手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

剣呑み 棒呑み

鬼滅の刃を見に行く

 昨日、鬼滅の刃を見に行きました。新宿のスカラ座です。話題作なら見ておこうと思いました。午後一時半に行きましたが、平日の昼と言うこともあって、お客様は三分の一ほど。いい席で落ち着いて見ることが出来ました。

 私は知らなかったのですが、私の年齢だと1200円で映画が見られるそうです。びっくりです。今まで5年間、普通に大人料金を支払っていました。なぜ66歳になると1200円になるのでしょうか。その理由がわかりません 

 年を取って少しでも世の中の役に立ったとか、いいことをしたと言うなら、割引もあっていいと思いますが、ただ60を過ぎたと言う理由だけで、全ての60代が一律割引になるのかがわかりません。おかしいではありませんか。60過ぎても少しも大人になっていない人間もたくさんいます。平気で世の中のルールを破る人間もいます。

 そんな連中に国が割引を認めるのは不自然です。第一敬老と呼ばれるほど老人ではないのです。女房は、「安くなった分たくさん映画が見られるからいいじゃないの」。と言います。それはそうですがどうにも納得が行きません。

 

 その映画ですが、内容は、どうも私が見に行くような映画ではありませんでした。ひたすら鬼と人とが剣を使って戦うアニメで、鬼がなぜ鬼なのかについてはついぞ解説されませんでした。

 世の中に鬼と言う職業があって、鬼がただ人を苦しめるためだけに存在しているなら、物事は明快なのですが、そういうものでしょうか。

 自分が正しいと思ってしていることが、他の人からは恨まれたり、自分のしていることが人から見たなら迷惑な話で、時に悪魔に見えたり。人は見かたで善人にも悪魔にも見えるのではないでしょうか。喧嘩も戦争も、互いに言い分があるように思います。どっちが鬼とは決めつけられないのが世の中でしょう。

 鬼には鬼の言い分があるように思いますが、このアニメに出て来る鬼はただただ鬼です。一言の言い訳も認められず、主人公によって切り殺されます。二時間にわたって、ひたすら戦いを見せられて、鬼は破れて行きます。主人公側の茶髪のお兄さんは負傷して、みんなが涙を流す中亡くなって行きますが、鬼はその家族のことも語られることなくどろどろの体で汚く死んで行きます。

 かつて日本軍がアメリカ軍と戦った時のことを、アメリカの側から映画を作ったなら、この映画のように、日本人は穢れた鬼としか見えなかったでしょう。日本軍が死のうと怪我をしようとそれは虫や獣が死んだことと同じにしか考えなかったでしょう。

 日本人がなぜゼロ戦で敵の艦隊に突っ込まなければならなかったか。そんなことはアメリカ人からすれば狂人か、馬鹿としか思わなかったのでしょう。でも日本人は狂人だったのでしょうか。親のこと、女房子供たちのことを思えばそうする以外なかったのではないでしょうか。それを狂人として扱われては彼らの死は浮かばれないと思います。

 これが面白いかと問われる前に、なぜ鬼は戦わなければならなかったのか、斬られなければならなかったのか。と言う根本の疑問が残ります。そんなことを考えて見ているのは私だけなのでしょうか。多くは大音響と大画面に満足して、めでたしめでたしで見ているのでしょう。私は未消化のまま劇場を後にしました。「あぁ、日本で受け入れられる映画はこれでいいのだなぁ」。と思いました。

 

剣呑み 棒呑み

 昨日の胃カメラの話の延長になりますが、もし胃カメラを呑んだ時に、するすると胃の中まで簡単に入って行くのだとしたら、太古の奇術にあった、剣呑みや、棒呑みは簡単に出来るのではないか、と考えたのです。そこで胃カメラを呑む瞬間を記憶しておきたいと思ったのですが、麻酔で全く意識のないまま終わってしまいました。残念です。

 太古の奇術は、およそ現代の奇術のカテゴリーに入らないような種目が数多く演じられています。剣呑み、棒呑み、がそうですし、火渡り(火を焚いて、長い通り道を作り、その上を素足で歩く)。刃渡り(刀を何本も、刃を上にして並べて、その上を素足で歩く)。

 私の子供の頃でも、火吹き(ガソリンを呑んで、口に松明を近づけて、口から霧状にガソリンを吹いて、ゴジラのように火を噴く)。碁石の白黒だし(碁石を幾つか飲んで、お客様の注文で、白と言えば白い石を出す)。金魚呑み(金魚を何匹か飲んで、一匹ずつ出して行く)。こうした芸を実際やっていた人と同じ舞台に立ったことがあります。私の子供の頃にはさすがにこれらを奇術とは呼ばなかったように思いますが、江戸時代だったら、こうした芸も、奇術の仲間だったのでしょう。

