手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

才蔵 4

才蔵 4

 さて才蔵の話もそろそろまとめなければいけません。昭和の手妻師、一徳斎美蝶や、帰天斎正一は、大夫才蔵の形式を残して手妻を演じた最後の手妻師だったのですが、その後、大夫才蔵の形式は失われて行きました。

 全く失われてしまったわけではなく、水芸には今も太夫と才蔵の形式が残されています。ところが、水芸を残している松旭斎では才蔵役を、「からかい」と呼んで、才蔵とは言いません。それはなぜなのか。実は、松旭斎の系譜の中で才蔵は継承されなかったのです。

 現代の我々から見ると、松旭斎も、帰天斎も、古典の手妻の一派のように見えますが、両派は明治に生まれた西洋奇術の流派です。初代松旭斎天一も、初代帰天斎正一も、共に舞台では洋服を着て、当時日本に入ってきた、西洋奇術を演じて、互いが、「元祖、西洋奇術」。を名乗って興行を打っていたのです。

 それがなぜ、その後手妻をするようになったかと言うなら、旧派を吸収して行ったためです。明治期に至って西洋奇術が流行り、それに反比例するように従来の手妻が廃れて行きます。

 そうした中で、江戸時代から続く、柳川、養老、滝川、鈴川と言った多くの手妻師は、着物を脱いで、洋服に着かえ、西洋奇術の道を選択します。その過程で、従来の手妻の演目も、大夫才蔵の形式も、型や振りも失われて行きます。

 無論、手妻の形式を残し、守って行こうとした手妻師もいたのですが、明治10年代から手妻は徐々に時代の波に呑み込まれ、明治20年代の半ばまでにはほとんどの手妻師が、西洋奇術師に変身して行きます。

 その西洋奇術師の道も、初めの内は物珍しさで稼ぎもよかったのですが、お客様の目も慣れて来ると、西洋奇術だからと言って人が来ることはなくなります。当然のごとく、その内容が優れたものでなければ生き残れません。西洋奇術師も、手妻師も、さまざまに合従連衡(がっしょうれんこう)して、やがて大きな流派(松旭斎、帰天斎)の一派に加わって、生きて行くようになります。

 松旭斎のような大きな一座では、奇術の演目が足らず、天一も、弟子も、常にネタ不足に苦しんでいました。そこへ、よその流派で修業した奇術師が入って来たため、彼らの持ちネタを弟子や、天一自身が継承して行きます。

 実際、西洋奇術を看板にしていながら、天一は、生涯水芸を得意の演目にしていましたし、蒸籠や、おわんと玉、なども松旭斎の弟子に受け継がれて行きます。その際に、西洋奇術の流派であるがゆえに、従来の型から離れて、時として西洋奇術に見せかけた演出をしたり、道具の外見を作り変えたりして、手妻を演じて行きました。

 実際天一は、水芸を生涯、大礼服(軍人の着る礼装)で演じていましたし、才蔵役は蝶ネクタイをつけて、助手、からかい、と呼ばれていました。然し、やっていることは江戸時代以来の才蔵の役割です。結局、松旭斎の一門は、才蔵と言う専門職がいなかったために、水芸の時だけ、弟子を使ったり、実際の役者を雇って、からかいとして使っていたのです。

 才蔵は、水芸の初めに口上を述べ、大夫が水を出しているさ中も、余計なことを言いながら掛け合いをして笑いを取り、時に失敗をして自分の頭から水を吹き出し、お終いには木頭(きがしら)を打って、幕を閉じます。こうした仕事は江戸時代、あるいはそれ以前から続く、才蔵そのものです。

 明治期にはやった西洋奇術も時代と共に、形式も、内容も大きく変化をして行きます。松旭斎の一門では、明治の末年に日本の古典ものが見直される機運が生まれた時になって、着物を着て演じる手妻が復活します。天一の弟子の天勝の時代に、水芸は和服に戻ります。併せて、才蔵も従来の才蔵衣装に戻ります。然し、助手と言う呼び名も、からかいと言う呼び名もそのまま残されました。松旭斎ではそれがそのまま今日まで残ることになったのです。

 この時、才蔵の役割も巧く継承されればよかったのですが、西洋奇術の一派の中では、才蔵役は育たないまま今日に至っています。

 然し、水芸は古典を意識すればするほど、才蔵の役割が重要になって行きます。口上の言い回し、型、役割など、才蔵を役としてしっかり演じないと、ただのおちゃらかしのコントになってしまいます。その都度とりあえず誰かに任せていては芸能としての評価は得られません。大夫になりたがる人は多いのですが、水芸で最も大切なのは、才蔵の仕事をしっかり形として継承することです。才蔵こそが手妻の要(かなめ)なのです。ここが演じ切れていないと水芸は古典にはなりません。

