手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

梅は咲いたか、桜はまだまだ

 昨日は、踊りの稽古に行って、そのまま人形町玉ひで社長さんにお会いして、4月18日に玉ひでで行こなう手妻の公演のチラシを置かせてもらいに行きました。そのあとマジックランドに行き、更に月島の社会教育会館で、長唄の下攫いに行きました。

 踊りの生徒さんの中にも、いろいろな人がいて、全国の子供歌舞伎に所作を教える先生もいます。ちょうど今の時期、子供歌舞伎の発表会が全国あちこちであり、指導の先生はハードな仕事をしているはずなのですが、子供自体が休校になって、しかも地方自治体が相次いでイベントを中止したことで、子供歌舞伎はどこも中止になり、指導の先生は収入を失いました。先生は不満を仲間に、仕事を失ったことの愚痴を言うのがせいぜいで、保証も、将来の見込みも立たなくなっています。

 保証が出ないわけではありません、日当として、一日4200円の保証は、地方自治体に申し込めば降りるそうです。しかし、すんなりとは出してくれません。契約書を見せろとか、指導内容を書面で出せなどと言われます。わずかな補償を得るために日当以上に書類作成に時間を費やさなければならないとなると、地方の自治体とやり取りするのは諦めたそうです。

 通常芸能の出演や指導の取り決めなどは、電話で済ます場合がほとんどで、契約書はありません。契約書は交わしていても、キャンセルになった時の取り決めなどは書かれていない場合が多く、契約書と言うよりも、確認書と言ったほうが正しいような、単なる取り決めがほとんどです。そんな一方的な取り決めでは、芸人が不利になることはわかりきっているのですが、長年の習慣からか、一向に改まりません。結局、呼ばれて出かけて行く、芸人の立場の弱さがいつまでたっても自身の立場を弱くしています。

 というわけで、子供歌舞伎の先生は、3月4月ともどもスケジュールが真っ白だそうです。気の毒と言って眺めているわけにはいきません。私も全く同様な立場です。

 

 そのあと チラシを持って人形町玉ひでさんに、こちらは親子丼の発祥のお店で、毎日たくさんのお客様が2時間待ちの行列の出るお店ですから、何があってもびくともしないのではないかと思っていますと、相当に影響が大きく、親子丼を求めてやってくるお客様の行列は、今まで通り変わらないとしても、夜の鳥鍋コースを予約する会社のパーティーなどが軒並み自粛で、かかってくる電話はキャンセルばかりだそうです。お店としても宴会がないと店は成り立ちません。

 社長さんも、この危機をどうしたらよいか、毎日悩んでいますが、問題の解決方法が見つからないそうです。私はてっきり、玉ひでさんは何があっても安泰なのかと思っていましたが、悩みは私のところと同じ状況のようです。

 

 そのあと長唄の下攫いに出かけましたが、ここでも皆さん元気がありません。クルーズ船に乗って、日本舞踊と邦楽演奏を見せるという企画がそっくり流れてしまい、日程ががら空きだそうです。仲間の津軽三味線も、仕事を失っているそうです。

 こうして、わずか半日、本郷と、人形町と月島の三か所をぐるりと回っただけなのに、みんなこの先どうしていこうかと悩んでいます。

 帰りの地下鉄の中で、私は義侠心が燃え立っていました。結局いつの時代でも、得体の知れない風評被害によって、世間が過剰に反応し、政治が表に影に噂の後押しをして、世の中の景気を悪くしてゆきます。一旦景気が悪くなると、力のある組織から順番に生き残りの手段を講じて、自身の赤字を下請け企業や、弱者に押し付けます。押し付けられた弱者は自分より更に弱い個人事業者を圧迫し、本来自分がかぶるべき赤字を弱者に押し付けて、知らん顔を決め込みます。

 最終的に全くの弱者が赤字を全てかぶり、今までしてきた自分の仕事を廃業するかどうか、あるいは転職を余儀なくされるに至ります。こうして、日本の芸能、あるいは芸能に携わるマネージメント業、あるいは劇場、ホテル、座敷、などが廃業してゆきます。伝統を残したい、守りたいとおもてむきはまことしやかに語りながらも、現実は、今日も一人、また一人と、有能な芸人が保証もなくつぶされて行くのです。

 

 例えば、仕事を直接キャンセルしてきた会社なりを訴えることは実際にはできません。なぜなら、仕事を世話してくれる人たちと言うのは、実は我々の理解者だからです。理解あるからこそ仕事の依頼をしてくれたわけですから、あからさまに争うことはできないのです。仮に法律で争って、仮に勝利したとしても、一本分の仕事のギャラが返ってくるだけで、次から仕事の依頼はなくなってしまいます。