 私は、手妻を残すものとして、こうした、太古の奇術も実演しないまでもやり方ぐらいはできるようにしておくことが後世に芸を残すうえで必要ではないかと考えます。

 今は危険術は何となく下等な芸能として否定する人が多いのですが、いつまた、誰か優れたマジシャンが現れて、危険術を洗練された芸能に昇華しないとも限りません。その時に資料が残されていなければ、こうした芸能は消えてしまいます。二千年以上にわたって残されて来た芸能が、私の代で耐えてしまっては残念です。

 そこで私が気付いたものだけでも体験を残しておきたいと思います。手始めに棒呑みならそう危険なこともないでしょう。鉄や真鍮の棒を30センチほどに切って、飲んでみようかと考えています。子供の頃、危険術をしている人から、「口を真上にして、口、喉、胃をまっすぐにして棒を呑んで行けば誰でも飲める」。と言っていました。口から喉、胃までは一直線なのです。全く棒はストンと胃まで落ちるそうです。とは言うものの、どうにも試す機会がありません。今度胃カメラを呑むときにお医者さんに相談してみようと思います。

 刀の刃渡りなども、刃の上に足をまっすぐ上から乗せれば、足の裏は斬れないと言います。そうは言っても少しでも動けば切れてしまうでしょう。きっと幾つかのコツがあるはずです。今では演じる人もない芸ですので、やってみたなら、それなりに評判になるでしょう。前田にも勧めているのですが、やりたがりません。彼は人生のチャンスを逃しています。勿体ないことだと思います。

続く

胃カメラの体験

東さんとの会話

 毎月一二度、東さんに電話をして、色々な話をします。私の将来のこと、奇術界のこと、様々な話をします。コロナ騒ぎで世界中のマジシャンが凍り付いたように身動きできなくなっています。何かいい解決策はないかと思いますが、解決どころか、どうにも悪い方向に進んでいるらしく、明るい話題は程遠いようです。

 私の玉ひでの活動や、若手の指導は可能性があると言って東さんは評価してくれています。それは有り難いのですが、まだまだ何一つ成果につながってはいません。これが花開くためには、コロナが解決されないことにはどうにもならないと思います。何もかもコロナが発展を止めています。

 

胃カメラの体験

 このところ大腸がんの内視鏡を入れたり、胃カメラを呑んだり、全く病人の生活を繰り返しています。それでも今まで病院にほとんどお世話になっていませんでしたので、「今度はどんなことをするんだろう」。と内心楽しみに出かけました。

大腸癌とは違い、胃カメラは、前日から食事を制限されることはありません。当日(22日)、の朝、絶食をするのみで、病院に行きます。8時30分に世田谷医療センターに行き、先ず、胃の洗浄薬と言うものを飲みます。待つこと10分で問診を受けます。そして、透明でどろりとしたゼリーのようなものを口に含みます。3分、口の奥に入れたままじっとしています。

 3分すると時計が鳴って、「はい、飲んでください」。と看護婦さんに言われます。フルーツの香りのする液体ですが、妖しげな飲み物です。飲みながら、口の中に張り付いて来て、何となくしびれて来ます。「なるほど、これは麻酔だ」。麻酔が口から喉に、徐々に効いてきます。これは喉の奥に張り付いて粘る麻酔薬です。時計を見ると、8時50分でした。

 それから寝台に寝て、左腕に麻酔の注射をしたのですが、それから看護婦さんに揺り起こされるまで何も意識がありませんでした。胃カメラを呑んだ記憶もありません。時間は10時30分でした。起こされて先生に胃カメラの結果を聞くのですが、どうも私は麻酔が効きすぎたらしく、眠くて仕方がありません。

 結果は小さなポリープはありましたが、取るほどのことではなく、別段大したことはなかったようです。但し、「一年に一度くらい胃カメラを呑んで、検査をするとよいでしょう」。と言われました。「いやぁ、毎年一度胃カメラを呑むのはつらいなぁ」。と思いつつ、健康を思えば仕方ないと考え直し、そのようにすることに決めました。

 

 12時過ぎに医療センターを出て、梅が丘駅前の日本蕎麦屋に入りました。色々食べたいものはありますが、食べるものは柔らかいもので、脂を使ったものはだめだと言われましたので、冷たいとろろそばを頼みました。

 味は可もなく不可もなく。但し空腹だったうえに、町の蕎麦屋さんですから、蕎麦の盛りが多く、ボリュームで満足しました。考えて見たなら、子供の頃に食べた蕎麦もこんな感じのものでした。蕎麦の香りがどうの、つゆの返しがどうのなどと能書きを垂れることはありませんでした。ただつるつるとそばを食べて、腹がいっぱいになったならそれで満足でした。

