手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

そもそも興行の始まりは

 昨日は、神田明神の地下にある江戸っ子スタジオでショウをしました。曲芸や、幇間芸、落語などありまして、90分の公演です。完全に企業のための公演かと思っていたら、一般の参加も大丈夫だそうです。事前予約で4,500円です。21日と25日にも公演します。ご興味ございましたら、CoCoRoさん(03-6811-6675)までお問い合わせください。

 

 また、今週末土曜日(22日)には、人形町玉ひでで手妻の公演をいたします。

いつもの若手、日向大祐さん、ザッキーさん、前田将太、のほかに、早稲田康平さんも入ります。賑やかなメンバーですので、きっとご満足いただけると思います。お申し込みは事前に予約をお願いします。

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そもそも興行の始まりは

 今日でいう、イベントとか、ショウビジネスと言う言葉は、その昔は興行と言いました。今でも吉本興行は社名にそのまま興行の文字を使っています。なぜショウをすることを興行と言うのかと考えてみますと、江戸時代は、芝居や、手妻、軽業(かるわざ=アクロバットのこと)を見ると言うのは一大イベントだったのです。芝居などは、丸一日かけて興行していたのです。朝の六時から三番叟(さんばそう=神事に近い舞踊で、芝居や興行の始まりには必ずこの踊りが付きました)。それから芝居が始まり、終演は日の暮れまで行っていました。

 朝六時に、浅草猿若町の芝居を見るとなると、例えば日本橋に住む商家の家族は、前の日から弁当やら、お寿司を作り、深夜の三時ころから家族や奉公人を引き連れて家を出て、提灯の灯りを灯して、徒歩で二時間かけて猿若町につきます。これだけでも大仕事ですが、それから芝居が始まり、朝飯、昼飯、晩飯まで、三食、芝居小屋の中で持ってきた弁当を食べます。日の暮れになって芝居が終わると、また提灯を灯して日本橋に帰って行きます。

 当時、芝居はめったに見ることが出来ませんでしたので、家族や、奉公人まで引き連れて芝居見物をすると言うのは、家の一大イベントだったわけです。

 それでも、江戸に住んでいれば、弁当持参で歩いて芝居小屋に出かけられますが、地方都市に住む人が芝居を見るとなると簡単ではありません。先ず街道を歩いて江戸に出なければなりません。江戸で宿を取り一泊し、翌朝には衣装を着かえて、芝居見物をして、また宿に帰り、一泊泊まって翌早朝に又街道を歩いて家に帰ります。

 その往復の旅費から、宿代、食事代、芝居の見物料。夜の酒代など、どれほどの出費になったか知れません。それが一人二人ではありません。連日、近郷近在から数百人のお客様が芝居見物に押し掛ける度にそうした出費をします。芝居は短くとも一か月、長ければ半年も興行します。そうなると、その間どれほどの人が、方々に出費をしたかと考えたなら、相当なお金が江戸の町に落ちたことになります。一つの芝居、一つの興行が人を集めると言うことは周辺に大きな金が動くことになります。これが、行(経済活動)を興すことになり、興行と呼ばれたわけです。

 特に地方都市での祭りなどで催される仮設舞台での興行などは、経済力の乏しい地方の村々などでは願ってもないほどの恵みになったのです。

 今の感覚で考えると、仮設の舞台がそれほど大きな経済効果を生むとは考えられませんが、江戸時代は、徹底したデフレ経済で、日常は銭や金が村や町に出回っていなかったのです。金も銭も、金持ちの家の蔵にしまわれていて、使われなかったのです。何しろ金持ちは何でも持っていますから、金を使いません。溜まるばかりです。

 今日の銀行に匹敵するようなシステムがありませんから、金を必要とする人の所に金が回りません。金は金持ちの家に死蔵するばかりで、外に出ません。金のない人たちは、仕方なく帳簿で支払いのやり取りをします。つまりつけで買い物をしていました。その支払いは、年に何度かの作物が育った時に、金に換えてこれまでのもろもろの支払いをしていました。江戸時代は農本主義ですから、全ての職業の人は、農業の生産に合わせる以外なかったのです。時代劇を見ていると、みんなが小銭で酒を飲んだり、物を買っていますが、実際にはあんな風には銭金は使えなかったのです。

 ましてや地方の村々ではまず銭金を見ることがありません。当然、経済が回らず、不便な思いをします。そうした流れを変える行為が興行だったのです。お寺や神社の境内に芝居小屋を建て、その周りに露店商が並び、五日なり七日間なり祭りを行うと、近郷近在から人が集まり、みんなが溜め込んでいた銭金を一気に散財します。

 すると、寺には賽銭が入り、店は物が売れて儲かり、芝居小屋は収入が上がり、近所の宿屋や、飲み屋、座敷、駕籠かき、人足まで潤います。そうした銭金が村に落ちると、今まで眠っていた銭金が市中に出回りますので、滞っていた経済が一気に動き出し、町はぱっと華やいで明るくなります。これがために、江戸時代の人々は、芝居や手妻、軽業の興行を待ち焦がれたのです。

 そうなると、日頃は店らしい店もなく、人通りも大したことのない村の神社周辺が、にわかに人が大勢人が集まり、見たこともない芸能が連日開催されて、一大歓楽街に変わり、人はうきうきとします。これを指して、興行と言うのは、今我々がイベントとか、ライブ公演などと聞くのとは違い、全く別格の思いがあったはずです。

 

 神社やお寺さんと芸能との結びつきは、奈良時代から既に始まっています。奈良の本社から派遣された芸人は地方の村々の末寺、末社を回り、数日ずつ興行して行きます。一か月二か月と回ることで芸人集団は大きな収入を得ていたのです。それらが今も続いていて、芸能と寺社との結びつきはいまだに深いのです。それは寺社の求めることでもあり、芸人の仕事場でもあり、各村の熱望する活動でもあったのです。

