手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

大波小波がやって来る 14

 親父が亡くなったのが平成9年の12月。親父をなんとか賑やかに送り出してやろうと、葬式を奮発したのは良かったのですが、後で親父の銀行の通帳を調べたら4000円しか残っていませんでした。73年も生きて、貸し借りなしの4000円は見事です。但しそのあと葬式の返済に苦労しました。

 年が明けて、新しい手妻の手順を作っているさなか、資金が足らずに、あれこれ企画が頓挫していました。ここから話を前に進めるためにはまとまった資金が必要です。どうしたものかと考えていると、1月に私の所に尋ねて来る人がいます。元クロネコヤマトの会長の都築幹彦(つづきみきひこ)さんです。東京アマチュアマジシャンズクラブに所属していて、手妻が好きで、誰かにきっちり習いたいと言っていたのです。それを奥井さん(元アサヒビールの役員)が聞いていて、私を紹介してくれました。ご当人は、何年もかけてじっくり覚えたいから、月に2回通いたい。と言って来ました。

 そうした生徒さんも何人かいましたから、すぐに了解しました。その教え方がよかったものか、すぐに翌月新たな生徒さんがきました。元千葉大学教授で、頭の体操と言う本を40年間出し続けている多胡輝(たごあきら)先生です。なぜよりによって私の所にこうまで大物が訪ねて来るのかわかりません。多胡先生は、ベンツを運転手に運転させて、車を待たせて毎回習いに来ます。二人とも月に二回習いに来ます。

 この二人が私のしていることに興味を持って、私が、「今、江戸時代の装置を改良して、漆塗りに蒔絵を施した道具を作っています」。というと、二人は値段も聞かず、「それなら僕も一つ貰うよ」。と、製作中の装置を買ってくれます。一作40万円などと言う作品です。一度に三組作れば職人も喜びます。お陰で自分の作品も安く作ることができました。こうして、道具製作中も資金に不足することなく、やりたいことに時間をかけることができたのです。

 

 私は常々思っていましたが、私が何か新しいことをする時に不思議に支援者が現れるのです。親父が亡くなってすぐの、都築さんと多胡先生です。このお二人がその後も10年以上、私を支え続けてくれたのです。私はこの時、「今自分のしている、手妻の活動は、天が支援してくれている」。と確信しました。何かはわからないものの、熱い支援の下に、手妻を作っていると感じました。何より、日本を代表する、経営者と、学者さんが頻繁に私の家に尋ねて来てくれることは私の周囲を明るくしてくれました。

 

 後でお話ししますが、この時私には抜き差しならない問題を抱えていました。SAMです。日本の地域局を作って、プロもアマチュアも、ディーラーも一体となった組織を作り、毎年世界大会を国内で開催し、雑誌を年6回発行すると言う活動を続けてきたのです。これは非常に意義のあることで、今も、SAMの会員であの時代を懐かしむ人は多くいます。然し、それを維持するために私は多くの費用と、時間を使わなければならなかったのです。バブルがはじけて、私のチームの収入が少なくなった後も、SAMは毎年100万円、200万円と赤字を出し、その都度、私が補填していました。今冷静に考えても、私の人生の最大の失敗はSAMでした。

 もっと早くにSAMから離れていれば、手妻の改良はもう5年早まっていたでしょう。そうなら、さらに次のステップも狙えたはずです。それが果たせなかったことは人生の大きな失敗でした。私はもっと、もっと自分のために時間を使うべきだったのです。このことはどうしても後世に書き残しておきたいことの一つなのですが、周囲の人を傷つけず、当時の状況を語ることは難しく、今まで躊躇してきました。然し、そろそろ書かねばなりません。いずれまとめてお話ししましょう。

 

 然し、嘆いていても始まりません。アレンジは着々と進みました。蝶に関しては平成8年には今の形になっていました。前半の傘出しが難関でした。然し、作りたい道具の図面や、見本を以前から、バルサなどで作ってありましたので、実際に制作を始めるとどんどん出来て行きました。本物の職人の装置が一つ一つ出来て行き、手順の稽古をし始めると、充実感がみなぎってきました。自分自身が人生で何がしたかったのか、ひしひしと実感しました。

 その上で、杵屋裕光さんに音楽を作曲してもらい、演奏家を集めて録音し、曲が完成しました。そして、その年、平成10年の10月に芸術祭参加公演をしました。それが芸術祭大賞につながりました。私が44歳の時でした。

 受賞のニュースがテレビで流れると、翌日には突然多胡先生が訪れ、「いやぁ、大したもんだ、素晴らしい」。と喜んでくださり、10万円のご祝儀を頂きました。まさか多胡先生がこんなにはしゃいで喜んでくださるとは思いもよらず。有難いと思いました。リサイタルはとにかく費用がかかりますので、あちこち借金だらけで首が回りません。こんな時にご祝儀を頂くと有難みも身に染みます。

 

 これまでも不思議と私の人生は、支援してくれる人に恵まれました。小野坂東さんはその代表的な人です。どれだけお世話になったか知れません。松本幸四郎さんもそうでした。随分面倒を見てくださいました。その後に熱い支援をしてくださることになる澤田隆治先生は、この時の受賞を知って、レストランに招待してくださって祝ってくださいました。他にも数多くに支援者がいらっしゃいました。