 梅が丘駅のホームのベンチに座っていると、日差しが温かく、何ともいい気持ちです。次の電車が来るまであと7分。持ってきた単行本を読もうかと思いましたが、どうも気持ちが集中しません。眼鏡を出して活字を読もうとするのですが、頭に入りません。その内、つい、うとうととして来ました。はたと気づくと、一時間もうたた寝をしていました。

 病院にいるときから、麻酔が効きすぎて眠くて仕方がなかったのです。「ここで寝たらまずいなぁ」、と思いつつ眠ってしまいました。実はこのあと、アトリエで二人指導をしなくてはいけません。時間を見ると二時です。まだ十分間に合います。

 急ぎ自宅に戻り、指導をして、夕方、少しデスクワークをしようと机に向かったのですが、ここでも集中ができません。ついつい寝てしまいました。起きたら夜の8時です。結局大した仕事もせずに一日が終わりました。

 ダイニングに上がると、女房は外出して、食事だけ置いてありました。日頃、私の健康を気遣ってか、繊維質の野菜ばかりで料理をしてあります。然し、今晩は、繊維質の野菜はだめなのです。胃が弱っていますから、やわらかいものでなければいけません。レンコン、ダイコン、ニンジン、ブロッコリー、どれも胃にあたります。これらのおかずはすべてパスしました。

 カレイの煮つけがありましたので、カレイを一匹食べました。身は中くらい、子供が付いています。これはなかなかの味です。飯は、水を多めに入れて、電子レンジでお粥を作り直しました。子供の頃に母親に毎日のように食べさせられた、緩い飯を思い出しました。母親は自分が胃が弱いものですから、毎日の飯がお粥のように柔らかかったのです。あれはまずい飯でした。あの飯をここで食べるのは情けないと思いましたが、よく考えて見たなら、今の私は胃を病んでいるわけです。ちょうどあの頃の母親と同じです。そうなら粥飯もやむなしと思いました。

 カレイだけではおかずが寂しいと思い、生卵をかけて食べることにしました。然し粥飯に生卵は旨くありません。ぐちゃぐちゃの所にどろどろの卵です。なんとも味わいに欠けます。しかし致し方ありません。こんな日があってもいいのでしょう。

 このj日は、自分がこなさなければならない仕事の半分も出来ずに一日が終わってしまいました。「なんだ、自分は、この程度の仕事しかできなかったのか」。と反省することしきりです。私はもっともっとバリバリ仕事が出来て、どんどんやりたいことを前向きに解決していける人間だと思っていたのですが、物を食べて寝ているだけで一日が終わってしまいました。情けない一日でした。

落葉(らくよう)

猿ヶ京の大雪

 先週のニュースでは群馬と新潟県の境で大雪で、ドライバーが閉じ込められるなどの災害が出ています。群馬の北部ならまさに猿が京のあたりです。2mの雪が積もったと言っています。私の猿ヶ京の稽古場は大丈夫かと、心配になります。2mも雪が積もったなら、古い家屋はひとたまりもないでしょう。

 一昨日(20日)電話をして確かめましたところ。猿ヶ京はせいぜい1mの積雪だそうで、国道17号は整備されて通行できるそうです。それでも稽古場は築40年以上経った建物ですので心配です。事と次第によっては雪掻きや、建物の倒壊の際には荷物を運び出さなければなりません。そうなると大仕事になります。稽古場が何とか壊れずに維持されることを祈っています。

 

胃カメラ

 先週大腸の内視鏡を呑んで、今日(22日)は胃カメラを呑む羽目になりました。大腸と胃の関連性はないのですが、糖尿の検査の際にどちらも反応が出たために、検査を受けることになりました。一病息災と言う言葉がありますが、私にとっての糖尿病は正に病を持っているが故にいろいろな余病がわかり、早期発見が出来て幸いです。

 これまでの人生で入院もけがもなかったがために、何ら体のことには気を使わずに生きてきたのですが、ここへ来て、様々な検査をすることになりました。

 私の親父は65で大腸癌になり、すぐに入院して、大腸を三分の一も取る手術をしました。命も危なかったらしいです。つまり発見したときには相当進行していたのです。

 それでも親父はよほど頑強だったようで、その後8年も長生きしました。その間には癌漫談と言うのを考え出して、寄席や、講演などで癌を漫談にしていました、50を過ぎてから仕事もなく、ただ遊んでいたのですが、癌漫談をするようになると脚光を浴び、珍しい芸でしたので売れて、晩年、いい収入になりました。

