手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

三年秘す

 今日と明日の三日間は指導です。今日は東京のアトリエで5人の人を指導します。明日は、富士に行き、8人程度指導をし、日曜日は名古屋、月曜日は大阪に行き、8人指導をします。このところ大阪の生徒さんが増えています。

  大阪はプロマジシャンが6人います。大阪のプロさんはあまり人に指導料を払ってマジックを習うという習慣がないようです。じゃぁどうやってマジックを覚えるのかと聞くと、多くはメーカーの情報から、道具を仕入れること、ネットの情報から断片的に種を知る等。然しそれでは内容のしっかりしたマジックは覚えられないでしょう。

 特に手順物の演技などは、知るすべがなく、結局、売りネタをつなげ合わせたようなことをして手順にするしかないようですが、それではプロとして生きては行けません。

 

 そこで、私は、ロープ、シルク、シンブル、四つ玉、リング、と言った基本の、マジックを手順で指導します。手順にすれば、実際の舞台にもすぐに生かせますし、実践を繰り返すうちに、マジックの手順とはいかに作るか、ということが徐々にわかってきます。こうした稽古を繰り返すことがマジシャンにとって大きな技量となります。

マジックは単発の現象を買い集めてもまず役には立ちません。見た時にはいいものと思っても、家に帰れば押し入れや引き出しにしまい込まれ、生かすチャンスはほとんどありません。マジックを人に見せるのは、現象ではなく、構成力が求められます。しかし、構成と言うものはそう簡単に作れるものではありません。

 そこで、まず旧作の手順の、名作と呼ばれる作品を一つ一つマスターしてゆくことが大切なのです。旧作をなぞって行くと、マジックがどうやってできているのかがよくわかります。その手順をお客様に見せてゆくうちに、お客様は何を喜ぶのかがわかってきます。同時に旧作の物足りなさも見えてきます。そこでアレンジ(改案)の必要性が生まれてきます。ここからマジシャンの創作活動が始まります。

 しかし、元となる考えは、まずマジックの成り立ちを知ることですし、自分がある一定のレベルのマジックをお客様に提供できることです。そのために指導を受けることと言うのは大切なことなのです。

 

 私がロープを出したり、シンブルを見せたり、四つ玉を演じようとすると、あるマジシャンは「そんなのつまらない」。と言います。「そんなマジックをしても収入にならない」。と言います。その通りなのです。基本のマジックはありふれたものですから、それを基本通りに演じても、収入にはつながらない場合が多いのです。

 でも、私が、そうした批判にめげず、演じて見せると、いくつかの部分で気になる謎の部分を発見します。そして、なぜそんな風になるかと質問をしてきます。うまく私の術にはまったわけです。そこで、順に解説してゆくと、ところどころ初めて学ぶ技法に出会います。ロープや、シンブルから、自分の知らない技法があったことを驚きます。そして実際に稽古をしてみると、その手順は面白いですし、よく考えられています。自分自身がわがままに作った手順とは雲泥の差です。ここから、若いマジシャンは、習うことの大切さを初めて知ります。

 初めは何でも物を知っているような顔をして、ものごとを斜めに見ていたマジシャンも、徐々に基本を学ぶことの大切さを知ります。いつしか私を見る目も素直になってきます。そればかりか、マジックに対する姿勢が少しずつ変わり始めます。

 初めは、ちょこっとやって、すぐに舞台で見せて、すぐに結果を出そうなんて考えていた人が、簡単に人前に出してはいけないと知ります。道具一つ一つも丁寧に箱におさめ、布にくるむようになります。手順で覚えたものは手順でひとまとめにするようになり、他の演技の道具を共用しなくなります。つまり、自分自身が少しづつですが、プロとしての自覚が育ってゆくのです。

 いいことです。それまでわがままに自称プロと称していた人が、プロになるためになすべきことがあるのに気づいてくるのです。習うことの価値は種仕掛けを知ることだけではありません。もっともっとたくさんのことを学ぶのです。それがわかると、習うことの大切さがわかります。今、大阪の生徒さんはそこの重要性を知って熱心に稽古に通っています。彼らは、来月、月24日、道頓堀の劇場、ZAZAでショウをします。ゲストが峯村健二さんです。いいメンバーですからぜひお越しください。

 

 ところで、私のところで習っている人の中には、マジック教室を持っている人もいます。自らが教師となって、マジックを指導しています。私はこうした先生方のマジックを教えるときには、いくつか注意をしています。その内から3つのことをお話ししましょう。

1、誰の作品か、誰から習ったか。

 指導する作品が誰の作品か、あるいは、誰から習ったかを生徒さんに伝えること。

ここを話さずに指導することは、泥棒と同じです。無断使用しているのです。これはいけません。マナーとして覚えておいてください。

 

2、後々までしっかり教えること

 1時間教えて、出来てもできなくてもそれでおしまいというのはいけません。生徒さんが習った後に、人前で演技するときにも、しっかり見ていて、いい加減に覚えた部分は間違いを指摘することです。何度も何度も直して。見てやることが大切です。

 