 

 ところで、帰天斎派ですが、初代、二代目までは西洋奇術師として看板を出していたのですが、三代目から流れが変わってきます。初代の帰天斎正一は、喋りが達者で、「あなた、これ見るヨロシ」などと言う、おかしな日本語を使って、西洋奇術を演じていました。今でも時々、インチキ中国手品師が、「よく見るヨロシ」などとおかしな口調を使いますが、あれは明治の帰天斎正一のセリフそのままです。明治に初めて帰天斎を見た人は帰天斎の一言一言に爆笑したことでしょう。

 人気があって、生涯収入に恵まれた帰天斎でしたが、晩年に至って、弟子が自分を真似て生きて行く姿を見て「この生き方は長くは続かない」。と考えたようです。

 弟子にしっかりとした芸を学ばせたい。と考えている時に、正一の友人の三代目柳川一蝶斎が、手妻の継承者を探していることを聞き、弟子の帰天斎小正一(後の三代目帰天斎正一)に手妻の一通りを習いに行かせます。

三代目の柳川一蝶斎は明治末年に残された手妻の演じ手で、三代目の演じる蝶は、初代柳川一蝶斎からの直伝でした。その芸の評価は晩年に至って、明治天皇に手妻を披露するなどして、手妻の再評価につながって行きます。然し、最晩年に至って寄席も休みがちになり、いよいよ手妻の将来を慮(おもんばか)り、小正一に芸を譲ります。

 手妻は西洋奇術の、しかもお笑いトークマジシャンの一派が手妻を受け継いだことで残ります。ただ、三代目帰天斎は一蝶斎から蝶などの手妻を習いはしても、若いころは殆ど演じなかったようです。それが、戦後になって進駐軍(日本を占領したアメリカ兵)が日本にやってきて、彼らのキャンプでショウをするようになります。

 帰天斎は、そのショウの演目として、日本的な芸を求められ、試しに蝶を演じてみると大人気で、ギャラのランクは日本の芸能の中でトップに置かれ、一躍米軍キャンプで大忙しになりました。以来帰天斎は手妻に特化し、形式も、三代目一蝶斎に習った通りの形式に戻し、古い手妻が残されたのです。

 今、私の家には、三代目帰天斎の衣装や、手紙などが残されています。その書簡を見ると、手妻を残して行くことの苦労が切々と書かれています。本来手妻と対峙するはずの西洋奇術の一派が結果として手妻を残す立場になったのは皮肉です。でも、どういう形であれ、作品や演じ方が、昭和の40年代まで残されたことは、その後の手妻の維持発展にどれほど役立ったか知れません。お陰で我々は今日手妻が演じられるのですから。

才蔵終わり

 

才蔵 3 植瓜術

才蔵 3

 太夫と才蔵の掛け合いを何とか残そうと考え、これまで様々な手妻の台本を書いてきました。多くは、江戸時代に演じられていた作品を、わかっているところからふくらませて書き加えて行きました。

 若狭通いの水、蒸籠、比翼連理の棒(チャイニーズステッキ)、紙うどん、金魚釣り、壺中桃源郷(こちゅうとうげんきょう=壺抜け)、一里四方取り寄せの術、中でも壺中桃源郷などは全くの復活作品ですが、それらしく作り直して見ました。

 そうした中で、植瓜術(しょっかじゅつ)については、早くから資料を手に入れていたのですが、なかなか形にならず、構想の中だけで、一向に芸が固まりませんでした。

 植瓜術は、今昔物語の中でかなり詳しく紹介されています。今昔物語は平安時代の随筆です。ちなみに平安時代は、今昔物語を「いまは、むかし物語」と読んでいたそうです。著者は不明ですが、ここにはかなり数多く当時のマジックが書かれています。著者が相当にマジックが好きだったことがわかります。その中で、植瓜術は、数人の仲間と相対喧嘩を始めるところから始まります。

 

 街道筋で瓜をたくさん積んだ荷車を止めて、荷運びの若い衆が休憩に瓜を食べています。そこへ老人が寄って行って、「その瓜を少し食べさせてくれ」と頼みますが、断られます。老人が食い下がって頼むと若い者に叩かれて散々の目に合います。周囲の通行人が何事かと大勢集まってきます。

 老人は「それなら自分で瓜を作って見せる」。と言って、地面を掘り、土を盛って、枝を4本立てて、筵で囲い、室をこしらえます。若い衆が吐き散らしたタネを一粒、盛った土に入れ、水をかけ、呪いをします。筵を取れば、土の上に小さな双葉が芽を出しています。また筵をかけて、呪いをすると、今度は芽が伸びて弦になっています。

