手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

新年会

新年会

近代日本奇術文化史

 年末にお話ししましたように、暮れから正月にかけて、どこにも行かず、読書を続けています。「近代日本奇術文化史」。は簡単には読める本ではありませんが、およそ半分読みました。読み物の形式ではなく、百科事典のような形式で書かれています。

 従って、面白い、楽しい、ページをめくるたびに胸がわくわくすると言う本ではありません。むしろ本の厚みを眺めつつ、「まだこんなにあるのかぁ」。とため息をつくような思いで読んでいます。然し、内容は細部に至るまで丁寧に調べられています。今までわからなかったことがかなり明らかになっています。

 特に、研究者の長野氏が、福井の人であるためか、地方新聞から、天一、天勝の活動を調べて資料として加えてあるために、地方都市での奇術師の活動が明らかになっています。今までになかった資料が数々出て来ました。

 また、秦豊吉が書いた「近代日本奇術史」の元原稿が、元々阿部徳蔵のもので、それを秦が受け継いだ経緯などがかなり詳しく書かれています。

 私にとっては新しいことが次々に出て来て、興味深かったのですが、さて、この本を読んで役に立ったとか、内容が素晴らしいなどと理解できる人が、日本中に何人いるだろうか。と考えると、そもそもが、理解者の少ないマジックの書物の中で、なおかつ、明治、大正、昭和初期の日本の奇術師の資料となると、コア中のコアな資料であるため、極く一部の人のための研究書であると言わざるを得ないでしょう。

 三人の作者の苦労を思えば、何とか世に出てもらいたいと思いますが、例えば、全国の市町村の図書館に置くにしても、価格の問題がネックとなって、なかなか購入してくれる市町村は少ないでしょう。やはり孤高の書なのでしょうか。

 

マキシマムエンターテインメント2.0

 同様に、マキシマムエンターテインメント2.0です。前書きだけでも50ページ、後書きが5ページ。前書きと後書きはとにかく読みました。ケン・ウエバーと言う人が、サイキックエンターティナーであり、催眠術師であり、いい稼ぎをして、いい顧客を持った人であることは分かりました。そして今は株の投資家であり、株の情報を顧客に流して、多くの会員を集めている人だと言うこともわかりました。

 文章を読む限り聡明な人で、やり手の企業家です。芸人臭さは微塵もありません。また、なぜ500ページにも及ぶ本(日本語訳で500ページなら、英語であれば、さらに一割、二割はページ数が多くなるはずです)を書いたかと言うことも、氏の経歴から見たなら、様々な講演で述べてきたことをまとめたものであろうと納得が行きました。

 まだ内容に至っていないので、いい、悪いは言えませんが、変なことを書く人ではないようです。もう少し読み続けてみます。

 

新年会

 今日(4日)は私の家で新年会を行う予定でしたが、コロナウイルスが広がっているさ中ですので、中止にしました。新年会は、高円寺に家を構えてから毎年続けて来ました。初めは弟子や、マジックを習いに来る生徒さん。仲間、が集まって、ささやかに料理を並べ、飲み会をしていたのですが、その後、家の表の環7通りに事務所を借りてからは、スペースが広くなったこともあり、住居と別になったために、気兼ねなく騒げると言うことで、昼から夜10時ころまで、ずっと宴会を続けていました。

 昼は、弟子と、マジックを習いに来る生徒さん。大学のマジッククラブの学生さんたち。それに仲間のマジシャンや、お付き合いの関係者が、一人、二人とやってきて、20席は一杯になります。それが入れ代わり立ち代わり延々とやってきて、宴会は続きます。多胡輝先生や、クロネコヤマトの元社長の都築さんなども見えました。

 夕方からは寄席を終えたお笑い芸人がやって来ました。ナイツやねづっちも来ました。その流れのまま10時ころまでわいわい騒いで、一日人が絶えませんでした。一番多かった年は一日で70人来ました。その都度人が来ると、乾杯しますので、その日一日の私のアルコールの量は相当なものです。私はたちまち糖尿病になりました。

 それからはアルコールを控えて、勧められる酒もなるべく飲まないようにしました。

それでも人が大勢来ることは楽しくて仕方がありませんでした。母親も毎年友達を連れてやって来ました。酒も飲まず、宴席が好きな人ではありませんでしたが、珍しい人が次々に来るのが面白いらしく、結構長い時間くつろいでいました。

 

 芸能と言うのは人気商売ですから、人が集まって来なければ値打ちがありません。たくさんの人が来ると言うのはそれだけで芸人であることの証しなのです。

 それが5年前、母親が入退院を繰り返すようになり、老人施設に入ることになりました。毎月費用が掛かるため、環7通りの事務所は閉鎖して事務所を自宅の二階に戻しました。一時は足の踏み場もないほどの家具で家の一、二階はいっぱいになりました。

