手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

そもそも興行の始まりは

 昨日は、神田明神の地下にある江戸っ子スタジオでショウをしました。曲芸や、幇間芸、落語などありまして、90分の公演です。完全に企業のための公演かと思っていたら、一般の参加も大丈夫だそうです。事前予約で4,500円です。21日と25日にも公演します。ご興味ございましたら、CoCoRoさん(03-6811-6675)までお問い合わせください。

 

 また、今週末土曜日(22日)には、人形町玉ひでで手妻の公演をいたします。

いつもの若手、日向大祐さん、ザッキーさん、前田将太、のほかに、早稲田康平さんも入ります。賑やかなメンバーですので、きっとご満足いただけると思います。お申し込みは事前に予約をお願いします。

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そもそも興行の始まりは

 今日でいう、イベントとか、ショウビジネスと言う言葉は、その昔は興行と言いました。今でも吉本興行は社名にそのまま興行の文字を使っています。なぜショウをすることを興行と言うのかと考えてみますと、江戸時代は、芝居や、手妻、軽業(かるわざ=アクロバットのこと)を見ると言うのは一大イベントだったのです。芝居などは、丸一日かけて興行していたのです。朝の六時から三番叟(さんばそう=神事に近い舞踊で、芝居や興行の始まりには必ずこの踊りが付きました)。それから芝居が始まり、終演は日の暮れまで行っていました。

 朝六時に、浅草猿若町の芝居を見るとなると、例えば日本橋に住む商家の家族は、前の日から弁当やら、お寿司を作り、深夜の三時ころから家族や奉公人を引き連れて家を出て、提灯の灯りを灯して、徒歩で二時間かけて猿若町につきます。これだけでも大仕事ですが、それから芝居が始まり、朝飯、昼飯、晩飯まで、三食、芝居小屋の中で持ってきた弁当を食べます。日の暮れになって芝居が終わると、また提灯を灯して日本橋に帰って行きます。

 当時、芝居はめったに見ることが出来ませんでしたので、家族や、奉公人まで引き連れて芝居見物をすると言うのは、家の一大イベントだったわけです。

 それでも、江戸に住んでいれば、弁当持参で歩いて芝居小屋に出かけられますが、地方都市に住む人が芝居を見るとなると簡単ではありません。先ず街道を歩いて江戸に出なければなりません。江戸で宿を取り一泊し、翌朝には衣装を着かえて、芝居見物をして、また宿に帰り、一泊泊まって翌早朝に又街道を歩いて家に帰ります。

 その往復の旅費から、宿代、食事代、芝居の見物料。夜の酒代など、どれほどの出費になったか知れません。それが一人二人ではありません。連日、近郷近在から数百人のお客様が芝居見物に押し掛ける度にそうした出費をします。芝居は短くとも一か月、長ければ半年も興行します。そうなると、その間どれほどの人が、方々に出費をしたかと考えたなら、相当なお金が江戸の町に落ちたことになります。一つの芝居、一つの興行が人を集めると言うことは周辺に大きな金が動くことになります。これが、行(経済活動)を興すことになり、興行と呼ばれたわけです。

 特に地方都市での祭りなどで催される仮設舞台での興行などは、経済力の乏しい地方の村々などでは願ってもないほどの恵みになったのです。

 今の感覚で考えると、仮設の舞台がそれほど大きな経済効果を生むとは考えられませんが、江戸時代は、徹底したデフレ経済で、日常は銭や金が村や町に出回っていなかったのです。金も銭も、金持ちの家の蔵にしまわれていて、使われなかったのです。何しろ金持ちは何でも持っていますから、金を使いません。溜まるばかりです。

 今日の銀行に匹敵するようなシステムがありませんから、金を必要とする人の所に金が回りません。金は金持ちの家に死蔵するばかりで、外に出ません。金のない人たちは、仕方なく帳簿で支払いのやり取りをします。つまりつけで買い物をしていました。その支払いは、年に何度かの作物が育った時に、金に換えてこれまでのもろもろの支払いをしていました。江戸時代は農本主義ですから、全ての職業の人は、農業の生産に合わせる以外なかったのです。時代劇を見ていると、みんなが小銭で酒を飲んだり、物を買っていますが、実際にはあんな風には銭金は使えなかったのです。

 ましてや地方の村々ではまず銭金を見ることがありません。当然、経済が回らず、不便な思いをします。そうした流れを変える行為が興行だったのです。お寺や神社の境内に芝居小屋を建て、その周りに露店商が並び、五日なり七日間なり祭りを行うと、近郷近在から人が集まり、みんなが溜め込んでいた銭金を一気に散財します。

 すると、寺には賽銭が入り、店は物が売れて儲かり、芝居小屋は収入が上がり、近所の宿屋や、飲み屋、座敷、駕籠かき、人足まで潤います。そうした銭金が村に落ちると、今まで眠っていた銭金が市中に出回りますので、滞っていた経済が一気に動き出し、町はぱっと華やいで明るくなります。これがために、江戸時代の人々は、芝居や手妻、軽業の興行を待ち焦がれたのです。

 そうなると、日頃は店らしい店もなく、人通りも大したことのない村の神社周辺が、にわかに人が大勢人が集まり、見たこともない芸能が連日開催されて、一大歓楽街に変わり、人はうきうきとします。これを指して、興行と言うのは、今我々がイベントとか、ライブ公演などと聞くのとは違い、全く別格の思いがあったはずです。

 

 神社やお寺さんと芸能との結びつきは、奈良時代から既に始まっています。奈良の本社から派遣された芸人は地方の村々の末寺、末社を回り、数日ずつ興行して行きます。一か月二か月と回ることで芸人集団は大きな収入を得ていたのです。それらが今も続いていて、芸能と寺社との結びつきはいまだに深いのです。それは寺社の求めることでもあり、芸人の仕事場でもあり、各村の熱望する活動でもあったのです。

 そうした人の求めに対して、芝居や、手妻、軽業が興行の中心に位置していたわけですから、その価値の大きさは今とは考えられないほど、想像を超えたものであったはずです。当時の芸人たちが、村や町おこしの主役であったと思えば、芸能の果たした役割は今日以上に大きかったわけです。

続く