手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

戦争体験の話

 昨日は、若いマジシャン4人に指導をしました。この輪が広がって、一緒になってマジックの研究ができるようなチームが出来たらいいと考えています。そのためには、研究するだけでなく、出演場所も作らなければいけません。テレビ番組も必要です。それらが出来て、日本のマジック界に活力が生まれて来るでしょう。そうなるために私はもう少し働かなくてはいけません。まだまだ私のなすべき仕事はあるようです。

 

 昨晩、ねづっちと娘のすみれと私で、高円寺の寿司屋に行きました。ねづっちはいつもの通り、炙り縁側を巧そうに食べ、デカハイボールをこれまたうまそうに飲みました。娘もそれに合わせて、デカハイボールを飲んでいました。このところの娘の酒量には驚かされます。私が最近飲まなくなったのに反比例して、娘はぐいぐい飲みます。顔色も変わらず、酔った様子も見せないのですから、元が強いのでしょう。

 ねづっちは全くマイペースです。寿司ネタもよく食べ、合間に縁側も頼みます。実に幸せそうに寿司をほおばるその馬面を見ると、憎めない男だなぁ、と思います。

 ねづっちもコロナウイルスで仕事が少なく、苦労しているようです。漫才の常設館である浅草東洋館漫才協会が主催して公演していますが、新宿の小劇場でのコロナ騒ぎ以来、観客が激減して、一日公演して、10人、20人と言う日もあるそうです。毎日20本から漫才が出演する公演で、観客10人では漫才協会も破産しかねない状況です。

 人を楽しませたいと思っている人たちが生活して行けない社会なんて、いい社会であるはずがありません。ねづっちだけでなく、ナイツや、おぼんこぼん師匠も出演しています。皆さんで応援してあげてください。

 

戦争体験の話

 私は昭和29年の生まれですから、太平洋戦争の経験はありません。しかし、私の両親は、朝に晩に、食事の時間になると必ず戦争の話をしていました。両親にすればわずか10年20年前のことですし、戦争当時両親は20歳くらいですから、その体験は忘れようにも忘れられない思い出だったのでしょう。

 当時大田区の池上に住んでいた親父は、夜にB29が編隊を組んでやってきて、ゴーというすさまじい豪音が響き渡り、上空から焼夷弾を落とすのが映画を見ているかのようによく見えたそうです。蒲田や、糀谷あたりの工場群が、ぱっと昼間のように明るくなり、それから大火となって、たちまち焼け尽くされたこと。その後、蒲田あたりでけがをした人たちは、病院まで焼かれてしまったために、親父が住んでいた池上まで、リヤカーや、戸板で運び込まれたそうです。親父の家の並びが病院で、そこにはおびただしい被災者が病院の外にまでうずくまって治療を受けていたそうです。

 横浜の空襲の際には、中木戸駅横浜市内の京浜急行の駅)発行の切符が池上まで、大量に風に乗ってキラキラと雪が降るかのように空から落ちてきたそうです。落ちてきた切符を見て親父は、「これで横浜もお終いか」。と知ったそうです。

 迎える日本軍の高射砲は、B29の高度にまで届かず、戦いようがありません。中には隼に乗った戦闘員が果敢にB29に近づき戦いを挑みますが、なかなか撃ち落とすことが出来ませんでした。昭和19年の時点で、もはや制空権は完全にアメリカに奪われていたのです。

 

 私の中学校の友人の母親は、子供のころ茨城県の小学校に通っていて、帰宅途中で田んぼのあぜ道で米軍機に遭遇します。米軍の戦闘機は3機で、小学生の帰宅の列を狙って機銃照射してきました。子供たちはすぐにあぜ道の陰に隠れたのですが、戦闘機は何度も旋回して繰り返し攻めて来ました。銃を持たない小学生を何で狙い撃ちするのか理由が分かりませんが、子供たちは、畔に顔を伏せて敵機が去るまで隠れていました。

 然し、友人の母親は、どんな顔をした人が銃を撃って来るのかと思って、顔を上げて戦闘機を見ると、偶然にも至近距離で、戦闘機の操縦士と目が合ったそうです。その時の操縦士は、若くてハンサムだったと語っていました。自分が銃で撃たれる危険のある瞬間でさえも、女性は相手の男の容姿を気にするものなのかと得心しました。

 

 親父は池上に住む前は、川崎の旭町と言うところで育ったのですが、そこは貧しい長屋の並ぶ街で、余り暮らしやすい所ではなかったようです。「町内に太った大人が一人もいなかった」。と言っていました。

 同じ時期、母親は、横浜に暮らしており、母親の姉は横浜の松屋デパートでNo1と呼ばれた美人だったそうです。当然男性からのデートのお誘いも多く、姉を誘い出すために、まずは、私の母親に近づき、姉妹でダンスパーティーに誘われたそうです。場所は横浜グランドホテルで、海軍の将校に誘われて、グランドホテルの玄関に行くときは、まるでシンデレラが王宮に入るような夢心地だったと言っていました。

 両親に、「戦前と今ではどっちが良かった」。と聞くと、母親は「断然戦前よ。戦前は何もかも豪華で、町は雰囲気があって、綺麗で、どこも立派だったわ」。父親は、「今のほうがいいね、昔は貧しくて、生きているのがやっとだった。今のほうが何でも自由に手に入る」。これは二人が育った環境が違い過ぎて、そういう話になったのだと思います。

 父親は戦前から慰問の仕事をしていて、一座を率いて、地方の農村や、軍隊を回ったりして、ギターを弾いて替え歌を歌ったり、漫談をしたり、コントをしたりしていました。金を貰い、食料を貰っていましたから、飢えると言うことはなかったそうです。

 むしろ、戦時中は金を貰っても使うところがなかったため、戦後は相当に金を持っていたそうです。その金で肉や砂糖を闇で買うのですが、朝鮮人の友人に欲しいものを頼むと、どこから調達するのかは謎ですが、たちまち砂糖でも水あめでも、持ってきたそうです。砂糖も水あめも当時の日本ではいくら金を積んでも手に入らないものだったのです。

 お陰で、饅頭でもおはぎでも自宅で作ることが出来たそうです。戦後に劇団を起こしたときに、座員になった人たちを集めて饅頭をふるまうと、彼らは涙を流して饅頭を食べたそうです。朝鮮人の闇ルートと言うのは全く予想もできないほど広範囲のルートを持っていたと言っていました。全ては両親から聞いた戦前戦後の時代の話です。

続く