 70歳を過ぎても、スケジュール帳を持ってあちこちの仕事をしている親父を見て、私はうっかり、「よかったねぇ、親父、癌になって」。と言ったら、親父は一瞬、嫌な顔をしました。陽気な親父でしたが、癌になった当初は少し落ち込んでいました。それが、73で亡くなる間際まで舞台に立てて活躍したのですから、病気があったことがむしろ幸いだったと言えます。

 ある日、「親父ねぇ、73まで生きたなら、別段癌で早死にしたわけじゃぁないよ。普通に寿命だよ」。と言ったら、「それもそうだなぁ」。と納得していました。

 あれから20数年、今度は私が胃カメラを呑むようになったのも因縁でしょう。

 それにしても、先週大腸検査のために肛門からカメラを入れ、今日は、口から胃カメラを入れます。どちらも絶食した上で手術台に乗ります。面白おかしいものではありません。それでも生きているといろいろな経験をします。それはそれで何が起こるのか、楽しみで変化の日々です。

 

落葉

 私の家の前は環7通りで、通りは大きな銀杏の木が連なっています。それがこの一週間、黄色い葉を落して、歩道一面は黄色の絨毯を敷き詰めたようになりました。黄色は明るくきらきらとしていて楽しげです。然し、それも五日間の光景でした。華麗な落葉は掃き清められ、今、銀杏の木が裸で寒々と立っていて、どんより曇った空とともに暗く寂しい景色に変わりました。

 晩秋の景色を眺めていると、高齢の人には自分の人生を感じるのでしょうか。次々に昔のことが思い出され、昔のことが何もかも面白く楽しかった思い出としてよみがえります。

 ブラームスの晩年の作品と言われる、交響曲の3番も4番は、渋く、寂しい音楽ですが、実は40代の作品です。それにしてはあまりに地味で、深く、寂寥感に満ちています。まるで60代70代の人が作ったような作品です。私はブラームスを10代のころから聞いていましたが、私自身が40代になった時に、「果たして自分にこんな曲が作れるだろうか」。と考えた時に、到底ブラームスの心境には至らないことを知りました。

 ブラームスは常に思い悩んでいます。考えても仕方のないことまでも考え込みます。その考えは、一定ではなく、晴れたかと思えばすぐに曇り、答えが見つかったかと思えば、次の瞬間にそれを否定したり。付き合って聞いていると、「一体どうしたいんだ」。と突っ込みを入れたくなります。煮え切らないはっきりしない男なのです。

 然し、繰り返し聞いていると、それが人間なのだと気付きます。絶対の価値観などと言うものはこの世に存在せず、常に世の中は曖昧模糊としたものなものなのだ、と言っているように聞こえます。

 それはちょうど、私が、一週間前の晴れた日に、銀杏の木の落葉を見た時は、華麗な絵巻物のように見えたものが、一週間経って、寒く、暗くどんより曇った日に落葉してしまった銀杏の木を見ると、寂しく竦んだ生彩のない景色に見えるように、一つの物は時間を経て眺めると、これが同じものかと疑うほど違ったものに見えます。そのことをブラームスは知って、音の変化で語りかけます。そして、全てを語ってからあきらめの境地に入って行くのです。ベートーベンのように希望の光を語る気持ちが薄いのです。

 交響曲の3番4番には、人生を諦観する姿勢が全体を覆っています。唯一、3番の第3楽章のみ、寂しさの中に、青春の儚い思い出が垣間見えますが、それも消え入るように終わっています。ブラームスを嫌う人は、この救いのない暗さが嫌いなのでしょう。どうして40代でこうも人生を諦められるのかがわかりません。

 

 それは夏目漱石の小説を読んだ時も同じでした。「こころ」であるとか、「行人」、「硝子戸の中」など、漱石晩年の作品を読むと、その観察眼の深さと言い、人生の捉え方と言い、とても40代の人の考えとは思えません。49歳で人生を終えた漱石は、40代で既に老人の境地だったのです。

 然し、ブラームス漱石も、私自身が彼らの年齢を超えて、再度読んでみると、一層その世界がよくわかります。このところ、冬の銀杏並木を散歩しながら、ブラームスが頭の中から離れません。然し、諦めることはありません。3か月たてば春が来るのですから。さて、胃カメラを呑みに行ってきます。

続く

 

実践しつつ考える

 18日は、夕方から田代茂さんが見えて、田代さんの車で岩槻の料亭に招待されました。毎年年末になると田代さんは私を食事に招待してくださいます。大概は高円寺の寿司屋さんか天ぷら屋さんなのですが、今年は料亭です。

 田代さん、私、若手の祐介君と、カンボジアから来たワン君の4人です。場所は、岩槻の喜祥と言う店で、敷地が広く、竹林に囲まれています。玄関に着くまでに門が二つもあり、玄関に入ると、いくつかの部屋がある中で、腰高に拵えた中二階の部屋に案内されました。新しくてきれいな部屋です。女将さんは友禅の着物で、西陣の帯を締めていて、若くて清楚な人です。