3,3年秘すること

 私から習って、次の週に人に指導してはいけません。まず自分自身が、その手順を人前で見せて、ある程度の評価を得なければいけません。自分がちゃんとできて、細かな部分まで理解ができた上で、生徒さんに指導することです。そのために、一つことを習ったなら必ず3年秘すのです。指導を急いではいけません。

 自分が未熟なうちに教えてしまうと、生徒さんがあなたを軽んずるようになります。指導家と言うものは、なかなか追いつけないような技量の持ち主であると、生徒さんが認めるようでなければ、生徒さんは寄っては来ません。二、三回習っているうちに、先生よりも生徒さんのほうがうまくなってしまっては先生の価値はないのです。まず教えるよりも前に、自分自身お稽古をしっかりなさってください。

 

 というわけで、私は明日から3日間指導に行きます。そして、土曜の夜は、柳ケ瀬で、辻井さんと峯村さんと三人で一杯やります。これが楽しみです。こんな晩もあっていいのです。そのため。一昨日、昨日、今日と、酒を抜いています。柳ケ瀬はコロナの影響で人が少ないそうです。何を心配しているのでしょう。よほどおかしなことをしない限り、コロナウイルスはうつりません。今から柳ケ瀬が楽しみです。

 

 

コロナの陰で

 昨日、コロナウイルスは、もっと大きな問題を隠すためのミスディレクションではないか。と書きました。仮にそうであるなら、隠れた問題とは何かということですが、私は、中国対アメリカのパワーバランスにあるのではないかと考えます。

 それは、中国の経済がどんどん大きくなっていくことに対して、世界が危険視しているのではないかと思います。中国が、日本企業や、ヨーロッパの企業の下請け仕事をしているときには便利に使われていたのですが、だんだん企業が大きくなって、自社で何でも作れるようになり、それにつれて、中国の収入が大きくなってゆくうちに、中国を危険視する考えが先進国の間で定着したのだろうと思います。

 そこで、アメリカはファーウェイを狙い撃ちして、中国の先端企業をけん制し、同時に、中国は、後進性を引きずったままの国ですから、三年に一回くらい、ウイルスを発生させて、世界中に迷惑をかける国であることを強く印象付けて、後進性を見せつけるために、コロナウイルスを過大に触れ回っているのではないでしょうか。

 

 コロナウイルスの感染者が、日本、韓国くらいだったころは、欧米も、静観していたのですが、自国に及んでくると、急に大騒ぎです。しかもその騒ぎ方が異常です。

 アメリカ、日本、韓国、ドイツ、フランス、などは、いまや中国のライバルです。アメリカやヨーロッパ各国の中国批判は日に日に高まっています。イタリアは、中国の「一帯一路」の政策に乗っかって、中国から資本を借りて、国の立て直しをしようとしている国です。資金を貸してくれたことはありがたいのですが、同時に中国人の労働者がどんどん入って来て、それがたまたま中国南部出身者が多かったために、コロナウイルスまで一緒に輸入してしまい、大騒ぎです。イタリア国内にも、中国に寄りかかり過ぎた政策への批判が集まり、今日の過大なコロナ対策につながっているのでしょう。

 実際、毎回新型のウイルスが発生する地域が、ほぼ中国の奥地に限定されます。ヨーロッパ人から見たら、このことだけで、中国は先進国に入ることは絶対に不可能です。欧米がウイルスを実態以上に過大に対応するのは、先進国による中国外しと取れます。今回のウイルスの話の中に、ロシアが一切関係してこないことも不可解です。陰に何か理由がありそうだと手妻師は勘繰っています。

 

 日本も同様に、かつて、先進国との軋轢がありました。その最たるものは太平洋戦争です。第二次世界大戦のアジア側で起こった戦いを太平洋戦争と呼びます。多くの人は、この戦いを日本が中国を侵略したため起こった戦いと考えていますが、実態は日本の経済成長を嫉んだ先進国が不満を持ち、アメリカが中国に武器を貸与し、先進国が日本にABCDラインを敷いて、包囲したことが戦争につながったのです。根にあるものは先進国との領土の分割であり、利権の争奪です。

 戦後、日本は軍隊を放棄して、経済に特化してゆきますが、そこでも、先進国との様々な対立を生みます。しかし、軍備を持たない日本は徐々に先進国や、周辺国の信頼を勝ち得て大国の一つになってゆきます。

 

 そうした中で、中国に対する反発が大きくなるというのは日本にとって、余りいいことではありません。一度中国が悪い国だというレッテルが張られると、欧米人の中で、日本、中国、韓国人が悪い人間になってゆきます。それは欧米人には、日本人と韓国人、中国人の見分けがつかないからです。それはある意味当然なことで、我々も、ドイツ人、オランダ人、イギリス人の見分けは付けにくいのです。

 先進国の間で、中国人は危険だとなると、日本人や韓国人にまで被害が及ぶ可能性があります。このまま行くと150年前の「黄禍論」が再燃しそうです。黄禍論と言うのはドイツの学者が唱えた考えで、「アジア人は安い労働賃で必死に働く、やがて世界は、アジア人が制覇し、白系の民族の仕事を奪ってゆく」。と、唱えたもので、ある意味、この理論は150年後の世界を予見していたことになります。

