手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

落葉(らくよう)

猿ヶ京の大雪

 先週のニュースでは群馬と新潟県の境で大雪で、ドライバーが閉じ込められるなどの災害が出ています。群馬の北部ならまさに猿が京のあたりです。2mの雪が積もったと言っています。私の猿ヶ京の稽古場は大丈夫かと、心配になります。2mも雪が積もったなら、古い家屋はひとたまりもないでしょう。

 一昨日(20日)電話をして確かめましたところ。猿ヶ京はせいぜい1mの積雪だそうで、国道17号は整備されて通行できるそうです。それでも稽古場は築40年以上経った建物ですので心配です。事と次第によっては雪掻きや、建物の倒壊の際には荷物を運び出さなければなりません。そうなると大仕事になります。稽古場が何とか壊れずに維持されることを祈っています。

 

胃カメラ

 先週大腸の内視鏡を呑んで、今日(22日)は胃カメラを呑む羽目になりました。大腸と胃の関連性はないのですが、糖尿の検査の際にどちらも反応が出たために、検査を受けることになりました。一病息災と言う言葉がありますが、私にとっての糖尿病は正に病を持っているが故にいろいろな余病がわかり、早期発見が出来て幸いです。

 これまでの人生で入院もけがもなかったがために、何ら体のことには気を使わずに生きてきたのですが、ここへ来て、様々な検査をすることになりました。

 私の親父は65で大腸癌になり、すぐに入院して、大腸を三分の一も取る手術をしました。命も危なかったらしいです。つまり発見したときには相当進行していたのです。

 それでも親父はよほど頑強だったようで、その後8年も長生きしました。その間には癌漫談と言うのを考え出して、寄席や、講演などで癌を漫談にしていました、50を過ぎてから仕事もなく、ただ遊んでいたのですが、癌漫談をするようになると脚光を浴び、珍しい芸でしたので売れて、晩年、いい収入になりました。

 70歳を過ぎても、スケジュール帳を持ってあちこちの仕事をしている親父を見て、私はうっかり、「よかったねぇ、親父、癌になって」。と言ったら、親父は一瞬、嫌な顔をしました。陽気な親父でしたが、癌になった当初は少し落ち込んでいました。それが、73で亡くなる間際まで舞台に立てて活躍したのですから、病気があったことがむしろ幸いだったと言えます。

 ある日、「親父ねぇ、73まで生きたなら、別段癌で早死にしたわけじゃぁないよ。普通に寿命だよ」。と言ったら、「それもそうだなぁ」。と納得していました。

 あれから20数年、今度は私が胃カメラを呑むようになったのも因縁でしょう。

 それにしても、先週大腸検査のために肛門からカメラを入れ、今日は、口から胃カメラを入れます。どちらも絶食した上で手術台に乗ります。面白おかしいものではありません。それでも生きているといろいろな経験をします。それはそれで何が起こるのか、楽しみで変化の日々です。

 

落葉

 私の家の前は環7通りで、通りは大きな銀杏の木が連なっています。それがこの一週間、黄色い葉を落して、歩道一面は黄色の絨毯を敷き詰めたようになりました。黄色は明るくきらきらとしていて楽しげです。然し、それも五日間の光景でした。華麗な落葉は掃き清められ、今、銀杏の木が裸で寒々と立っていて、どんより曇った空とともに暗く寂しい景色に変わりました。

 晩秋の景色を眺めていると、高齢の人には自分の人生を感じるのでしょうか。次々に昔のことが思い出され、昔のことが何もかも面白く楽しかった思い出としてよみがえります。

 ブラームスの晩年の作品と言われる、交響曲の3番も4番は、渋く、寂しい音楽ですが、実は40代の作品です。それにしてはあまりに地味で、深く、寂寥感に満ちています。まるで60代70代の人が作ったような作品です。私はブラームスを10代のころから聞いていましたが、私自身が40代になった時に、「果たして自分にこんな曲が作れるだろうか」。と考えた時に、到底ブラームスの心境には至らないことを知りました。

 ブラームスは常に思い悩んでいます。考えても仕方のないことまでも考え込みます。その考えは、一定ではなく、晴れたかと思えばすぐに曇り、答えが見つかったかと思えば、次の瞬間にそれを否定したり。付き合って聞いていると、「一体どうしたいんだ」。と突っ込みを入れたくなります。煮え切らないはっきりしない男なのです。

 然し、繰り返し聞いていると、それが人間なのだと気付きます。絶対の価値観などと言うものはこの世に存在せず、常に世の中は曖昧模糊としたものなものなのだ、と言っているように聞こえます。

 それはちょうど、私が、一週間前の晴れた日に、銀杏の木の落葉を見た時は、華麗な絵巻物のように見えたものが、一週間経って、寒く、暗くどんより曇った日に落葉してしまった銀杏の木を見ると、寂しく竦んだ生彩のない景色に見えるように、一つの物は時間を経て眺めると、これが同じものかと疑うほど違ったものに見えます。そのことをブラームスは知って、音の変化で語りかけます。そして、全てを語ってからあきらめの境地に入って行くのです。ベートーベンのように希望の光を語る気持ちが薄いのです。

 交響曲の3番4番には、人生を諦観する姿勢が全体を覆っています。唯一、3番の第3楽章のみ、寂しさの中に、青春の儚い思い出が垣間見えますが、それも消え入るように終わっています。ブラームスを嫌う人は、この救いのない暗さが嫌いなのでしょう。どうして40代でこうも人生を諦められるのかがわかりません。

 

 それは夏目漱石の小説を読んだ時も同じでした。「こころ」であるとか、「行人」、「硝子戸の中」など、漱石晩年の作品を読むと、その観察眼の深さと言い、人生の捉え方と言い、とても40代の人の考えとは思えません。49歳で人生を終えた漱石は、40代で既に老人の境地だったのです。

 然し、ブラームス漱石も、私自身が彼らの年齢を超えて、再度読んでみると、一層その世界がよくわかります。このところ、冬の銀杏並木を散歩しながら、ブラームスが頭の中から離れません。然し、諦めることはありません。3か月たてば春が来るのですから。さて、胃カメラを呑みに行ってきます。

続く