 料理は大皿に冬山を模した拵えが出来ていて、煮豆、銀杏、炭焼き小屋などを配し、小屋の中に、橙(だいだい)に見立てたサーモンの握りずしが手毬のように丸く拵えてあります。目で楽しむ前菜です。

 茶碗蒸しの中に鱈(たら)の白子がのった碗が出て来ました。白子は冬の食べ物ですが、茶碗蒸しで出て来るとこれは酒のつまみとしても優れモノです。出汁を味わいながら一杯飲み、濃厚な白子を味わいながら一杯飲めます。ところで酒は、山形の楯野(たての)川と言う酒で大吟醸です。飲み口のいい酒で、いくらでも飲めてしまいます。

 刺身のメインはメゴチです。さっぱりとした魚で、私にとっては脂を気にせずに食べられます。生湯葉が付いてきたのも気が利いています。

 次に海老芋と海老の、真丈のあんかけが出ました。海老芋は私の大好物です。主に関西の料亭で出される素材で。里芋の尻尾がくるっとひねれているため、海老に似ているので海老芋と言います。普通の里芋より甘みのあるのが特徴で、これを箸で少しずつ崩して、酒と一緒に頂くと、あっさりとした和食の、贅沢な深い味わいが感じられます。

 然し、この地味な味が若い人にわかるのかなぁ、と思い、ワン君や、祐介君に、「美味しいと思う?」。と尋ねると、「美味しい」。と言いました。もし私が20歳くらいだったなら、この旨味は分からなかったと思います。海老芋よりはマクドナルドのフライドポテトのほうが旨いと言ったと思います。

 その後、野菜の天ぷらが出て、稲庭うどんが鶏出汁で出て、小豆のムースがデザートに出て、目出度くコースが終了しました。この間も楯野川を飲み続けました。この晩の招待のために、一週間以上酒をやめていましたので、体に異常は出ないとは思いますが、だいぶ飲んでしまいました。

 心に残る料理は、白子の入った茶碗蒸しと、海老芋の真丈です。いい食事をしました。西に辻井さんがいて、東に田代さんがいれば、私にとっては常に満足です。田代さんの厚情に深く感謝します。

 

 さて田代さんは、ケン・ウェーバーの「マキシマムエンターティンメント2.0」と言う本を和訳しました。総体で500ページに及ぶ大作です。中身は、マジックをどう演じるかのノウハウが書かれています。著者のケン・ウェーバーはメンタリストでクロースアップマジシャンで、自身の売り込みが巧く、ショウで財産を残した人だそうです。実践に裏打ちされた奇術論ですので参考になることも多いと思います。スクリプトマヌーバーから刊行です。私も一冊頂きましたので、これから読んでみます。

 

実践しつつ考える

玉ひで公演

 一昨日(19日)は毎月の玉ひででの公演でした。満席でした。その後の申し込みは全て翌月、翌々月に変えてもらいました。いい流れです。あまりに申し込みが増えるようならば一日二回ずつ公演しようと考えています。

 ザッキーさんはロープを自分なりにアレンジして面白い3本ロープの手順を作りました。慣れて来るとこれは得意ネタになるかもしれません。次に、20枚のカードを二つに分けて、二つのグラスに入れ、片方のカードをかき混ぜて配列を変えたにもかかわらず、左右全く同じ配列になるマジック。もう少し一つ一つの不思議を強調すれば、いいトリネタになるでしょう。

 前田はタキシードで四つ玉を演じました。その後でテーブルクロス引きをしました。このところの稽古の成果発表です。私が絡んで喋りで筋運びをします。予想以上に受けて当人も驚いていました。今まで経験したことのない反応でしたから、これは彼にとって新しいジャンルを発見したことになるでしょう。

 私は卵の袋と紙卵、和妻の紐切りを三種、札焼きに、若狭通いの水。間に前田の金輪、そして蝶です。若狭通いの水が巧く通いませんでした。反省です。

 然し、めったにしない手妻もここで度々出さないと、どんどんレパートリーが狭くなってしまいます。そのため無理してでも演じています。

 お客様に元フジテレビのアナウンサー牧原さんが見えました。また、クールジャパンで手妻を紹介してくれたベネズエラ人の若者、カイル君が仲間を9人もつれて見に来てくれました。みんな和服を着ていました。カイル君は袴に羽織を着ています。本心はこれに刀を差したいのでしょうが、なかなかその姿で歩くのは世間では許されません。仲間は日本人が殆どですが、みんな和の文化が大好きだそうです。手妻も面白がって見てくれました。

 