 そうした人の求めに対して、芝居や、手妻、軽業が興行の中心に位置していたわけですから、その価値の大きさは今とは考えられないほど、想像を超えたものであったはずです。当時の芸人たちが、村や町おこしの主役であったと思えば、芸能の果たした役割は今日以上に大きかったわけです。

続く

物の始まりは縁

 昨日は、踊りの稽古に行きました。帰宅後、道具の修理をしました。何をするわけでもないのですが、毎日用事があって、一日が過ぎて行きます。

 今日は、昼に神田明神の劇場で、手妻をいたします。今月は3回神田明神に出演します。但し貸し切りです。一般のチケット販売はありません。私の公演をご希望の方は、22日の玉ひでにお越しください。11時半開場、12時お食事、12時半開演。今回から若手が4組出演します。何とか若い人が出られるような舞台を作ろうと、毎月一回公演しています。来月は、9月は19日になります。

 今月、8月22日、入場料5500円、親子丼のお食事つき、ショウのみご覧になりたい方は2500円です。食事は前日正午までの事前予約が必要です。どうぞ人形町の玉秀にお越しください。通常2時間の行列のお店が、並ばずにお食事ができます。

 

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物の始まりは縁

 基本的な話になりますが、私は、先輩や友人のマジックショウや、他の芸能の公演を見に行くときには、相手に確認したうえで、生花などを贈ります。確認と言うのは、時として、ロビーに飾り切れないほど生花が並ぶ場合もあります。そんな時には有難迷惑になります。また、生花は、後かたずけに困る場合があり、主催者が遠慮される場合がありますので、その際にはご祝儀を持参します。

 それほど深いお付き合いではない場合は、事前に楽屋に挨拶に行きます。舞台は、開演前は忙しい場合も多いので、終演後に行く場合もあります。この際にお菓子等を持参する場合もありますが、ご招待を頂いた時には、土産は必要ですが、もし入場料を支払って伺うのであれば、手土産はあまり考える必要はありません。

 公演は、劇場を借りて行うため、終演後余り荷物が増えると、かたずけに苦労しますので、お菓子などを贈るのは良し悪しなのです。勿論相手と気持ちが通じ合っていて、相手の求めるものをご存知なら、土産持参も結構だと思います。

 何にしても、公演に伺う際には、自分が来ていることを主催者に伝える必要があります。それは同業者として、人の芸を見るマナーなのです。黙って見に来て、黙って帰ってしまうと言うのは許されません。同業で先輩後輩の関係なら、それは許されません。ところが、この最低のルールがわからないマジシャンがたくさんいます。全く縁がなければそれでもいいのですが、多少なりとも顔を合わせていて、知り合いで付き合いがあるならば、黙ってショウを見ることは失礼です。

 ましてや招待を受けた人が、楽屋に顔を見せずに黙って帰ってしまうのはいけません。ルール違反です。そんなことを日常繰り返していると、そうしたマジシャンは世間を狭くして生きる結果になるでしょう。

 招待を受けると言うことはその人と縁が、持てたことです。せっかく相手が縁を作ってくれているにもかかわらず、あいさつもなく礼も言わないで帰ってしまう人は、その先、相手にされることはないでしょう。

 我々がマジックを見せると言うことは、マジックを通して人の輪を作って行くことが目的なのです。仲間を増やして、理解者を増やして、そこから新たなお客様を作り、仕事を生み出し、後継者を発掘するのです。然し、元をただせば、たった一人のお客様と縁を作って、ショウを見てもらうことからすべてが始まります。

 縁とは何気ないものですが、然しながら簡単に出来るものではありません。人が私に興味を持ってくれて、なおかつ時間を使って、公演場所にまで見に来ようと考えるのは、相当に決断がいることです。実際に、自分が他の芸能や、映画を見に行くことを考えてみたならわかります。行こう行こうと思っていても、なかなか体がその方向に向かないものです。出かけて行って、なおかつ面白い、また来ようなどと思うことはよほどの縁なのです。そうであるならせっかくの縁を大切にしなければいけません。

 いい仕事のできる人、人を大切にする人は、日頃の人との接し方を見ていればわかります。大きな仕事をする人は、ちょっとした人との縁を大切にします。そうであるからこそ、その人に仕事の依頼が来るのです。人の善意を無にしてしまったり、感謝をしなかったり、横柄な応対をすれば、人はすぐに離れて行きます。

 どんなチャンスも初めはとても小さなきっかけから始まります。ちょっとした縁、これがこの先大きな仕事になると知っている人は、小さな縁を小さいとは思っていません。その気持ちがあるからこそ、必ず大きな仕事に発展をします。

 

袖触れ合うも他生の縁

 古いことわざで、袖(そで)触れ合うも他生(たしょう)の縁(えん)と言う言葉があります。他生を、多少と勘違いしている人がありますが、違います。他生とは前世のことです。ほんの行きずりの人と袖を触れ合ったことでも、実は、前世からの因縁で、あなたと付き合いを持つ縁がはるか昔から約束されていたのだと言う意味です。

もし昔の人が他生の縁を理解して人と付き合っていたなら大した哲学者です。

 こうして、コロナウイルスが蔓延すると、舞台のチャンスを失って、どう生きて行っていいか呆然としているマジシャンが多いと思います。そんな時でも、自分一人で何かをしようとすると、どうにもなりません。仲間を集めて、これまでの縁を生かしてお客様に声をかけて、ショウをするのです。大したことではありません。然し、こうした活動を繰り返してゆくことで、マジシャンの生活は何とかなるものです。