 ここはよく考えなければいけません。問題の根は何かと考えたなら、芸能なり、飲食店なり、お客様を相手に商売する人たちを、おかしな風評から守る方法を考えることことでしょう。いわれなき被害を受けた時に、生き残るための保証が出たなら、少々の被害があっても何とか生きて行けます。それが保険や国の制度で守られていたなら、弱者は大いに助かります。ここに名案が生まれたなら、今回のコロナウイルスも無駄ではなかったということになります。どなたか、頭のいい弁護士さんなどが私のブログをご覧になっていたなら、今回の風評被害の問題点を法律に解決して頂けないでしょうか。

 そのための活動なら私は積極的に動きます。よろしくお願い申し上げます。

桜咲くも春来たらず

 さて、国立劇場の正面玄関で開催される桜祭りのイベントで、3月25日26日の水芸は、桜祭りとともに中止になりました。皆さんに告知して、お越しください、と申し上げていたにもかかわらず、間際の中止になって、申し訳なく思っております。

 私としても、大きな企画が次々に流れてしまって、この先、果たして私が、今の形を維持して、手妻師として生きて行けるのかどうか、危なくなってきています。無論、資金を借り入れるなどして、当座は生きて行かなければならないのですが。借り入れは結局、今の負担を後世に回すことになります。私の年齢を考えると、果たして70代まで借金を重ねて、返済ができるかどうか、不安になります。

 私は、今までどんな借金も、どんな投資も何も悩まずに思い通りに進めてきました。実際それでうまく行っていたのですが、さすがに、数年先に70を迎えることを思うと、これでいいかどうか考えてしまいます。

 前に昭和天皇のご病気で、半年仕事がなかった時の話をしましたが、むしろあの時は借金することに何の不安もなかったのです1988(昭和63)年(その時私は33歳でした)。今はどうしたものかと考えてしまいます。

 幾つになっても安定と言うことはありません。試練は必ずやってきます。その時その時をどう生きるか、というのは恐らく人生のお終いまでついてくる問題です。

今回の出費も、下らなく消費しているわけではありませんから、必ず何か実りはあると思います。しかし、そうは言っても使わなくて良いお金を使い、それがマイナスを補うために使われるのでは、その実りも微々たるものでしょう。日本全体が、みんな得体の知れない風評被害にあって、自由な活動が妨げられています。国も社会もひょっと振り返って見たなら、信頼できるものは一つもなく、何ともぜい弱で、無責任な世界だなぁ、と思います。

 

 コロナの収束は、おそらく、韓国とイタリアの感染が収束したときに収束宣言をするものと思います。実際日本ではすでに収束していると思います。後になって考えたなら、なぜあれ式のことで、相撲を無観客にしたり、高校野球を中止したのか、首をかしげてしまうでしょう。普通の流行り風邪と何ら違わないコロナウイルスを、みんなで話大きくしています。とりわけ、テレビのニュースの取り上げ方は異常です。

 それでも陽気はどんどん暖かくなってきていますし、雨も降る日が増えています。気温が上がり、湿度が高くなれば、ウイルスは消えて行きます。無駄に騒がないことです。健康体の人にはコロナウイルスはかかりませんし、かかったとしても必ず治ります。大したウイルスではないのです。

 むしろ、この先にやってくる、世界的な大不況のほうが多くの死者を出す可能性があります。韓国の政治危機、中国の経済危機、このあたりが下手をすると、とんでもない世界恐慌につながるかもしれません。

 1914年7月、サラエボで起こった些細な事件が、たちまち第一次世界大戦につながりました。今から100余年前のことです。当初はヨーロッパ各国が平和裏に解決をさせようとしていたものが、解決が遅れ、三か月で終息する予定が、数年に及ぶ大戦になってゆきました。その頃、ヨーロッパの各国の人々は、まさか、ヨーロッパ全体に及ぶ戦争が起こるとは誰も考えてはいなかったのです。それが、アメリカロシア、日本までもが参戦して、世界戦争になりました。

 私は今、この程度の風評被害で大騒ぎして、物の本質を見ようともしない人たちを見るにつけ、大不況や、戦争は必ず起こると思っています。誰も昭和天皇の時のことを学んでいませんし、オイルショックも、リーマンショックも、過去のことと忘れ去って、真剣に考えていません。わずか10年20年前のことを過去として片付けてしまって、忘れてしまったなら。百年前に世界大戦が起こったことはもう全く他人事にしか思っていないでしょう。こんなことをしていてうまく行くはずがないのです。悪いことは言いません、世間の人は手妻師の言うことを聞くことです。私を信じてください。いい加減なテレビのコメンテーターを相手にしてはいけません。

