手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

付いている人 1

付いている人 1

 

 一概に人生で成功をしている人を「付いている人」と言ってしまうのは大変失礼な言い方です。ご当人は「付いているんじゃなくて努力をした結果だ」。と仰りたいでしょう。全くその通りです。然し、あえて申し上げます。世の中に「付いている人」と言うのは存在するのです。

 前にも書きましたが、私は親父を平成9年に亡くしました。その時、「もうこれからは相談する相手もいない、自分が柱となって生きて行かなければいけない」。と心に決めていました。しかし何をどうして行っていいのか、明確な将来が決まっていませんでした。

 ところが、それから一か月経った、平成10年の正月に、クロネコヤマトの元社長、都築幹彦さんが私に手妻を習いたいと尋ねて来ました。無論了解しました。すると2月になって、千葉大学の名誉教授、多湖輝さんが同じように習いたいとやって来ました。なぜこうも私のところにこうした人たちが習いに来るのかわかりません。

 求められるまま月二回の指導を致しました。それから約15年、お二人は熱心に手妻を練習されました。当時日本で最も成功された教授と経営者が私のところに習いに来て、食事をご馳走してくれたり、公演がある度に10枚も20枚もチケットを買ってくれました。また、いろいろな人を紹介してくださり、パーティーの仕事も随分世話をしてくれました。

 特に多湖先生は、お付き合いしている方々が超トップクラスの経営者が多くて、多湖先生の話は何でもツーカーで通ってしまうのでびっくりしました。

 多湖先生は戦時中に帝国大学に入り、心理学を学び、戦後卒業して、大学に残っていたようですが、ある時、出版社からクイズに関係する本を出したい、と言う依頼があって、いろいろ自分なりに考えて、「頭の体操」と言う本を出しました。昭和20年代末のことです。

 これは一つことを真っ向から考えるのではなく、少しひねって遊びを交えて考えると面白いアイディアが生まれる、と言うことを書いたもので、大ヒットしました。聞くところによると400万部出たと言います。日本の出版の歴史の中で最も売れた本です。

 日本人の真面目に物事に取り組む性格は長所ではありますが、いざ問題が発生したときに、一つことばかり考えすぎていると、たちまち行き詰ってしまい解決方法が見えなくなってしまいます。次善の策とか、他の価値観とか、逃げ場や回り道がないと、人間はもろいのです。

 そうした日本人のエリート層に対して、知識による遊びとか、別の解決法を提供すると言う本は当時は大変に珍しく、その後も続編が出続けて、結局、多湖先生の亡くなる間際まで、第40巻くらいまで出し続けたのです。

 

 つまり多湖先生は20代にして大ベストセラー作家となり、その後テレビのクイズ番組の解説者となって知名度を上げたり、ラジオ番組を持ったり、多忙を極めます。亡くなる間際にはコンピューターゲームレイトン教授のクイズを考案したりと、生涯仕事が付いて回り、売れまくった人です。

 多湖先生が出るまでの出版界は、出来た本を作家のところに届け、巻末に印鑑を押してもらい本屋に卸していたのです。夏目漱石も、芥川龍之介もそうして自らの本に判子を押していたのです。つまり、その昔の出版界と言うのは、売れに売れた本でも、判子を押して間に合う程度の販売量だったのです。

 ところが多湖先生の本は毎週毎週何万部も売れるため、いくら判子を押しても間に合いません。そこで親戚の大学生にバイト料を支払って判子を押させることを考えます。然し、学生がホイホイと判子を押していると、ゴム印が一日ですり減ってしまいます。そこで多湖と書いた判子を何十個も作って、何人もの学生を雇って押し続けますが、余りの単純作業にバイトの学生がみんな音を上げてしまいます。

 やむなく出版社と相談をして、互いの信用で判子なしで本を出すことにしました。以来、日本の出版社は本に判子を押すことをやめたそうです。

 多湖先生は、何軒もの家を持ち、別荘も、私が知っている限り3つお持ちで、運転手を雇ってベンツに乗り、虎ノ門に広い事務所を構えていました。文字通り成功した人の生き方をそのまま実践して見せた人です。恐らく昭和、平成で最も成功した大学教授でしょう。

 多湖先生と都築さんが習いに来てから、何やら私の周囲がパッと明るくなったような気がしました。私の活動には積極的に支援してくれました。私はかねがね、手妻の道具は昔のやり方で指物師に作ってもらい、漆を塗って、蒔絵で仕上げるような古風な道具を作りたいと思っていました。