 半年してようやく整理はつきましたが、とてもかつての新年会が開ける状況ではありません。それでもこの数年は、当初やっていたような小さな形に戻して続けていました。

 今年は高円寺に移ってきて32年目になります。今となっては人生で一番長く暮らした家です。母親も親父も今はいません。娘は一度結婚をして出て行きましたが、この二年は戻ってきています。娘はまだ若いので、もう一花咲かせてもらいたいと思います。人生いろいろです。何はともあれ、私の舞台活動は続いていますし、弟子も生徒も大勢います。新年会も絶やさないようにします。

 と言うわけで、表立っての新年会は中止しましたが、全くやらないわけではなく、昼から弟子が来ます。人をたくさん集めて、そこからクラスターが出たとなると、また要らぬことを言う人が出て来ます。アトリエで宴会するのではなく、今日は寿司屋で弟子と一杯やろうと思います。こうして呑気に新年を迎えられることが幸せです。

続く

 

ヒョコ 式神

ヒョコ 式神

 昨年末から、前田はヒョコの稽古をしています。ヒョコと言うのは割りばしで作った人型が、ひとりでに立ち上がって歩いたり、踊りを踊ったり、丸めた紙が、手のひらで踊ったり、腕を伝って動いたり、様々な不思議を見せます。

 ヒョコの歴史は古く、平安時代の今昔物語(こんじゃくものがたり)の中に、陰陽師(おんみょうじ)の安倍晴明(あべのせいめい)が、人の形に切り抜いた紙を立ち上がらせたり歩かせたりした。とか、庭の枝折戸(しおりど=簡素な扉)が自然に開閉した。などと書かれています。ちなみに今昔物語の作者は相当にマジックが好きな人だったようで、巷(ちまた)の様々なマジックを細かく見聞きして描写しています。

 いずれにしましても、ヒョコの歴史は古く、恐らくマジックの中でベスト10に入るくらいの古い術だと思います。2000年くらいの歴史はあるかもしれません。類型の作品は世界中で演じられていて、日本でも古くは 式神(しきがみ)と言い、呪術(じゅじゅつ)の中の技の一つとしても見せていたようです。また、大道でもこれを見せる人は大勢いたようです。

 ヒョコは江戸時代の伝授本にも頻繁に出て来ます。羽織の紐が蛇のように動き出したり、紙で作った相撲取りがひとりでに相撲を取ったり、紙でできた雛(ひよこ)が餌を啄(ついば)みながら歩いたり、不思議な技が何十種類も書かれています。

 

 然し、今日これを継承している人がいません。全く絶えてしまっています。昭和30年代までは、大阪に、三井晃天坊(みついこうてんぼう)さんと言う奇術師がいて、この人がヒョコの名人と呼ばれていました。晃天坊さんは東京の松旭斎天洋さんと仲がよく、共に昭和の初年に日本で初めて、デパートで手品の種を販売するようになりました。天洋さんは、三越本店と三越の支店各店で手品を販売し、晃天坊さんは難波の高島屋で奇術を販売しました。

 私が小学生の頃、天洋さんが浅草の新世界デパートと言うところで手品の販売をしていたのを頻繁に見に行った記憶があります。当然同時期に活躍した晃天坊さんも、大阪高島屋で販売していたわけで、私が大阪の生まれならば、晃天坊さんのヒョコを見ることが出来たでしょう。然し、東京生まれであったがゆえに晃天坊さんの生の演技を見ることは出来ませんでした。

 その演技は天下一品だったそうです。中でもお客様から借りた煙草を、テーブルの上に置き、扇子で指図すると、煙草がころころと動き出し、またお客様が途中で、「止まれ」と言えば、煙草は止まったそうです。何度か演じた後で、「この煙草はどなた様の煙草ですか」。と尋ねて、その方角を扇子で指示すると、煙草がひとりでに4,5mも飛んでお客様の元に戻ったそうです。手妻研究家の山本慶一先生が、「あの芸は見事だった」。と、後年しきりに感心していました。奇術研究などにも写真が出ています。

 実際ご当人は、演技者として、お祭りなどで人前でヒョコを見せていました。演技を一通り見せた後は、ヒョコの仕掛けを売っていたのです。高島屋の売り場でも、マジックセットがあって、そのセットの中にはサムチップなどのハンカチ奇術とともに、ヒョコが入っていたそうです。

 実際、晃天坊さんの売り場では日に何十回とヒョコが演じられ、その都度たくさんのお客様が集まって、ヒョコの入ったマジックセットがよく売れたそうです。

 