 

リング 金輪(かなわ)4

 前項で、欧米に伝わった中国のリングの手順がどんなものだったかはよくわかっていない、と申し上げましたが、もし、日本に残っている金輪の曲の手順が、中国の手順に近いものだったとしたなら、金輪の曲から、当時の7本リングは推測できます。

 但し、7本の手順にダブルのリング(初めからつながって溶接されているリング)が入っていたのかどうかがまだはっきりしません。仮にダブルが入っていたなら、そこから先の欧米の手順の発展は大きく変わります。前の項で、私はダブルは江戸の初期にはあったのではないかと申し上げました。

 その理由は、「放下筌」に描かれている挿絵は、どうしてもダブルリングがなければあの形は達成できないからです。これを、「素人絵師が描いたものだから、間違いや誇張があったのではないか」。と言う人があったとしても、そのあと、本文の解説では一層不可解な解説の挿絵が出て来ますので、ダブルの否定はできないと思います。

 そもそも、江戸時代の金輪は、キーリングを2本使います。世界に残っているリングの手順の中で、キーを2本使うのは日本だけです。私は、この2本のキーの扱いこそ、その後のダブル、トリプルにつながってゆく過程の手順なのではないかと思います。

 しかしもしそうだとすると、今日、青森に残っている、金輪の曲(つまり、私の手順の原型となった7本金輪)、にはダブルリングがありません。使用された形跡がないのです。それゆえ、私も、ダブルリングの使用は推測にすぎないのです。むしろ、放下筌の解説のほうが、今に残された金輪の曲よりも技が先行しているように思えます。

 

 私は、リングの発展過程で、いきなりダブルリングが出現したとは考えられません。初めに、2本乃至、3本の連結したリングを使う手順ができていて、それからダブル、トリプルが作られて行ったと考えることのほうが自然だろうと思います。

 リングの歴史の中で、シングルリングの数を徐々に増やして行くことは比較的に簡単に出来ても、ダブルやトリプルリングを無から作ることはかなりの決断です。当時の鍛冶屋さんに鉄の輪を注文するにしても、江戸時代なら一本2万円ではできなかったでしょう。そんな状況であるなら、初めに手順が思いつかない限り、誰もダブルや、トリプルを鍛冶屋さんに依頼しようとは考えなかったでしょう。

 ダブル、トリプルのリングがない状態で、ダブル、トリプルを使った手順が思いつくには、複数のキーリングを使いつつ、ダブルやトリプルリングを仮に拵えて、試行錯誤しつつ、ダブルやトリプルの手順を作って行ったはずです。そうでない限り、いきなり鍛冶屋さんに特殊なリングは注文しないはずです。複数のキーリングと、シングルリングを徐々に増やして行く過程で、作られていったものだと思います。

 そうであるなら、江戸時代の金輪の曲は、ダブルリングや、トリプルリングを取り入れる前段階の手順ではないかと考えます。キーリングを2本使っているうちに、ダブルやトリプルリングが生まれて行くことは、自然の成り行きだったのだろうと思います。

 いずれにしましても、欧米では、ダブル、あるいはトリプルリングを19世紀の中ごろには取り入れていたようです。前述の、レベントケンシントリーさんは、リングのDVD   の中で、ロベルトウーダンの8本リング手順が、トリプル、ダブル、キー、シングル2本と解説しています。そしてその手順と言うものを演じていますが、本当に彼が演じた手順がそうなのかどうか、少し疑問を感じます。

 私は、8本のリングの中に、ダブルとトリプルを取り入れてしまうと、シングルリングが2本しか残らず、これではシングルが少なすぎて、そこからできる手順が限定されないかと思います。ダブルとトリプルを取り入れるなら、そこはマックスマリニーのように、最低でも9本のリング手順にしないと、すり替えもままならず、手順もまとめにくいのではないかと思います。

 話を戻して、ダブルリングが考案されたことにより、リングの改めをする上で、劇的な効果を生んだはずです。何しろ、つながったリングをお客様に渡すことが出来たのですから。勿論ばらのリングも渡し、つながったリングも渡し、そして目の前で外して見せることが出来たのですから、受け渡しは完璧になったわけです。

 そしてそれができた上で、リングは更なる発展をし、全部のリングを先にお客様に渡して調べてもらう、9本、12本の手順が出て来ます。

 完ぺきな改め、そして造形作り、この二つの要素を満たす手順として、9本12本のリング手順は、リングの頂点を形作ることになります。

 