 ショウの後は、出演者とお話の時間です。ザッキーさんはこのところ悩むことが多いようです。3月の独演会をすることを決めたようですが、手順のこと、お客様の気持ちをつかむ方法。自身のキャラクター作り、等々、随分いろいろ質問を受けました。

 いいことです。悩まずに通り過ぎてしまえばやっていることは浅いレベルの低い演技のままです。悩むから芸が深まります。苦しむことでよりお客様の気持ちが分かって来るのです。一年前には気付かなかったことが今、いろいろわかってきたのです。いいことです。こうしてマジシャンが出来て来るのです。

続く

ぶらくり丁

 一昨日(17日)は朝から鼓の稽古、その後急ぎ本郷へ日本舞踊の稽古に行き、帰るとすぐに習いに来る生徒さんが見えて、夕方まで指導をしました。こうした日々を過ごしてゆくうちに一年はあっという間に経ちます。

 

 昨日(18日)の晩は、田代茂さんとの会食で、素晴らしい座敷に招かれました。食事が凝っていて、久々高級料亭の味を堪能しました。詳細は月曜日に書こうと考えています。

 今日(19日)は玉ひでの座敷で手妻の会です。既に満席です。このところ安定してお客様が集まるようになりました。いい傾向です。もう少し増えたなら、二回公演にしたいと思います。

 大切なことは、毎月演じる場所があること。そしてその催しを長く続けることです。続けて行くうちにはお客様が付き、人が増え、増えて行けばもう少し大きな会場を探して公演するようになります。徐々に開催場所も増えて、人も数多く集まるようになれば

日本各地の市民会館を年間50か所、60か所開催して行くことも夢ではありません。

 何よりも手始めに、玉ひでの座敷を一杯にする。ここからすべてが始まります。多くの方々は、「幾ら座敷を一杯にしても、市民会館を60か所も満杯にするなんて無理だ」。と思うでしょう。

 そうではないのです。仕事と言うのは、先ずどこかにとっかかりが必要なのです。一度根付いて、お客様が集まるようになれば、どんなに小さくてもそれは一つの力になります。そこで人を育てて、自身の技を磨いて行けば、人は興味を持ちます。すると活動は必ず大きくなります。玉ひでは半年続けたことで、ようやく第一歩が完成しました。これをこれから大きくして行きます。乞うご期待。

 

ぶらくり丁

 今から30年近く前、大阪で真田豊実さんのお店が主宰するレクチュアーで指導したときに、真田さんから、「和歌山の金沢天耕さんが会いたがっていますよ」。と言われ、「さて金沢天耕さん・・・」としばらく記憶をたどりました。

 金沢天耕さんは、戦前から知られたアマチュアマジシャンで、何度かマジックの大会などでお会いしていました。私の知る天耕さんはかなりな高齢で、既に80歳近くの人だったと思います。痩せて小さな人でしたが、マジックの好きな人に共通する、きらきらと輝いた眼を持っていたのが印象的でした。

 

 氏は昭和初年からのマジックマニアで、長く和歌山に住んでいらっしゃいました。家は大きな呉服屋さんで、その昔は何一つ不自由のない暮らしをしていたようです。その昔はこうした、旦那でマジックの好きな人がたくさんいたのです。

 若い頃に天海師に会って一遍にとりこになってしまいます。当時天勝一座の中に、石田天海師が客演で加わって日本中の芝居小屋で興行をしていたのです。和歌山市の興行にもたびたび来ていました。

 昭和10年に和歌山マジッククラブが出来て、初めての発表会をすると言う時に、偶然天海師が和歌山に来ていることを知り、指導を依頼すると快く引き受けてくれたそうです。それから毎日四つ玉の特訓をして一週間。何とか手順をこなすようになりました。

 その間、金沢さんの家が持っている和歌の浦の別荘に天海師を泊めて、食事からすべてを手配したそうです。昔はこうした旦那が各都市に一人や二人いたのです。

 

 この時なぜ天海師が和歌山に長逗留を続けていたのかと言うと、和歌山には宮大工の谷口勝次郎さんがいて、この人は昔、松旭斎天一が和歌山で興行した折、道具が破損して困っていたところ、すぐに駆け付けて道具を直したことから一座との縁ができ、度々天一から新規の道具の依頼を受けるようになります。明治末年のことです。

 谷口さんは固い性格の人だったようで、天一から頼まれた道具は決して複製せず、人に売るようなことはしなかったそうです。その固さを買われて、天一の弟子の天勝も、大道具はみな谷口さんに依頼していました。

 そして、天海師ですが、天海師は当時アメリカに暮らしていて、5年に一度日本に帰国をして、そのたびに半年から一年、天勝一座に加わって、興行して回っていたのです。天勝一座にとっての悩みの種は、目新しい道具を手に入れることでした。毎年同じ劇場を回って興行しているのですから、新作がないと苦しかったのです。