 多湖先生に相談すると二つ返事で賛成してくれて、お二人は、出来る前からその費用を出してくれました。お陰で何の不安もなく次々に昔ながらの道具が出来て行きました。蒸籠も引き出しも、和のテーブルも、そうして作りました。

 道具がすっかり出来上がったころの秋に自主公演をして、芸術祭に参加しました。それが大賞受賞につながり、多湖先生も都築さんも大喜びで祝ってくれました。

 親父が亡くなったときにはこれからどうやって活動して行っていいものか、と悩んでいたことがわずか一年で嘘のように変わりました。然し、この時、私は何かある種の力に動かされているように感じました。人生うまく行きすぎています。

 

 多湖先生からはよく色々な話を聞きました。頻繁に言っていたことは、「いい人と付き合いなさい。いい人からいい話を聞いて、幸運を引き寄せなさい」。実際、先生の人生はそれを繰り返し実践して成功を手に入れたようでした。

 然し、一つ疑問が生じます。そんな偉い先生がなぜ私のような手妻師を熱心に応援してくれるのか。いい人と付き合えと言うなら私と付き合うことは間違いではないか。私はあるときそのことを素直に尋ねました。すると、「藤山さんは一人ですよ。ほかにあなたのようなマジシャンはいませんよ。貴重な存在ですよ」。と仰ったのです。

 「いや、先生、確かに手妻はほかにはいないかも知れませんが、私はそんな優れた人間ではありませんよ」。「いや、手妻に限らず、マジックの世界でもほかの世界でも、あなたのような考え方をする人はいません。だから応援しているんです」。

 「いや、それを言うなら、先生こそ、あまた大学教授がいる中で貴重な存在ではないですか。ソニーの井深さんでも、政治の石原慎太郎さんでも、みんな先生の頭の体操の読者で、会社や官庁に顧問として迎えてくれて。こんな貴重な先生はいないでしょう」。「ある意味ではそうです。同じくクロネコの都築さんもそうです。それだから貴重なのです。でもねぇ、貴重だから成功して、みんなが認めてくれる人になれる。と言うものでもないのです。世の中には付いている人と付いていない人がいるんです」。「いや、それを詳しく聴かせてください。その違いはどこにあるんですか」。

続く

 

付いている人

付いている人

 

 一概に人生で成功をしている人を「付いている人」と言ってしまうのは失礼な言い方です。ご当人は「付いているんじゃなくて努力をした結果だ」。と仰りたいでしょう。全くその通りです。然し、あえて申し上げます。世の中に「付いている人」と言うのは存在するのです。

 前にも書きましたが、私は親父を平成9年に亡くしました。その時、「もうこれからは相談する相手もいない、自分が柱となって生きて行かなければいけない」。と心に決めていました。しかし何をどうして行っていいのか、明確な将来が決まっていませんでした。

 ところが、それから一か月経った、平成10年の正月に、クロネコヤマトの元社長、都築幹彦さんが私に手妻を習いたいと尋ねて来ました。無論了解しました。すると2月になって、千葉大学の名誉教授、多湖輝さんが同じように習いたいとやって来ました。なぜこうも私のところにこうした人たちが習いに来るのかわかりません。

 求められるまま月二回の指導を致しました。それから約15年、お二人は熱心に手妻を練習されました。当時日本で最も成功された教授と経営者が私のところに習いに来て、食事をご馳走してくれたり、公演がある度に10枚も20枚もチケットを買ってくれました。また、いろいろな人を紹介してくださり、パーティーの仕事も随分世話をしてくれました。

 特に多湖先生は、お付き合いしている方々が超トップクラスの経営者が多くて、多湖先生の話は何でもツーカーで通ってしまうのでびっくりしました。

 多湖先生は戦時中に帝国大学に入り、心理学を学び、戦後卒業して、大学に残っていたようですが、ある時、出版社からクイズに関係する本を出したい、と言う依頼があって、いろいろ自分なりに考えて、「頭の体操」と言う本を出しました。昭和20年代末のことです。

 これは一つことを真っ向から考えるのではなく、少しひねって遊びを交えて考えると面白いアイディアが生まれる、と言うことを書いたもので、大ヒットしました。聞くところによると400万部出たと言います。日本の出版の歴史の中で最も売れた本です。