 私は50代になって、ヒョコの継承者を探しました。大阪にも大勢マジシャンがいますので、一人くらいは晃天坊さんの継承者がいるのではないかと調べてみると、松旭斎滉洋師匠がヒョコを継いでいると知って、師匠を尋ねました。滉洋師は、晃天坊さんに憧れて弟子入りをします。滉洋の名前の滉は元は晃だったそうです。それが、東京に出て、天洋師の一門になり、晃天坊の晃と、天洋の洋を取って晃洋と名乗ります。(その後、サンズイを付けたのは字画数から変えたそうです)。

 実際、ホテルの一室で、私と弟子とでその技を習いました。聞けば驚きの数々でした。タネはマジックをする人なら誰でも知っているようなことですが、その仕掛けの中の秘密や、演じ方の秘密など、聞いていくうちに一冊の本ができるほどの芸の蓄積があったのです。

 私がよく言う「見た目や、ビデオだけでマジックを覚えようとしてはいけない」。と言うのはこのことです。古い作品には、外に公表していないたくさんの秘密が隠されているのです。そして、その一つ一つが物によっては千年もの間、口伝(くでん)で伝えられてきた秘密なのです。滉洋師匠がしっかりと晃天坊さんから正しいやり方を継承していてくれたことが幸いでした。お陰で1000年の歴史が絶えることなく私と私の弟子に継承されたのです。いくら感謝しても感謝しきれない感動のひと時でした。

 

 さて種仕掛けは分かっても、ヒョコにはいくつか実際に演じるためにネックとなっていることがあります。これは秘中の秘ですのでここでは書けませんが、今となってはその問題があるがゆえに継承者が現れないのです。そのため、どうしてもクリアしなければならない3つの問題を、何等かの方法で解決をつけなければならないこととなりました。そのため私はヒョコの解決に苦しむことになります。

 それでも、自分なりに解決をつけて、弟子の義太郎に教え、義太郎は一度私の公演でこれを演じています。その後、義太郎は廃業したため演じ手もなく、そのままになっていましたが、2018年の大阪の文楽劇場での公演の時に、キタノ大地さんがこれを演じています。これで確実に、晃天坊さん以来のヒョコの演技は復活したのです。何とかこの先、キタノさんの演技が大阪で定着したらいいと思います。

 さて、今度は前田です。前田がうまくやってくれて、これを得意技としてくれたなら、日本の手妻の歴史に残る技が一つ継承発展していったことになります。今年中に発表ができるでしょうか。その成果が楽しみです。

続く

 

明けてめでたや

明けてめでたや

 あけましておめでとうございます。本年も手妻の公演、マジックショウ、マジックセッション、マジックマイスター、マジック合宿など、様々まマジックの催しをして行きます。どうぞ、振るってお越しください。

 

 私は子供のころ、なぜ年が明けることがめでたいのか、わかりませんでした。大晦日から一晩寝ただけでどうして人がめでたいと言うのか、意味がわかりませんでした。

 やがて成長するにつれて、これは借金取りが関係することだと知りました。12月を師走と言います。なぜ師匠が走るのか。これは借金返済のためには師匠と言えどもあちこち奔走するから師走だそうです。

 江戸時代や明治時代位までは、お盆と師走の二回が、借りた金の返済日で、それまでは、酒でも、味噌、醤油でも大概のものは付けで済ませていたのです。特に12月はその年の最終返済日で、なんとか12月中に、積もり積もった借金を返さないと安心して正月が迎えられないために、誰もが苦労したのです。貸し金を取るほうも、何とか12月中に貸した金が取れないと、店がつぶれてしまいますので、これもまた必死だったのです。

 然しそれも大晦日までで、年が明けたら、貸しているほうも、借りているほうも、互いが顔を合わせると。「おめでとうございます」。と言い合って、金の請求はしませんでした。そんな野暮なことは誰も言わなかったのです。少なくとも正月が終わるまでは借金取りも来なかったのです。

 何とか正月を迎えてやれやれと、ほっと一息ついて正月を祝います。これが「おめでとう」です。後は必死に働いて、正月の間に借金を返す。こうして多くの庶民は生きてきたのです。つまり、逃げ切りのゴールがお正月だったのです。

 昭和になってもやはり年末の返済はあったのです。何とか借金を返済し、また貸した金を集金して、ようやくささやかな正月料理を買って家族で祝っていたのです。

 

 私は昭和60年に自分のマジックチームを東京イリュージョンと名付けて、有限会社を興して活動していました。30歳でした。それを平成2年に株式会社にしました、家は平成2年に今のビルを建てました。このころは仕事も順調で、何もかもうまく行っていたのです。ところが、平成5年にバブル不況がやって来ます。ここから生活が崩れ出します。毎月の返済ばかりが大きくて、仕事ががったり減ってしまったのですから、どうにもなりません。

