉だけでは伝わらない部分が多々あることに気付いたのです。

 歌詞をとんでもないところで切ったり、とんでもないところで伸ばしたりすると、全く日本語として意味が伝わらなくなるのです。ここで初めて、長唄音楽を学問として論理的に捉えて改革することになります。小三郎は後に吉住慈恭(じきょう)と名乗り、三味線名人の稀音家浄観(きねやじょうかん)との名コンビで長唄界の中心的な存在に立ちます。

 二人の演奏は多くの長唄愛好家に支持され、東京音楽大学(のちの芸大)の講師になり、更に人間国宝になります。当時の上流階級の子女が多く稽古に通い。父母の中には、慈恭の芸にほれ込み、番町にある百坪の家屋敷をぽんとプレゼントしてくれる人まで現れます。私の親父のように、すぐ壊れるラドーの時計をくれる社長とは、スポンサーの桁が違います。

 今も番町の屋敷は紫山会館と名を変えて、長唄や日本舞踊の発表会のホールとなっています。私は、太鼓持ちのようにご贔屓を追いかける芸人には賛成しかねますが、芸能で生きる以上、ご贔屓を持つことは大切だと思います。そこで明日は、ご贔屓の作り方、接し方を詳しくお話ししましょう。

続く