 他のアルバイトを探す前に、何とか自分の持っているテクニックで収入を上げられないものか、真剣に考えるのです。芸能で生きたいと思うなら、芸能で稼いでみせることです。そのためには常に、自分のショウを評価してくれるお客様を大切にすることです。まさに今のような時代になった時こそ、日頃の縁が問われます。

 大切なことは、これまでマジックの活動をしてきた際に、しっかりお客様と縁を作ったかどうかです。もしそれが出来ていなかったなら、今から始めることです。仲間や先輩のショウを見に行ったなら、楽屋に挨拶をしに行くことです。自分のショウを見てくれたお客様はほったらかしにしないで、はがきでもメールでもすぐに出すことです。小さな縁を少しでもふくらまして行くことです。そうした縁の積み重ねで、人はファンになってくれるのです。

 自分が人気商売であることを忘れないでください。お客様がいるから仕事が成り立つのです。チャンスを素通りさせていたり、ただ仕事が来ないことを嘆いていてもチャンスなんて来ないのです。縁は自らが作るものです。

続く

 

 

 

 

盆の墓参り

  昨日は、墓参りに行ってきました。女房も、娘も行きません。私一人です。8月16日は母親の誕生日でした。その日に墓参りするのも何かの縁でしょう。さて車でまず浅草に向かいました。お寺さんに何かお茶菓子を買おうと舟和に行き、あんこ玉が目に留まり、それを一箱買いました。土産にあんこ玉と言うのもお手軽ですが、子供のころ食べた記憶がよみがえり、自分で食べるわけでもないのに、無性にあんこ玉が欲しくなりました。

 あんこに、硬めの葛が外側をコーティングしてあり、3㎝程のボールになっています。子供のころこれを食べて、感動するほどうまいと思いました。ボールは黒だけでなく、緑や赤の色が付いているものも並んでいます。子供にはうれしいものです。要するにあんこの甘みだけの食べものですが、それがたまりません。

 今なら一つ二つ食べたらもう十分でしょうが、子供の頃はいくつでも食べたいと思いました。「将来、お金を貯めたら、あんこ玉を山ほど食べてやる」。と心に誓ったのです。しかし実際お金ができると、あんこ玉のことを忘れてしまいました。それが、この旧盆の季節になって、突然子供の頃の決意を思い出し、あんこ玉を買いました。

 

 時間を見ると13時です、昼飯を食べようと、あちこち歩きまわっているうちに、新仲見世の裏の、「ラ・ルース」と言うロシア料理の店が目が留まりました。この小径は今まで何百回も通っています。その都度ロシア料理のレストランがあることは認識していました。然し、未だ一度も入ったことはありません。この時期でも店は営業しています。これは一度体験してみるべきと思い、中に入りました。

 中はそう大きな店ではありませんが、とてもきれいに作られています。銀座や、赤坂で見られるようなアッパーミドルクラスのお客様を相手にするようなお店です。中にはすでに一組のお客様がいらっしゃいました。70代後半くらいのお爺さん夫婦と娘さんのようです。このお爺さんは相当にいい仕事をしてきて、贅沢もずいぶん経験してきたようです。

 話っぷりは下町の伝法(でんぽう=ぞんざい)なものいいですが、どこそこの食べ物のなにがいい、悪いを肴に、ビールを飲んで、エスカルゴをつまんでいます。このお爺さんの話に出て来る店は、いい店ばかりです。帝国ホテルの洋食も、「やっぱり何だなぁ、村上(帝国ホテルの名物料理長)がいなくなったら、帝国ホテルもおしまいだなぁ」。等とバッサリ言ってのけるあたり、相当金を使って飲み食いしていたようです。

 私は、人の話に聞き耳を立てるようなことはしませんが、このお爺さんは店中響くような声で食べ物の話をしますので、いやでも聞こえてしまいます。シベリヤ鉄道でモスクワに行った話など、列車の食事がまずかったなど、いろいろ面白い話が聞けました。

浅草にもこんなに豪儀な人がいたとは驚きです。

 そして、そんな上客を昼から、ビールとエスカルゴで迎えるラ・ルースと言う店は、浅草の隠れた老舗なのだと知りました。

 

 そのロシア料理ですが、私はロシア料理でこれは旨い、ここは大したものだと言う店を知りません。これまでもロシア国内で数か所、東京で数か所。熊本で一か所。合計で10回に満たない程度ロシア料理を食べましたが、心に残る店がありません。

 ロシア料理は、フランス料理の影響を受けているらしく、ビーフシチューや、ボルシチ、カツレツ、ステーキなど一通りありますが、フランス料理を超えた味わいを感じたことがありません。なんとなく大味なのです。今回は、ランチメニューで、ボルシチと、ロールキャベツのセットを頂きました。

 ボルシチとは日本でもおなじみの、トマトベースの野菜と肉の煮込みスープです。いわばミネストローネです。親しみやすい味ですから、これを嫌う日本人はいないでしょう。これはまずまずでした。その後、ロールキャベツが出て来ました。ロシア料理でロールキャベツは初めてです。しかも丸めたロールキャベツが大きくて、食べ応えがありました。トマトベースのソースがたっぷりかけてあり、基本、ロシア料理はトマト煮込みのスープが基本のようです。なんとなくなんでもトマトで煮込むところが田舎臭い感じもしますが、然し、味はなかなかです。このスープを残しては勿体ないと、パンを頼みました。これが後で誤算を生みました。

 パンは香味野菜が刻み込んであって、おいしかったし、ロールキャベツのスープを吸わせて食べると実にいい味わいでした。そのあとアイスティーがサービスにつきました。ランチの料金は2800円です。少々高いのは覚悟でしたが、支払いの段になると4000円になっていました。パンが追加だったのですが、薄いパン二枚を足して4000円とは驚きです。昼に食べる値段ではありません。やはりこの店へ来るには、よほど大きな仕事をして、帝国ホテルの料理長を村上と呼び捨てて、日本中の旨いものを食べ歩けるような身分の人にならなければ来れないのでしょう。