 リングが大道芸人の間で貴重な芸としてもてはやされた理由は、その音です。遠く離れたところからでもリングの音は聞こえます。がちゃがちゃと賑やかな音がすると、まだ自動車のなかった時代の街角では十分に派手な音に聞こえ、人が集まったのだろうと思います。今でもリングはストリートパフォーマーの皆さんがよく使っています。

 江戸時代でも、金輪の曲は、大道の芸として使われてきました。むしろ江戸時代に、金輪を舞台で演じた記録がありません。南京玉すだれなどと同様に、大道で見せる芸として発展してきたようです。これがどうして舞台芸として認められなかったかは謎ですが、明治になって西洋奇術が普及するまで、金輪(リング)は舞台で演じられることはなかったようです。(続く)

 

 

リング 金輪(かなわ)3

 リングの演技が普及するようになれば、当然のごとく、目の前のお客様を相手にしなければならず。自分だけがリングを持ってつなげたり外したりするだけではお客様は納得しません。そこで、お客様に改めをしてもらう意味で、リングの受け渡しをするようになります。当然そこにはスイッチ(すり替え)の技法が生まれます。そしてスイッチを円滑にするために、リングの本数は増えて行きます。

 恐らく19世紀中ごろには、ヨーロッパでは、7本8本のリング手順が普及していたものと思われます。

 

 私は、子供のころから、欧米、または中国でノーマルなリングの本数が何本のものだったか、ということにとても興味がありました。

 というのも、リングの演技は、本数が一本違うだけで、手順が全く変わります。例えば、3本リングの手順と、今日ではノーマルとなった、6本リングの手順は、これが同じリングの手順かと思うほど違います。その6本の手順と、ダイバーノンの5本リングは、これも全く違います。さらに江戸時代の日本で演じられていた、7本の金輪の手順は、演じ方も造形も、全く違います。

 更にアダチ龍光師匠の演じていた9本リングは、部分的にダイバーノンの手順に似ていますが、これは両方の手順の出典が、マックスマリニーだからであり、龍光師匠は、来日したマリニーの演技を毎日見て、手順をそっくり取ったと言っています。すなわち、9本の手順は、マリニーのものです。

 一方、バーノン師はマリニーを尊敬し、そこから強い影響を受けて、マリニーの手順の造形部分を極力減らして、手順を構築し直して、今に残る、バーノンのシンフォニーオブザリングを作ったと思われています。そのため、トリプルリングとキーとの演技は、マリニーの9本の手順によく似ています。(この話はまた後で致します)。

 その9本リングは、欧米で基本と言われていた7本、または8本リングにさらに1っ本加えた手順になるのですが、この9本手順が、欧米で継承されている形跡を見ることがありません。マリニーのみ演じていたもののようです。8本までは普通に演じられていたようですが、8本からどうして9本になって行ったのか、ここが真にミステリーです。今から考えると、6本、7本、8本のリングと9本は随分違います。9本は、むしろその先の12本リングに近い手順です。これらは造形をメインとした手順で、現在ではリングの主流となってはいません。(私は、9本も12本も、十分面白い手順だと思いますし、実際演じてみると、3本4本よりもよほどお客様の反応の良い手順です。)何が違うかは、9本、12本リングの所でお話ししましょう。

 

 いずれにしましても、ヨーロッパでマジックは19世紀なって、舞台芸として発展します。そこでは当然、不思議さもさることながら、娯楽としての楽しさが求められます。

大道なら、さほどまとまった手順を作らなくても、お客様とやり取りをしながら、冗談を言って、適宜に手順を調節して演じていればよく、あまりきっちりとした演技は必要なかったのではないかと思われます。

 しかし、舞台に立つと、持ち時間は厳しく守らなければならず、演技も内容を詰めて演じなければならず、起承転結の構成も求められます。そこから、リングの手順は、新たな発展をすることになります。すなわち、音楽に乗せて、演技を細かくまとめなくてはなりません。

 中国の奇術師が、世界中を回ってリングを演じた時、そのリングの本数は、おそらく7本だったと思われます。それは、日本の金輪の曲が、7本手順で構成されていることから、おそらく原型は7本だったと思われます。そうなら、中国人がどんな手順で、7本の演技をしていたのか、そこが興味です。

