手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

スーダン内戦

スーダン内戦

 

 今アフリカのスーダンでは内戦が激化して、通常の生活がままならなくなってきています。そのため、現地法人の人々が国内脱出を始め、日本人の大半はなんとか国外に避難したようです。

 何でスーダンで内戦が起こるのかと言うことは、これはなかなか複雑な要因が絡んでいます。先ずスーダンがどこにあるのかと言うと、アフリカの北東部、エジプトのすぐ南にある国で。日本の5倍もの国土があり、形は胸ポケットのような、五角形をしています。

 この国は、昔から、ナイル川が国中をめぐっていて、農作物がたくさん取れて、アフリカの中でも、とても豊かな国なのです。更には、南部で石油が取れるようになり、その石油の生産額が、国の輸出の70%を占めるような産油国です。

 そうであるなら、豊かに暮らして行ける国のはずなのですが、そうはいきません。100年ほど前からイギリスの植民地化が進み、更に、北部からアラビア人が多く住みつくようになり、北部のアラビア系に住民はイギリスと組んで、南部のアフリカ人を支配し始めます。

 国の近代化は北部から始まり、イギリス留学を果たしたエリートアラビア人が国の中枢を握ります。彼らはイスラムの宗教、イスラム系の憲法を国中に敷こうとします。南部の住民にとっては全く馴染めない宗教であり、異質の政治体制です。ここからたびたび南北間の内乱が起こるようになります。

 内乱の末、結局、南部は南スーダンとして独立をします。然し、アラビア人とアフリカ人が、南北できれいに線引きは出来ません。混在する地域も多く、残された地域の中で内乱がくすぶり、10年に一度くらい大きな戦いが繰り返されます。

 それが今年になって再燃したわけなのですが、元をただせば無理無理植民地政策を押し通して来たイギリスに問題があり、更にはそれに乗っかってやって来たアラビア人が自分に都合の良い国づくりをしたことで、国が分裂したのです。

 更には、それぞれのリーダーたちが、権力争いをして、私設の軍隊を持って地域を治めるようになり、小さな派閥の争いに発展して、のべつ国内で戦いが起こるようになり、農業生産も、まかないきれず、国は貧しくなり、生活困窮者が溢れるようになりました。本来争いなどなかった豊かな国が、今や四分五裂してしまったのです。

 結局、アフリカは16世紀の奴隷制度に始まり、その後の植民地政策によって、本来豊かだった土地をヨーロッパの国々によって、人も物も奪い取られて貧国に落ちて行ったのです。

 

 さて現地の邦人は、脱出を試みるべく、日本政府に自衛隊機の招請を求めますが、実はこれが簡単ではありません。自衛隊は、戦闘地域に踏み込んで輸送機や戦闘機を持ち込めないのです。なぜなら、自国を離れて海外で戦闘することができないからです。

 自衛隊とは自国を守るためだけの組織ですから、仮に自衛隊の飛行機をスーダンの飛行場に乗り付けたとして、邦人を救出しているときに、スーダンの革命組織が発砲してきたなら応戦できないのです。

 「邦人を守るためなのだから自衛の戦いをすればいい」。と誰でも普通に思いますが、日本の左派の人たちの中には、「ほら、そうやって、少しずつなし崩しに日本人を戦争に引っ張り込むんだ」。と、意味不明なことを言い始めて、政府批判をします。

 しっかりと自国の主張のできない政府は、常にあいまいな態度を撮り続けます。

 目の前に銃を持っている敵兵がいたとしても、自衛隊は発砲してはいけないのです。相手が銃を発砲して、自衛隊員が何人か負傷したときのみ、自衛として発砲出来ます。然し、先を制して闘えない戦いは勝利できません。一方的に打たれることが前提の法律などがあること自体信じられません。それでは自衛隊員も、邦人も守れません。そのため、自衛隊機はスーダンの空港に飛行機を送れないのです。

 世界中の国々が、どんどんスーダンに飛行機を送り込んで、各国の人々を無事に非難させているのに、日本だけがスーダンにも入れずに、外国の軍隊に日本人の救出を頼んでいるのです。何かおかしいと思いませんか。

 「戦争はいけない」。それはその通り。でも、実際に目の前で戦闘が行われている地域に踏み込めないのは間違いです。そして、自衛のための戦いはやむを得ないでしょう。それも許されないと言うのでは、邦人はどうやったら守れるのですか。

 

 「戦争はいけない、話せばわかる」。左派の人が良く言う言葉です。然し、目の前で利益に駆られて、銃を持って戦っている人に何の話をしたら相手は戦うことをやめますか。世の中には話のわからない人は大勢います。その人たちとどんな話をしたら分り合えますか。

 自衛の戦いもいけないと言う人は、自分が無責任から逃れてものを言っているだけなのです。自分が怪我をしないところに身を置いて、「暴力はいけない、戦争はいけない」。とは誰でもいえるます。然し、暴力を前にしてどうやって家族や、邦人を守れるのですか。

 同じことは、コロナとマスクの関係も似たようなものです。とっくにコロナは退散しているのに、なぜ世間の人はいまだにマスクを続けているのですか。マスクさえしていれば自分は人に迷惑をかけない人間に見えるから続けているのでしょう。自己保全のためにマスクをして、それがコロナのため、人のためになってい現実を、知っていながら責任回避をしていませんか。

 誰もコロナに罹っていないのに、「自分は教師だから、医者だから、公務員だから、接客業をしているから、人に迷惑が掛かってはいけない」。と、いまだにマスクをしているのは、人に迷惑をかけないためではなく、人に迷惑をかけないように見える自分を演出しているだけなのではありませんか。

 そんなことを続けていては常に生活が委縮して、日常の活動が小さくなって行くばかりです。日本人の活動が圧縮されて生活が小さくなってゆけば、どんどん景気は悪くなり、所得は下がります。これまでの圧縮された生活から解放されて、活発に動いて行くべき時に、まだ自分の立場にこだわって、体裁を考えて生きていてどうしますか。

 現地邦人がスーダンで身動きできずに困っているなら、自衛隊機を出すべきです、もし日本の飛行機を攻撃してくる敵兵があるなら、戦うことは正当防衛で戦うべきです。それに苦情を言って、憲法9条を出してくる人がいるなら、それは誤った解釈をしている人です。違うことは違います。周囲の人の顔を見合っている時ではないのです。

 コロナのマスクも同じ、もういい加減人の言葉に流されて生きていないで、自分の判断を立てて下さい。おかしなパフォーマンスをし続けて、世間の顔色だけを見ていて何になりますか。少しは大人におなりなさい。

続く