 もっとも家族で墓参りをすれば、1万円や2万円食費に使わなければならないのですから、今回は安い昼食です。いい経験でした。

 

 その後、墨田区にあるお寺に行きました。今年は卒塔婆(そとうば=木でできた平らで細長い塔)を立てました。墓石を洗って、花と線香を手向けて、手を合わせました。暑さの厳しい日でしたから、そう長居もできませんでした。

 行きも帰りもずっと、両親、祖父母、のことを思い出していました。年に一二度の墓参りは是非したほうが良いでしょう。母親は、父親のお陰で貧しい暮らしを余儀なくされましたが、必死で働いて、家を建て、墓を買い、親子の芸人を二人育てました。欲の少ない人で、つつましい一生でした。母親のお陰で、父親は、全くほかの仕事をせずに、一生芸人で過ごせました。これも幸せな人でした。

 生前親父に、「夫婦が長続きする秘訣は何か」、と尋ねると、「早いうちに全てをあきらめさせることだ」。と言いました。酒飲みであることを諦めさせる。博打が好きなことを諦めさせる。毎月稼ぎ持って来ると言うことを諦めさせる」。

 つまりだめを早いうちに認めさせることが長続きの秘訣なのだそうです。親父は亭主と言うよりも、飼い猫のようなもので、好きな時に帰ってきて、家に金を入れることもなく、毎日遊びに出かけて行きます。それを何も言わずに認めている母親は全てを諦めていたのです。それを押し通して生きて行けたのですから、昭和の芸人は幸せです。

続く

戦争体験の話

 昨日は、若いマジシャン4人に指導をしました。この輪が広がって、一緒になってマジックの研究ができるようなチームが出来たらいいと考えています。そのためには、研究するだけでなく、出演場所も作らなければいけません。テレビ番組も必要です。それらが出来て、日本のマジック界に活力が生まれて来るでしょう。そうなるために私はもう少し働かなくてはいけません。まだまだ私のなすべき仕事はあるようです。

 

 昨晩、ねづっちと娘のすみれと私で、高円寺の寿司屋に行きました。ねづっちはいつもの通り、炙り縁側を巧そうに食べ、デカハイボールをこれまたうまそうに飲みました。娘もそれに合わせて、デカハイボールを飲んでいました。このところの娘の酒量には驚かされます。私が最近飲まなくなったのに反比例して、娘はぐいぐい飲みます。顔色も変わらず、酔った様子も見せないのですから、元が強いのでしょう。

 ねづっちは全くマイペースです。寿司ネタもよく食べ、合間に縁側も頼みます。実に幸せそうに寿司をほおばるその馬面を見ると、憎めない男だなぁ、と思います。

 ねづっちもコロナウイルスで仕事が少なく、苦労しているようです。漫才の常設館である浅草東洋館漫才協会が主催して公演していますが、新宿の小劇場でのコロナ騒ぎ以来、観客が激減して、一日公演して、10人、20人と言う日もあるそうです。毎日20本から漫才が出演する公演で、観客10人では漫才協会も破産しかねない状況です。

 人を楽しませたいと思っている人たちが生活して行けない社会なんて、いい社会であるはずがありません。ねづっちだけでなく、ナイツや、おぼんこぼん師匠も出演しています。皆さんで応援してあげてください。

 

戦争体験の話

 私は昭和29年の生まれですから、太平洋戦争の経験はありません。しかし、私の両親は、朝に晩に、食事の時間になると必ず戦争の話をしていました。両親にすればわずか10年20年前のことですし、戦争当時両親は20歳くらいですから、その体験は忘れようにも忘れられない思い出だったのでしょう。

 当時大田区の池上に住んでいた親父は、夜にB29が編隊を組んでやってきて、ゴーというすさまじい豪音が響き渡り、上空から焼夷弾を落とすのが映画を見ているかのようによく見えたそうです。蒲田や、糀谷あたりの工場群が、ぱっと昼間のように明るくなり、それから大火となって、たちまち焼け尽くされたこと。その後、蒲田あたりでけがをした人たちは、病院まで焼かれてしまったために、親父が住んでいた池上まで、リヤカーや、戸板で運び込まれたそうです。親父の家の並びが病院で、そこにはおびただしい被災者が病院の外にまでうずくまって治療を受けていたそうです。

 横浜の空襲の際には、中木戸駅横浜市内の京浜急行の駅)発行の切符が池上まで、大量に風に乗ってキラキラと雪が降るかのように空から落ちてきたそうです。落ちてきた切符を見て親父は、「これで横浜もお終いか」。と知ったそうです。

 迎える日本軍の高射砲は、B29の高度にまで届かず、戦いようがありません。中には隼に乗った戦闘員が果敢にB29に近づき戦いを挑みますが、なかなか撃ち落とすことが出来ませんでした。昭和19年の時点で、もはや制空権は完全にアメリカに奪われていたのです。

 

 私の中学校の友人の母親は、子供のころ茨城県の小学校に通っていて、帰宅途中で田んぼのあぜ道で米軍機に遭遇します。米軍の戦闘機は3機で、小学生の帰宅の列を狙って機銃照射してきました。子供たちはすぐにあぜ道の陰に隠れたのですが、戦闘機は何度も旋回して繰り返し攻めて来ました。銃を持たない小学生を何で狙い撃ちするのか理由が分かりませんが、子供たちは、畔に顔を伏せて敵機が去るまで隠れていました。

 然し、友人の母親は、どんな顔をした人が銃を撃って来るのかと思って、顔を上げて戦闘機を見ると、偶然にも至近距離で、戦闘機の操縦士と目が合ったそうです。その時の操縦士は、若くてハンサムだったと語っていました。自分が銃で撃たれる危険のある瞬間でさえも、女性は相手の男の容姿を気にするものなのかと得心しました。