 実は、私が北京のFISM大会に出演したときに、いろいろな人に、中国で昔演じられていた、リングの手順を聞いたのですが、驚いたことに、彼らはそれを知りませんでした。そして、6本リングの手順を「これが古い中国の手順だ」。と言う人がありました。しかし、6本リングには、ダブルリングが入ります。古い手順ではダブルは使用しなかったはずです。しかも6本の造形は、明らかに西洋の匂いがします。中国本来の工夫が見えません。人力車、などはありますが、人力車そのものが明治になってからの発明ですので、それが手順に入っているということ自体、古い手順ではないはずです。

 従来の中国の手順は既に知る人がなく、研究者が出してくる資料は日本の浮世絵や、伝授本の挿絵でした。それらは日本の金輪の演技であり、そもそも私は中国の手順が、日本の金輪の演技に、どんな影響を与えたのかが知りたくて、訪ね歩いたのですが、どなたもご存じありませんでした。

 私のように日本の古典奇術を演じるものからすると、度々突き当たる問題は、既に原型となる手順は世界のどこにもなく、中国ですら、古い手順の継承者はなく、どんな手順だったかもわからないものばかりです。日本に残った、金輪や、おわんと玉、瓜植術、緒小桶、蝶、水芸、などが、かなりの部分本来の原型を維持し、継承されていることがむしろ稀有なことで、手妻の価値は底が知れないものだと思います。(続く)

 

リング 金輪(かなわ)2

 中国で起こったリングなどの一連の奇術の文化が、なぜ世界中に伝播をして行ったのかというなら、明王朝から、清王朝に国の体制が変わったからです。中国文化を厚く保護してきた明に対し、清は満州族でした。中国的、文化的なものには徹底的に懐疑的でした。豊臣秀吉による朝鮮征伐1592(天正20)年で、日本軍は初戦一か月で、朝鮮全土を手に入ました。それを知った明は狼狽し、大軍を朝鮮に送ります。朝鮮の役です。これが休戦を含めて1598(慶長3)年まで6年に及ぶ戦いになり、これによって明は疲弊し、一遍に国は衰退します。そこを満州族が執拗に襲い、1644年。明は滅び、満州族は中国を支配し、自らを清と名乗ります。

 異民族である清は、スパイ活動を徹底させ、町や村での集会に目を光らせます。それが大道芸や、芝居なども禁止にしました。それまで中国の芸人は数組で座を作り、町や村を回って芸能を見せていたのですが、これが一揆や革命のプロパガンダになると、芸人を排除しました。一度役人に疑われたなら問答無用で死刑です。行き場を失った芸人は、アジアや遠くヨーロッパにまで逃れました。

 私より古い年代の人は、奇術と言うと中国人を連想する方がたくさんいますが、実際、日本でも、明治、大正期にたくさんの中国人奇術師がやってきて、日本に永住しました。陳徳山、李彩、と言った人たちは、私が子供のころまでは現役で寄席に出ていました。それはヨーロッパアメリカも同じで、清朝に追われた芸人は欧米に活路を見出したのです。この芸人たちによって、欧米人は、奇術がエンターティナーであることを知るのです。

 

 多くの人は、エンターティナーの本場がパリやロンドンであると思っている人が多いのですが、実はヨーロッパは、長く宗教が人々を洗脳していて、マジックと言えばそれは呪(まじな)いをさしました。マジシャンの本来の意味は、呪い師です。マジとは呪いのことです。それに応えるべく、マジシャンは、呪いをし、除霊をし、占いをし、予言をすることを主な仕事にしていたのです。長い着物を着て、よれた杖を持ち、三角の帽子をかぶり、机を前に置き、椅子に座って机の上の水晶玉を、さも尤もらしく扱いながら、病を治したり、予言をしたり、尋ね人を探したりしていたのです。

 彼らにとってマジックは、訪ねてくる人に自分を信用させるために、時々、不思議を演じて、力を誇示するための小道具で、エンターティナーではなかったのです。今も、超能力者や、一部の宗教家の中にこうした人たちが生きています。

 勿論、広場でカップアンドボールなどを演じる旅芸人もいましたが、彼らもエンターティナーとして、ショウとして見せると言うよりも、物売りの流れの一環で、人寄せにマジックを見せていたわけです。

 

 多くの欧米人は中国人の演じるマジックを見て、マジックがエンターティナーであることを知ります。不思議を見せてはいても、それは嘘ごとで、遊びの世界なんだということを知ったのです。今から考えたなら、それは当たり前のことですが、当時はショウとしてのマジックを大人の目で見るという文化が欧米では育っていなかったのです。日本や中国では、早くから宗教が廃れ、宗教と奇術は分離してゆきます。日本では室町時代にすでに、入場料を取って、奇術曲芸を見せています。入場料を払うということは、観客は、その時間を楽しむために、嘘ごとと知って見ているわけで、観客が大人の心を持っていることの証しです。日本の観客は世界レベルよりも進んでいたのです。

