手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

剣呑み 棒呑み

鬼滅の刃を見に行く

 昨日、鬼滅の刃を見に行きました。新宿のスカラ座です。話題作なら見ておこうと思いました。午後一時半に行きましたが、平日の昼と言うこともあって、お客様は三分の一ほど。いい席で落ち着いて見ることが出来ました。

 私は知らなかったのですが、私の年齢だと1200円で映画が見られるそうです。びっくりです。今まで5年間、普通に大人料金を支払っていました。なぜ66歳になると1200円になるのでしょうか。その理由がわかりません 

 年を取って少しでも世の中の役に立ったとか、いいことをしたと言うなら、割引もあっていいと思いますが、ただ60を過ぎたと言う理由だけで、全ての60代が一律割引になるのかがわかりません。おかしいではありませんか。60過ぎても少しも大人になっていない人間もたくさんいます。平気で世の中のルールを破る人間もいます。

 そんな連中に国が割引を認めるのは不自然です。第一敬老と呼ばれるほど老人ではないのです。女房は、「安くなった分たくさん映画が見られるからいいじゃないの」。と言います。それはそうですがどうにも納得が行きません。

 

 その映画ですが、内容は、どうも私が見に行くような映画ではありませんでした。ひたすら鬼と人とが剣を使って戦うアニメで、鬼がなぜ鬼なのかについてはついぞ解説されませんでした。

 世の中に鬼と言う職業があって、鬼がただ人を苦しめるためだけに存在しているなら、物事は明快なのですが、そういうものでしょうか。

 自分が正しいと思ってしていることが、他の人からは恨まれたり、自分のしていることが人から見たなら迷惑な話で、時に悪魔に見えたり。人は見かたで善人にも悪魔にも見えるのではないでしょうか。喧嘩も戦争も、互いに言い分があるように思います。どっちが鬼とは決めつけられないのが世の中でしょう。

 鬼には鬼の言い分があるように思いますが、このアニメに出て来る鬼はただただ鬼です。一言の言い訳も認められず、主人公によって切り殺されます。二時間にわたって、ひたすら戦いを見せられて、鬼は破れて行きます。主人公側の茶髪のお兄さんは負傷して、みんなが涙を流す中亡くなって行きますが、鬼はその家族のことも語られることなくどろどろの体で汚く死んで行きます。

 かつて日本軍がアメリカ軍と戦った時のことを、アメリカの側から映画を作ったなら、この映画のように、日本人は穢れた鬼としか見えなかったでしょう。日本軍が死のうと怪我をしようとそれは虫や獣が死んだことと同じにしか考えなかったでしょう。

 日本人がなぜゼロ戦で敵の艦隊に突っ込まなければならなかったか。そんなことはアメリカ人からすれば狂人か、馬鹿としか思わなかったのでしょう。でも日本人は狂人だったのでしょうか。親のこと、女房子供たちのことを思えばそうする以外なかったのではないでしょうか。それを狂人として扱われては彼らの死は浮かばれないと思います。

 これが面白いかと問われる前に、なぜ鬼は戦わなければならなかったのか、斬られなければならなかったのか。と言う根本の疑問が残ります。そんなことを考えて見ているのは私だけなのでしょうか。多くは大音響と大画面に満足して、めでたしめでたしで見ているのでしょう。私は未消化のまま劇場を後にしました。「あぁ、日本で受け入れられる映画はこれでいいのだなぁ」。と思いました。

 

剣呑み 棒呑み

 昨日の胃カメラの話の延長になりますが、もし胃カメラを呑んだ時に、するすると胃の中まで簡単に入って行くのだとしたら、太古の奇術にあった、剣呑みや、棒呑みは簡単に出来るのではないか、と考えたのです。そこで胃カメラを呑む瞬間を記憶しておきたいと思ったのですが、麻酔で全く意識のないまま終わってしまいました。残念です。

 太古の奇術は、およそ現代の奇術のカテゴリーに入らないような種目が数多く演じられています。剣呑み、棒呑み、がそうですし、火渡り(火を焚いて、長い通り道を作り、その上を素足で歩く)。刃渡り(刀を何本も、刃を上にして並べて、その上を素足で歩く)。

 私の子供の頃でも、火吹き(ガソリンを呑んで、口に松明を近づけて、口から霧状にガソリンを吹いて、ゴジラのように火を噴く)。碁石の白黒だし(碁石を幾つか飲んで、お客様の注文で、白と言えば白い石を出す)。金魚呑み(金魚を何匹か飲んで、一匹ずつ出して行く)。こうした芸を実際やっていた人と同じ舞台に立ったことがあります。私の子供の頃にはさすがにこれらを奇術とは呼ばなかったように思いますが、江戸時代だったら、こうした芸も、奇術の仲間だったのでしょう。

 私は、手妻を残すものとして、こうした、太古の奇術も実演しないまでもやり方ぐらいはできるようにしておくことが後世に芸を残すうえで必要ではないかと考えます。

 今は危険術は何となく下等な芸能として否定する人が多いのですが、いつまた、誰か優れたマジシャンが現れて、危険術を洗練された芸能に昇華しないとも限りません。その時に資料が残されていなければ、こうした芸能は消えてしまいます。二千年以上にわたって残されて来た芸能が、私の代で耐えてしまっては残念です。

 そこで私が気付いたものだけでも体験を残しておきたいと思います。手始めに棒呑みならそう危険なこともないでしょう。鉄や真鍮の棒を30センチほどに切って、飲んでみようかと考えています。子供の頃、危険術をしている人から、「口を真上にして、口、喉、胃をまっすぐにして棒を呑んで行けば誰でも飲める」。と言っていました。口から喉、胃までは一直線なのです。全く棒はストンと胃まで落ちるそうです。とは言うものの、どうにも試す機会がありません。今度胃カメラを呑むときにお医者さんに相談してみようと思います。

 刀の刃渡りなども、刃の上に足をまっすぐ上から乗せれば、足の裏は斬れないと言います。そうは言っても少しでも動けば切れてしまうでしょう。きっと幾つかのコツがあるはずです。今では演じる人もない芸ですので、やってみたなら、それなりに評判になるでしょう。前田にも勧めているのですが、やりたがりません。彼は人生のチャンスを逃しています。勿体ないことだと思います。

続く