 こうして弦が伸び、弦は細い枝に絡まって行き、上から瓜が生ります。そこで老人が、口上を言い、「こんなに早く大きくなる瓜は、人の体を若返らせる作用のある瓜だからだ(恐らくそんなことを言ったのでしょう)、良かったら皆さんにも分けましょう。と言って、瓜を道行く人に販売します。その間にもどんどん瓜が増えて行きます。そして、一通り販売した後を見てみると、荷車に山ほど積んであった瓜が一つも無くなっていた。

 つまり、初めに老人をいじめていた若い衆と老人は仲間だったと言う話です。著者の目は鋭いのですが、決して赤ら様な種明かしはしません。どちらかと言うと、老人の芝居を楽しんで見ています。著者の心の優しさがにじみ出た随筆です。

 

 さて、植瓜術は世界中にあります。恐らくマジックの中で5本の指に入るくらい古い作品でしょう。瓜が生るのは、中国や日本、東アジアに限られます。インドや、ヨーロッパでは、マンゴーが生ります。ヨーロッパ、アメリカではインドの秘術として伝わっています。小さな植木鉢を使って、芽が出て弦が伸びて、マンゴーが生ります。

 日本では明治時代くらいまでは大道で演じられていたようです。呪いをする時に、弦を囲った周りを、「生(な)ったり生ったり」、と言って踊っている様子が、挿絵にも出ています。よほどポピュラーな芸だったらしく、資料も数々あります。そうならすぐにでも演じたら良い。と思われるでしょう。それができませんでした。

 

 この演技を現代に活かすためには、幾つかの障害があったのです。一つは、小さな植木鉢を使うのに問題ありでした。植木鉢の中に、芽、弦、瓜を隠すことになり、タネがばれやすいのが欠点です。本来の植瓜術は、交換改めの傑作であり、太古の昔から、土を改め、筵を改めしているうちに、どこからか弦や瓜を隠し持って来る技がタネだったのです。そこを生かさずに形ばかりのマンゴー術を演じても、意味はなく、タネ仕掛けは原点を尊重しなければいけません。

 色々考えた末に。低い地面で演じるのではなく、低いテーブルを作り、そこに大きな底の浅い笊(ざる)を置く方法を考えました。こうすることで、客席から演技が見えやすいようになりました。同時に、笊に盛った土にも仕掛けが感じられません。後は周囲からわからないようにタネを持って来る技を工夫しなければなりません。これも何とかうまく行きました。

 次の問題は土にあります。ヨーロッパでもアメリカでも、植木鉢などに土を盛りますが、その過程でマジシャンはどうしても土をいじらなければなりません。そのため手が汚れてしまいます。これによって後のマジックがしずらくなり、マンゴー術はだんだん敬遠されるようになったのです。大道でなら何でもないことですが、紳士淑女の集まるパーティーで手が汚れるマジックは敬遠されたのです。

  

 土で手が汚れないようにするにはどうしたらいいか。ここに私は悩みました。そして、土を使わずに、小鳥の餌の粟粒を使うことにしました。粟なら遠目に見ると砂に見えますし、手に汚れが付きません。ここが解決が出来たなら、話は一気に進みました。セリフを書き上げ、太夫と才蔵のやり取りの中で瓜が生る手妻が完成しました。

 インドの奥地でマンゴー術を演じている人のフイルムを入手して見ますと、1時間近く演じています。それをかなり端折って私は15分かけて演じています。やってみると受けのいい作品で、今では頻繁に演じています。掛け合いも工夫をして、種を撒いて、水の解説をする時に、

 「この水は根原水と言って、草木を大きくすることが出来る」。「本当ですか」。「本当です。草木だけではない、私なんかは時々頭にかけています。お陰で髪の毛もふさふさ生えて来ます」。「あの、もう少し、たくさんかけたほうがいいんじゃないですか。この辺薄くなっていますよ」。「こら、指をさしてはいけない。根原水は貴重品ですから少しずつ頭にかけているのです」。等と言うギャグを入れています。

 ギャグは時として脱線して、話が伸びます。これに受け答えをするのが才蔵の才覚になります。初め弟子は何か言われるたびにどぎまぎしますが、慣れて来ると自分でアドリブを足すようになります。自分で作ったギャグが受けるようになると、当人は自信を持つようになり、アドリブの才能が身についてきます。ここが修行の大切なところです。マジックの本には絶対に載っていない実地の勉強なのです。今いるお客様に何を話したらみんなが喜ぶか、それを毎日勉強させてもらえるのですから、弟子は幸せです。

 但し、ギャグが受けるのは、セリフの言い回しや、口上が、きっちり時代に言えるから許されるのです。やはり基礎となる修行を勉強していないと、やっていることはデレデレだらしなくなってしまいます。

 