 私は以前、ショウは見世物であると書きました。すると、マジック愛好家は自分が見世物であると言われることに抵抗感を感じ、「自分のしていることは見世物とは違う」。と言う人がありましたが、あえて申し上げるなら、ショウとは読んで字のごとく、見世物なのです。そして、宗教から見世物に発展したことで奇術は、文化、芸術に発展したのです。マジックを趣味、あるいは職業とするなら、言葉のニュアンスだけで、物事を捉えず、本質を学ぶべきです。見世物とは恥ずべき行為ではなく、芸能芸術の原点なのです。そこに恥ずべき行為があるとするなら、少しも芸術としての昇華をせずに、いつまでたっても種仕掛けでお客様を吊ろうとする、見世物芸人根性です。

 芸能と言う歴史の中で、筵囲いなり、竹囲いをして、外界を遮断して、入場料を取ると言う行為は一大転換を果たしたことになります。囲われた世界を作ることによって、ショウに演出や、構成が発展して行くわけです。

 

 ここで私が言いたいことは、囲いの中のショウが完成する少し前、大道で多くの人を集め、投げ銭放り銭を貰いつつ活動していた時代に、ショウとしての原型を作り上げて来たのは他ならぬリングなのです。リングは囲まれた場所でも演じられますし、セットに時間がかかりません。演技時間も3分から30分まで、いかようにも伸ばせます。お客様と一緒になって、つなぎ外しを楽しめますし、お客様の見ている目の前10㎝の所で不思議を起こすことができます。更に、その後になると造形まで作れるようになって、手順は一層長大になります。

 こうした作品が、当時欧米に勃興したエンターティナーとしてのマジシャンの間で流行らないはずはなく、誰も彼もがリングを演じるようになり、それは後にチャイニーズリンキングリング(中国の金輪)と言う名称で呼ばれ、今日まで続いてゆきます。

(続く)

 

リング (金輪かなわ)

 リングについて書いてみます。西洋ではリンキングリングと言い、中国では九連環(これは知恵の輪を意味する言葉のようですが、中国の古い本には、九連環の名でリングを紹介しています)。日本では金輪の曲(金輪はかなわ、曲とはきょく。技を意味する言葉で、連理の曲、蝶の曲などと、普通にタイトルの下に使っていました)、と言います。発祥は中国のようです。

 先日、レベントケンシントリーのリングの歴史から演技からすべてを網羅したDVDを見ましたが、リングの歴史を千年以上前ととらえていましたが、そこまで古いものではないと思います。そもそも、リングの原型は、桶の箍(たが)を利用して見せたのが始まりと言われています。じっさい古い挿絵には、大道芸人がリングを二本だけ持って、それをつないだり外したりする、簡単な挿絵が載っています。恐らくこれがリングの原型かと思います。桶の箍を使ったものがリングになって行くならば、まず桶が日常使われない限り箍は作られないわけで、桶が普通に使われるというのは、明の時代からと言われています。

 

 それ以前、物を入れる容器は甕(かめ)が中心で、穀類、水、酒など皆、甕を利用していたわけです。但し、甕は陶器ですから破損しやすく、持ち運びも重くて不便です。そこで生まれたのが桶、または樽です。ご存じのように、桶も樽も、小さなものなら、箍は竹を巻いて箍としています。鉄、または銅、真鍮を箍として使うとなると、当時は相当に高価だったはずで、それを奇術に使うとなると、よほど稼ぎのいい奇術師でなければ所有できなかったでしょう。箍が簡単に手に入るようになるのは中国でも1400年以降ではないかと思います。

 この時代に箍を使って奇術をしていたとするなら、リングは平板で輪を作っていたと考えられます(箍は平らな板を丸めて輪にしていますから)。丸棒ではなかったはずです。使う本数も初めは二本だったでしょう。

 当時のリングは、仮に鉄製だとすると、メッキは掛けなかったでしょうから、手油で黒光りする平板のリングだったと思います。

 実は私は、この時代のリングを再現しようと、銀メッキのリングを作り、銀を外側から黒く焼きを入れて、「燻し銀(いぶしぎん)」にして作ってみました。あえて銀をいぶしたのは、鉄を黒く焼いただけでは、汚いだけですので、淡い銀の輝きがあれば、同じ黒でも綺麗なのではないかと思ったためです。出来たリングは、恐らくこれが当時の色だったのではないかと、思えるような説得力のあるものになりました。が、実際使ってみると、いぶし銀は、見る角度によっては鈍く輝きますが、総体はただ黒っぽいだけで、見かけはとても綺麗とは言い難く、しかも、多くの本数を扱うと、ごちゃごちゃして現象がはっきりしません。やはりリングのマジックは、光り、輝きが、とても重要な要素だということを改めて知りました。

