手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

なぜ売れない 4

なぜ売れない 4

 

 「己の確立」と言うのは、とことん自分を見つめることです。自分は何のために生まれて来たのか、を考えることです。具体的には、自分が何のマジックを演じるべきかを探しだすことです。世間で受けているマジックに安易に飛びつくのではなく、自分が本当にしなければならないマジックを見つけ出すことです。

 自分がなすべきマジックを見つけたなら、誰よりも深く研究して、そのジャンルに関しては世界一のマジシャンになることです。演じ方も考え方も、歴史的背景も熟知していて、この人が最高と言うマジシャンになることです。そうなれば周囲の人は大切にしてくれます。食える食えないなどと言う次元は越えてしまいます。

 かく言う私もかつてはそうでしたが、何でもこなして、器用に生きるマジシャンであることがマジシャンとして巧く生きていく才能だと思い込んでいました。然し、それは見すぎ世過ぎ(処世)の才能ではあっても、マジシャンとしての才能ではありません。私は勘違いをしたままずっとマジックの世界の中で生きていたのです。

 そんなマジシャンがバブルが弾けて、仕事がなくなり、どうしたらいいか。と悩むのは当然のことなのです。ただ私自身が幸いだったことは、私がここで自分の間違いに気づいたことです。

 その時私は38歳。もう二度の文化庁の芸術祭賞は取っていましたし、傍目から見たら大きな仕事をしていて、恵まれたポジションにはいました。然し、心の中は常に嵐が吹き荒れていたのです。手妻の第一人者と持ち上げられてはいましたが、その実やっていることの理解は浅いものでした。まだまだ何も出来てはいなかったのです。

 ただ、自分の30代に自分を見つめて、自分のなすマジックを見つけ出したことは幸いでした。それがその後の人生を決定づけたのですから。

 

 3、面白さの中に芸がある

 ストイック(求道者の如く)にマジックを考える。とか、自分を見つめてマジックを考える。と言うと、むきになって一つことをひたすら練習する姿を思いがちですが、余り向きになって一つことをやり過ぎると、観客の心はどんどん離れて行きます。

 マジックのコンテストを見ると、良く練習をしている人はたくさんいますが、その結果、出来上がった演技が、上手くはあっても少しも面白くないものになってしまって楽しめない人を見かけます。自分の演技を見つめて答えを出すことは大切なのですが、出した答えが人の役に立たなければ意味がないのです。すなわち、自分以外が見えていないのです。

 こうした演技は、観客が見ると、まるで狐に取り付かれているかのようで、不思議な踊りを踊って、憑依(ひょうい)しているかのように見えます。観客は楽しめないどころか、近付くのもためらわれるように感じてしまいます。そんなコンテスタントがコンテストのたびに、確実に一人、二人います。

 それはショウではなくて、自分の欲求を満たすための物であって、観客の楽しみにつながっていないのです。芸能は本来、日頃の疲れをいやす娯楽なのです。すなわち、芸能の根本を理解していないのです。

 芸能と芸術はどう違うかと問われれば、大まかに言えば、芸術は、様々ある芸能の中で、その時代で最も出来の良かったものが芸術です。優れていると多くの人が認めたから、芸術として残ったのです。無論、作者の生前から芸術と認められたものもたくさんあります。逆に作者の生前は全く評価されなかったものもたくさんあります。

 それは、自身の作品が、お客様と結びつくことがいかに難しいか、ということの証でもあります。但し、マジックは死後に評価されるマジシャンなどと言うのは先ず存在しません。芸能の中では理解されやすい部類ですから、面白いものは早くから認められます。音楽や絵画とは真逆な世界です。

 音楽、絵画は「見方」が定まらないと評価が出来ません。その味方と言うものは、時代と共に変わります。そのため、百年経って、再評価される芸術家が生まれたりします。芸術家自身にはそれが幸せなのか不幸なのかはわかりません。

 芸術とは小難しいものと考えている人がありますが、決して小難しいものではなくて、それ自体は、出来の良い娯楽であり、よく出来た芸能なのです。よく出来たものだから後世に残ったのであって、緻密に作られているから難解に見えるのです。決して小難しいものではなく、面白さにおいてはすべての芸能と一緒なのです。

 

 そうなら、何が面白くて、何がつまらないのか、と問われれば、これはかなり難しい話になります。面白いことの意味は説明しにくいのです。そこが理解できて演じている人こそ「芸術のセンスを理解している」人なのです。面白い、面白くないは紙一重です。

 何でもない話をしてもセンスのある人がしゃべるとぐいぐい人を引き込んで、話が面白くなります。逆に、落語の名作のように、絶対笑いの取れる話をそのまま喋っても、センスのない人の落語は誰も笑いません。

 マジックも同様で、人の興味を引っ張って話を展開して行けるマジシャンと言うのは、人間観察の才能のある人です。どう語れば人がついて来るにか。何を人は聞きたがっているのか。そこを熟知して話の展開が出来る人が人の興味を引っ張れる人です。

 マジックの雑誌で、手とカードの絵がいくつも書かれていて、現象を解説してあって、お終いに、「この演技は誰が演じても受ける」。なんて書いてある解説がありますが、それは偽物です。誰が演じても受けるマジック何てありません。特定のマジシャンで、人に好かれていて、観客をよく見て話しのできるマジシャンでなければ、何をやっても受けません。

 結局マジックは演じるマジシャンのパーソナリティーにかかって来るのです。最近ネットで、カードと手だけを映して、種明かしをしている動画を見かけます。それを見ていると、「あぁ、この人がなぜ種明かしに走るのか、ようくわかるなあ」。と思います。

 なぜなら自分のパーソナリティーを少しも語っていないからです。種仕掛けだけで人の興味を引っ張って、動画をとっても、それは種明かしをしただけになってしまい。観客に独自の世界を提供していないのです。

 マジックにとって種仕掛けなどは人をひきつける手段に過ぎません。大切なことは、人に興味を持ってもらって、自分の世界に引き込み、誰も見たことのない世界を展開して見せることです。そこに観客をいざなえる人が優れたマジシャンであり、人に愛されるマジシャンなのです。

 観客が何を面白いと考えているのか。そこを突き詰めて考えてみてください。優れたマジシャンは如何に自分の世界を作るのか。ようく世界のマジシャンの演技を見直してみることをお勧めします。個々のマジックでないところにこそ答えがあると思います。

とりあえず終わり