 生ったり生ったりと呪いをして、周囲をぐるぐる回ったりする動作や、徐々に弦が伸びる姿は見た目に明快ですので、お客様が喜んでくださいます。お終いに、4本の竹をまとめたテントの骨の真ん中から大きな瓜が幾つも下がった姿は、形が美しく、布を取った瞬間にお客様から歓声が上がります。この反応が面白く、いつもこの作品を作ってよかったと満足しています。

続く

 

 

才蔵 2

才蔵 2

 才蔵について書く予定が、色々入れ込みをして遅れてしまいました。才蔵とは、手妻の相方で、アシスタントや、助手とは少し違います。もっと経験豊富で、演技の中に深く入り込んで、大夫を助ける役目を担(にな)った人のことを言います。

 今、マジック界で太夫と才蔵と言った関係で古い形のマジックをする人は私の一門が残すのみです。然し、見方を変えて眺めてみると、江戸時代の太夫と才蔵に一番近いスタイルは、ナポレオンズの行き方です。

 彼らは古典奇術をするわけではありませんが、主に喋りを担当する、パルト小石さんが、才蔵役で、マジックを演じるボナ植木さんが大夫です。パルとさんはマジックはしませんが、脇で解説して大夫を助けます。そして力関係は互角です。互いに役割を分担して、ポジションを守っています。

 かつて、曲芸で、海老一染之助、染太郎さんと言う、兄弟コンビが「おめでとうございます」。と言いながらお正月など曲芸をされていましたが、あのお兄さんの染太郎さんが曲芸をしないで、口上を言う役でした。あの二人の関係がまさに、古い形の曲芸の太夫と才蔵の関係です。

 ナポレオンズも染之助染太郎さんも、演技をしないほうを助手だと紹介してはコンビは成り立ちません。実際楽屋では、染太郎さんのほうが格上で、染之助さんはお兄さんを常に立てていましたから、アシスタントと言う扱いではありませんでした。

 江戸時代の柳川一蝶斎も、長い間、鉄漿(おはぐろ)坊主と言う才蔵さんを使っていたようです。海外の使節が来ると、幕府に頼まれて度々手妻を演じていましたが、それを見たイギリス人などは、「脇で太鼓を打って、常に喋り捲る助手がいた」。と、まるで邪魔者のように書いています。然し、その後で「その助手を見て、政府の役人が笑い転げていた」。と続きます。日本語さえわかれば面白い人だったのでしょう。

 蒸籠とか、引き出しのような手妻に関しては、色々口を挟んで、笑いを入れ、太鼓を打って効果を上げていたと思いますが、恐らく、一蝶斎の得意芸の蝶に関しては、殆ど、型通りの口上を述べるだけで、笑いは加えなかったものと思います。それ故に、蝶の曲が、格式高く、西洋人に強い印象を与えたのでしょう。

 

 大夫才蔵の関係は、放下の時代にさかのぼります。今日では曲芸が、大夫才蔵のスタイルを継承しています。そこから分かれて出てきた萬歳(江戸時代は、萬歳と言い。その後、万歳、漫才となります)。も同様に大夫才蔵の関係で構成されます。

 漫才とは元々、雅楽の萬歳楽(ばんぜいらく)と言う、祝いの時に舞う舞踊を真似て演じることで萬歳と呼ばれていたようですが、やがて簡易な踊りと、めでたい言葉を連ねて見せる芸に変わって行き、更に発展して、言葉遊びの芸になって行きました。

 それでも私の子供の頃には、まだ鼓を持って、めでたい言葉を並べて、合間合間に面白いくすぐりを入れる萬歳さんが何組かいて、演芸場にも出演していました。その時、才蔵さんが、初めは役柄で少しへりくだって大夫を助けているのですが、大夫が失敗したりすると逆襲して、やり込めるのが面白く、「ははぁ、これが大夫と才蔵の関係かぁ」。と子供ながら納得して見ていました。

 服装は、大夫が、鎌倉武士のような、大きな袖の、相撲の行司さんのような装束を着て、頭に烏帽子をつけ、才蔵は普通の着物にたっつけ袴と言ういで立ちでした。残念ながら、今この古い形の万歳を見ることは稀です。

 三河万歳、大和万歳にわずかに継承者がいると聞きます。漫才だから面白いのかと思って聞いていても、決して今のスピード感のある漫才の会話とは違いますので、現代の笑いにはつながらないかもしれません。最近、末広と言うコンビが和服で鼓を持って万歳をしていますが、惜しいかな、古典の作品が入っていません。数え歌や、あほだら経のような、古典の言葉遊びを現代風の笑いに作り替えて演じたなら、あの人たちはすごい人になる可能性があります。

 