 どうしてそこまでわたしに入れ込んで下さるのかはわかりませんが、これ以降、20年以上にわたって支援してくださっています。

 

 こんな風にお話しするといいことずくめの人生ですが、実は、その後にリーマンショックがあったり、東日本大震災があったりで、その都度、随分仕事を減らしました。うまく行かないこともたくさんあったのです。然し、何となく40を過ぎてからは、周囲の人に支えられて、大きな苦労をしなくても生きて行けるようになりました。

その辺ことはまた次回。

 

 

緊急事態宣言延期で国は滅びます

 

 安倍首相は、緊急事態宣言を延長する気配のようです。私はこれまで何度も緊急事態宣言を出すのは間違いだと言ってきました。コロナウイルスで、会社や商店に自粛を求める理由などないのです。もう一度その理由をお伝えします。

 

コロナウイルスは強いウイルスではありません

 コロナが、肺病や、インフルエンザと比べても決して強いウイルスではありません。現実に、今も、インフルエンザや肺病で亡くなる人のほうがコロナウイルスよりも圧倒的に多いのです。コロナウイルスは只のはやり風邪に過ぎません。日常の、うがい手洗いはいいとしても、電車に乗って、隣の人と2m以上離れる。なんていうのは全く意味がないのです。皆さんは。昨年、一昨年、インフルエンザが猛威を振るった時、電車に乗って、人と人の間を2m以上離しましたか。そんなことはしなかったでしょう。みんな満員電車に乗って会社に通っていたではありませんか。

 山手線も、中央線も、いまだに朝晩は混雑しています。その時だけはコロナウイルスは感染しませんか。満員電車で感染しないなら、コロナウイルスなどは大したウイルスではないはずです。何を心配しているのですか。

 

 死者がたくさん出ているから心配

 確かにコロナウイルスの感染者から死者が出ています。然しそれは、肺病や、インフルエンザと比べたなら小さな数なのです。ことさら、コロナだけを取り上げるから大変なことのように見えますが、一億三千万人いる日本で生活すれば、毎日、何千人もの人が、肺炎や、インフルエンザや、糖尿病や、心筋梗塞で亡くなっているのです。その中でコロナウイルスはとても数少ない死者なのです。今、世間が騒いでいるのは、明らかにテレビのニュースに踊らされているのです。そんなに大騒ぎする話ではないのです。

 

 コロナは形を変えて、猛威を振るう

 ないとは言えません。然し、最近のデーターをご覧ください。感染者も死者も減少しています。暖かくなればウイルスは消滅します。もし、コロナウイルスが猛威を振るうウイルスなら、今年、1月から3月までの日本の状況を考えてみてください。3月いっぱいまでは山手線も中央線もいつもの通りの大混雑だったはずです。世界中で、山手線のラッシュアワーほどに人が密接にくっつく場所がありますか。それを3か月も放置しておいて、それで日本人は爆発的に感染しましたか。感染しないならなぜ感染しないのか。誰か教えてくれませんか。

 そのことはパチンコ店も同じです。今になって、しぶしぶ市町村はパチンコ店を取り締まり始めましたが、これまでの4か月間。あのたばこ臭い、密室をなぜ取り締まらなかったのですか。あの状態で、半日パチンコをしていても、爆発的な感染がなかったのなら、コロナウイルスは感染しにくいウイルスなのではありませんか。違うと言うならどなたかパチンコ店とウイルスの感染を説明してくれませんか。

 

 40万人の死者が出る

 お医者さんがいたずらに人の不安をあおって何が楽しいのですか。日々ウイルスが収束している現実を見ると、40万人などと言う話は嘘八百ではありませんか。発祥地の中国ではほぼ完全に収束しています。日本も、この流れでは収束するとみるのが正しくはありませんか。

 

 感染者の数ばかりを言うのは間違い。

 肝心なことは、感染者の数ではありません。感染者のほとんどは完治しているのです。そして完治した人々は免疫を持っています。免疫を持った人を増やすことがコロナウイルスを根絶する強力な手段になります。コロナが治った人はどんどん街に出て、人と接触をすべきなのです。免疫を持った人が増えれば、ウイルスは感染しなくなります。形を変えたウイルスが出たら危険だと言う人がいます。全然危険ではありません。形を変えたウイルスに感染した人が出て、完治すればそれが免疫となるのです。

 このことは人類がはるか昔から経験して繰り返してきたことです。江戸時代にも、はやり風邪は度々起こっています。その時代にワクチンだの特効薬などと言うものはなかったのです。はやり風邪に罹った人は、自然治癒して、免疫を持つ事で周囲の人を助けたのです。もし免疫がなければ、当時の人は際限なく死者が出たはずです。それが、ある一定の人がはやり風邪に罹り、そのうちの何割かの人が亡くなると、あとは免疫が広がって自然にウイルスは消えていったのです。人類はそれを繰り返してきたのです。

 コロナウイルスに罹ることもさほどに恐ろしいことではないし、罹っても免疫ができれば、それが周囲の人を助ける結果になるのです。レストランや飲食店を閉鎖したり、デパートを休業させたり、観光地を入場を止めたり、そんなことをする理由は全くないのです。人は普段と同じ生活をすればよく、子供は学校に行くべきです。

 