 特に日露戦争で日本が勝利した後、しきりに欧米では黄禍論が騒がれました。これにより、当時、海外に進出しようとした日本人は、言われなき差別を受けて大変に苦労をしました。「黄禍」の黄は当時は日本人に対しての差別でした。

 今現在、黄禍論は過去の古い考えだと多くの人が思っていますが、どうでしょうか、これが再燃して、人種差別が起こらないと言えるでしょうか。欧米が経済悪化によって、人種差別を語るようになり、黄禍論を振りかざすようになると、世界は危険な方向に進みます。戦争は、自国がうまく機能しなくなったときに、その責任を他国に押し付けます。その結果戦争が起こります。

 

 戦争の事の起こりは、他国に対する悪口から始まります。「悪口が戦争になるなんて考えられない」。人はそう思いますが、そう言っているうちに戦争は起こり、その戦争に、今、儲かっていて、景気の良い国が、武器や資金を戦争当事国に貸して、肩入れするようになると、たちまち大戦に発展します。嘘だと思うなら、第一次大戦、第二次大戦の資料を見てください。こんな時、日本はどう生きたら良いのでしょうか。

 少なくとも日本は、中国や、韓国と争っている場合ではないことは明らかです。何とか三国は力を合わせて活動しなければなりません。しかし、しかしです。周辺国に覇を唱え、軍備拡大している中国と、日本を敵のように考えている韓国に手を差し伸べて、共に仲良く生きて行こうというのは簡単ではありません。

 簡単ではないのですが、少なくとも、日本人の側から、言われなく中国人や韓国人を嫌ってはいけません。相手が何を言っても、いざとなったら助けてあげられる道筋だけは残しておくべきでしょう。この先の日本政府の、中、韓に対する匙加減が、案外世界恐慌を救うことになるのかもしれません。日本の役割は重要だと思います。

 

 と、話は大袈裟になりましたが、5月のヤングマジシャンズセッションでは、韓国のハンマンホが来日します。来日するとは書きましたが、本当に来れるかどうかは今のところ未知数です。何とか八方手を尽くして、来日できるように工夫します。世界がどうあれ、マジックの世界だけは、人種で差別をしないようにしたいものです。

 いいマジックを見せてくれるなら、人種なんて関係ないのです。面白いから見る、いいから見る。それ以上の何物でもなく、またそれ以外の余計な考えは不要です。

こんな状況にあって、5月は得難いショウになりそうです。どうぞ、興味の方は今から予約をしてください。既に30%くらいのチケットが売れています。良い席はお早めに。

 

 

ディレクション、ミスディレクション

 マジックの技法で、ミスディレクションと言う心理的な技があります。これは本来の英語の意味とはかなりかけ離れた意味で使われている言葉で、マジックでは頻繁に使われる技法です。まず、ディレクションですが、これは本来の意味は方向を意味します。テレビ局にいる、ディレクターと言う人は、番組を制作するリーダーのことですが、ディレクターと言う言葉の意味は、方向を指示する人の意味です。

 航海をしていて、マストの上で、双眼鏡を持って遠くを眺めている人、あれがディレクターです。人よりも先の見える人、そこから発して、一つのプロジェクトを統括する人などをディレクターと言います。まずこのことをご記憶ください。

 次に、マジックのミスディレクションについてお話しします。ミスディレクションは、本来の意味は、ディレクターが立てた方針が間違っていたり、予想に反した方向に進んだ時がミスディレクションです。

 しかし、マジックの場合は、かなり意味合いが違います。意図して間違った方向を作り上げ、人の注意を別方向に集めているすきに、本来の目的、すなわち種を取って来たり、既に持っているものをどこかに処分して、観客が気付いたときには消えている。と言った結果を作り出すための心理誘導をミスディレクションと言います。

 ミスディレクションが技法として使われるようになったのは、おそらく明治の末頃からではないかと思います。当初、ヨーロッパやアメリカのマジシャンが使い始め、技法として使われ始めた当初は、かなり強烈な作用で観客が誘導されたため、多くのマジシャンがこぞって使いました。

 日本では明治の末年か、大正期に海外に渡った、松旭斎天二石田天海によって伝わりました。天海師はミスディレクションを「誘導策」と訳しました。直訳ではないにしろ、マジックの技法としては的を射ています。今でもミスディレクションは現役の技法として使われていますが、DVDの普及などで、単純なミスディレクションは、簡単に読まれてしまうため、強い効果は望めなくなってきています。

 私が子供の頃、病院に行くと、擦り傷は全部赤チンと言う薬を塗って直したものですが、今は病院から赤チンを見なくなりました。病原菌が強くなって、赤チンでは利かなくなったのでしょうか。どうもミスディレクションは、病院での赤チンの運命に似たものなのかもしれません。

 

 話があちこちに移って、私の言いたいことが曖昧になっています。何が言いたいのかと言うなら。私は、今回のコロナウイルスの問題は、マジックで言うミスディレクションなのではないかと勘繰っています。大して危険な病気でもなく、拡散する可能性に少ないウイルスであるにもかかわらず、これほど世間が大騒ぎして、世界全体が不況に突っ込んでゆくのが明らかなのに、なぜみんなして無謀な行為をするのか。