 そこで私のチームの大夫才蔵の関係ですが、私の所では、弟子が才蔵の役、大夫の役を勉強しています。常に弟子が才蔵役と言うわけではなく、時として、私が才蔵を演じる場合もあります。そうして両方のセリフを覚えておかなければ継承がなされません。

 掛け合いの手妻は、ギャグなどを入れて、面白おかしく演じるのですが、だからと言って決してコントではありません。そこにはルールがあります。少なくとも江戸末期、または明治初年の言い回しで会話が進行します。セリフは全て原稿を興し、暗記します。この時点ではアドリブを入れてはいけません。先ず古い言い回しがしっかりできなければ意味はありません。セリフを間違えた時でも、古い言い回しで言い換えるなら間違いも許されます。

「おわんと玉がいかなる動きをいたしますか、ようくお目とどめ願います」。この、お目とどめ、と言うセリフは、言いにくく、時に、間違える場合もあります。それでも、「あ、間違えちゃった」。と言ったら舞台は台無しです。「ようくお目届け、いや、元い、お目とどめ願います」。と言う風にいい直せば、時代の雰囲気を壊すことなく進行できます。そんな稽古をする内に弟子も、昔の雰囲気が身について、古風な手妻が仕上がって行きます。

 ギャグは時として、現代のセリフが混ざりますし、時事ネタも入ります。あまりそんなことばかり入れると内容が軽くなりますが、お客様はそうした話の脱線を期待しています。時に話を崩して笑いを作ることも必要です。

 喋りは、口上の語り(時代)と、世話の語りに分かれます。口上の語りと言うのは、少し声のトーンを上げて、余計なことを言わないで、きっちりと喋ります。言葉は、一音一音口をしっかり開けて発声します。例えば、植瓜術(しょっかじゅつ)の冒頭は、

 大夫が、「これよりご覧に供しまするは、植瓜術にございます」。と、しっかりと丁寧に口上を述べます。すると、才蔵が、世話のセリフ(日常会話の言い回し)で、「大夫さん、植瓜術とはどのような術ですか」。と尋ねます。「これはね、奈良平安の頃より続く、一粒万倍(いちりゅうまんばい)の術です」。「はぁ、はぁ、一粒万倍ね。一粒万倍ですかぁ。あの、一粒万倍ってなんです」。「知らないんだったら早く聞きなさい。一粒とはひとつぶのこと。一粒の種を撒くと万倍の果実がなる、これが一粒万倍」。「なるほど目出度い術ですねぇ、早速見せて下さい」。となるわけです。

 途中途中のセリフの中に口上に言い回しが出て来て、世話の語り口と混ざって、なかなかややこしいのですが、これを私の一門は稽古をします。そこで明日は、植瓜術のお話を中心に才蔵のお話をします。

続く

緊急事態宣言

緊急事態宣言

 

 問題の根は何か

 物事の根本がよくわからないまま、世間の騒ぎに乗せられて、みんな生活に大きな支障をきたしています。問題の根は何かがよくわかりません。医師が大騒ぎしていることをここに並べてみましょう。

 1、病床数が足らなくて、医療が崩壊寸前だ。

 2、感染者が激増して、このままでは危険。死者が増える。

 3、変異したウイルスが猛威を振るう。

 

1、医師が病床数が足らないから医療が崩壊する。とテレビで訴えかけています。一体誰に訴えているのでしょうか。1年前からコロナウイルスの騒動が始まって、今に至って、病床数が増えないのは、誰に問題があるのですか。病床数に関しては、イギリスや、フランス以上のベッド数を持っている日本が、イギリス、フランスの10数%しかいないコロナの感染者を受け入れられないのは、病院が感染者を拒否しているからではないのですか。特殊な設備がないなどの理由を盾にして、いつまでたっても病院自体を改善しないから病床数が足らないのではありませんか。

 それなら、医療崩壊をテレビで叫ぶのではなくて、身内の医師に喚起すべきことでしょう。現実には、医療体制の整った大病院は、患者が押し掛け、スタッフが不足して、ひっ迫している状況であるのに、一般の町医者は、みんなが手洗いうがいをするために、風邪を引いたり、インフルエンザにかかる患者が激減して、病院は閑古鳥だと聞きます。

 そうであるなら、設備の整わない町の病院の医師と、看護婦を、大病院や、コロナ患者の収容施設に移ってもらって、初期の感染者の対応をしてもらえば、まだまだ緊急事態に至るほどではないのではありませんか。

 

2、感染者の激増

 日本の感染者は累計で25万9000人。ドイツは、170万人です。死者はドイツが35000人、日本は3821人です。死者数で言うならドイツの10分の1です。数で見て、日本がどれくらいの感染者に至ったなら、非常事態になるのかが全く示されていないまま、非常事態宣言を出すのは意味がわかりません。