 この先に大不況が来る

 今の状態で、緊急事態宣言を引き延ばしていると、多くの飲食店、商店、会社が倒産します。コロナウイルスは終息しても、借金を苦にした自殺者が出ます。コロナが死者が1500人程度で大騒ぎしていながら、不況で死者が10万人などとなったなら、何の非常事態宣言なのですか。このまま人々の平常な活動を止めたなら、町の商店街の半分が閉店してしまいます。

 そうなればこの先はどうなるでしょうか。まず、バイトで働く人たちが失業します。失業者が増えると、物取りや、泥棒が増えます。健康保険に入れない人も多く出ますから、病気になっても病院に行けない人が増え、町中に病気がはびこります。コロナは収まっても他の病気が氾濫します。収入のない人が増えて、国や地方都市の生活保護費が増えます。離婚の夫婦が増えます。身寄りのない子供が増えます。

 こんな状態は、絶えてなかったことですが、全く昭和20年代の日本に逆戻りします。浮浪者や失業者があふれ、そんな状態ではオリンピックを開催するなどと言っても夢物語です。まさか日本がここまで悲惨な状態に陥るとは、と愕然とするような時代が目の前にやって来るのです。それが見えていながら、まだ非常事態宣言を先延ばししますか。 まだ日本人が自らに力で働こうと言う意思を持っているうちに、みんなが働けるようにしたほうがいいのではないですか。

 

続く

 

 

 

大波小波がやって来る 13

 さて、私の仕事の仕方はいつもそうなのですが、初めに問題点を書きだして、それを一つ一つ克服してゆこうと考えます。つまり、自分で自分のハードルを上げた上で、その解決策を模索します。このやり方は答えは明確に出ますが、七転八倒の苦しみを体験します。作り上げようとする世界が初めから高いのです。

 バブルがなぜ崩壊したのかと言うなら、みんながみんな物と金を追い求めたからです。それも共通して株と土地でした。株はいくらでも刷ることができますが、土地には限りがあります。その限られた土地をみんなで買い漁りましたから、土地の値段が実態以上に高騰したのです。昭和60年代の、数か月のうちに東京の土地が二倍半に値上がりしたのです。何の根拠で値が上がったのか、誰もわかりません。わからないままに資産価値が上がってみんな喜んでいたのです。

 そのつけがそのあとに来るようになりました。平成になってから、土地は暴落し、実体のない会社の株は紙くずになりました。銀行の貸し出しが規制されたのです。特に土地は、資産家の間では、「日本の土地は有史以来値が下がったことがない」。と言われていたのです。然し、それは幻想でした。いきなり地価が半値以下になり、倒産する不動産屋さん、土地に金を貸した銀行、投機を当て込んで土地を買った会社、みんな倒産してしまいました。

 この時多くの日本人は、金、物を追い求めることに虚しさを感じたのです。さてこの先どう生きる。となった時に、日本人の多くは古典に目を向けたのです。それまで見向きもされなかった、古典の世界が、平成になると脚光を浴びるようになります。能、狂言雅楽、今までそんな社会で活動する人の名前が表に出ることなど有り得なかったものが、どんどん古典の実演家の中からスターが出て来ます。

 人生に行き詰った時、日本人は過去を見ます。これは幸せなことです。過去に学ぶべき道しるべがあるのです。歴史のない国、例えばアメリカなどは、大不況が来ると、全く解決策が見いだせず、自殺者が激増します。日本では古典に興味がゆきます。

 これは私もチャンスだなぁ、と感じ取りました。然し、このチャンスに手妻は何を提供できるのかと考えた時に、ハンカチが出る。傘が出ると言う手妻ではないないことはわかりました。物、金を追い求めた後の次なる時代なのですから。かなりメンタルな世界を語らなければ人の注目は集まらないはずです。

 そこでもう一度、蝶を見直し、一度解体して、一から考えてみることにしました。これは私の人生で最大の研究になりました。

 蝶は、これと言った道具も使わず、半紙の破片をひねって蝶を作り、扇で扇いで飛ばすと言う芸です。然し道具は使わないと言っても、扇子や、極薄の半紙などが家庭に普通に置いてあると言うのは、近世の生活で、江戸時代か古くても室町末期、それよりも時代がさかのぼることはないでしょう。それも、発祥は中国だと思われていますが、実際は中国に蝶の手順がなく、日本には残されたものがほとんど唯一ですから、考案者は日本人でしょう。(神仙戯術と言う書の中で、胡蝶飛の題名で解説されていますが、神仙戯術は中国本の漢訳ではなく、日本人の創作だと思います)。

 但し、考案とはいっても、扇子で半紙の切れ端を仰ぐだけのことですから、特に複雑なものではありません。仕事もなく、金もない人が、日がな一日退屈に任せて蝶を飛ばして遊んでいたのでしょう。世界の発明の、発端はいつでも、

 1、退屈、2、金がない。3、やっても役に立たないことに夢中になる。

 この三つの要素がそろった時に、人は想像をたくましくします。物がない、金がない、時間が有り余っている。は想像のチャンスなのです。芸術は暇と無駄から生まれます。但し、当初蝶は単独の芸ではなく、ヒョコと呼ばれる、操りの一種です。羽織の紐が踊る。紙人形が踊る。そうした中に蝶が混ざっていたのです。やがて蝶が操りから独立します。江戸の中ごろだろうと思います。