 

 さて、明の時代に生まれたリングが、その後どう発展していったのか、詳細はわかりませんが。その後の百年で本数を増やして、4本くらいにはなって行ったと思います。すなわちキー1本、シングル3本です。それらがあちこちに伝播して、日本に来たのは戦国時代か江戸時代の初めころではないかと思われます。

 西洋も大体16世ころにヨーロッパに伝わったようです。度々、引き合いに出してもうしわけないのですが、レベントはそれをもっと早くに伝わったと考えているようですが、その資料が見当たりません。また手順も、早くから8本9本が中心だったと言っていますが、どうもその確証はないように思います。

 8本リングと言うのは、ダブル乃至(ないし)はトリプルリングが加わらなければその本数にはなりません。私は、ダブルやトリプルが普及するのは相当後の時代(19世紀以降)ではないかと思います。但し、日本の金輪の曲には奇妙な挿絵がいくつか見られます。つまり、ダブルが存在したのではないかと思われる手順が載っているのです。放下せん(宝暦14、1764年)には七連の金輪の両端を持って構えている挿絵がありますが、一体この金輪はどうつないだのか、不明です。ダブルを使い、キーを二本使えば可能ではあります。

 実は私は、この挿絵を実現させるために、キーを二本使い、ダブルの金輪を取り入れ、九本リングとして江戸の金輪の曲を再現しました。今では私の流派の手順として盛んに使っています。この演技は、日本の金輪の可能性を拡大して考案したものですが、そう大きくかけ離れたものではないと自負しています。(続く)

 

猿ヶ京春のレッスン

 さて、恒例の猿ヶ京での春のレッスンをいたします。予定では4月の11日12日に行いたいと思います。私は猿ヶ京に舞台付きの家を借りています。元々は芸者の検番だったところです。検番とは今は聞きなれない言葉ですが、温泉場のお座敷に芸者衆が出かけるときに、衣装を着替えて、三味線や踊りの稽古を済ませて、そこから各ホテルや旅館に出かけるところが検番です。その晩の宴会に芸者衆が何人欲しいか、ホテルは検番にいる番頭さんに電話をして、人数を揃え、呼んでほしい芸者を指名します。スケジュール調整するのも検番で行います。言ってみれば芸者衆の楽屋であり、プロダクション業務も引き受けています。

 検番は、花柳界のあるところには必ずあったのですが、今は、温泉場の宴会でも、芸者衆を呼ぶことが少なくなり、芸者と言う職業もめっきり減ってきました。猿ヶ京温泉でも芸者の歩く姿を見ることは全くありません。こうして、検番は廃れ、建物だけが残りました。町では、もし、また何かの理由で花柳界が復活しないとも限らないと思ってか、建物を維持していますが、今となってはその可能性もほぼゼロに近いとみんなが認識しています。

 そこで、何か、別の方法で検番を生かそうと言うことで、私が借りることになりました。1階は、6畳の座敷が3つ。事務所と、番頭の控え所があって、倉庫があります。そして二階は20畳くらいの板の間の舞台と、30畳の畳の客席があります。

 もし東京にこれだけのものを所有していたらどれほど素晴らしいことかと思いますが群馬の奥に行かなければ、このスペースは手に入りません。ここでみんなで合宿をして、一日中稽古をします。布団はたくさんありますので、広間で寝ることでよければ宿泊代はかかりません。女性は、下の座敷で寝ても結構です。風呂は歩いて1分のところに町営温泉があり、露天風呂から、サウナから完備しています。食事もそこのレストランで致します。

 参加費は、二日間の指導で1万円。初日2時間、二日目3時間。散歩付き。食事代は2千円(3食)。交通費は乗り合いで行けば一人4千円程度です。

 講習演目は、それぞれ希望のものをご持参下さい。但し、個人個人の技量を見て、無理なものもありますので、その際にはお伝えします。今のところ、11日、朝9時に、高円寺駅に集合。翌日12日、18時に高円寺駅にて解散。二台の乗用車で行くとして、あと4人までは乗せて行けます。ここお越しになるのであれば、新幹線の上毛高原までお越しになれば、お迎えに上がります。車でお越しでしたら、関越道、月夜野インターから17号線を登って行くと、猿ヶ京温泉に至ります。そこから私の携帯にお電話ください。090-3579-6633 お問い合わせは東京イリュージョンまで。03-5378-2882

