手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

新年会

新年会

近代日本奇術文化史

 年末にお話ししましたように、暮れから正月にかけて、どこにも行かず、読書を続けています。「近代日本奇術文化史」。は簡単には読める本ではありませんが、およそ半分読みました。読み物の形式ではなく、百科事典のような形式で書かれています。

 従って、面白い、楽しい、ページをめくるたびに胸がわくわくすると言う本ではありません。むしろ本の厚みを眺めつつ、「まだこんなにあるのかぁ」。とため息をつくような思いで読んでいます。然し、内容は細部に至るまで丁寧に調べられています。今までわからなかったことがかなり明らかになっています。

 特に、研究者の長野氏が、福井の人であるためか、地方新聞から、天一、天勝の活動を調べて資料として加えてあるために、地方都市での奇術師の活動が明らかになっています。今までになかった資料が数々出て来ました。

 また、秦豊吉が書いた「近代日本奇術史」の元原稿が、元々阿部徳蔵のもので、それを秦が受け継いだ経緯などがかなり詳しく書かれています。

 私にとっては新しいことが次々に出て来て、興味深かったのですが、さて、この本を読んで役に立ったとか、内容が素晴らしいなどと理解できる人が、日本中に何人いるだろうか。と考えると、そもそもが、理解者の少ないマジックの書物の中で、なおかつ、明治、大正、昭和初期の日本の奇術師の資料となると、コア中のコアな資料であるため、極く一部の人のための研究書であると言わざるを得ないでしょう。

 三人の作者の苦労を思えば、何とか世に出てもらいたいと思いますが、例えば、全国の市町村の図書館に置くにしても、価格の問題がネックとなって、なかなか購入してくれる市町村は少ないでしょう。やはり孤高の書なのでしょうか。

 

マキシマムエンターテインメント2.0

 同様に、マキシマムエンターテインメント2.0です。前書きだけでも50ページ、後書きが5ページ。前書きと後書きはとにかく読みました。ケン・ウエバーと言う人が、サイキックエンターティナーであり、催眠術師であり、いい稼ぎをして、いい顧客を持った人であることは分かりました。そして今は株の投資家であり、株の情報を顧客に流して、多くの会員を集めている人だと言うこともわかりました。

 文章を読む限り聡明な人で、やり手の企業家です。芸人臭さは微塵もありません。また、なぜ500ページにも及ぶ本(日本語訳で500ページなら、英語であれば、さらに一割、二割はページ数が多くなるはずです)を書いたかと言うことも、氏の経歴から見たなら、様々な講演で述べてきたことをまとめたものであろうと納得が行きました。

 まだ内容に至っていないので、いい、悪いは言えませんが、変なことを書く人ではないようです。もう少し読み続けてみます。

 

新年会

 今日(4日)は私の家で新年会を行う予定でしたが、コロナウイルスが広がっているさ中ですので、中止にしました。新年会は、高円寺に家を構えてから毎年続けて来ました。初めは弟子や、マジックを習いに来る生徒さん。仲間、が集まって、ささやかに料理を並べ、飲み会をしていたのですが、その後、家の表の環7通りに事務所を借りてからは、スペースが広くなったこともあり、住居と別になったために、気兼ねなく騒げると言うことで、昼から夜10時ころまで、ずっと宴会を続けていました。

 昼は、弟子と、マジックを習いに来る生徒さん。大学のマジッククラブの学生さんたち。それに仲間のマジシャンや、お付き合いの関係者が、一人、二人とやってきて、20席は一杯になります。それが入れ代わり立ち代わり延々とやってきて、宴会は続きます。多胡輝先生や、クロネコヤマトの元社長の都築さんなども見えました。

 夕方からは寄席を終えたお笑い芸人がやって来ました。ナイツやねづっちも来ました。その流れのまま10時ころまでわいわい騒いで、一日人が絶えませんでした。一番多かった年は一日で70人来ました。その都度人が来ると、乾杯しますので、その日一日の私のアルコールの量は相当なものです。私はたちまち糖尿病になりました。

 それからはアルコールを控えて、勧められる酒もなるべく飲まないようにしました。

それでも人が大勢来ることは楽しくて仕方がありませんでした。母親も毎年友達を連れてやって来ました。酒も飲まず、宴席が好きな人ではありませんでしたが、珍しい人が次々に来るのが面白いらしく、結構長い時間くつろいでいました。

 

 芸能と言うのは人気商売ですから、人が集まって来なければ値打ちがありません。たくさんの人が来ると言うのはそれだけで芸人であることの証しなのです。

 それが5年前、母親が入退院を繰り返すようになり、老人施設に入ることになりました。毎月費用が掛かるため、環7通りの事務所は閉鎖して事務所を自宅の二階に戻しました。一時は足の踏み場もないほどの家具で家の一、二階はいっぱいになりました。

 半年してようやく整理はつきましたが、とてもかつての新年会が開ける状況ではありません。それでもこの数年は、当初やっていたような小さな形に戻して続けていました。

 今年は高円寺に移ってきて32年目になります。今となっては人生で一番長く暮らした家です。母親も親父も今はいません。娘は一度結婚をして出て行きましたが、この二年は戻ってきています。娘はまだ若いので、もう一花咲かせてもらいたいと思います。人生いろいろです。何はともあれ、私の舞台活動は続いていますし、弟子も生徒も大勢います。新年会も絶やさないようにします。

 と言うわけで、表立っての新年会は中止しましたが、全くやらないわけではなく、昼から弟子が来ます。人をたくさん集めて、そこからクラスターが出たとなると、また要らぬことを言う人が出て来ます。アトリエで宴会するのではなく、今日は寿司屋で弟子と一杯やろうと思います。こうして呑気に新年を迎えられることが幸せです。

続く