 蝶は座敷などで、芸人が飛ばしながら、様々な情景を言葉で語り、風景を描写する芸に発展して行きます。日本人の好きな「見立て」の芸です。見立てとは、例えば、畳んだ扇子を横笛に「見立てる」。広げた扇子を盃に「見立てる」。と言ったように、それらしく演じて世界を作ることです。この景色を見せる芸が流行って長いこと、蝶は見立ての芸として残りました。

 ここに哲学を語り、人生を取り入れたのが柳川一蝶斎です。一羽の蝶が二羽になり、二羽は結ばれ、やがて子をなして千羽蝶となって飛び去ってゆく。成り替わり立ち代わり生まれ変わっては同じことを繰り返してゆく。無常の世界です。ここに至って、手妻は完成を見るのです。それが江戸末期です。

 蝶が口上を語らずに、無常を伝えて行くにはどうしたらいいのか。随分悩みました。悩んでもなかなか結論が出て来ません。いつしか40を過ぎてしまいました。

 その間、親父の癌が肺に移り、体が衰弱してゆきます。親父は、自分の癌体験を漫談にし、寄席でしゃべるようになりました。それが面白いと、随分お客様が付きました。親父は、孫娘が好きで、よく私の家に泊まりに来ました。そして、孫と遊び、私と何時間でも話をしたがったのです。昔話、芸能のこと。あらゆることを話しました。親父の寿命がそう長くないことはわかります。それだけに私も話し相手になろうと、努めて一緒にいる時間を持ちました。それが平成9年12月に亡くなりました。

 もうこれから先は誰に頼ることもできません。蝶も、手妻もできたものはポツポツ舞台に掛けていますが、いまだ中途半端な状態です。仕事のほうはそうは多くありません。40代と言うものが絶対安定した人生だろうと思っていたのに、とんでもない話です。年は40を過ぎても何一つ芸事がわかっていないし、何もできていないのです。

 年が明けて、平成10年正月。「さて、これからどう生きて行こうか」。そう思って当てもなく先々に思いを馳せていました。その時、私を側面で支えてくれる強力な支援者が現れたのです。全く予想もしていないことでした。

 

続く。

大波小波がやって来る 12

 平成5年にバブルがはじけて、ひどい不況が始まりました。何しろ、山一証券や、北海道拓殖銀行が倒産してしまうんですから、日本中、まさかまさかの事件が毎日起こったのです。ほんの2,3年前までは、OLが、どこそこのフランス料理は魚のムニエルがおいしいだの、イタ飯のマグロのカルパッチョがいいだのと言っていたものが、残業代もつかなくなり、会社そのものが怪しくなって、満足に外食もできなくなったのです。 

 都内のフランス料理店が倒産し、代わって福岡のもつ鍋が流行りだします。昨日まで、ワインの銘柄にこだわっていたOLが、今はもつ鍋で焼酎を飲んでいるのですから、変わり身の早さには恐れ入ります。

 但し、あえて申し上げますが、私はバブルがあったことも、バブルがはじけたこともどちらもよかったと思っています。その後に、バブルを諸悪の根源のように言う人が出ましたが、その時代に生きた者の証言として、バブルはあってよかったのです。

 

 それは、昭和60年から、平成5年までの約9年間。日本人は日本の歴史の中で、初めて豊かな生活が享受できたのです。日本史を見ると、平安文化、室町文化元禄文化化政文化と豊かだった時代が時々やってきましたが、それらの豊かさは、当時の都市部の、地位の高い人たちが経験した豊かさであって、大多数の農民や、町人には豊かさの恩恵はほとんど手に入らず、飢えている人が大勢いたのです。

 それが、国全体に金があふれ出し、新幹線は伸び、高速道路ができ、四国に橋がかかり、町と言う町がどこも見違えるようにきれいになりました。個人も家が持てるようになり、それまで、木造、板壁、瓦屋根の地味な家が主流だったものが、どんどんタイルやレンガを使った家が出来て来て、町が明るくなりました。会社も新社屋がどんどんできました。家や会社を作れば、建設屋さんが儲かり、そこで働く大工さんが儲かり、大工さんの下で働くアルバイトが儲かり、人が不足して、1年先の建築まで仕事がいっぱいになってしまいました。あの時代はみんなが忙しく、ニコニコしていました。

 日本人の隅々までも、誰にもお金が回ったことなど今までなかったのです。この時代に職業を持っていて、健康に働いていたなら、みんな小さな贅沢が出来たのです。

 但し、私の親父のように、芸人で、65を過ぎて、しかも大腸がんに罹って入院、などと言う状態になるとバブルの景気は目の前を通過してゆくだけで、恩恵はもたらされませんでした。それでも親父は、人づてで小さな仕事をして、生涯、他の仕事をせずに芸人として生きて行けたのですから、幸せな人生だったと思います。

 

 話は長くなりましたが、世間が目まぐるしく価値観を変えて行く中で、私もバブル期のような潤沢な予算の仕事が取れないことはわかっていました。そこで、規模を縮小した手順を作らなければいけません。平成5年から、平成15年くらいまでの10年間。私はひたすら手妻の作品作りやアレンジをしていました。