 

 私と猿ヶ京との縁はもう10年前にさかのぼります。私のマネージメントをしていた、宮澤伊勢男さんという方が、昔、読売広告会社で専務さんをしていらして、宮澤さんは大変なアイディアマンで、2月15日にチョコレートを配る、バレンタインデーを流行らせた人です。バレンタインデーはそれ以前もあったのですが、愛する彼氏に女性、からチョコレートを贈るという発想はそれまでなかったのです。神戸のチョコレート会社から、何か、チョコレートが売れる企画を考えてくれと頼まれて、思いついたことで、幸い漫画が取り上げるなどして、爆発的に大当たりしました。

 この宮澤さんが、猿ヶ京と縁がありました。かつて、竹下総理大臣の時に、ふるさと創生資金と言う、一種の町おこしのために、各市町村に、まんべんなく1億円を配りました。貰った市町村はいろいろ工夫をして、長く生かせる使い道を考えたのです。ある町では、ボーリング(穴掘り)をして、温泉を掘り当てて、町の老人たちに温泉を提供しました。ある町は、神輿を作りました。そして、猿ヶ京は、三国街道の旧道の整備をして、遊歩道にし、利根川上流に公園を作り、温泉の観光に来た観光客に、散歩ができるように整備しました。この事業を宮澤さんは企画したのですが、実はこの後にバブルがはじけて、猿ヶ京の観光客は激減します。その後復活することはなく、せっかく作った公園や遊歩道も今は散策する人もなく、さびれています。

 宮澤さんにすれば、この町とのかかわりはこの時だけでしたが、その後も町が寂れて行くことを心配して、この旧道に立つ古民家を私の別荘として提供することを思い立ちます。かねがね私は古い民家に住んでみたいと思っていたので、この家を気に入り、年に何度も古民家に行き、弟子や、仲間と泊まり込み、囲炉裏に火を起こして、鍋や、岩魚を串にさして焼いて食べたりしました。みんな面白い経験でしたから、とても喜んで参加しました。

 

 その古民家が、何を思ったか、町が、休憩所に使いたいから出て行ってくれと言うことになり、出て行くなら代わりになる場所が欲しいというと、芸者の検番を提供してもらうことになったのです。

 さて、どっちがいいかというなら、雰囲気を楽しむのなら、古民家は最高です。しかし舞台はありません。板の間での稽古です。舞台がある分検番のほうが私にとっては使い勝手が良いのですが、モルタルの普通に作りですから、風情はありません。

 遊歩道と、利根川源流の公園は、古民家からすぐです。朝起きて、散歩に利根川まで歩くと実にすがすがしく、またいつ行っても誰も人が歩いていません。まったく私のプライベートな庭のような場所です。こんな贅沢を体験できるなら古民家を買い取りたいくらいの気持ちです。

 もっとも、検番に寝起きしていても、車で5分かけて古民家に行き、そこから徒歩で公園をぐるっと歩いて、山道1時間コースです。ほんのり汗をかくにはちょうどいい散歩コースです。私は好きでここをよく散歩をします。途中、猿や、子供の狐が出てきたりします。利根川の水は、季節によっても、朝晩によっても、水量や、水の色が変わり、何度行っても同じ風景、同じ水の流れを見ることがありません。

 東京に生まれ育った私にすれば、この町の景色や変化はものすごく新鮮で、おそらく4月の12日ごろは、桜が咲き始めて、盛りの季節になると思います。秋は、奥の山々が紅葉し、これもまた素晴らしい景色です。

 ごく一部の人の思惑で、一帯を開発し、そして、思惑が外れて多くの人が去り、元のさびしい町に戻ったのですが、この寂しさが返って我々には安らぎを与えてくれます。と、同時に、費用をかけて整備された周辺地域が素晴らしく贅沢に我々を楽しませてくれます。私らにとってはとても得難い観光地になっています。バブルの時代も楽しかったですが、バブルが去って、静けさが戻った今も、決してつまらない町ではありません。バブルは決して無駄だったわけではなく、この町を理解している人には大きな恩恵を今も与え続けているのです。

 ただし、この先、芸者の検番が活気を取り戻すことはないでしょう。遠く過ぎ去った夢の跡なのです。でも、それを生かせる我々は幸せです。どうぞよろしかったら、猿ヶ京にお越しになりませんか。きれいな景色をご案内いたします。