 毎月毎月金が足らなくて苦労しました。このころ、トラックの運転手で、道端で段ボール箱を拾って、家に持って帰ると、中から一億円が出てきた。と言うニュースがありました。大貫さんと言い、結局一億円は持ち主が見つからないまま、大貫さんのものになりました。

 そのニュースを見て、私も道端に段ボール箱が落ちていないか、犬の散歩がてら必死になって探しました。然し見つかりませんでした。

 東京イリュージョンが、イリュ-ジョンの仕事が来ないのでは手も足も出ません。やむなく、どんなに小さな仕事でも引き受けて、一人ででも出かけて舞台に立ち、収入を得て、わずかなギャラをすぐに銀行に入金して、月々のローンの返済を間に合わせました。そんなことをしながら、何とか、事務所も、建物も維持して、「あぁ、今年一年もなんとか会社も、家ももったなぁ」。とほっとしたのです。

 そう言う生活をしていると、一年、一年が無事過越せただけでも喜びを感じました。そして初めて、親たちが、正月を迎えて「おめでとう」。と言い合うことの意味を知りました。

 

 「若いうちはたくさん苦労を積んだほうがいい」。と言います。それはその通りだと思います。「若いうちの苦労は買ってでもしろ」。「苦労は芸の肥やしだ」。とも言います。そうなのでしょう。苦しんで、そこから学んだものはしっかり身に付きます。なかなか簡単には消え失せることはありません。

 但し、余りに苦労をし過ぎてもいけません。苦労が表に出過ぎては、顔が貧層になったり、しぐさに貧しさが見えたりして、舞台に立つ者にとってはいいことはありません。「苦労は肥やし」とは言っても、肥やしばかりかけてもいい野菜はできません。うんこに直に種を撒いても、野菜は育たないのです。

 芸人はどんなに苦しい思いをしていても、どこか呆気羅漢として生きていなければいけません。苦しさなんて何でもない。金なんてなくても面白いことはいくらでもある。今は何もなくても、この先、みんなを幸せにできる。そんな風に思って、今は形も何もなくても、フリーハンドで幸せを描ける人でなければ人は寄っては来ないのです。

 

 今は世界中の芸能芸術家がみんな仕事を失って困っています。然し、見ようによっては、世界中の芸人、有名な人も、才能豊かな人も、資金を持っている人も、皆仕事が止まってしまって、財産を使いつくして、何をどうしていいかわからなくなって、スタートラインに付いたことになります。

 初心者も名人も平等に、一旦ゼロに戻って、これから白紙の上にフリーで絵を描いて、自分の世界を作って行けるのです。これは大きなチャンスを秘めています。誰が初めに抜け出るのか。レースが始まるのです。こんなことは今までなかったことです。

 そう考えれば、これからの半年はとても重要な時間になります。こんな時代に生まれ合わせた我々は幸せ者です。今から、次の時代の芸能芸術を一から作って行きましょう。そこから生まれたものが未来の芸能芸術になります。なんてめでたい事でしょう。一夜明ければ、「明けましておめでとうございます」。めでたい日々の始まりです。

続く

 

 

 

ルーキー新一さん 2

ルーキー新一さん 2

 

晦日

 事務所は29日の大掃除で終わり、30日から正月2日まで4日間休みです。今日はさすがに尋ねて来る人もなく静かな大晦日です。

 いつもなら、正月のイベントの用意で、大道具を出して、修理などをしている時です。場合によっては大晦日の晩に現場に入って、水芸の装置を組み立てていたりします。つまり年末も正月もないような状態なのですが、今年はコロナのお陰で何とも穏やかな大晦日です。

 

除夜の鐘

 大晦日の深夜零時から各地のお寺では除夜の鐘を撞きます。私は池上の生まれでしたから、本門寺さんの除夜の鐘を聞いて育ちました。高円寺に越してからは除夜の鐘も聞けないかなぁ、と思っていたら、高円寺さんが毎年除夜の鐘を撞いています。環7通りを隔てて反対側にお寺があるため、普段は高円寺さんの鐘は聞こえません。幸い大晦日はよく聞こえます。

 除夜の鐘は深夜12時から鐘を撞きますので、実際は新年の鐘になります。鐘は108回撞きます。108は煩悩の数だと言われています。煩悩とは、人の心に巣を食う役に立たないものです。欲望、怒り、嫉妬、そうしたどうでもいいものをすべて払って、新しい年を迎えようとするものです。因みの鐘の周りについている鋲も108つあるそうです。除夜の鐘をききながら、日頃意味のないことに煩わされている自分を知るだけでも鐘の音は価値があるのでしょう。