 その過程で、平成6年に芸術祭に参加し、幸いに二度目の受賞をしました。「それっ、これで不況から抜け出せるぞ」。と喜んでいたのですが、日本自体が不景気で、芸術祭そのものが話題にもなりません。新聞の記事も、わずか数行の扱いでした。一回目の受賞の時には、あちこちからお祝いが届き、仕事が山ほど来たのですが、今回は全く素通りされてしまいました。時代の厳しさを知りました。

 

 とにかく、イリュージョンの仕事が減り、水芸だけを頼りにしていたのでは、生活も不安定です。何とか相手方が買いやすい、小さな手順も作らなければいけません。

 それにはいくつかの構想がありました。一つは、蒸籠や、二つ引出し、真田紐などの手妻の作品をつなぎ合わせて、そこに傘出しを織り交ぜた7分程度の手順を作ること。

 もう一つは蝶の手順を全くゼロから組み直すこと。これも7分程度のものに仕上げたいと考えました。こうして、二つのスライハンドを一緒に演じて、14分から15分やるのです。前半にスライハンド、後半にスライハンドと言う二つのスライハンドの手順と言うのは珍しいです。然し、効果はあると思います。スライハンドは喋らないが故にお客様の想像力を掻き立てます。マジシャンはなまじ喋るから余計なことを言って、品が下がり芸術としての価値を下げます。そうなら、前半と後半を全くしゃべらずに進行する手順ならきっと高級感が出ると思います。

 そして、その真ん中に、逆に、柱抜き(サムタイ)、札焼き、お椀と玉と言った、喋りネタを入れるのです。これでトータル40分の手順にするアイディアです。その時、なるべく古いセリフを取り入れて、より古典を演じている演出にすることを考えました。手順はアレンジして、スマートなものに作り替えても、セリフは昔のセリフを生かして、全体を見た時に、少しも私の工夫が入っていないような、古風に感じさせるように工夫したのです。結果としてこれは良い方向に進みましたし、私の演技はどれも、私のアレンジがされているにもかかわらず、全体としてみると、古典を維持して演じている作品として評価されるようになったのです。

 とにかく、演技全体を通して、昔の手妻を見たという充実感を与えて、世界観を作り上げ、トータルコーディネートをしたかったのです。

 

 そして、これは私が最も苦心した点なのですが、蝶をエンディングの手順に持って行き、オープニングに傘や引き出しなどの賑やかな手順に持って行ったことです。常識で考えるなら、蝶は昔からオープニングに演じられていたものなのです。それは仕掛けの都合上そうしなければならないものでしたし、なんせ、紙一枚で作った蝶がひらひら飛ぶだけの芸ですから、芸としては地味なものです。それを取りネタに持って行く、と言うのはいろいろな点で無理がありました。

 普通に、初めに蝶を演じて、お終いは、ハンカチやら、帯やら傘ががたくさん出て来て華やかに終わることがショウとしては常套な手段です。然しそれだとお客様にハッピーな結末は伝えられますが、もっともっと心の奥深くにメッセージを伝える芸にはならないと判断したのです。

 あくまで、私は幸福を伝えるのではなく、蝶が生まれ変わりながら繰り返し生きて行く、無常観を伝えたかったのです。バブルがはじけて、多くの人が仕事をなくして、次にどう生きて行っていいか、将来の見えない世界を模索している時こそ、無常観を伝えることが次の時代のメッセージになるのではないかと思ったのです。然し言うは易く、行うは難しで、随分苦労しました。

 

続く

大波小波がやって来る 11

 スライハンドの問題点の続きをお話ししましょう。

 4つ目、スライハンドの手順構成があまりの教科書的なこと。これはクロースアップにも言えることですが、多くの観客がマジックを見ていて、1分、2分を過ぎたなら、次の変化を求めようとするのに、スライハンドは演技のバリエーションに終始して変化を提供できないものが多いのです。このことを多くのマジシャンは、マジックと言うものはこういうものと、当然のごとく考えていますが、一般の観客に見せるときは、もっともっと手順を刈り込まなければいけません。四つ玉が一つから四つになり、それをシルクハットに捨てて、そのあと今度は色の違った玉がまた一つから四つになる。それを捨てると今度はカラフルな玉がまた一つから四つになる。やっている当人は、色が変わることが変化と考えているようですが、観客には同じ動作の繰り返しに見えます。何度も何度も同じことが永遠に繰り返される。賽の河原の石積みを見るがごとくです。

 マジックの愛好家は、そうした手順を見て、わずかな技法の違いを見つけて喜ぶのですが、素人にはその違いは判りません。手順を作るときに、気を付けなければいけないことは。観客に明らかなる変化を提供することです。身内の好みや評価は捨て去って考えなければいけません。そこにしがみつている限り観客は少数なのです。

 

 5つ目、先に、燕尾服、鳩、カード、四つ玉はありきたりな素材だと言いましたが、少なくとも、世界観としてみたなら、自身が演じる8分のスライハンドは、時代設定も、雰囲気も完成しています。然し、問題はその後です。30分40分のショウを頼まれたときには、ショウ全体のグランドデザインが必要なのです。

 喋りに入ると、棒に3本の紐を吊るして、一本に魚がぶる下がったサカートリックをやったり、取りネタにテーブルを浮かせたり。別に一つ一つの作品はいいマジックなのですが、それが自分の演技全体、すなわちグランドデザインに合っているかどうか。そのコーデイネートを見極めていないのです。