 日本人の真面目に物事に取り組む性格は長所ではありますが、いざ問題が発生したときに、一つことばかり考えすぎていると、たちまち行き詰ってしまい解決方法が見えなくなってしまいます。次善の策とか、他の価値観とか、逃げ場や回り道がないと、人間はもろいのです。

 そうした日本人のエリート層に対して、知識による遊びとか、別の解決法を提供すると言う本は当時は大変に珍しく、その後も続編が出続けて、結局、多湖先生の亡くなる間際まで、第40巻くらいまで出し続けたのです。

 

 つまり多湖先生は20代にして大ベストセラー作家となり、その後テレビのクイズ番組の解説者となって知名度を上げたり、ラジオ番組を持ったり、多忙を極めます。亡くなる間際にはコンピューターゲームレイトン教授のクイズを考案したりと、生涯仕事が付いて回り、売れまくった人です。

 多湖先生が出るまでの出版界は、出来た本を作家のところに届け、巻末に印鑑を押してもらい本屋に卸していたのです。夏目漱石も、芥川龍之介もそうして自らの本に判子を押していたのです。つまり、その昔に出版界と言うのは、売れる本でも、判子を押して間に合う程度の販売量だったのです。

 ところが多湖先生の本は毎週毎週何万部も売れるため、いくら判子を押しても間に合いません。そこで親戚の大学生にバイト料を支払って判子を押させることを考えます。然し、学生がホイホイと判子を押していると、ゴム印が一日ですり減ってしまいます。そこで多湖と書いた判子を何十個も作って押し続けますが、余りの単純作業にバイトの学生がみんな音を上げてしまいます。

 やむなく出版社と相談をして、互いの信用で判子なしで本を出すことにしました。以来、日本の出版社は本に判子を押すことをやめたそうです。

 多湖先生は、何軒もの家を持ち、別荘も、私が知っている限り3つお持ちで、運転手を雇ってベンツに乗り、虎ノ門に広い事務所を構えていました。文字通り成功した人の生き方をそのまま実践して見せた人です。恐らく昭和、平成で最も成功した大学教授でしょう。

 多湖先生と都築さんが習いに来てから、何やら私の周囲がパッと明るくなったような気がしました。私の活動には積極的に支援してくれました。私はかねがね、手妻の道具は昔のやり方で指物師に作ってもらい、漆を塗って、蒔絵で仕上げるような古風な道具を作りたいと思っていました。

 多湖先生に相談すると二つ返事で賛成してくれて、お二人は、出来る前からその費用を出してくれました。お陰で何の不安もなく次々に昔ながらの道具が出来て行きました。蒸籠も引き出しも、和のテーブルも、そうして作りました。

 道具がすっかり出来上がったころの秋に自主公演をして、芸術祭に参加しました。それが大賞受賞につながり、多湖先生も都築さんも大喜びで祝ってくれました。

 親父が亡くなったときにはこれからどうやって活動して行っていいものか、と悩んでいたことがわずか一年で嘘のように変わりました。然し、この時、私は何かある種の力に動かされているように感じました。人生うまく行きすぎています。

 

 多湖先生からはよく色々な話を聞きました。頻繁に言っていたことは、「いい人と付き合いなさい。いい人からいい話を聞いて、幸運を引き寄せなさい」。実際、先生の人生はそれを繰り返し実践していたようでした。

 然し、一つ疑問が生じます。そんな偉い先生がなぜ私のような手妻師を熱心に応援してくれるのか。いい人と付き合えと言うなら私と付き合うことは間違いではないか。私はあるときそのことを素直に尋ねました。すると、「藤山さんは一人ですよ。ほかにあなたのようなマジシャンはいませんよ。貴重な存在ですよ」。と仰ったのです。

 「いや、先生、確かに手妻はほかにはいないかも知れませんが、私はそんな優れた人間ではありませんよ」。「いや、手妻に限らず、マジックの世界でもほかの世界でも、あなたのような考え方をする人はいません。だから応援しているんです」。

 「いや、それを言うなら、先生こそ、あまた大学教授がいる中で貴重な存在ではないですか。ソニーの井深さんでも、政治の石原慎太郎さんでも、みんな先生の頭の体操の読者で、会社や官庁に顧問として迎えてくれて。こんな貴重な先生はいないでしょう」。「ある意味ではそうです。同じくクロネコの都築さんもそうです。それだから貴重なのです。でもねぇ、貴重だから成功して、みんなが認めてくれる人になれる。と言うものでもないのです。世の中には付いている人と付いていない人がいるんです」。「いや、それを詳しく聴かせてください。その違いはどこにあるんですか」。