 ブログを書いた後に、「マキシマムエンターテインメント2.0」を読んでみます。

 

ルーキー新一さん 2

 

 ルーキーさんは、突然、昭和50年に東京に現れて、浅草松竹演芸場に出演します。7年前まではテレビに出まくっていて、昭和43年に恐喝事件で有罪になり、芸能界を締め出されたことは多くのお客様は知っています。

 背が低く、目がクリっとしていて、腹話術の人形のような顔をした、愛嬌のある芸人です。まだまだルーキー新一を覚えている人も多かったのです。そして、テレビ局のプロデューサーの中にも、ルーキーさんの芸を認めている人は多かったのです。

ところがテレビ局は、事件の噂を恐れてルーキーさんを使おうとしません。やむなく、ルーキーさんは漫才コンビを組んで、松竹演芸場に出演します。初めは白羽大介さんと言う人と組んだと思います。白羽さんは達初な人でした。一年くらいでコンビが変わり、二人目が弟子のミッキー修さんでした。ミッキーさんは全く素人から出てきた人で、弟子を使って漫才をしても遜色がなく、ルーキーさんの舞台は見事なものでした。

 演芸場は、ルーキーさんの出演を快く迎えました。前科があろうとなかろうと、面白ければそれでいいのです。実際演芸場のお客様の評判は上々で、東京の芸人とは格の違いをみせました。テレビのコメディ番組で一世を風靡し、やがて座長となって劇団を維持し、千人も入るような劇場を連日、自身の看板で満席にするような芸人が、松竹演芸場の数ある漫才の一本になって出るのは全く以て勿体ない話でした。

 

 昭和52(1977)年、東京と名古屋で、親父の芸能生活35周年記念と私の藤山新太郎改名披露をいたしました。その時、ゲストでルーキーさんに出演していただきました。この催しは、親父の自主公演でしたので、普通の演芸をしただけでは面白くありません。出演者が演芸をした後に、私の手妻あり、口上あり、お終いは、出演者全員で歌謡ショウをやることになりました。親父も私も歌を歌いました。

 ルーキーさんは初め、漫才以外で舞台に出るのは嫌だと言って断っていたのですが、余りに歌謡ショウが受けるのを見て、自身もやりたくなってきたのでしょう。急遽出ることになり、タキシード姿で、白粉を塗って、歌を歌ったのですが、これが、股旅物の歌謡曲をメドレーにして、間に浪曲が入り、それをきっちりバンドが演奏して構成のできているカセットテープを持っていて、それは見事な歌でした。無論お客様は大喝采です。ルーキーさんのお陰で分厚いショウになりました。漫才ももちろんでしたが、歌謡ショウの受け方を見ると、ルーキーさんと言う人の才能を嫌と言うほど見せつけられました。

 私は、この時期付き合っていたツービートの北野たけしさんと、ルーキー新一さんは、全く性格の違う人ではありましたが、笑いの天才としてこの二人は、私の人生で知り得た最高の人だと思っています。

 そのルーキーさんは、漫才では結構仕事も忙しかったのですが、やはり元のコメディアンとしての立場に戻りたかったのでしょう、松竹演芸場で芝居の一座を立ち上げます。澤田先生に協力をしてもらい、座員を募集し、芝居を地方に売り込み、興行して回るようになります。

 当時、若い娘や息子が芝居に凝って劇団に入り、親がそれを支援すると言うパターンは多かったのです。そうした座員を集め、親に切符を売ってもらい、座員も切符を売り、芝居を維持していました。地方公演などは、親の地元に座員である娘が錦を飾ると言う触れ込みで、芝居を書き換えて、娘の出番を多くして、喜劇を作り直します。

 喜劇は1時間程度しかありませんから、演芸も何組か頼んで、演芸と喜劇のショウの二本立てで地方の市民会館で公演します。その演芸の一本として、私の親父がりルーキー劇団と一緒に出掛けます。親父は屋久島まで出かけて漫談をしたようです。日本各地で公演をしますが、言ってみれば人の褌で相撲を取っているわけですから、地元の親父さんが巧く切符を売ってくれればいいのですが、さほど売れなかったとなると、なん十人もの座員裏方ゲストが、経費をかけてやってきて、身動き取れなくなります。そうなると、たちまち劇団内部の雰囲気が悪くなります。