 仮に、演技のまん中に違う世界の演技が入っても問題はありません。然し、お終いには必ず、自分の語りたい世界を象徴した演技が欲しいのです。それがないと単なる時間つなぎのショウになってしまいます。いいショウを楽しみたいと思って見ている質の高いお客様が、演技を見て行くに従って、ありきたりのマジックが続くと、「この人は何が語りたくて舞台に出てきたのだろう」。と、首を傾げてしまうのです。

 

 6つ目、もっと時代を見ることです。スライハンドにもクロースアップにも言えることですが、マジックの世界のマジックのしきたりにこだわりすぎて、今の時代を反映していないのです。今が語られていないならマスコミから出演依頼は来ません。こんなことを古典を演じる私が言うのはおかしなことと思われるかも知れませんが、

 実は、私は古典の改良をしながら現代を模索していたのです。それがうまく出来たために、蝶や、一連の手妻を、テレビ局が注目して私を使ってくれたのです。

 それまで手妻と言う存在を知らなかったマスコミにとって、手妻などどうでもよい存在だったのです。急に古典のマジックを取り上げるようになったのは、私が古典の作品をアレンジして、今に通じる作品に仕立てたからです。スピードアップを図り、口上をやめ、同じハンドリングを繰り返さず、すっきりストーリーがまとまるように、演出やストーリーにアレンジを加えたのです。水芸、蝶、蒸籠、連理の曲、紙片の曲、真田紐、全て手順を組み直し、口上を省き、今に通じる演技にし直したのです。それがあって、マスコミは手妻に注目したのです。

 もし私が昔ながらに、「えー、相変わりませず、手妻をご覧いただきます。手妻とは何か、手妻とはお客様の目を瞞着(まんちゃく)することです。お客様をごまかすことでございます。ではそろそろごまかしに入ります」。などと古い口上を言って演じていたなら、私の芸を継ぎたいと言う弟子は一人も入ってこなかったでしょう。

 それまでマスコミは、私の演技に対して、インパクトがない、スピードが欠けている。派手さがない。などと言って使わなかったものが、ひとたび新聞各紙が私の芸術祭受賞を特集してくれたりして、「静謐な世界の中に語るべきものがある」。などと絶賛されると、手のひらを返したように、私を持ち上げて使ってくれました。手妻は古い芸ではなく、明らかに現代のマジックの先にある存在だと言うことに気付いたのです。

 スライハンドも現代にその演技を伝えようとするなら、スマートにまとめ上げる才能が必要です。仲間内の価値観にとらわれていては、生き残ることはできません。

 

 7つ目は、ビッグフィニッシュはやめる事です。スライハンドの衰退は鳩出しから始まっています。インパクトの強い素材を出すために、手のひらに保持できないような大きな素材を出すようになって、右手左手を改めて見せる古典的なハンドリングは廃れて行ったのです。然し、右手左手を見せる演技こそがスライハンドです。フレッドカプスはそれを見事に演じて、鳩一羽出さずに、小道具だけで優れた魔法を作り上げました。

 しかも、師の演技には、左右の手を改めるくどさがありません。すべて演技に溶け込んでいます。多くのスライハンドマジシャンが学ぶべき点は、大きな素材を出すことではなく、自然な改めなのです。彼らが片手に持ちきれないような素材を出すようになってからスライハンドは衰退したのです。何か大きなものを出して終わると言うのはわかりやすい芸ですが、素材によってネタバレしたり、インパクトばかり求めて、人の情が語られなくなってしまいました。世界観が見えないのです。

 ビッグフィニッシュはマジックの社会の中で通用する終わり方です。ボトルのプロダクションの最後に、抱えきれないくらいの巨大ボトルを出す。これに何の意味がありますか。大きなものを出すことは、演者のカタルシスを満たすだけのことなのです。TheEndと書いたハンカチを出すのと同じです。芸も奥行きも感じられないのです。

 

 スライハンドは演じ方によって立派な芸術になり得るものです。それをつまらなく演じているのは、実は一部のマジシャンなのです。

 さて、私が、手妻でスライハンドを組み直そうとしたとき、上記の7つの点を考慮して30代の後半になって手順を組み始めました。私としても、もうスライハンドの手順なんて、十数年以上も作っていなかったのです。随分苦労しました。そうして出来上がったのが、傘の手順であり、蝶なのです。そのことはまた明日じっくりお話しします。

 

続く。

大波小波がやって来る

 スライハンドの問題点の続きをお話ししましょう。

 4つ目、スライハンドの手順構成があまりの教科書的なこと。これはクロースアップにも言えることですが、多くの観客がマジックを見ていて、1分、2分を過ぎたばら、次の変化を求めようとするのに、スライハンドは演技のバリエーションに終始して変化を提供できないものがほとんどです。このこを多くのマジシャンは、マジックと言うものはこういうものと、当然と考えていますが、一般の観客に見せるときは、もっともっと手順を刈り込まなければいけません。四つ玉が一つから四つになり、それをシルクハットに捨てて、そのあと今度は色の違った玉がまた一つから四つになる。それを捨てると今度はカラフルな玉がまた一つから四つになる。やっている当人は、色が変わることが変化と考えている当ですが、観客には同じ動作の繰り返しに見えます。 何度も何度も同じことが永遠に繰り返される。賽の河原の石積みと同じです。