 それが何であるか、私にはわかりませんが、今、コロナウイルスで世界が大騒ぎの状況は、実はコロナウイルスを撃退するための活動が目的ではなく、もっと大きな問題のためのミスディレクションすなわち「誤誘導」なのかもしれません。そうだとしたなら、背景にある問題を早くに察知して、「危ないぞ、コロナに関わっているうちに、この先こんな風になるぞ」。と誰かが知らせる必要があります。

 どうも、毎日のテレビの報道を見ていて、「コロナウイルスが、これほど毎日、テレビ局が特別番組を作るほどの問題だろうか」。と。疑問を持ちます。加計問題や、お花見問題を隠すにしては、隠し方が大袈裟です。実はもっと人に言えない何かがあるのかもしれません。それも、世界中が、同様に大騒ぎをしているところを見ると、問題の根は世界的な大問題なのかもしれません。

 何にしても、マジシャンが手に持ったリンゴ一つを消すだけなら、45センチのハンカチ1枚あれば足りるはずですが、今回はりんご一つに10m各のハンカチを使っています。これならリンゴは消えますが、同時にマジシャンまで消えてしまいます。こんなに大袈裟にハンカチを使って一体何をするのだろうと、マジシャンはいぶかしみます。

 私はこれが第一次大戦の前夜と類似した、危険な状況にならないことを望みます。

 

 昨日、浅草麦とろで20人のお客様が集まりまして、私の手妻をご覧になりました。7時きっかりに20名がそろい、会が始まりました。お客様は目の前の手妻を喜んで見て下さり、食事も、麦とろさんがずいぶんサービスしてくださって、スズキの焼き物(スズキの塩焼きは、適度に脂が乗っていて、上々の魚でした)や。煮物、上げトロなど、たっぷりの食事で素晴らしい内容でした。

 ただし、麦とろさんもお客様がなかなか集まらないらしく、苦労されているようでした。コロナウイルスもそうですが、浅草は観光に来る、中国人や、韓国人が激減し、どこの土産物屋さんも、レストランも、青息吐息の状況です。これは、京都も、大阪も同じで、これまで活況を呈していた観光地がどこも閑散としています。

 

 こんな時にどうしたらいいか。ここを工夫するのが、ディレクターの才覚です。人が方向を見失った時、一人マストの上に立って、先を見つめるディレクターが必要です。

観光地は、今は外国人が来なくなったお陰で、どこも静寂が戻っています。今、神社仏閣に出かけると、ホテルでも新幹線でも、簡単に予約が取れますし、観光地は混雑することなくゆっくり見て回れます。じっくり見て回りたい人には大チャンスです。

 観光客が減ったなら、落ち着いてみられることを売りにしたらよいでしょう。京都でも浅草でも、今、来てくれるお客様を大切にもてなせば、きっと長いご贔屓になってくれます。いつ来るかわからない外国人ばかりを追っていても、また同じことが繰り返される可能性があります。もう一度、根の生えた落ち着いた商売に立ち返って考えたほうがよいのではないかと思います。

 

 私は、4月18日に、人形町玉ひでで、お食事と手妻のショウをします。また、神田明神エドッコスタジオで、4月10日、17日、24日とお食事付きで手妻のショウをします。更に4月25日には大阪で若手マジシャン10組集めてZAZAでマジックセッションと言うタイトルでショウをします。更に5月8日には東京の座高円寺で、同じくヤングマジシャンズセッションを催します。

 こんな時期に立て続けに公演をして大丈夫かと心配する仲間もありますが、私がやらなければ誰もしません。人がしてくれるのを期待して待っていても、一向に前に進みません。私の弟子や、一門、マジックに熱心な若手マジシャンが、わずかでもショウに関わって生きて行けるように、私が率先してマジシャンが出演する場を作って行かなければならないと考えています。心配をする必要はありません。私はマストの上に上って将来を見ています。安心をしてください。将来は明るいです。手妻師の言うことは間違いありません。

マスクしない、病院行かない

 マスクが足らないと世間では大騒ぎをしています。しかし、医師によってはマスクは役に立たないと言っています。役に立たないものならする必要はありません。むしろ私のようにコロナウイルスに罹ってもいないものがマスクを買えば、本来マスクが必要な患者さんにマスクが行き渡らなくなり、患者さんに迷惑がかかります。そうなら、たいして風邪をひいているわけでもない人がマスクを買うことは、それだけで社会に対して間違った行為をしていることになります。

 私の言いたいことはもうお判りでしょう。これが「誤謬(ごびゅう)」です。個人が風邪をひいてマスクを買い、マスクをする。これはいいことなのです。しかし、政治や、テレビや新聞などが、「外に出るときはマスクをしよう」。と呼びかけると、マスクはたちまち不足します。そして、実際マスクを必要としている患者さんにマスクが行き渡らなくなります。これは大問題なのです。

 

 誤謬と言う意味が単に間違いという意味なら、間違いと言えばそれで済みます。あえて誤謬と言うのは、本来間違いでないこと、あるいは立派な行いに、政治が関与して、法律でみんなに守らせようなどと決めると、守らないものに罰則を課したり、法を維持するために、多くの負担を強いたり、守らない者を疎外したり、排除したりと、とんでもなく多くの人が迷惑を被る結果になります。迷惑は論理的な矛盾を生み、間違いが間違いを塗り重ねて行き、やがて社会が破綻をきたします。本来、正しき行いが、いつの間にか正しくない行いになって、人々を苦しめる。これが誤謬です。