 

 これまでの1年間の死者数が3800人と言うのは、特別な数字ではなく、緊急事態ですらありません。交通事故の死者が4000人とも5000人ともいわれている中で、一つのウイルスの死者が3800人は、自然死と同じレベルです。実際、コロナに罹って亡くなる人の平均寿命は日本人の一般的な平均寿命よりも高齢なのです。コロナだから早死にしたと言う話ではないのです。

 そもそも、人がなくなる原因は、老化プラス、持病、それに風邪や肺炎、インフルエンザ等に罹って体調が悪化したときに寿命を終える人が圧倒的に多いのです。今回は、風邪や肺炎がコロナウイルスであるだけで、コロナは風邪の一種であるわけですから、ことさら大騒ぎして死者の数を数えるほどの話ではないはずです。

 羽田雄一郎参議院議員が病院に行く途中で急死したと言うニュースは、ニュース自体に問題ありです。あの死に方は明らかに心筋梗塞です。元々心筋梗塞の持病があった羽田さんが、コロナに罹り、心筋梗塞で亡くなったと言うのが原因でしょう。死因は心筋梗塞です。そうでなければそんなに簡単にコロナ患者は亡くなりません。

 

 数年前に、インフルエンザが毎日4万人感染者を出していた時から思えば、コロナが一日3000人を超えたことでなぜ大騒ぎをするのかがわかりません。実際、昨年のコロナ感染者、累計25万人のうち、20万人以上が回復して仕事をしています。重症患者は800人弱です。日本の人口を考えると、風邪の感染者よりもはるかに少ないくらいです。なぜこれを大騒ぎするのかがわかりません。

 

3、変異したウイルスが猛威を振るう

 またぞろテレビが喜ぶネタが入って来て大騒ぎをしていますが、コロナが変異すると言っても、別の病気になるわけではありません。コロナはコロナです。ワクチンが出来れば、本来のコロナも、変異したコロナも同じように殲滅できます。大騒ぎをせずに冷静に見守ることです。

 テレビは連日コロナで大騒ぎをしているうちに、世の中の景気が悪くなり、このところはスポンサーを降りる企業が続出しているそうです。景気が悪くなれば、企業はコマーシャルも出せません。テレビ局は自らの首を自らの手で絞めているのです。

 

 要らぬ話題を撒いて、感染者を差別するようなことになるほうが問題です、日本では、自殺者が、3000人を超えています。コロナの死者を上回っているのです。心無い人の中傷や、会社や飲食店を廃業に追い込んだことでの自殺者が激増しています。

 コロナよりもむしろこちらのほうが問題です。国は、飲食店に休業を申し込んだならしっかりした手当の面倒を見なければ、人は生きては行けません。こちらのケアを優先してこそ初めて対策を講じていると言えるはずです。

 同様にタレントです。まったく仕事が発生しない現実を前に、いかにしたらいいか、頭を抱えている歌手、俳優、マジシャンは山ほどいます。彼らに保証が回って来るのはいつのことでしょう。才能ある人を失業させて、この先又景気が良くなったからと言って、彼らを使おうとしても、おいそれと有能な人が育つものではありません。

 今、タレントを面倒見ておかなければ、日本の芸能界は死滅します。ホテルやレストランが閉店しては、タレントも生きては行けないのです。歌舞伎と言えども観客数は激減し、この先の公演も不安です。そうなっては役者も芝居に集中できないでしょう。不倫でもしなければやってられないのかもしれません。と、またここでおかしな弁護をすると、また文句を言ってくる人があります。気を付けなければいけません。

 コロナも解決できず、飲食店従事者を失業させて、自殺に追い込んで、この国は一体何をしようと言うのでしょうか。

続く 

虎屋の羊羹

虎屋の羊羹

 

新年会

 一昨日は、恒例の新年会を中止し、代わりに、大樹と、石井裕と、前田と私の4人で、寿司屋で一杯やりました。それぞれの顔を見て、コロナの状況下でも、何とか生きて行っているようで安心しました。

 全く、年末のパーティーも、新年のイベントも発生しない状況では、マジシャンが生きて行くことは難しく、誰もが苦しんでいると思います。この先もしばらくは展望はないだろうと考えると、お先真っ暗です。私にもう少し力があれば、仲間を助けてやれるのでしょうが、今は自分が生きて行くことでやっとです。

 昭和の天皇陛下が倒れられたときも似たような状況でしたが、それでも半年のことでした。平成になったとたんにたちまち舞台仕事は復活して、山のように依頼が来たのです。平成5年以降にバブルが弾けたときは、大きく生活の仕方を変えなければなりませんでしたが、それでも、舞台の依頼が一本も来ないと言うことはありませんでした。神戸の震災の時も、東日本大地震の時も、仕事は大きく減りましたが、全く舞台がないと言うことはなかったのです。

