手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ご近所の話 8 蚕糸(さんし)の森公園

 昨日は、朝から鼓の稽古、そのあと前田の稽古、午前中は稽古ですべて終わりです。弟子は私を専属につけて、みっちり細かな部分まで習うのですから、うまくなるのは当たり前です。昨日は鳩出しの稽古で、40年近く前、私がチャニングポロックから直接習った、細かな技法や、考え方を伝えました。

 日本のアマチュアマジシャンは、ビデオを見て、想像だけでマジックを盗み取ってしまいがちです。然し、実際当人に習ってみると、考えてもいなかったことがいろいろわかります。アマチュアがどんな演技をしようとかまわないのですが、プロで、しかも、その道のエキスパートとして生きようとするなら、やはり直接習わなければいけません。私の鳩などはもう演じることもなくなってしまいましたが、ある時期、私のイリュージョンチームのオープニングアクトとして、ドル箱を稼ぎあげた手順でした。

 今になってもう一度指導しながらあの日のことを考えると、自分に何が出来ていて、何が足りなかったかよくわかります。良い部分も、間違った部分も素直に弟子に伝えて、弟子がそれを選択してゆけばよいのです。

 

蚕糸の森公園

 私の家から徒歩10分くらいで蚕糸の森公園があります。蚕糸(さんし)とは生糸のことで、戦前から戦後昭和40年くらいまでは、生糸の生産は日本の輸出産業のトップにあったのです。その生糸産業の司令塔である、養蚕試験場が高円寺にありました。無論私が高円寺に引っ越してくる以前に解体され、今は杉並第10小学校と、蚕糸の森公園に変わっています。

 私の娘、すみれがまだ幼いころは、時々散歩がてらここまで連れて来ました。広い公園で、中は池があったり、雑木林になっていたりして、車が入れないため、幼い子供を安心して遊ばせることが出来たのです。

 養蚕試験場があった頃は、敷地1万坪ほどもあり、研究室や工場、倉庫、本館など60以上の建物が建っていたと聞きます。実は、生糸の産業は、明治維新以来、日本の根幹をなす産業で、政府も資金を惜しまず投資をしていたため、日本の生糸は世界的にも有名でした。

 然し、品質においてはばらつきがあり、必ずしもAランクの生糸ではありませんでした。フランスや、イタリアで生産する生糸に比べて質が落ちると言われていたのです。それを心配した明治政府は、根本的に日本の生糸を見直すために、高円寺に養蚕試験場を作ることにしました。明治41年のことです。

 ここで、蚕の品種改良から、種板(蚕が産んだ卵を和紙にびっしり張り付けたもの。この種板が翌年の蚕の幼虫になります。種板一枚がずいぶん高価に売買されたのです)、の改良。糸にする過程での品質統一、管理、全てを見直し、養蚕事業を科学的に研究したのです。勿論そんな組織だった活動をしている国はアジアの中では日本だけでした。お陰で品質は世界一になり、10年後の大正7年には、生産量が二倍になりました。まだ重工業が未発達だったころの日本の産業を大きく支えていたのは生糸だったのです。

 生糸の生産地は、群馬、栃木、埼玉などの北関東で、丘陵地に桑の木(蚕は桑の葉を食べて生きています)、を植え、家の二階に、蚕棚(かいこだな)と言う、戸板のような板の上で蚕の幼虫を飼います。どこの農家でも二階には蚕棚を効率よく並べられるように、引き出し状に棚が収まるように作られていて、二階と言う二階にはびっしり蚕が育てられていました。

 これが、さなぎになるころには、食欲が旺盛になり、バリバリ桑の葉を食べます。何百万匹もの蚕が一度に桑の葉を食べるために、二階はがしゃがしゃと言う、機械音のようなけたたましさになります。そうなると、朝に摘んだ桑の葉っぱを与えるだけでは足らなくなり、日に何度も桑畑に行き、家族総出で新鮮な桑の葉を摘みに行きます。やがて蚕は繭を作り、出来た繭は、富岡製紙工場に送られ、生糸として製品になります。

 

 どうして私が生糸の作り方を知っているかと言うと、群馬に借りている稽古場が、以前は古民家一軒を借りていて、そこの二階っがそっくり蚕の部屋として残っていたからです。蚕棚もそっくり残っていました。もし広い桑畑があれば、今でも蚕は育てられるはずです。但し昔のように家に人手がありませんから、こうした労働は今は難しいかもしれません。その家主である田村さんから、蚕の育て方を聞いたわけです。

 蚕は何千年も人の手によって育てられたために、自分で桑の葉を探して動き回ることが出来ません。目の前に葉っぱをおいてやらないと葉を食べられないのです。うっかり棚板から落ちたりすると、自分で桟を這い上がって戻ることが出来ません。そのまま干からびて死んでしまいます。雄雌の交尾すら自分でできないのです。人が適当にくっつけてやらないと交尾もできません。全てに退化してしまって、全く人が手をかけない限り生きて行けない生き物なのです。

 当然、人の手間がかかり、養蚕業は休む間もありません。然し、その昔、北関東の山間地で、まとまった現金収入が入る方法はそうそう数はなく、貴重な収入源だったのです。しかもできた糸は軽く、小さく、移動が楽で、しかも高価な金額で取引されますから、北関東では有難い産業だったわけです。

 生糸は北関東だけでなく、甲信越、或いは奥多摩の方でもたくさん生産されました。そうした蚕の生産地の中央に位置したのが高円寺の養蚕試験場だったわけです。昔の写真を見ると、東大の安田講堂のような立派なビルが建っています。日本の輸出産業の根幹を握る試験場ですから、それぐらいのビルがあっても当然でしょう。それが昭和50年ころに、生糸の衰退とともに取り壊されました。そして公園になったわけです。

 然し、私は壊す理由はなかったと思います。今に残せば、富岡製糸工場と並んで世界遺産になったはずです。ここまで科学的に、しかも組織立って産業を支援した研究所は世界にそうはありません。ここと富岡をセットで残して初めて日本の養蚕が生きた歴史資料として残されたはずです。なぜ壊してしまうのでしょう。日本人はさんざん生糸で生活させてもらって、貧しい時代の日本を助けてくれた産業に、感謝や、誇りはないのでしょうか。残念です。古い歴史を守って、残してゆきたいと思う私から見たなら、理由なく破壊することは暴力以外の何物でもありません。私はこれを壊してしまった人を恨みます。日本の歴史的財産を奪ったのですから。

続く