 マスク着用然り、イベント自粛然り、学校休校然りです。コロナウイルスは、健康体の人や、子供には罹りにくいと、多くの医師がはっきり言っているにもかかわらず、日本政府は小中学校を全国休校にしました。なぜそんなことをしますか。

 一部、石川県などが反対して、普通に登校したようですが、これは石川県のあり方のほうが常識に沿っています。他の県は異常です。風評に流されているのか、安倍首相の判断におもねているのか、いずれにしても、多くの自治体は自らがしてることの是非を論理的に検証しないまま、全く意味のないことに時間と費用を空費しています。

 お陰で主婦は子供のためにパートを休まなければならず、給食を作る会社に従業員は失業し、パン屋さんは開店休業で、牛乳は余って売り先がありません。すべて突然に決めて、迷惑をこうむった人への保証もありません。善意の押し売りで、多くの人が迷惑をしています。明らかなる誤謬です。

 日本全国で700人しか罹っていない流行り風邪に、なぜそこまでしなければならないのですか。あまりに過剰な対応ではありませんか。

 私ら芸人たちは、仕事がどこもキャンセルになってすることがありません。あるマジシャンは、練習をしようと、市役所などのリハーサル室を借りようと出かけると、コロナウイルスのために施設は休館になっています。おかしいではありませんか、そもそも利用者のために存在している市の施設がなぜ休館するのですか、感染を防ぐためと仰いますが、日本で700人しかいない感染者のためになぜ市の施設を休館しなければならないのですか。三か月たって、少しも感染が広がらないコロナウイルスに対して、なぜそこまで過剰反応するのですか。

 これが誤謬による災いなのです。コロナウイルスにかこつけて、多くの人に迷惑を与えているのです。迷惑を与えている人は、コロナウイルスの患者ではなく、間違いを信じ切って過剰な行動している人たちなのです。誤謬の恐ろしさは加害者が人の生活を邪魔していることに気づいていないことです。

 

 そこで私は重ねて申し上げます。マスクはする必要はありません。買ってはいけません。ましてや買い占めて儲けようとしてはいけません。

 風邪をひいても病院に行く必要はありません。行ったところでコロナウイルスを治す薬はないのです。熱があるなら熱さましの薬を、鼻水が出るなら鼻水を抑える薬を薬局で買えばいいのです。後は体を休めることです。寝ていれば治ります。

 音楽のライブでも、芝居でも、寄席でも、見たいものがあれば行っていいのです。コロナウイルスは簡単には罹りませんから。仮に罹ったとしても寝ていれば治ります。

 何にも心配することはないのです。騒ぐ必要もなければ、将来におびえる必要もありません。無責任にものをいう人の言葉は疑ってかかることです。お昼のワイドショウのコロナウイルスコーナーは見ないようにしましょう。見ても同じ話しか出て来ませんから。そもそもテレビでまことしやかにものを言っている有識者を信用してはいけません。手妻師だけを信じていればいいのです。

 

 私は今日、浅草むぎとろさんのお座敷で手妻をいたします。20人ほどのお客様が集まって下さるそうです。麦とろさんのとろろ芋尽くしの懐石料理を食べて、蝶のたはむれを20人で独占する。こんな贅沢なひと時が味わえるのは東京にいればこそです。

 もしブログをご覧の客様の中で今晩参加なさりたい方がいらっしゃったなら、どうぞご連絡ください。2,3名は参加可能です。

 03-5378-2882東京イリュージョンまで。

長唄唄ってなぜ悪い

 昨日は、杵家七三(きねいえなみ)さんのお弟子さんのお浚い会に行って、私も一曲唄ってきました。さて、その七三さんの会ですが、開催中止の噂があちこちで流されたのですが、開催すると決定したそのあとから、いろいろな人が口をはさんできて、「会は中止したほうがいい」。「どうせひとはあつまらない」。などと言い出したそうです。しかし、「生徒さんは、せっかく一年お稽古して来て、皆さんにお披露目をするのを楽しみにしていたんですから」。と言って、開催を決めることにしました。

 ところが、 そのあと、手紙やら、電話の攻勢がものすごく、「ウイルスに感染したらどうするのか」。「年寄が死んだら誰が責任を取るのか」。などなど、ものすごいパッシングが起こったそうです。そうした話を聞くと、まるで江戸時代の人の感覚を聞いているようでびっくりしました。

 コロナウイルス騒動に、個人個人が対応するために、人ごみの中に出て行かない。混雑した電車に乗らない。家で静かにしている。それらは個人の対策としては良いことです。しかし世の中には、どうしても活動をしたい人もいます。そうした活動する人を捕まえて、「中止しろ。家にいろ。病気になったらどうする」。などと言うことは、大きなお世話なのです。

 それぞれが個人の判断で行動すればよく、仮に、ウイルスに罹ったとしてもそれは個人の判断の結果なのです。コロナウイルスはペストやコレラとは違います。まず、感染しにくいウイルスですし、罹っても治らない病気ではありません。そうであるなら、普通に仕事をし、普通に趣味の時間を使うことに何の問題もありません。