 昭和5年アメリカにいた天海師と連絡が取れるようになると、現金を送金して、アメリカの大道具を買ってもらうようになります。然し、当時は輸送が困難でしたので、図面を買い取り、国内で大道具を制作することになります。その制作者が谷口勝次郎さんだったわけです。

 天海氏は、日本に帰国すると先ず和歌山に行き、天勝のための道具作りで谷口氏と打ち合わせをし、その後東京に戻り、一座と一緒に日本中を回りつつ、道具が出来上がると、今度は振り付けなどの指導をして、一座に協力をしていました。

 金沢さんはこの時に天海師と遭遇したわけです。以来天海師からスライハンドを習うことになります。そして、天海師から名前を貰い、天耕を名乗ります。金沢天耕です。

 金沢さんがこのままアマチュアでいたなら、地方都市のマジック好きな旦那で終わるのですが、金沢さんは戦後になってプロになります。実際、二代目天勝一座と南米公演をしたりするのですが、技は確かに天海譲りなのですが、やはりアマチュアの演技で、しかも育ちの良い坊ちゃんですから、舞台に欲がなく、派手さに欠けたマジシャンで終わります。

 金沢さんは、四つ玉の演技を発展させて、八つ玉の手順を発表したり、天海のシガレットの手順を発表したり、著作活動をするようになります。八つ玉の本は後に島田晴夫師に影響を与えています。然し、そのことももう埋もれたエピソードになってしまっています。

 その金沢さんから、30数年前に、お会いした折、「若い人で有能な人の写真とプロフィールを送って下さい」。と言われ、十人分くらいの写真とプロフィールを送った記憶がありました。別段気にも留めていなかったのですが、真田さんから、「金沢さんが会いたがっている」。と言われ、大阪の指導の翌日、和歌山に出かけて見ると、立派な装丁の写真集が出来ていて、私に下さいました。その上、ご自身の半生を書いた、奇術偏狂記と言う自伝と、天勝の直筆の色紙、そのほかいろいろな資料を頂きました。金沢さんはそれからほどなくして亡くなりました。

 なぜ私にそこまでのことをしてくれたのかはわかりません。私の人生にはこうした、親切な老人から突然貴重な資料を頂くことがたびたびありました。なぜなのか、ずっと自問自答したまま今日に至っています。そして、今、私は少しずつ故人のマジック愛好家の資料を読み直して、彼らがどんなマジックの世界を作り上げたかったのかを夢想しつつ、こうしてブログに書いています。これは鎮魂なのでしょうか。

 金沢さんから頂いた名刺の住所にはぶらくり丁と書いてありました。和歌山の繁華街の一つなのでしょう。あまり珍しい町名なので忘れられません。地味で静かな老人でしたが、最晩年に至るまで日本の若手マジシャンに期待して、写真集を作ってくれたその純粋な心に敬意を表します。本棚にあった写真集を何気に眺めながら、様々なことを思い出して記しました。

マジシャンを育てるには 11

どうした日向大祐

 昨日、驚愕な事件が入って来ました。共にマジック活動をしている日向大祐さんが、学習塾で指導をしている際に、女子生徒のスカートの中を盗撮したとして逮捕されたと言うニュースが流れました。当人もそれを認めているそうです。

 私もニュースを読んだだけですので、相手のあることですから、ここで私のコメントは申し上げません。事象のみ申し上げます。このため今週、土曜日の玉ひでの日向さんは休演とします。仲間が一人減った分、前田が和洋両方の演技をいたします。

 玉ひでは6月の開始以来、ずっとザッキーさんと日向さんが出演していました。日向さんの演技にも少し幅が出来て来ましたし、喋りがこなれて来て、「よくなって来たなぁ」、と思っていた矢先の出来事でした。これまで渡部健さんの事件などを他人事のように見ていましたが、身近に事件が起こるとは思いもしませんでした。起こってしまった問題はどうすることもできません。この上は、次善策を立てて、周囲が収まるように工夫をしなければならないでしょう。来年こそは良き年になることを、マジシャンの仲間として願っています。

 

マジシャンを育てるには 11

 プロマジシャンになるには、別段ライセンスはありません。名刺にプロマジシャンと書いて、関係者に配ればその日からプロです。実際そうしたプロマジシャンは大勢います。然し、それで、他の仕事をせずに、かかってくる電話だけで10年でも20年でも生活できるかどうかです。

 プロだと言っていても、収入になる仕事が年間5本10本ではプロと言えるでしょうか。時々でもテレビ局から出演依頼が来るでしょうか。仲間内が認めるような、大きなタイトルを持っているでしょうか。いや、今は信用も、タイトルもないとしても、日々生活していく中に上昇志向があるのでしょうか。