 一座の払いが出来なくなり、ゲストのギャラも半分に減らされたりします。それでも支払いができたならまだましです。帰りの費用もないとなると、地元の親父さんに頼み込んで借金をして帰ってくるようになります。然し、その借金は返す当てがありません。次々と地方公演を取って興行しますが、借金を返すほどには稼げません。借金は大きくなります。やがてルーキーさんは身動きできなくなって行きます。

 それまでルーキーさんの奥さんがマネージメントをしていましたが、マネージメントとは名ばかりで、口先だけで嘘八百を言って、スポンサーから金を引き出させるようなことばかりしていました。それがあっちに言い訳、こっちに言い訳で、にっちもさっちも行かなくなり、奥さんが詐欺罪で捕まります。

 私が見ていても奥さんは決して根の悪い人ではなかったのです。ルーキーさんを再び世に出してやりたい一心で一座を売り込んでいたのですが、喜劇と言う世界が既に下火になっていたのに、ルーキー新一と言うレッドカードを持った人がその看板で興行することが土台無理な話だったのです。おとなしく漫才だけしていれば天才芸人として全うできたのです。私は奥さんは主人想いな人だったと思います。奥さんは罪をすべて自分がかぶったのです。

 奥さんが逮捕されてからはルーキーさんは身動きが取れず、ほどなくルーキーさんは病でなくなります。昭和55(1980)年、享年44歳。あれほど才能があって、あれほど客席を沸かせた人が、なぜこうも寂しい一生を終えるのでしょうか。

 亡くなった時は、私の親父も、演芸場の澄田課長も、澤田先生も、「あんなうまい芸人はいなかった」。と、その才能を惜しみました。今、澤田先生はそのルーキーさんの伝記を書いています。完成したならぜひ拝読したいと願っています。

続く

ルーキー新一さん 1

年末正月の過ごし方

 今年の年末正月は、本を読んで過ごそうかと思います。先ず、先日紹介した、「日本奇術文化史」それに田代さんが訳した、ケン・ウエーバーの「マキシマムエンターテインメント2.0「」です。両著とも大作で、正月2日までで読み切れるとは思えませんが、楽しみに読んでみます。

 年末正月のイベントやパーティーは全く発生していません。こんなことは私にとっては生まれて初めてです。私の所は、手妻が中心ですので、正月のイベントは毎年、相当に忙しいのですが、まったく動かないのは困ります。しかし何を言っても無駄なことです。こんな時は充電をするのがいいのでしょう。次に挑戦するために知識を身に付けることです。

 勉強する時間がなければ、新しいことは出来ません。チャンスが来たとしても、駒がなければ、チャンスを生かすこともできません。この4日間はひたすら本を読んでみようと思います。

 

ルーキー新一さん 1

 先週、澤田隆治先生と話をした時に、「今、ルーキー新一を書いているんだ」。と仰っていました。「へぇ、今度はルーキーさんですか」。私の目からは、澤田先生のしていることはもの好きにしか思えません。と言うのも澤田先生は、今年の夏に、戦前、戦後に関西方面で大活躍したコメディアン、永田キングを調べて、380ページにも及ぶ大作を本にして出されました。

 関西ではエノケン榎本健一)と並ぶほどの人気を博したコメディアンだったそうで、戦後すぐに放送の世界に入った澤田先生からすると、永田キングさんは当時は超大物芸人だったそうです。然し、今では人の噂から消えてしまっています。そんな芸人に、なぜ自費をつぎ込んでまで本にするのか。澤田先生に尋ねると。

 「それは君と同じや、君が、松旭斎天一を書いて本にしたり、手妻の歴史を本にして出すのと同じで、仕事としてやったら割に合わんことや。でも、誰かが書かんと、歴史も、スターの功績も残らんのや」。

 そう言われて、澤田先生がなぜ私に懇意にしてくれるのかがわかりました。私と澤田先生には共通点があるのです。澤田先生にはコメディと言うジャンルを世間に認知させたいと言う願望があるのです。それは私がマジック界、或いは、手妻の世界を世間に認知してもらいたいと思う気持ちと同じなのでしょう。

 コメディ、喜劇は、いくら多くの観客を集めても、一世を風靡するような人気を誇っても、テレビで高視聴率を取ったとしても、終わってしまった後には何も残りません。

 せめてこういう芸人がいた、その人はこんな大きな仕事をしたと言う実績をどこかに書き残しておいてあげたい。澤田先生は、そうした思いから、多くの著述を残しているのです。

 それは澤田先生が、大学を卒業して、放送局に入って、たまたま与えられた仕事が、演芸番組や、喜劇の番組で、そこから多くの芸人を知り合い。「てなもんや三度笠」や、「スチャラカ社員」、「ごろんぼ波止場」などの驚異的な視聴率番組を作り出し、それによって、澤田隆治と言う名が日本中に知れ渡り、名プロデューサーとして今もテレビの歴史の中で語り継がれているがゆえに、縁あって知り合った芸人の名前を残す行為を、ご自身の仕事の集大生ととしてなさっているのでしょう。