 

 親父は池上に住む前は、川崎の旭町と言うところで育ったのですが、そこは貧しい長屋の並ぶ街で、余り暮らしやすい所ではなかったようです。「町内に太った大人が一人もいなかった」。と言っていました。

 同じ時期、母親は、横浜に暮らしており、母親の姉は横浜の松屋デパートでNo1と呼ばれた美人だったそうです。当然男性からのデートのお誘いも多く、姉を誘い出すために、まずは、私の母親に近づき、姉妹でダンスパーティーに誘われたそうです。場所は横浜グランドホテルで、海軍の将校に誘われて、グランドホテルの玄関に行くときは、まるでシンデレラが王宮に入るような夢心地だったと言っていました。

 両親に、「戦前と今ではどっちが良かった」。と聞くと、母親は「断然戦前よ。戦前は何もかも豪華で、町は雰囲気があって、綺麗で、どこも立派だったわ」。父親は、「今のほうがいいね、昔は貧しくて、生きているのがやっとだった。今のほうが何でも自由に手に入る」。これは二人が育った環境が違い過ぎて、そういう話になったのだと思います。

 父親は戦前から慰問の仕事をしていて、一座を率いて、地方の農村や、軍隊を回ったりして、ギターを弾いて替え歌を歌ったり、漫談をしたり、コントをしたりしていました。金を貰い、食料を貰っていましたから、飢えると言うことはなかったそうです。

 むしろ、戦時中は金を貰っても使うところがなかったため、戦後は相当に金を持っていたそうです。その金で肉や砂糖を闇で買うのですが、朝鮮人の友人に欲しいものを頼むと、どこから調達するのかは謎ですが、たちまち砂糖でも水あめでも、持ってきたそうです。砂糖も水あめも当時の日本ではいくら金を積んでも手に入らないものだったのです。

 お陰で、饅頭でもおはぎでも自宅で作ることが出来たそうです。戦後に劇団を起こしたときに、座員になった人たちを集めて饅頭をふるまうと、彼らは涙を流して饅頭を食べたそうです。朝鮮人の闇ルートと言うのは全く予想もできないほど広範囲のルートを持っていたと言っていました。全ては両親から聞いた戦前戦後の時代の話です。

続く

コロナの終息はスゥエーデン方式のみ

 今日は、朝からテレビ局のディレクターと打ち合わせ。そのあと、お一人、ステージマジックの演技を拝見してアドバイス。午後からは4人の若い人がマジックを習いに来ます。夜はねづっちと、毎年恒例の飲み会です。朝から晩まで休みがありません。こんな忙しいお盆の一日は今までなかったでしょう。でも、どれも私のやりたいことですから、どんなにハードな日程でも満足です。

 日本でもすでに、ステージマジックから、手妻まできっちり指導ができるマジシャンがいなくなってきました。私の知っていることで、次の世代の人が学びたいと考えているマジックがあるなら、今のうちに伝えておかなければいけません。私が倒れてしまったら、マジックの継承はアウトです。少し真剣に指導をやっておこうと考えています。

 

コロナの終息はスゥエーデン方式のみ

 ニュースで、スゥエーデン方式は破綻したと述べている記事がありますが、それは全くの誤報です。破綻したのは、非常事態宣言をしたり、ロックダウンしたりした、イギリスやアメリカのやり方です。結局ロックダウンは、社会を混乱させ、経済を衰退させ、肝心のコロナウイルスは消えなかったではありませんか。それは日本も同じです。

 非常事態宣言は、宣言した当初は、数値の上では感染度合いが下がりますが、非常事態を解除すればたちまち数値が上がります。それは当たり前のことで、非常事態宣言をしたからと言って、コロナウイルスの数は変わらないからです。そうなら、会社や学校を閉鎖することは全く無意味です。むしろ、働かないで、出歩かなければ、人の生活は成り立たず、経済が立ち行かなくなります。こんなことを国や地方自治体が推し進めていたら、国全体が衰退します。

 企業も個人営業も、このままでは家賃が払えず、事業のために借りた資金が返済できなくなります。そうなれば地方自治体がいくら資金援助しても足りなくなります。

 今まで、コロナウイルスで亡くなった人は、1000人です。1000人と言うのは、毎年、肺病や、インフルエンザで亡くなる人の数の数分の一です。なぜこうも世間が大騒ぎするのかがわかりません。更に、コロナに罹って亡くなる人は、日本の人口から比べたなら、10万人に一人なのです。単なる感染者なら、風邪と同じです。知らないうちに罹って、知らないうちに抜けて行きます。

 テレビではコロナウイルスが大感染をしているように報道していますが、これまでで感染者は5万人です。人口比で2500人に一人です。通常の流行性感冒では、学校閉鎖などがありますが、どこの学校のクラスでも、何人かが感冒に罹ると、初めて学校が閉鎖します。つまり日本の感染者が数百万人になって初めて学級閉鎖です。然しコロナウイルスの感染は全くそんな状態ではないのです。自分たちの周りに全くコロナの感染者など見当たらないではありませんか。

 このまま過剰な反応が続くと、多くの会社が倒産します。借金を支払えない人の自殺が急増します。コロナは終息しないで、人が自殺する社会を作ってどうしますか。

ここで社会の見直しが必要です。

 スゥエーデン方式は、かなりの好成績を上げています。スゥエーデンでは、学校閉鎖もありません、企業も普通に活動しています。市民は、夜にはレストランで食事をし、バーに行き、小さな劇場でショウも見ています。全く何もコロナウイルスが騒がれる以前と変わらないのです。マスコミも静かなものです。それでいて、感染の数値は今大幅に減少しているのです。そもそも、スゥエーデンでは、感染者の数値をテレビで発表したりはしないのです。発表しても何の意味もないからです。あくまで、コロナの重症患者の治療を妨げないようにすれば何も問題もないからです。