 マジックの愛好家は、そうした手順を見て、わずかな技法の違いを見つけて喜ぶのですが、素人にはその違いは判りません。手順を作るときに、気を付けなければいけないことは。明らかなる変化を提供することです。身内の好みや評価は捨て去らなければいけません。そこにしがみつている限る観客は少数なのです。

 

 5つ目、先に、燕尾服、鳩、カード、四つ玉はありきたりな素材だと言いましたが、少なくとも、世界観としてみたなら、自身が演じる8分のスライハンドは、時代設定も、雰囲気も完成しています。然し、問題はその後です。30分40分のショウを頼まれたときには、ショウ全体のグランドデザインが必要なのです。

 喋りに入ると、棒に3本の紐を吊るして、一本に魚がぶる下がったサカートリックをしたり、取りネタにテーブルを浮かせたり。別に一つ一つに作品はいいマジックなのですが、それが自分の演じるグランドデザインに合っているかどうか。そのコーデイネートができていないのです。

 例えば、まん中に違う世界の演技がっても許されます。然しお終いにはそれらをトータル捨て、マジシャンが語るメッセージが必要です。そうでないと単なる時間つなぎのショウになってしまうのです。いいショウを楽しみたいと思って見ている質の高いお客様が、こうしたマジシャンの演技を見終わった時に、「この人は何が語りたくて舞台に出てきたのだろう」。と、首を傾げてしまうのです。

 

 6つ目、もっと時代を見ることです。スライハンドにもクロースアップにも言えることですが、マジックの世界のマジックのしきたりにこだわりすぎて、今の時代を反映していないのです。今が語られていないならマスコミからその芸は求められません。こんなことを古典を演じる私が言うことはおかしなことと思われるかも知れませんが、実は、私は古典を演じながら現代を模索していたのです。それがあったために、蝶を演じ始めた時に、テレビ局がみんな注目して私を使ってくれたのです。

 それまで手妻と言う存在を知らなかったマスコミにとって手妻などどうでもよい存在だったのです。急に古典のマジックを取り上げるようになったのは、私が古典の作品をアレンジして、今に通じる作品に仕立てたからです。スピードアップを図り、口上をやめ、同じハンドリングを繰り返さず、すっきりストーリーがまとまるようにアレンジしなおしたのです。水芸、蝶、蒸籠、連理の曲、全て手順を組みなおし、口上を省き、今に通じる演技にし直したのです。それがあって、マスコミは手妻に注目したのです。

 スライハンドも今にその演技を伝えようとするなら、少しスマートにまとめ上げる才能が必要です。仲間内の価値観にとらわれていては、生き残ることはできないのです。

 

 7つ目は、ビッグフィニッシュはやめる事です。スライハンドの衰退は鳩出しから始まっています。インパクトの強い素材を出すために、手のひらに保持できないような大きな素材を出すようになって、右手左手を改めて見せる古典的なハンドリングは廃れて行ったのです。然し、右手左手を見せる演技こそがスライハンドです。フレッドカプスはそれを見事に演じて、鳩一羽出さずに、小道具だけで優れた魔法を作り上げました。

 しかも、その演技には、左右の手を改めるくどさがありません。すべて演技に溶け込んでいます。多くのスライハンドマジシャンが学ぶべき点は、大きな素材を出すことではなく、自然な改めなのです。彼らが片手に持ちきれないような素材を出すようになってからスライハンドは衰退したのです。何か大きなものを出して終わると言うのはわかりやすい芸ですが、素材のよってネタバレしたり、インパクトばかり求めて、人の情が語られなくなってしまいました。世界観が見えないのです。ビッグフィニッシュは演技の中での終わり方に過ぎません。TheEndと書いたハンカチを出すのと同じです。芸も奥行きも感じられないのです。

 

 スライハンドは演じ方によって立派な芸術になり得るものです。それをつまらなく演じているのは、実はマジシャンなのです。

 さて、私が、手妻でスライハンドを組み直そうとしたとき、上記の7つの点を考慮して手順を組み始めました。私としても、もうスライハンドの手順なんて、十数年以上も作っていないのです。随分苦労しました。そうして出来上がったのが、傘の手順であり、蝶なのです。そのお話はまた明日。

 

続く。

大波小波がやって来る 10

 バブルがはじけた後は、私の人生の中で大きな転換点になりました。イベント会社の多くが倒産をし、残った会社から来る仕事は小さなパーティーやイベントばかりでした。それでも、水芸の仕事だけはなくならなかったので、水芸を特化すれば生きていけるとわかりました。アシスタントの数も減らし、生活も切り詰めることにしました。

 これまでは、バブルの最盛期の私の仕事の仕方は、銀行から資金を借りて、新しいイリュージョンを制作し、パンフレットを作り、リサイタルを催して、仕事関係者を招待し、リサイタルがショウケースとなって商談をし、大きなイベントを取る。そうした活動を繰り返し続けていたのですが、もう借金はこれ以上はできず、新規のことには投資ができませんでした。