 然し、澤田先生ほど大きな名前を持っている人であっても、死んだ芸人、人気の去った芸人を本にするのは至難です。恐らく本の買い手は少ないでしょう。芸能の文化史とはいっても、お笑いや、喜劇は一般の評価が低く、市町村の図書館などが買ってくれる可能性も少ないのです。多くの人は決して笑いや喜劇に対して、過去を振り返ろうとはしないのです。

 澤田先生は、「歌舞伎や能は人間国宝になる。笑いの芸はそれより評価が低いとされている、同じ笑いの世界でも、狂言は国宝が出る。然し、喜劇からは国宝が出ない。藤田まことも、森繁久彌も国宝にはならない。私はそれが残念なんや」。と言いました。

 

 その澤田先生の書いている、ルーキー新一さんですが、私はルーキー新一さんと晩年の5年間松竹演芸場でご縁がありました。晩年と言っても、ルーキーさんは44歳で亡くなりましたから、私が初めてルーキーさんに会ったのは、ルーキーさんが39歳だったのです。私にすれば20年も年上の人でしたから、全く意識が無かったのですが、ルーキーさんは39歳で既に芸能から弾かれていて仕事がなかったのです。

 私の親父は誰よりもルーキーさんの芸を買っていました。しょっちゅう二人で酒を飲んでいましたし、ルーキーさんの舞台は頻繁にカセットテープで録音をして、家で何度も聞いていました。「こんなにうまい芸人はいない」。といつも感心していたのです。

実際私もルーキーさんの舞台を舞台袖や客席の後ろで見るのが楽しみでした。これほど巧くて、人を引き込む力のある人を、東京に芸人から見たことがなかったのです。 と、話はどんどん進んで行きますが、ここで少し話を整理します。

 

 師は昭和10(1935)年、大阪に生まれます。子供のころから人を笑わせる天才で、当時のラジオ番組の「漫才教室」素人のチャレンジコーナーの常連だったそうです。ルーキーさんは実の弟の正児さんとコンビを組んで、子供のころから素人漫才をして、ラジオで沸かせていたのです。ちなみに正児は後のレッツゴー三匹のリーダー正児さんです。そしてその時番組を担当していたのが澤田先生です。

 澤田先生がコメディ番組に乗り出すと、学校を卒業して、そろばん塾の先生をしていたルーキーさんは、澤田先生に引っ張り出されて、番組に出してもらえるようになり、たちまち人気者になります。

 服の胸をつまみながら、「いや~ん、いや~ん」、と言う格好をするのが有名になり、一躍スターになります。昭和40年には吉本新喜劇の座長に収まります。然し吉本と仕事の面で対立して、ルーキー新一爆笑劇団を設立します。人気者の独立ですから話題になり、当初は大入りを繰り返します。そのさ中に、ルーキーさんは恐喝事件を起こします。

 詳細は不明ですが、一座が巡業中、旅館の風呂場を覗いていたファンがいたのを見つけ、座員とともに攻め立てて、金で和解をする話に持って行ったところ、それが恐喝に当たるとされて裁判で敗訴。芸能界を追われます。昭和43年のことです。

 それまでずっと大阪で活動していたルーキーさんですが、行く経知れずとなり、その後、昭和50年に、突然東京に現れます。浅草松竹演芸場で、ルーキー新一、ミッキー修と言うコンビを組んで漫才を始めたのです。ここから私や親父とルーキーさんとの浅からぬ縁が生まれます。その話はまた明日。

続く

大掃除

大掃除

マーシャル緒方へ行く

 昨日(28日)は、踊りの稽古の後、床屋さん(マーシャル緒方)に行きました。中目黒にあります。もう40年同じところに通っています。このところ、コロナウイルスの影響で、外出しない人が多く、そのため、3か月も床屋さんに行かない人もあるそうです。当然床屋さんの売り上げも大幅ダウンだそうです。コロナはいろいろなところに影響があるようです。

 町を歩いていても、いつもの年末の慌ただしさがありません。正月飾りも最小限にされているように見えます。江戸時代末期にはやった、コレラの時も、江戸っ子はこんな風に、さびれた年末を経験していたのでしょうか。芸能に生きる我々は、多少なりとも人に希望を与えるような何かをしなければいけないと思います。

 芸能芸術の世界では、一人、「鬼滅の刃」が興行成績を歴代一位にして、気を吐いています。私の見た感想は以前にお伝えしましたのでここでは書きません。なんにせよ。人に勇気と希望を与えることは素晴らしいことです。低迷している邦画の世界の中で成功を収めたことを心よりお祝い申し上げます。