 むしろ大騒ぎをして、病院に、感染してもいない人が集まって、検査を受けるなどして、病院業務を滞らせることの方に警鐘を呼びかけています。そんなことをすれば、コロナの重症患者は勿論のこと、通常の、治療を求めている、別の病気の患者に迷惑がかかるのです。そのためスゥエーデン政府は、いたずらにコロナウイルスを騒ぎ立てないように呼びかけています。騒いでも解決の道はないのです。

 

 コロナウイルスの検査と言うのは、病院の負担がとても大きいのです。一人ひとり検査をするために、部屋の中を除菌しなければいけません。部屋にコロナウイルスが残っていては、感染してしまうからです。更に、医師や看護婦の来ている白衣もすべて一人ひとり取り換えなければいけません。検査に要する危惧も除菌をして、取り替えなければいけません。それらを一人一人していたら、掃除やら消毒のために小さな病院は、数人の検査のためだけに大部分の医療活動がとられてしまいます。効率が悪いのです。

 だから病院は検査などしたくないのです。もし病院を正常に医療活動させたいなら、どうでもいい人が検査を受けるのはやめさせることです。テレビが、検査しろと大騒ぎをしていますが、あれこそ、医療の妨害です。むしろ重症者以外病院に来ないように呼び掛けることです。

 

 ここらで、コロナウイルスに対する認識を変える必要があります。先ず、コロナウイルスに罹ることを恐れないことです。コロナは流行性感冒と同じことです。しかも、罹る確率は低いのです。テレビではしきりに有名人の名前を出して大騒ぎしていますが、罹っている人の数は日本全体で5万人です。そして、その人たちのほとんどが治っています。風邪と同じです。重症者は毎日10人程度です。それも衰弱した老人か、重い病気を持っていて併発した患者です。決して大騒ぎをする話ではないのです。このことをテレビやマスコミがもっともっと伝えるべきです。

 テレビは感染者の数値を毎日報道するのはおやめなさい。何も解決につながっていません。更に責任のないコメンテーターに意味のないコメントを言わせることをおやめなさい。タレントや、政治評論家がコロナウイルつを退散させるいい手立てを持っていますか。いたずらに騒いで、人を怯えさせているだけです。百害あって一利ありません。

 観光、レストランや、劇場公演などを再開すべきです。劇場の座席数などを減らして営業するなどと言うことは無意味です。山手線や、中央線が連日超過密な状態でサラリーマンを運んでいる現状を見たなら、レストランや劇場にだけ空間を求めるのは矛盾です。政治が、レストランに空間を求めるなら、まず山手線をどう空間を作るかを考えてからしなければ片手落ちの政策です。でも現実にはそれができないのです。できないなら、レストランや劇場に無理難題を言うのはやめることです。

 10時以降外出禁止。これも何か根拠がありますか。夜になるとウイルスが大量に横行しますか、そんな話は聞いたことがありません。深夜に仕事をしなければならない人もいるのです。人の生活の邪魔をする必要は全くないのです。

 飲食店やホテルのパーティーを取りやめるのは意味のないことです。ほとんど罹ることのないウイルスに対して過剰な反応です。しかも罹っても寝ていれば治ります。そうなら日本人が大騒ぎする話ではありません。

 恐らく秋口になれば、またぞろコロナの第二波が来ると大騒ぎする教授や、医者が現れるでしょう。そんな事態になれば、その時対策を講じるべきで、まだ見ぬウイルスにおびえて外出を控えるのは、狼がでるぞと言った子供の話を鵜呑みにして、村から出ようとしない村人と同じです。そんなことをしていては生活が出来なくなります。みんな外に出て働くことです。今は普通の生活をする、それ以外解決の道はないのです。

続く

 

シベリウス

 先日(8日)、峯村さんにお会いした折、藤井あきらさんのレクチュアーDVD2を持って来てもらいました。私はあまりレクチュアーDVDを見ることはないのですが、UGMのカタログを何気に見ているうちに、面白そうだと思って購入しました。

 実際見てみると、その閃きは正解でした。基本的なマジックを実に自分なりに咀嚼していい作品に仕上げています。これがプロのレクチュアーです。思わず手を叩いて画面に向かってエールを送ってしまいました。あまり肩を張らずに気楽に見るレクチュアービデオとしてはいい作品です。お勧めします。

 

 昨日は、踊りの稽古の後に電気屋さんに行き、ラジオカセットデッキを買いました。いつも使っているラジカセがいよいよ壊れてしまって役に立たなくなったためにやむなく購入です。今の時代はあまりラジカセを使わないようですが、私のようなものにとってはラジカセは重要です。家に帰って色々CDをかけてみましたが、小さい装置にもかかわらずかなりいい音で鳴ってくれたので満足しています。そこで久々趣味のクラシック音楽を出してしばらく聞き込みました。

 

シベリウス

 私の書くブログの表題の中で、最も支持者の少ない項目が、クラシック音楽と自動車でしょう。クラシックに関しては、ベートーベンや、モーツアルトあたりまでの話題でしたらまだついてきてくれる人もありますが、マーラーブルックナーになるとたちまち興味の人の数が減ります。ましてや、シベリウスとなるともう駄目です。

 そもそも、日本の演奏会のプログラムにも、シベリウスが出て来ることが殆どありません。CDの数も限られています。しかも、シベリウスの作品の中で世間が認知している曲と言えば、フィンランディア、カレリア組曲交響曲2番、バイオリン協奏曲、その4曲でしょう。