 今回のことは、人生の中での最大の試練になるかもしれません。

 

虎屋の羊羹

 石井裕が土産に虎屋の羊羹を持って来てくれました。虎屋の羊羹は最高級の羊羹です。羊羹が二竿箱に収まって、羊羹自身は竹皮に包まれています。恐らく数百年前からこの姿なのでしょう。江戸時代は砂糖が入手しずらく、砂糖をふんだんに使った羊羹は超高級品で、羊羹一本が一分(現在の25000円)、したとか、江戸の一流菓子屋の鈴木越後では二分(50000円)したなどと聞いています。

 当然、庶民の口に入るものではなく、生涯に一切れでも食べられたなら最高の幸せと言う位の菓子です。虎屋は今も相変わらず高級品で、先ず重さが違います。通常の羊羹よりもずしりと重いのです。1.5㎝に切って、二つ、皿にのせて出てきたものを、フォークで切って食べますが、なかなか切れません。がっしりと固まっていて、簡単にフォークが入らないのです。それを一口舌の上に乗せ、ゆっくり味わいますが、黒砂糖の甘みが強く、それでいて小豆の香りがしっかりと感じられます。夜の梅、と、竹皮に書かれています。これは漆黒の羊羹にうっすら小豆の粒が見えるところが、夜に眺めた梅の花にたとえて名付けたものと聞いています。

 私は最近アルコールをあまり飲まなくなったため(本当は飲みたいのですが)、甘みを欲するようになりました。

娘のすみれと、女房の和子と、一緒に羊羹を食べて、ひと時の幸せを楽しみました。裕に感謝。

 

 さて、今日は、内視鏡の打ち合わせで、再々慈恵医大病院に行きます。才蔵のことなど書きたかったのですが、時間がありません。また明日にします。

続く

才蔵(さいぞう)1

才蔵(さいぞう)1

 手妻には才蔵と称する相方が出て来ます。手妻を演じる人は大夫と言います。大夫の対語が才蔵になります。大夫と才蔵は力関係では本来互角です。互いに力量がなければどちらの役も務まりません。

 才蔵を今日のアシスタントと考えるのは間違いです。単に道具を出す、ひっこめる、などの仕事以上のことをしなければならないからです。

 才蔵を後見(こうけん)と言い換えることも間違いです。後見と言うのは、歌舞伎や、日本舞踊で、踊り手の後ろに下がって座っていて、必要な時に小道具をさりげなく踊り手に渡す役の人です。文字の通り、目立たぬように後ろに控えていて、舞台の上にいながら、お客様に存在を感じさせないように、後ろを向いたままてじっと座って決して目立った動きをしないのが後見です。

 アシスタント、助手と言う立場の人も似たり寄ったりで、彼らは目立たぬように出て来て、道具を片付けたり、新しい道具を持ってきたりしますが、自身の存在の印象を残さないように余計な動きはしません。

 

 こうした人と、才蔵とは全く立場が違います。才蔵の仕事は多岐にわたります。口上を述べたり、横で大夫の手妻をからかったり(漫才のボケと突っ込みと同じ会話をします)。道具を片付けたり、太鼓を打って御簾内(みすうち=舞台の上手、または下手にある囃子方スペース)にいる三味線、囃子方に演奏のきっかけを伝えたり、時として何かの都合で大夫の出が遅れた時には、踊りを踊ったり、歌を歌ったり、声色(こわいろ=声帯模写)をしたり、と、あらゆる芸を見せてつながなければなりません。

 これは昨日今日入った弟子や助手でできる仕事ではなく、あれこれ芸をかじった人(元噺家、元役者、元漫才)が流れ流れて手妻の才蔵になることが多かったようです。中には、手妻の大夫をしていた人が年を取って、技量が落ちたり、顔がふけて人気がなくなると、才蔵に回って、三枚目を演じる人もあったと聞いています。

 

 実際、私が知る限りでも、昔奇術師だった人が、娘を大夫に仕立てて、自身が脇に回って三枚を演じていた人を何人も見ました。そうした場合は、舞台では大夫の方が立場が上ですが、楽屋では、大夫が才蔵の衣装を畳んだり、身の回り全てをやっていました。ギャラも、才蔵のほうが7・3の割で高額だったりします。才蔵の権限は大きく、才蔵は単純なアシスタントではないのです。

 この形式は日本の古典芸能全般に言えることで、大夫、才蔵の呼び名は、今では曲芸の世界にしか残っていませんが、かつては手妻の世界では普通に大夫、才蔵の関係は存在していました。