 長唄のお浚い会に行くことも、出演することも、全く問題ありません。それを、外部の人がやめさせようとしたり、病気に罹ったら誰が責任を取るのかなどと言うことは、脅迫であり、善意に名を借りた妨害工作なのです。

 長唄の会をすることは善意の行為であり、何の問題もありません、来たい人が来ればよく、発表したい人が発表すればよいのです。ただそれだけです。そこに誰の遠慮が必要ですか。

 

 以前に私は、誤謬(ごびゅう)について書きました。誤謬とは、個人が自身の考えで行動することは良いのですが、それを組織が押し付けて、法律を作ってまで人に守らせようとすると、多くの人に悪影響を与えるということです。

 例えば、人が犬猫を可愛がることはいいことです。しかし、法律を起こして、犬猫を守れと命令すると、国事態が大混乱をします。「生類憐みの令」と言うのがそれです。犬を叩いた者が牢屋に入れられる。犬を殺したものが島流しに合う。現代の人が考えたなら、ナンセンスもいいとこですが、その現代人が、ウイルスを盾に、他人に対して、自分の価値観を押し付けようとしています。

 芝居を見たい人に芝居を見るなと言い、長唄の会を催すと言えば、出ようと思っている人に出るな、見に行くなと言い出す人があり、それでも主催者が開催しようとすると、出演者に連絡をして、参加を取りやめさせたり、見に行くことを楽しみにしていた人に電話をして、今出かけたら病気になると言って、不安を煽ったりします。

 劇場が再開をしようとすると、「こんな時期に何を考えているのか」。と抗議する人があります。こんなことを繰り返していると、多くの企業が倒産をし、失業者が増えて行きます。そうなった時に初めて誤謬による不況を経験することになりますが、時すでに遅しです。賢い人は結果を見る前に未然に防ぎます。

 おかしな空気が日本を支配し、責任のない人の言葉によって、日本人行動が縛られてゆきます。そうならないためにどうしたらいいか。簡単なことです。自然に任せることです。イベントを規制する必要はありません。劇場は再開すべきです。オリンピックは開催したらいいのです。無責任な人の言葉は聞く必要はありません。きっちり責任のとれる人の言葉こそ尊重すべきです。

 日本は数値の上からはコロナウイルスは終息しつつあります。後は終息宣言を出すだけです。リーダーとなる人は、早くに国民を安心させるべきです。さもないと無責任な人のデマが広がり、多くの人が迷惑をします。一日も早い終息宣言を待っています。

 

 私の長唄は、まぁ、初めから大したものではありませんので、さほどの話題にもなりませんでしたが。しかし、私が見たところ、私の唄を聞いた人は、みるみる生き生きとして来て、はつらつとして帰って行きました。ひょっとして、私の唄にはコロナを撃退する力があるのかもしれません。

 かなり癖の強い唄い口ですので、殺菌作用がある可能性があります。コロナ撃退法として効果があるかもしれません。私の長唄がお役に立つなら、どこにでも出かけて唄を披露いたします。ウイルスでお困りの方は是非ご一報ください。

寝てれば治る

 コロナウイルスに関して、何度もブログに書きましたが、どうも手妻師の言葉を信じない人が多いようですので、私の知るところの要点をわかりやすく申し上げましょう。

 

 先ず、コロナウイルスは、ウイルスの中でも、たいして手ごわい相手ではないということです。なぜ私がそんなことが言えるかというなら、私の知人の医師、何人かに直接聞いています。その上で申し上げますが、コロナウイルスは言ってみればただの風邪レベルです。仮に病院に行って、検査をしてもらったとして、その結果が陽性であったとしても、今の現状では手当の使用がありません。特効薬が開発されていませんから。

 でもご安心ください。医師はそれぞれの薬を患者に出します。(熱が出ていれば解熱剤。咳が出たなら咳止め。等々)。その上で、「それを飲んで、家で静かに寝ていてください」。と言います。寝ていれば治ります。それだけです。入院も進めませんし、それ以上の治療もしません。なぜか、コロナウイルスは風邪だからです。

 医師の側からすれば、毎日毎日、コロナウイルスの検査を求めて人が押し掛けてくることが医療業務を圧迫しています。「入院させろ」。と言う人に、その必要がないということを説明する時間が無意味です。こんな人を入院させて、もっと重症な患者のベッドを奪ってしまうことの矛盾になぜみんな気づかないのか。医師は頭を抱えてしまいます。何度も言います。コロナウイルスは家で寝ていれば治る病気なのです。

 

 データーの嘘にも気づく必要があります。日本は患者数、1400人と言いますが、実は、ほとんどの人は治って仕事をしています。実際寝ている人は300人程度でしょう。死者が24人と言いますが、3か月で24人なくなる病気は、山ほどあります。日本の人口は1億3千万人です。その人たちの中から毎月肺炎で亡くなる人、インフルエンザで亡くなる人、糖尿病で亡くなる人、結核で亡くなる人を羅列して見ればよいのです。コロナウイルスよりもはるかに多くの人が亡くなっています。マスコミがコロナウイルスの死者を語るときに、なぜ、インフルエンザの死者や、結核の死者を語らないのでしょうか。そうした病気よりもはるかに死者の少ないコロナウイルスを、なぜ特大に語るのでしょうか。全く不自然だと思いませんか。