 

近代日本奇術文化史

 総ページ数660ページに及ぶ、百科事典並みのサイズの文化史が東京堂出版から11月に出ました。噂はきいていましたが、一昨日(27日)届きました。昨日午前中にさっそく読んでみました。

 タイトルは一列で、近代日本奇術文化史となっていますが、一見すると日本奇術、つまり手妻の文化史のように読めますが、そうではありません。ここは近代日本で一度句読点を打って、奇術文化史と言う内容です。つまり明治以降の日本の奇術家、歴史について、活動から、演技の内容など細かく調べて書かれています。

 著者は、河合勝氏、長野栄俊氏、森下洋平氏、の三人の共著のようです。明治以降の奇術史を細かく精査し、時系列など見直したうえで客観的に構成されています。

 恐らく、伝記や、小説のように書かれていた近代奇術師の実像が、初めて科学的に書かれたものだと思います。私は20年前に、「手妻のはなし」、を書き、そこで2000年に及ぶ手妻の歴史を書きました。その後「天一一代」、で、幕末期から明治時代を代表する奇術師として、松旭斎天一の一生を書きました。そして、明治大正昭和の奇術師、アダチ龍光、引田天功、伊藤一葉、島田晴夫、の4人を書いた「タネも仕掛けもありません」、を出しました。

 研究家でもなく、作家でもない私がなぜそんな本を出したのかと言うと、誰も書かなかったからです。大学の文学部の教授は、歌舞伎や、落語の文化史は書きますが、手妻やマジックの文化史を書こうとしないのです。

 以前東大文学部の教授にお会いしてお話を伺った時に、「マジックの文化史は、どうしても種仕掛けに関わってきて、外部の者には、その内容が理解できないため書きにくい」。と仰っていました。そうなのでしょう。

 例えば、5枚カードなどと言う言葉がさりげなく出て来るマジックの世界ですから、5枚カードが何を意味するのか、それの得意だったマジシャンが、どういう理由で得意なのか、誰から習ったのかと調べて行くと、膨大な日数を必要とします。たった一言でも大変な作業です。ましてや、その5枚カードがどこの国の誰が始めたものなのか、などと調べて行くことは、外部の人にとっては不可能に近いことなのでしょう。

 そうであるなら、ここはマジシャンである私の仕事ではないかと、40代半ば以降、私は文章にしてマジックを書伝える活動をしてきました。幸い、手妻のはなしは6000部出ました。日本中の多くの図書館にも置かれています。それなりに一般の読者にまで手妻の内容や歴史が理解されたものと思います。

 然しながら、私はプレイヤーであって、研究家ではないのです。研究は、私の専門分野ではありません。内容も、科学的とは言い難い部分もあります。面白さを優先して書いたのです。ここは優れた研究家が出たのなら、そちらにお任せすべきことでしょう。

 話を戻して、近代日本奇術文化史は内容の濃いエポックメーキングな作品と言えます。ご興味の方があればぜひ購入されることをお勧めします。と言いたいところですが、価格が2万円です。内容の細かさ、ここまでかかった労力を思えば、2万円は安いくらいだと思います。

 今時高級な食事をすれば一食でそれくらいします。旅館に泊まっても普通に2万円はかかります。然し、2万円です。食べ物や、遊びには平気で2万円出す人でも、本一冊に2万円となると躊躇します。恐らくこれを購入する人は奇術に相当熱心な人でも限られるでしょう、一般のお客様はもっと少ないかもしれません。

 もっともっと多くの人に薦めたいと思いますが、内容も価格も、一般的とは言えない書籍です。いわば孤高の書なのです。よくぞ東京堂出版がこれを出したと思います。企業としては決して勝算あってしていることとは思えません。その崇高な精神に敬意を表したいと思います。と、長々価格のことを申し上げましたが、どうぞその点をご理解の上、奇術界発展のためにご協力くださるよう、関係者でもない私からもよろしくお買い上げくださるようお願いします。

 

大掃除

 今日(29日)は大掃除です。前田と、学生さんが二人手伝いに来てくれます。4人でアトリエと2階の事務所を掃除します。毎年のことです。アトリエが15畳分あります。二階事務所が14畳分あります。道具がたくさんあります。半日掃除をするだけでも相当な体力を使います。それでもこれを済ませると、一年が終わったと言う実感がわきます。来年こそは良い年になるように、願っています。願うだけでなく実際に行動して行きます。コロナに敗けてはいけません。活路はどこかにあるのです。どうぞ来年もご期待ください。

続く