 江戸時代の蝶の名人柳川一蝶斎の才蔵役は、鉄漿坊主(おはぐろぼうず)と言う人が長く務めていました。三代目帰天斎正一の才蔵は息子さんの正楽が務めていました。

 正楽は元噺家で、喋りが達者でしたから、正一との掛け合いは見事でした。然し、太鼓は打たなかったようです。その掛け合いは、曲芸の大夫才蔵の語りそのもので、最も古い語りを残した太夫と才蔵でした。

 一徳斎美蝶の才蔵役は、弟さんの蝶二が務めていました。一徳斎美蝶は東京で見る最も古い形の手妻師でした(昭和40年代初頭に亡くなっています)。最後まで座布団に座って、座り芸に徹しました。もっとも、これが結果として、立って演じるパーティー会場には向かず、仕事の数を減らしていました。

 中央に台箱と言う、手妻独特のみかん箱ほどの箱状の机を置き、机の上には、手元灯り、(てもとあかり=手元がよく見えるように小さなろうそくに火をともしたもの。舞台が電気で明るく照らされていても、美蝶は生涯手元灯りをつけていました)。

 その後ろに座って、手妻をします。演技は、手妻半分、曲芸半分で、皿回しや、箱積みなどの曲芸を演じた後、延べの繰り出しをして、延べの先に火を付けます。この時手元灯りが役に立ちます。火をつけると、小さな花火が吹き上がり、観客が拍手をした途端、延べの中から大きな番傘が出て、立膝で見得を切って演技を終えます。

 この間、上手にいる奥さんが三味線を弾き、下手には蝶二さんがイボ太鼓を打って、演技のメリハリを付けます。一徳斎美蝶は私の知る限り最も古い形の手妻師でした。

 

 いま、和妻、手妻を見直して、和服を着てマジックを演じる人はたくさん出て来ました。それそのものはいいことです。然し、多くは傘出しマジックで、それは島田晴夫師のオリジナルマジックで和妻ではありません。一徳斎美蝶や、帰天斎正一の内容とはあまりに違います。

 私が苦心しているところは、手妻本来のものをどう残すかです。ここを真剣に考えなければ、この先、手妻は形骸化し、何が手妻なのかもわからなくなってしまいます。

 話を戻して、才蔵を後見と考えることがまず間違いです。古くは散楽から、放下に至る過程で、手妻は、曲芸と同じ活動をしていました。曲芸の中では、曲芸は、一つの修行に過ぎず、他に7つくらいの芸の修行が必要でした。今、太神楽曲芸協会に所属している人たちは、学ぶべき8つの芸能を子供のころから受け継いでいて、そのどれもが演じられるようになっています。

 8つの芸能とは、曲芸、軽口(漫才、漫談の類)、舞踊、神楽舞、獅子舞、笛、太鼓、三味線、他にも、手妻、軽業なども昔の修行にはあったようです。それら全てをこなした上で、曲芸をしていたわけです。古くの手妻の一座も同じでした。表から裏まですべての用事をこなせて一人前だったわけです。それは、能も、落語も同じです。

 落語のような、一人芸でも、楽屋では師匠連に衣装を畳み、出囃子で太鼓を打たり、笛を吹いたり、いろいろしなければいけません。裏方一通りを覚えて、ようやく落語を語らせてもらえるわけです。

 曲芸や手妻はそうした修行の中から、太夫、才蔵の役割を作って行ったのです。ここまで話せばお分かりと思いますが、漫才も、こうした修行の中から生まれ、分派して行った芸能なのです。

 

 手妻がマジックだけできれば手妻師と言えるわけではありません。私の所では、太鼓、鼓、日本舞踊は必修で稽古をします。それから才蔵役の口上、掛け合いの喋りを覚えます。特に今、掛け合いをする手妻師がいなくなりましたので、そこを残さなければならないと考え、演目に掛け合いを必ず入れています。

 と言っても、あまり喋りの部分が長くなると冗長になりますので、スピードアップをして、無駄を省いて進行していますが、掛け合いを喜ぶお客様が多いため、ついつい話は脱線します。それはそれでありかな、と思っています。

 弟子も、掛け合いを覚えることで、笑いのツボがわかってきて、司会等をする際に自然にギャグを入れる感覚を覚えて、役に立っているようです。

 マジシャンの中には、「マジックさえ出来ればマジシャン」。と思い込んでいる人があります。然し、そんな人がテレビでインタビューを受けると、急にしどろもどろになって、ギャグを滑ったり、余計なことを言ってせっかくの自分の価値を下げてしまったりします。つまり、喋りを安易に考えているのです。こんなところに修行の薄さが見えてしまいます。昔の芸能の修行は今もその価値は十分にあるのです。明日はその修行の仕方をお話ししましょう。

続く