 こういう風に書くと、ある人は、「実際、他の病気で死んだ人の中に、実はコロナウイルスだったと言う人もいるんじゃないか」。と勘繰る人があります。つまり、コロナウイルスを過少に見せたくて、他の病名にしている場合があるかということですが、これだけコロナウイルスが話題になっているのですから、もし、少しでも不審な死に方をした人があれば、病院は直ちに死因を調べて、ウイルスを調べます。いい加減な検査はしません。病気に政治の忖度(そんたく)は通用しません。加計学園やお花見会とは違います。日本の医療はそんなにお粗末なものではありません。

 

 と、こう説明しても、「そうは言っても、ダイヤモンドプリンセス号は、毎日毎日感染者を増やして、たちまちのうちに700人も感染したではないか」。と言う人があります。その通りです。はからずも、最も悪いケースを作り上げて、連日マスコミに情報を提供してしまったのです。その結果、世界中のマスコミが横浜に取材にやってきて、コロナウイルスは危険だという噂が一気に世界に広まりました。あの時、いち早く乗客を下船させて、感染者は病院に、平常の人はホテルに宿泊させしていたなら、ここまでの風評被害にはならなかったのです。あの対応は失敗だったと言えます。

 ダイヤモンドプリンセスの問題さえなければ、イタリヤが国内封鎖をすることはなかったでしょうし、アメリカが、欧州との人的交流を遮断するとは言わなかったでしょう。マスコミはマスコミで、格好の話題を手に入れたとばかりに、乗船客の見方になって、政府批判をしました。でも、医師の中には、初めから、コロナウイルスは大した病気ではないと言っていた人がたくさんいたのです。事は簡単に収まると楽観している医師もいたのです。しかし、一度風評被害が広がると、人の勢いは収まりません。

 イタリアがコロナウイルスの患者が多いのは、中国から金を借りて、港湾などの整備事業をしているからです。中国が金を貸してくれたのはいいのですが、中国人の安い労働者がイタリアに大量に入り込んだ結果、コロナウイルスが蔓延し始めたのです。金を借りるのでも人を選ばなければいけません。簡単に借りられるからと言って、安易に借りると、高いつけが来るのです。サラ金とは似て非なる問題ではありますが、根を問えば似たようなものです。国の体力が落ちているところに付け込まれたのです。

 

 話を戻します。冷静に考えてください。船 の中に閉じ込められている乗船客が二か月で700人感染したというなら、3500人が乗っているダイヤモンドプリンセスの感染率は、20%です。 しかし現実に、日本で、毎日毎日、山手線や中央線に乗って、あの混雑の中で生活しているサラリーマンの20%がコロナウイルスに感染しましたか。あるいは、日本人の20%がコロナウイルスになりましたか。

 今のところ、日本の感染者は1400人ですが、そのうちの700人はダイヤモンドプリンセスの乗船客です。実際の日本人は700人が感染しただけです。ダイヤモンドプリンセスから計算したなら、本来なら500万人くらいが感染していなければいけないはずですが、500万人と700人はあまりに違いすぎませんか。しかもそのほとんどが治っている現状をマスコミはなぜ説明しないのですか。こんな病気に毎日マスコミが大騒ぎして、政府が法案を立てる必要がどこにありますか。

 つまり、コロナウイルスは簡単に感染しない病気なのです。手洗いとうがい、で十分感染が防げるのです。そうなら、普通の風邪とどこが違うのですか。歌舞伎座や、帝劇が休演する必要なんかありません。パーティーをしたい人はパーティーをすべきです。体育競技は堂々と行うべきですし、オリンピックを先送りする必要はありません。世界中の風邪をひいていない選手が来て、競技をすればよいだけの話です。そんなこと手妻師が心配して言う話ではありません。楽しい素晴らしい話題になぜ水を差すのですか。おかしな風評被害で世界の経済が悪くなることのほうが心配です。

 まず、頭のいい政治家の先生や、お医者さんが中心となって、本当のことを国民に告げるべきです。「寝てれば治る」。と。

蝶が舞い 水立ち昇り 江戸の夢

 最近色紙を頼まれるとこの言葉を書いています。川柳のつもりですが、別段川柳を勉強したわけでもなく、全く素人芸ですが、絵柄が感じられますし、特に春の景色としてていいのではないかと思い、書かせていただいています。

 蝶とは文字の通り、蝶のたはむれです。紙で作った蝶が、扇の風に乗って、ひらひらと舞っているさま。まさに春景色です。水立ち昇りは、水芸で、湯呑から一本の水が、天に上る龍のごとく、すっと立ち昇って吹き上がる様を七文字にしました。水芸は、舞台一面菖蒲(あやめ)の花を飾るのが決まりですので、これも春景色です。

