手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

シベリウス

 先日(8日)、峯村さんにお会いした折、藤井あきらさんのレクチュアーDVD2を持って来てもらいました。私はあまりレクチュアーDVDを見ることはないのですが、UGMのカタログを何気に見ているうちに、面白そうだと思って購入しました。

 実際見てみると、その閃きは正解でした。基本的なマジックを実に自分なりに咀嚼していい作品に仕上げています。これがプロのレクチュアーです。思わず手を叩いて画面に向かってエールを送ってしまいました。あまり肩を張らずに気楽に見るレクチュアービデオとしてはいい作品です。お勧めします。

 

 昨日は、踊りの稽古の後に電気屋さんに行き、ラジオカセットデッキを買いました。いつも使っているラジカセがいよいよ壊れてしまって役に立たなくなったためにやむなく購入です。今の時代はあまりラジカセを使わないようですが、私のようなものにとってはラジカセは重要です。家に帰って色々CDをかけてみましたが、小さい装置にもかかわらずかなりいい音で鳴ってくれたので満足しています。そこで久々趣味のクラシック音楽を出してしばらく聞き込みました。

 

シベリウス

 私の書くブログの表題の中で、最も支持者の少ない項目が、クラシック音楽と自動車でしょう。クラシックに関しては、ベートーベンや、モーツアルトあたりまでの話題でしたらまだついてきてくれる人もありますが、マーラーブルックナーになるとたちまち興味の人の数が減ります。ましてや、シベリウスとなるともう駄目です。

 そもそも、日本の演奏会のプログラムにも、シベリウスが出て来ることが殆どありません。CDの数も限られています。しかも、シベリウスの作品の中で世間が認知している曲と言えば、フィンランディア、カレリア組曲交響曲2番、バイオリン協奏曲、その4曲でしょう。

 先の3作の曲は、シベリウスが若いころに、世に出るために作曲したもので、ある意味大衆受けを狙って作った作品です。そのため、どれもメロディックで、そう複雑な作りではありません。彼の狙いは当たって、彼はフィンランド政府から芸術家として認められ、終生年金をもらうようになります。国民からは慕われ、フィンランディアに至っては第2のフィンランド国歌と呼ばれています。

 しかし彼の音楽家としての真価は、実はこの後の作品にあります。交響曲も、3番から7番までの後期の作品が素晴らしく、私も後期の交響曲を良く聞きます。

 どの曲も、フィンランドの広大な自然と厳しい気候を感じさせます。常にひんやりとした北風が吹いています。曲の動機はささやかなものが多く、知らずに聞いていると何事も起こらずに音楽は進行してしまいます。従って、初めて聞いたときには、「何だこりゃ」と思うような、およそぱっとしない曲なのです。曲はベートーベンのような明確なテーマが聞こえずらく、展開も、うだうだと語りたいことがはっきりせずに、もどかしい思いをすることがしばしばです。

 と、こう書くと皆さんはきっと「つまらなそう」。と思われるでしょう。そうなのです。初めはつまらなく感じます。然し、何ヵ所か、心に響く箇所があります。それを頼りに何度か聞いていると、そこから思いもよらない深いストーリーが始まります。彼の音楽は私小説のようなところがあり、彼の立場に立って、彼の目でものを見ようとしないと、言わんとするところが理解できない部分が多々あります。極めて内省的で、シャイなのです。北欧の人が喫茶店などで話をしていると、顔と顔を近づけて、小声でぼそぼそと話している姿をよく見ます。元々が北欧の人は静謐で、謙虚なのです。あの気持ちが理解できないとシベリウスは見えて来ません。

 言って見ればシベリウスは、私の性格とは全く真逆な人ではありますが、芸術の面白さというものは、絶対に自分自身が知り得ない世界を事細かに見せてくれることです。

 シベリウスは、国民の尊敬を一心に受けたのち、自分の本当に追求したい世界の音楽を作り始めます。然し、それは時としてみんなが顔を見合わせてしまうような、理解不能な作品が多々生まれました。

 交響曲4番などは、難解と言うよりも、晦渋、世界中の音楽評論家が、評価に苦しむような不可解な作品でした。いまだに交響曲4番が演奏会の曲目に上がることは稀の希でしょう。然し、これほど、シベリウスの内面を正直に吐露している音楽もありません。曲は時として、鬱病患者のように、世間から離れて、自分の世界に閉じこもって行きます。どの楽章も消え入るように終わっています。伝えようとしていることの意味が分かりません。皆さんもご興味あったら一度聞いてみてください。恐らく3分で逃げ出したくなるような陰気な曲です。

 私も大概の曲は黙って聞きますが、これは困りました。初めは何を語ろうとしているのかさっぱりわからなかったのです。然し、繰り返し何度も聞いているうちに、彼の心の奥の悩みが聞こえてきました。彼は遠慮がちに、謙虚に訥々と、心の苦しみを語ります。それがあるとき私の波長とつながり、その思いがよくわかるようになります。初めは変な音楽だと思っていたものが、変でも何でもなく、彼の深遠な悩みに対して、余りに浅薄な、月並みな返事で返そうとしていた自分が、いかにものの見方が低俗で、つまらない人間であったかと知り、一人赤面するのです。

 生きると言うことはそんなことではない。無暗な同情なんて何の役にも立たない。シベリウスは元々同情なんて求めていないのです。生きることの悲しさ、苦しさ、それを切々と自分の言葉で語っているのです。それがわかった時に、容易にたどり着けない彼の思いに呆然とするのです。それが音楽の経過とともに展開して、やがてして消え去ったあとに、フィンランドの自然と、シベリウスの世界が持つ寂寥感が残ります。

 本当のシベリウスの音楽の真価は、交響曲、6番7番なんでしょう。6番は幾分メロディックで理解しやすい曲です。清らかで、モーツアルトのような素直な曲ですが、そうは言っても、俗を寄せ付けない厳しさがあります。この先百年たっても6番がポピュラーになって、広く受け入れられることはないでしょう。

 シベリウスの音楽は内省的で、平易に本心を語ってはくれないのです。でも、仕事のない日に、朝から書き物をして、時に気分転換に、コーヒータイムに掛ける曲としては最高の贅沢です。よろしかったら一度聞いてみてください。あまり熱心にはお勧めできませんが、

 

 実は数年前に、フィンランドのサーカスの経営者から出演依頼が来たのです。話はそのまま止まっています。女性のオーナーでしたが、私の蝶の映像を見て感動してくれて、その簡素な世界、静寂な芸能を是非フィンランドの人に見せたいと言ってくれました。その時、私は、「あぁ、蝶の感性は、シベリウスに通じるものなのかなぁ」。と勝手に思いました。私がシベリウスを愛するのも、案外求めるものが同じだからではないかと感じたのです。できることならフィンランドに行って蝶を飛ばして見たいと思います。フィンランドの人が蝶をどう見てくれるのか、楽しみです。

続く