 当面私がしなければならないことは、水芸は年間20本程度の依頼が安定して来るので、この収入を幹に活動して行くことです。水芸の単価は一本60万円程度です。地方都市なら70万円です。金額が大きいことは頂く立場としては有り難いのですが、実際にかかってくる仕事で、60万円出す余裕のない仕事は断らなければならなくなります。

 私の目の前で、女房が、20万円で手妻の依頼をしてきた電話の相手に、「それじゃぁできませんね」。と言ってあっさり断っている姿を見ると、「この不景気に、なんてうちの会社はぜいたくなんだろう」。と思います。但し、断るのはやむを得ないのです。実際水芸を演じると言うことは、とても経費の掛かる仕事です。

 まず仕事をするために5人のアシスタントが必要です。その5人が、事前に一日、場所を借りて水芸の稽古をしなければなりません。そして本番をして、翌日は、みんなで衣装と道具を陰干ししなければなりません。水芸一本を得るために三日働かなければならないわけです。随分手間と費用が掛かるわけです。

 もし、一日だけで済む仕事で、アシスタントか弟子一人連れて行って、一本30万円と言う演技があったなら、水芸の装置の損料や、衣装代の損料、稽古代、人件費を差し引いて考えると、私の収入は、水芸とほとんど変わらないのです。

 そうだとするなら、和風イリュージョンや、水芸の仕事が無理なときのために、スライハンドの手妻の手順を40分程度拵え上げたなら、今電話で断っている仕事を手に入れることができます。仮に、手妻の手順を決めた後で、水芸の依頼が来て仕事がかぶったとしても、スライハンド手順で、ある程度の金額が取れるなら、最終的な収入が別段下がるわけではありません。むしろ、今まで断っていた仕事の分が増えるわけですから、結果として、収入は大きくなります。

 と、理屈ではその通りなのですが、実際スライハンドを交えた40分手順でコンスタントに30万円の単価が得られるかとなると、とても難しいのです。キャバレー時代以降、スライハンドは大きく仕事を減しています。実際仕事がないために、みんな廃業するか、コンベンションを頼って生きています。コンベンションで生きると言っても、実際の出演チャンスはほとんどなく、みんなディーラー活動をしています。

 そんな中で、一本30万円をいかに手に入れるか。これは難問です。私も随分悩みました。この時の私の悩みは、今、スライハンドで生きている方々も参考になることと思いますので、詳しくお話ししましょう。

 

 先ずなぜ、スライハンドが高く売れないか、その売れない理由を考えてみました。

 1つは、スライハンドは持ち時間が8分9分しか持たないことです。私は昔からスライハンドマジシャンに疑問を感じていたのですが、自分の手順8分を終えた後、残りの演技が急に内容がお粗末になるのです。紐切りの種明かしをしたり、紙を破いて丸めてつながる定番の種明かししたり、明らかに前半の演技と比較して、後半の内容がつまらないのです。紐切りや紙玉の演技がつまらないと言っているのではなく、明らかに惰性で、当人の工夫が足らないのです。少しもおシャレではないのです。

 自分が人生をかけた演技の、半分が惰性であったなら、その人が売れるわけはないのです。スライハンド以外の演技がイリュージョンであれ、喋りであれ、どれも個性的で、とびっきり面白いものでなければいけません。それを作らずして、仕事がない、売れないと嘆いても、仕事がないのは当然なのです。

 

 2つ目は、衣装も、小道具もパターン化されてしまって、目新しさがないのです。若いマジシャンなのに、黒い燕尾服、シルクハット、ステッキを持って出て来て、シルクハットをテーブルに置き、ステッキをシルクに変え、そこから鳩が一羽出て、そのあとカードのファン、四つ玉、仮にうまい人だとしても、これは見飽きた世界なのです。

 私が、20代の頃、テレビ局のオーディションに行ったとき、燕尾服も、和服も、全く一顧だにされませんでした。そして、別室に呼ばれ、「今やっていることを続けていても、テレビは絶対買わないよ」。と言われました。マジシャンとして認められたければ、黒い服、玉にカードにステッキは一度手から離して考えなければだめなのです。

 

 3つ目は、使う道具のクオリティです。これは私のように一手順で30万円取ると狙いを定めた者は真剣に考えなければならないことです、マジックの道具はどれもクオリティが低いのです。30万円出すユーザーと言うのは、有名なお店であったり、お医者様であったり、会社でもかなり大手の会社です。そうしたオーナーは、物の良し悪しは知っています。使う小道具の一つ一つを金額で当てることのできる人たちなのです。

 それが、プラスチック製のワゴンに風呂敷を巻いたテーブルを使ったり、ベニヤ板を切って、譜面台の三脚を取り付けたテーブルを使ったりしたら、それだけで出演の依頼は来ないのです。小道具一つ一つも同じです。箱一つでも、合板を接着剤でくっつけた箱では、とても魔法の箱には見えないのです。そんな道具で稼げる仕事は、一本3万円、5万円の仕事です。

 少なくとも、アマチュアが使う道具とは歴然と違ったものを持たなければいけません。楽屋で、マジックメーカーの段ボール箱から道具を出してはいけないのです。その道で一流になろうとするなら、やっていることも道具も日本で最高のものでなければいけないのです。つまり、ここから先は自分自身が本当の本物にならなければ前には進めないのです。高いギャラを取ると言うことは本物になることなのです。

その4はまた明日。

 

続く