手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

リング (金輪かなわ)

 リングについて書いてみます。西洋ではリンキングリングと言い、中国では九連環(これは知恵の輪を意味する言葉のようですが、中国の古い本には、九連環の名でリングを紹介しています)。日本では金輪の曲(金輪はかなわ、曲とはきょく。技を意味する言葉で、連理の曲、蝶の曲などと、普通にタイトルの下に使っていました)、と言います。発祥は中国のようです。

 先日、レベントケンシントリーのリングの歴史から演技からすべてを網羅したDVDを見ましたが、リングの歴史を千年以上前ととらえていましたが、そこまで古いものではないと思います。そもそも、リングの原型は、桶の箍(たが)を利用して見せたのが始まりと言われています。じっさい古い挿絵には、大道芸人がリングを二本だけ持って、それをつないだり外したりする、簡単な挿絵が載っています。恐らくこれがリングの原型かと思います。桶の箍を使ったものがリングになって行くならば、まず桶が日常使われない限り箍は作られないわけで、桶が普通に使われるというのは、明の時代からと言われています。

 

 それ以前、物を入れる容器は甕(かめ)が中心で、穀類、水、酒など皆、甕を利用していたわけです。但し、甕は陶器ですから破損しやすく、持ち運びも重くて不便です。そこで生まれたのが桶、または樽です。ご存じのように、桶も樽も、小さなものなら、箍は竹を巻いて箍としています。鉄、または銅、真鍮を箍として使うとなると、当時は相当に高価だったはずで、それを奇術に使うとなると、よほど稼ぎのいい奇術師でなければ所有できなかったでしょう。箍が簡単に手に入るようになるのは中国でも1400年以降ではないかと思います。

 この時代に箍を使って奇術をしていたとするなら、リングは平板で輪を作っていたと考えられます(箍は平らな板を丸めて輪にしていますから)。丸棒ではなかったはずです。使う本数も初めは二本だったでしょう。

 当時のリングは、仮に鉄製だとすると、メッキは掛けなかったでしょうから、手油で黒光りする平板のリングだったと思います。

 実は私は、この時代のリングを再現しようと、銀メッキのリングを作り、銀を外側から黒く焼きを入れて、「燻し銀(いぶしぎん)」にして作ってみました。あえて銀をいぶしたのは、鉄を黒く焼いただけでは、汚いだけですので、淡い銀の輝きがあれば、同じ黒でも綺麗なのではないかと思ったためです。出来たリングは、恐らくこれが当時の色だったのではないかと、思えるような説得力のあるものになりました。が、実際使ってみると、いぶし銀は、見る角度によっては鈍く輝きますが、総体はただ黒っぽいだけで、見かけはとても綺麗とは言い難く、しかも、多くの本数を扱うと、ごちゃごちゃして現象がはっきりしません。やはりリングのマジックは、光り、輝きが、とても重要な要素だということを改めて知りました。

 

 さて、明の時代に生まれたリングが、その後どう発展していったのか、詳細はわかりませんが。その後の百年で本数を増やして、4本くらいにはなって行ったと思います。すなわちキー1本、シングル3本です。それらがあちこちに伝播して、日本に来たのは戦国時代か江戸時代の初めころではないかと思われます。

 西洋も大体16世ころにヨーロッパに伝わったようです。度々、引き合いに出してもうしわけないのですが、レベントはそれをもっと早くに伝わったと考えているようですが、その資料が見当たりません。また手順も、早くから8本9本が中心だったと言っていますが、どうもその確証はないように思います。

 8本リングと言うのは、ダブル乃至(ないし)はトリプルリングが加わらなければその本数にはなりません。私は、ダブルやトリプルが普及するのは相当後の時代(19世紀以降)ではないかと思います。但し、日本の金輪の曲には奇妙な挿絵がいくつか見られます。つまり、ダブルが存在したのではないかと思われる手順が載っているのです。放下せん(宝暦14、1764年)には七連の金輪の両端を持って構えている挿絵がありますが、一体この金輪はどうつないだのか、不明です。ダブルを使い、キーを二本使えば可能ではあります。

 実は私は、この挿絵を実現させるために、キーを二本使い、ダブルの金輪を取り入れ、九本リングとして江戸の金輪の曲を再現しました。今では私の流派の手順として盛んに使っています。この演技は、日本の金輪の可能性を拡大して考案したものですが、そう大きくかけ離れたものではないと自負しています。(続く)