 先の3作の曲は、シベリウスが若いころに、世に出るために作曲したもので、ある意味大衆受けを狙って作った作品です。そのため、どれもメロディックで、そう複雑な作りではありません。彼の狙いは当たって、彼はフィンランド政府から芸術家として認められ、終生年金をもらうようになります。国民からは慕われ、フィンランディアに至っては第2のフィンランド国歌と呼ばれています。

 しかし彼の音楽家としての真価は、実はこの後の作品にあります。交響曲も、3番から7番までの後期の作品が素晴らしく、私も後期の交響曲を良く聞きます。

 どの曲も、フィンランドの広大な自然と厳しい気候を感じさせます。常にひんやりとした北風が吹いています。曲の動機はささやかなものが多く、知らずに聞いていると何事も起こらずに音楽は進行してしまいます。従って、初めて聞いたときには、「何だこりゃ」と思うような、およそぱっとしない曲なのです。曲はベートーベンのような明確なテーマが聞こえずらく、展開も、うだうだと語りたいことがはっきりせずに、もどかしい思いをすることがしばしばです。

 と、こう書くと皆さんはきっと「つまらなそう」。と思われるでしょう。そうなのです。初めはつまらなく感じます。然し、何ヵ所か、心に響く箇所があります。それを頼りに何度か聞いていると、そこから思いもよらない深いストーリーが始まります。彼の音楽は私小説のようなところがあり、彼の立場に立って、彼の目でものを見ようとしないと、言わんとするところが理解できない部分が多々あります。極めて内省的で、シャイなのです。北欧の人が喫茶店などで話をしていると、顔と顔を近づけて、小声でぼそぼそと話している姿をよく見ます。元々が北欧の人は静謐で、謙虚なのです。あの気持ちが理解できないとシベリウスは見えて来ません。

 言って見ればシベリウスは、私の性格とは全く真逆な人ではありますが、芸術の面白さというものは、絶対に自分自身が知り得ない世界を事細かに見せてくれることです。

 シベリウスは、国民の尊敬を一心に受けたのち、自分の本当に追求したい世界の音楽を作り始めます。然し、それは時としてみんなが顔を見合わせてしまうような、理解不能な作品が多々生まれました。

 交響曲4番などは、難解と言うよりも、晦渋、世界中の音楽評論家が、評価に苦しむような不可解な作品でした。いまだに交響曲4番が演奏会の曲目に上がることは稀の希でしょう。然し、これほど、シベリウスの内面を正直に吐露している音楽もありません。曲は時として、鬱病患者のように、世間から離れて、自分の世界に閉じこもって行きます。どの楽章も消え入るように終わっています。伝えようとしていることの意味が分かりません。皆さんもご興味あったら一度聞いてみてください。恐らく3分で逃げ出したくなるような陰気な曲です。

 私も大概の曲は黙って聞きますが、これは困りました。初めは何を語ろうとしているのかさっぱりわからなかったのです。然し、繰り返し何度も聞いているうちに、彼の心の奥の悩みが聞こえてきました。彼は遠慮がちに、謙虚に訥々と、心の苦しみを語ります。それがあるとき私の波長とつながり、その思いがよくわかるようになります。初めは変な音楽だと思っていたものが、変でも何でもなく、彼の深遠な悩みに対して、余りに浅薄な、月並みな返事で返そうとしていた自分が、いかにものの見方が低俗で、つまらない人間であったかと知り、一人赤面するのです。

 生きると言うことはそんなことではない。無暗な同情なんて何の役にも立たない。シベリウスは元々同情なんて求めていないのです。生きることの悲しさ、苦しさ、それを切々と自分の言葉で語っているのです。それがわかった時に、容易にたどり着けない彼の思いに呆然とするのです。それが音楽の経過とともに展開して、やがてして消え去ったあとに、フィンランドの自然と、シベリウスの世界が持つ寂寥感が残ります。

 本当のシベリウスの音楽の真価は、交響曲、6番7番なんでしょう。6番は幾分メロディックで理解しやすい曲です。清らかで、モーツアルトのような素直な曲ですが、そうは言っても、俗を寄せ付けない厳しさがあります。この先百年たっても6番がポピュラーになって、広く受け入れられることはないでしょう。

 シベリウスの音楽は内省的で、平易に本心を語ってはくれないのです。でも、仕事のない日に、朝から書き物をして、時に気分転換に、コーヒータイムに掛ける曲としては最高の贅沢です。よろしかったら一度聞いてみてください。あまり熱心にはお勧めできませんが、

 

 実は数年前に、フィンランドのサーカスの経営者から出演依頼が来たのです。話はそのまま止まっています。女性のオーナーでしたが、私の蝶の映像を見て感動してくれて、その簡素な世界、静寂な芸能を是非フィンランドの人に見せたいと言ってくれました。その時、私は、「あぁ、蝶の感性は、シベリウスに通じるものなのかなぁ」。と勝手に思いました。私がシベリウスを愛するのも、案外求めるものが同じだからではないかと感じたのです。できることならフィンランドに行って蝶を飛ばして見たいと思います。フィンランドの人が蝶をどう見てくれるのか、楽しみです。

続く

ご近所の話 8 蚕糸(さんし)の森公園

 昨日は、朝から鼓の稽古、そのあと前田の稽古、午前中は稽古ですべて終わりです。弟子は私を専属につけて、みっちり細かな部分まで習うのですから、うまくなるのは当たり前です。昨日は鳩出しの稽古で、40年近く前、私がチャニングポロックから直接習った、細かな技法や、考え方を伝えました。

 日本のアマチュアマジシャンは、ビデオを見て、想像だけでマジックを盗み取ってしまいがちです。然し、実際当人に習ってみると、考えてもいなかったことがいろいろわかります。アマチュアがどんな演技をしようとかまわないのですが、プロで、しかも、その道のエキスパートとして生きようとするなら、やはり直接習わなければいけません。私の鳩などはもう演じることもなくなってしまいましたが、ある時期、私のイリュージョンチームのオープニングアクトとして、ドル箱を稼ぎあげた手順でした。