 蝶も水芸も、江戸時代のお客様はそこに別世界を想像して、舞台を眺めていたのでしょう。まだ私の娘が三歳くらいの時に、舞台の袖に椅子を置いて娘を座らせておくと、私の水芸を見ながら、水芸の音楽に合わせて、足を左右に振りながら、きゃっきゃと笑いながら水芸を見ていたのを思い出します。言ってみれば手妻は、蝶と水芸の中に全てが語られています。そして私の人生も、ここに集約されています。

 

 さて、今まさに春を迎えて、人の心は華やいできているはずですが、どうしたものか、江戸の夢をお見せする場がありません。水芸の仕事も中止になってしまいました。

 昨日は、その水芸を演じるために、久々道具を出して、朱の欄干を組み立てました。私のアトリエでは水芸の装置を並べきれませんので、表の道路に出して組み立てます。表の道はめったに人が通りませんので、水芸の稽古には最適です。時々郵便屋さんや、宅急便の車が通るくらいです。

 水芸はしばらく演じる機会はありませんが、昨日は随分前から稽古日を決めていたため、スタッフが集まり、一日稽古をしました。水芸は通常、太夫の私と、才蔵役の前田、それに菖蒲の精が二人、和田奈月と、穂積みゆき、それに後見一人、五人で演じます。みんな浴衣を着て、装置をセットして、少し寒かったですが、外で何時間か稽古をしました。

 半年くらいの空白があって、久々、装置を出してみると、あちこちで道具が古くなっていて、故障がみつかりました。道具はいったんアトリエの名kに入れておいて、来週、修理をすることにしました。

 奈月も、仕事がキャンセルになって困っています。何とか助けてやりたいとは思いつつも、私自身がこの先どうなるかわからない状況ですので、大した協力もできません。

歯がゆい思いをしています。

 

 私は31歳の時に。装置を松旭斎天暁先生から譲り受け、それをほとんど旧来の形をとどめないほどに改良を加えました。と言っても外見だけを見たなら変化はありません。中の装置が全く違います。実は私の水芸は、内部の仕掛けに二つの特許が入っています。従来のものとはまったく違った作りなのです。

 手順も、極力同じ振りは排除し、口上をやめて、スピードアップを図りました。昔の初代天勝の演技は、水芸だけで30分くらいかけて演じていたのですが、現代の感覚で言ったら、一芸30分は長すぎます。私の水芸は正味10分間です。その10分を四つの章に分け、第一章が、水改め。第二章が、才蔵の頭水。第三章が、菖蒲の踊り。第四章が、綾取りの段と大水。それぞれが2分30秒程度にまとめてあります。

 これだけの大道具を持って来て、舞台を拵えるとなると、演者の思いとしては、どうしても20分や30分演じたいという気持ちにはなるでしょう。しかし、ここが舞台人のセンスだと思います。あえて、10分でさっと切り上げるところが奢(おご)りなのです。長く演じたならお客様は退屈します。面白そうなことが次々に起こって、あっという間に終わる。そこに江戸の夢があるわけです。

 

 水芸を筝曲の伊藤派家元、二代目、伊藤松超先生に作曲していただきました。全くの新曲です。33歳の時のリサイタルで音楽と、水芸の演技を披露し、芸術祭賞を頂き、以来、基本的にはその形が今日までずっと維持されています。

 私の水芸は、全方向を囲まれても、ホースもポンプも見えません。外から水を引き込むこともしません。サッカー場の真ん中でやって見ろと言われてもできるのです。30歳の時の私は、古典奇術を残すためには、来る仕事を断らず、どこでもやって見せなければ手妻は生き残れないだろうと考えていました。そのため、360度囲まれたところでもできる水芸を考案したのです。

 今回演じる予定だった、国立劇場の正面玄関前も、野外ですし、しかも横からお客様がご覧になりますので、むしろ、劇場で見るよりも、仕掛けが見えないため、より不思議に思うのではないかと思います。今考えてみても、30代でどうして、それだけの集中力と、アイディアが次々と出てきたのかわかりません。同じことを今して見せろと言われても恐らくできないと思います。30代のパワーと言うものは別格だと思います。

 私は自分の人生を考えた時に、30代で水芸を作り上げたこと、そのあと40代で今の蝶の芸を作り上げたことがその後の成功につながったと思います。自分の体力がまだ十分な時期に、徹夜などを繰り返して、一つのことを完成させられたことは大きな成果につながります。そして、同時に頭の柔らかいときに集中力を持って創造活動をすれば、その道での成功は手に入ると思います。

 逆に言えば、体力も想像力も十分な時期に、遊んでしまったり、他の仕事をしていたりすると、中年以降が花開かなくなるのではないかと思います。

 その後、水芸は私の舞台活動を大いに助けてくれました。水芸一本演じると、収入が大きいものですから、ちょっと仕事の少ない月があっても、年間トータルすると、必ず前年を上回る収入があったのです。水と蝶は、どれほど私のチームを豊かにしてくれたか、計り知れません。

 それが今年は、なかなか演じる機会がありません。でもここで腐ってはいけません。仕事があってもなくても道具の修理をして、稽古をすることが大切です。いつでも頼まれたならすぐにできるように、私しか演じることのできない手妻の数々を何としても残していって、江戸の夢を次に時代につなげて行かなければいけません。何があっても休むことなく活動をしています。