 取り合えず仲間のつてで、週末のレストランなどでショウを見せているとしても、そこから脱却して、もっともっと大きく活動をして行く意思があるのでしょうか。意志があるなら、今現在、そのための技術は磨いているのでしょうか。

 確かに日々日当を貰い、人前でマジックを見せているならプロではあります。然し、それはプロマジシャンの入り口に立ったにすぎません。そうした仕事を3年、5年と続けて行くうちに、本当になりたかったマジシャン像をどこかに置き忘れて、だらだらとした生活をしてはいませんか。

 プロとは何か、と私が問われたときには3つのことを話します。

 

1、代わりの利かない人

 私とマギー司郎さんとナポレオンズさんは45年来の友人です。この三組に共通することは、代わりが利かないことです。マギーさんが体調を崩したとして、代わりに私が行っても代わりになりません。私が休演して、代わりにナポレオンズさんが来ても代わりになり得ないのです。それぞれのスタイル、演技が違いますし、それぞれに固いお客様がいますから、他のマジシャンが来てもお客様は納得しないのです。

 私はその人独自の世界が作り出せる人こそプロだと思います。「同じ現象を演じてもあの人が演じると深みがある」。「どこか他のマジシャンと違う」。「あの人の話は聞いているだけで心地よい」。そんな風に言われるには、一つや二つの発見だけでは到達しません。人には言えない苦労の末に芸の奥を見つけ出さなければ、人を超えて存在することは出来ないのです。自分しかできない、表現できない世界を作り上げる。それがプロです。

 

2、前を向いていること

 生きている限りは変化して、前に進んでいることです。途中で進歩が止まると、急激に演技の輝きが消えて行きます。

 私が30代の時に、先輩に尋ねました、「この先どんなことをしたいのですか」。すると先輩は、「まぁ、これまで作り上げたものがあるから、それを演じるだけでも生きて行けるかなぁと思っている」。と言ったのです。この時私は心の中で、「きっとこの人を後悔させてやる。そんな安易な生き方でマジシャンが成り立たないことを私が教えてやる」。と決意しました。

 若手にそんな闘志を抱かせてしまう先輩と言うのはだめな人です。前に進もうとしない芸人は、命があってもマジシャンとしては死んでいるのです。そんな人はいつしか大きな仕事が遠ざかって行き、期待されないマジシャンになって行きます。

 自分の手順をよくよく見ればおかしなことばかりしています。それを直したいと思いつつも、自身に技量がないために何十年も下手を繰り返して、進歩が止まっているのです。それを内心恥じて、いつも気にかけて、何か閃(ひらめ)いたらすぐに改める、そんなことを繰り返していなければ、プロたり得ないのです。本当のプロとは今の姿ではなく、明日の自身の姿だと知ることです。

 

3、志を持つ

 自分が目を閉じて、10代の頃、20代の頃を考えて見ることです。一体自分はどんなマジシャンになりたかったのか。そして、今の自分はそれを達成しているのか。

 達成していないとするなら、なぜ達成できなかったのか。何が欠けていたのか。今、仮に自身に足らなかったものが突然現れたなら本当に自分の夢が実現出来ますか。例えば資金、技術、閃き、支援者、そうしたものが現れたらたちまち解決しますか。

 いやいや、日々、だらしなく酒を呑んでいたり、昼まで寝ていたり、やるべきことを後回しにして10年20年生きて来てしまってはいませんか。資金がない、支援者がいない、技術がないと言い訳しているうちに、自分はどんどん、どこにでもいるようなマジシャンに落ちて行きます。

 結局足らないのは金でもなければ支援者でもなく、自身の志なのではないですか。人のやらないことを恐れずにやってみる。人が「そんなことをしていても稼げない」。と言って、否定するようなことでも諦めずに、答えが出るまでやり続ける。そうした意志が欠けているのではないですか。

 スライハンドにしろ、クロースアップにしろ、手妻にしろ、強い意志を持って活動する人でなければ、この社会にいても、いないのと同じです。意志のない人を誰も支援してはくれません。名刺にプロと書いてそれでプロになれるわけはないのです。

 

 プロをプロとして認めてもらうには、お客様に愛されなければ長く生きて行くことは出来ません。プロを認めるのはお客さまであって、マジシャンではないのです。

 ではお客様はどんなマジシャンを求めているのか、お客様と言うのは自分で世界を描き切ることは出来ません。お客様が漠然と求めている世界を形にしてくれるマジシャンを求めているのです。いつもお客様の心の中にある漠然とした夢を考えてくれて、見るたび少しずつ前に進めてくれるマジシャン。お客様はそんなマジシャンと一生付き合いたいと考えているのです。

マジシャンを育てるには 終わり