 今になってもう一度指導しながらあの日のことを考えると、自分に何が出来ていて、何が足りなかったかよくわかります。良い部分も、間違った部分も素直に弟子に伝えて、弟子がそれを選択してゆけばよいのです。

 

蚕糸の森公園

 私の家から徒歩10分くらいで蚕糸の森公園があります。蚕糸(さんし)とは生糸のことで、戦前から戦後昭和40年くらいまでは、生糸の生産は日本の輸出産業のトップにあったのです。その生糸産業の司令塔である、養蚕試験場が高円寺にありました。無論私が高円寺に引っ越してくる以前に解体され、今は杉並第10小学校と、蚕糸の森公園に変わっています。

 私の娘、すみれがまだ幼いころは、時々散歩がてらここまで連れて来ました。広い公園で、中は池があったり、雑木林になっていたりして、車が入れないため、幼い子供を安心して遊ばせることが出来たのです。

 養蚕試験場があった頃は、敷地1万坪ほどもあり、研究室や工場、倉庫、本館など60以上の建物が建っていたと聞きます。実は、生糸の産業は、明治維新以来、日本の根幹をなす産業で、政府も資金を惜しまず投資をしていたため、日本の生糸は世界的にも有名でした。

 然し、品質においてはばらつきがあり、必ずしもAランクの生糸ではありませんでした。フランスや、イタリアで生産する生糸に比べて質が落ちると言われていたのです。それを心配した明治政府は、根本的に日本の生糸を見直すために、高円寺に養蚕試験場を作ることにしました。明治41年のことです。

 ここで、蚕の品種改良から、種板(蚕が産んだ卵を和紙にびっしり張り付けたもの。この種板が翌年の蚕の幼虫になります。種板一枚がずいぶん高価に売買されたのです)、の改良。糸にする過程での品質統一、管理、全てを見直し、養蚕事業を科学的に研究したのです。勿論そんな組織だった活動をしている国はアジアの中では日本だけでした。お陰で品質は世界一になり、10年後の大正7年には、生産量が二倍になりました。まだ重工業が未発達だったころの日本の産業を大きく支えていたのは生糸だったのです。

 生糸の生産地は、群馬、栃木、埼玉などの北関東で、丘陵地に桑の木(蚕は桑の葉を食べて生きています)、を植え、家の二階に、蚕棚(かいこだな)と言う、戸板のような板の上で蚕の幼虫を飼います。どこの農家でも二階には蚕棚を効率よく並べられるように、引き出し状に棚が収まるように作られていて、二階と言う二階にはびっしり蚕が育てられていました。

 これが、さなぎになるころには、食欲が旺盛になり、バリバリ桑の葉を食べます。何百万匹もの蚕が一度に桑の葉を食べるために、二階はがしゃがしゃと言う、機械音のようなけたたましさになります。そうなると、朝に摘んだ桑の葉っぱを与えるだけでは足らなくなり、日に何度も桑畑に行き、家族総出で新鮮な桑の葉を摘みに行きます。やがて蚕は繭を作り、出来た繭は、富岡製紙工場に送られ、生糸として製品になります。

 

 どうして私が生糸の作り方を知っているかと言うと、群馬に借りている稽古場が、以前は古民家一軒を借りていて、そこの二階っがそっくり蚕の部屋として残っていたからです。蚕棚もそっくり残っていました。もし広い桑畑があれば、今でも蚕は育てられるはずです。但し昔のように家に人手がありませんから、こうした労働は今は難しいかもしれません。その家主である田村さんから、蚕の育て方を聞いたわけです。

 蚕は何千年も人の手によって育てられたために、自分で桑の葉を探して動き回ることが出来ません。目の前に葉っぱをおいてやらないと葉を食べられないのです。うっかり棚板から落ちたりすると、自分で桟を這い上がって戻ることが出来ません。そのまま干からびて死んでしまいます。雄雌の交尾すら自分でできないのです。人が適当にくっつけてやらないと交尾もできません。全てに退化してしまって、全く人が手をかけない限り生きて行けない生き物なのです。

 当然、人の手間がかかり、養蚕業は休む間もありません。然し、その昔、北関東の山間地で、まとまった現金収入が入る方法はそうそう数はなく、貴重な収入源だったのです。しかもできた糸は軽く、小さく、移動が楽で、しかも高価な金額で取引されますから、北関東では有難い産業だったわけです。

 生糸は北関東だけでなく、甲信越、或いは奥多摩の方でもたくさん生産されました。そうした蚕の生産地の中央に位置したのが高円寺の養蚕試験場だったわけです。昔の写真を見ると、東大の安田講堂のような立派なビルが建っています。日本の輸出産業の根幹を握る試験場ですから、それぐらいのビルがあっても当然でしょう。それが昭和50年ころに、生糸の衰退とともに取り壊されました。そして公園になったわけです。

 然し、私は壊す理由はなかったと思います。今に残せば、富岡製糸工場と並んで世界遺産になったはずです。ここまで科学的に、しかも組織立って産業を支援した研究所は世界にそうはありません。ここと富岡をセットで残して初めて日本の養蚕が生きた歴史資料として残されたはずです。なぜ壊してしまうのでしょう。日本人はさんざん生糸で生活させてもらって、貧しい時代の日本を助けてくれた産業に、感謝や、誇りはないのでしょうか。残念です。古い歴史を守って、残してゆきたいと思う私から見たなら、理由なく破壊することは暴力以外の何物でもありません。私はこれを壊してしまった人を恨みます。日本の歴史的財産を奪ったのですから。

続く