手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

両家顔合わせ

両家顔合わせ

 

 一度離婚した娘が何年も私の家に住んでいたのですが、再度彼氏を見つけて、結婚をすることになりました。一昨日(3日)は互いの両親との顔合わせと言うことで、銀座の料理屋さんで会食をしました。

 彼氏は真面目な勤め人で、もう何度か会っています。私が反対する理由などありませんから、娘が良いと思うなら結婚することに異存はありません。相手方のご両親も、穏やかそうないい方々でした。二人は既にアパートを借りて暮らしています。

 数年前に前の夫と離婚したときには少し心配しましたが、その後、新しい彼氏との出会いがあって、結果、全ては上手く行っているようで良かったと思います。

 

 私の20代30代はとにかく忙しく、昭和63年に芸術祭賞を頂き、平成元年にチームを株式会社にし、同じ年に子供が生まれ、平成二年に今の事務所兼自宅が建ちました。全く、「あれをやって見よう」。「あれを手に入れよう」。と願えば何でも手に入り、毎日毎日が忙しく、順風満帆な人生でした。

 

 私の人生の中で娘と一緒に生活した30代半ばから50代半ばまでが最も充実した人生でした。特に娘の子供のころは毎日が宝石のように輝いていました。子供を持つと言うことはそれだけで大きな喜びです。私は、マジシャンや芸人の中で結婚をしない、子供を持たないと言う人が多いことを残念に思います。縁があって彼女との付き合いが生まれたなら、結婚はしたほうが良いと思いますし、子供が出来る状況があるなら、ぜひ子供を作った方が良いと思います。

 子供を持つと毎日毎日が気付かされる日々です。親が子供をどう思っていたのか、どう育てるべきか、それにつれて自分がどう生きなければいけないか、などなど、毎日学ぶことばかりでした。仕事も大事ですが、矢張り娘と話をしたり、子育てをすることは二度と手に入れることのできない貴重な日々でした。

 6歳になってからはマジックの稽古も始めましたし、日本舞踊も始めました。行く行くは私の跡継ぎになって手妻師になってくれたらいいと願っていました。娘は幸いに、病気もせず、反抗期もなく、どこへ行くにもついて来て、熱心に話しかけてくれました。実に素直に育ちました。

 但し、それで私の仕事が順調なら申し分のないことでしたが、まだ娘が幼いときに、バブルが弾けて、一気に仕事を失い。日々どうして生きて行ったらいいかと苦しい思いをしました。チームは縮小しなければならず、イリュージョンチームも方向転換を余儀なくされました。

 でも、私にとってはその時が最も幸せな時でした。なぜなら仕事がないときは、毎日、娘と散歩をして、ボール投げをしたりシャボン玉をしたりして遊べたからです。

 ひな祭りの時にはお雛様を飾りましたが、私の買ってきたお雛様はとても小さなもので、段に飾るほどの物でもありません。そこで、娘の持っているぬいぐるみ人形を全て並べて、5段飾りを作りました。赤いビロードの上に全ての人形を並べると、それは相当に立派なひな人形になりました。無論娘は大喜びで、近所の子供を連れて来て、記念写真を撮りました。

 クリスマスの時には、娘は自転車を欲しがりました。セーラームーンのキャラクターの付いた自転車です。「どうしても欲しいんだったら、手紙を書いて、サンタさんにわかるように窓ガラスに張っておくといいよ」。と言うと、娘は素直に手紙を書いて、3階の窓に張りました。

 そこで私は、事前に買っておいたセーラームーンの自転車を深夜に物置から出してきて、三階の居間に上げておきました。翌朝、娘が4階の寝室から降りて来て、自転車を見た時の喜びは物凄いものでした。「わー。本当にサンタさんが来てくれたんだ。でもどうやってここまで上がって来たんだろう」。「それはお空からトナカイに乗ってやって来て、隣の屋根の上に橇を停めて、窓を開けて入って来たんだよ。きっと」。「そうなんだ、でも、屋根が傾いていて転がらなかったのかなぁ」。「そこはサンタさんもプロだからうまくやったんだろう」。だんだん色々な矛盾を言い出して、私も答えにくくなります。それでも「嬉しい、サンタさんありがとう」。と空に向かって手を合わせます。こんな純粋な思いを持った子供を見られることはこの上ない喜びです。

 

 マジックでも随分一緒に仕事をしました。NHKにも娘は大夫で水芸をしました。SAMの創立百周年記念コンベンションが、ニューヨークのヒルトンホテルでで開催され、私はゲスト出演。そこで貰うギャラで女房も娘も連れて行き、娘はジュニアコンテストに出演させました。そして優勝しました。盾と賞金300ドルを手に入れました。女房と娘はすぐに賞金を持って五番街にお土産を買いに行きました。

 文化庁の学校公演にも連れて行き、日本中の学校を回りました。終演後校庭に停めてある車に乗ろうとすると、子供たちが追いかけて来て、「マジシャンだ、マジシャンだ」と言って、握手をしたがりました。ものすごい数です。一人ひとり握手をしていると、そこへ娘が歩いてきました、すると子供が、「あっ、綺麗なお姉ちゃんだ」。といって、全員そっちに行ってしまいました。子供でも奇麗なお姉ちゃんの方がいいらしいです。

 NHKの仕事で、上海万博のジャパンウイークのショウに出演した時も、娘が手伝いました。仕事はまるで国賓扱いで、素晴らしいホテルに泊めてもらい、どこかに行くときには、通訳と専用の車が付きました。

 舞台は5000人収容のメインホールです。そこで私は蝶を飛ばしました。蝶はホールの奥に座っていてはほとんど見えませんが、背景の大画面で映し出されます。正面に温家宝主席のご夫妻が座っています。終演後楽屋を訪ねてくれました。いい思い出です。

 

 いろいろなことがありました。思い出は走馬灯のように浮かんでは消えて行きます。気が付くと、顔合わせの会食はもう終わりに近づいています。こうして食事ができて娘を送り出せることは幸せなことです。店の外に出て、しばらく銀座通りを歩き、その後、久しぶりにマジックランドに行ってみました。

 お客さんはちらほらいました。私が求めるシンブルとファンカード、薄型のミリオンカードは欲しかったものがありません。連絡があればまた出掛けようと思います。

 そうそう、ついでに日本橋の榛原に行って、蝶の紙を仕入れなければなりません。只、買うとなると、一締めを買うことになります。一締めと言うのは1000枚です。紙も1000枚まとまると相当に重いのです。今日は会席で一杯飲んでしまいましたので荷物を持って歩くのは面倒です。どうせ行くなら、弟子を連れて、店の場所を教えつつ、一締めの紙を持ってもらわなければいけません。これもまた今度にします。

続く