続く

 

未完成とグレート 2

未完成とグレート 2

 

 以前は、私がマジックの話をしている時は読者数が多いのですが、クラシックの話になると覿面に読者数が減りました。ところが、ここ最近は読者数が減りません。どういう傾向かはわかりませんが、私の趣味をご理解いただけて有難く思います。

 私は楽器演奏も出来ず、ただ、好き勝手にレコードを買っては聞いていただけの愛好家です。クラシックは小学生の高学年のころから聴いていました。

 昭和42年ごろ、中学一年の私の小遣いは一か月500円でした。その時代にLPレコードは2000円しましたので、めったなことではレコードは買えません。

 ただ小学生の頃から舞台に出ていて、ギャラをもらっていました。当時は、一回2000円くらいもらえたのです。大学生のアルバイトが一日1200円の時代です。いい収入です。ショウと言っても雑多で、町内会の寄り合いのようなところでもマジックを頼まれることがありました。ある時、池袋の町内会のパーティーでショウをした後に、現金で2000円をもらいました。

 その足で都電に乗って池袋駅に行き、ヤマハのレコードショップに行き、ベートーベンの交響曲を買って帰ってきたことを今も覚えています。早く家に帰ってレコードが聴きたくて、マジックの荷物が多くて重かったにも関わらず、嬉しくて急ぎ足で帰りました。

 この当時は、もらったギャラは、マジックの道具か、レコード、或いは衣装代にほとんど消えていました。通常の子供では買えないような高価なものが買えたのは幸いでした。その後、マジックは職業になり、音楽は趣味の範疇で止まってしまいましたが、レコード集めは20代まで続き、面白くてのめり込みました。

 「未完成」は小学校6年生で買いました。面白くて擦り切れるまで聞きました。高校生になってから、「9番グレート」を買いました。一曲で55分もかかり、とても大きな構想で出来ています。これも面白くて何百回も聴きました。

 

 シューベルトは、ウィーンに生まれ、音楽学校にも行かず、ほぼ独学で作曲も、ピアノも覚えます。多くの歌曲を作り、魔王や、鱒、野ばらなど、今も、学校の授業で習うような奇麗な佳作をたくさん作りました。彼は作った曲を友人に聞かせ、友人は彼の才能を認め、いつしかシューベルトを囲んでサロンを催すようになりました。20代の半ばには譜面もぼつぼつ売れるようになり、かなり知名度があったようですが、収入は苦しく、ほとんどは仲間の支援で暮らしていたようです。

 当人は20代の半ばになって、自分が稼げないのは、小さな曲ばかりを作っているからだ。大きな演奏会場からお呼びがないから知名度が上がらないのだと気付きます。

 この辺り、クロースアップマジシャンがクロースアップに限界を感じ、ステージマジックに移行すれば、知名度も稼ぎも上がるのではないか、と考えるようになる過程と似通っています。大切なことは自分がどうなりたいかを見極めることだと思いますが、シューベルトは大きく出たいと考えたようです。

 特に同じウィーンに住むベートーベンが輝かしき成功をおさめ、大家となっているのを見て、その影響を受けて、自分も大きな交響曲を作ろうと一念発起します。

 すなわち、8番の未完成も、9番のグレートもシューベルトの新境地を意味する曲です。8番は作曲途中だったのですが、なぜ未完のままだったのかは分かりませんが、私なりの素人意見を申し上げると、当人が気負い過ぎて、冒頭から余りに重たいテーマを取り上げてしまったことで、行き詰まってしまったのではないかと思います。シューベルトが表現する内容としては重たすぎたのです。自分で持て余したのでしょう。

 そこで心機一転、9番のハ長調グレートを作ったのです。ここには、未完成のような暗さはあまり見られません。逆に、ベートーベンの7番ののように、大胆で、華麗で、万人受けする音楽になっています。

 シューベルトは、早速9番を、ウィ-ンの音楽協会に売り込んだのですが、まともには取り合ってもらえなかったようです。果たして、生前は彼の交響曲は演奏されることはなかったのです。グレートは、死後、シューベルトの部屋に残っていた楽譜が発見されて、シューマンメンデルスゾーンの尽力で世間に評価されたのです。

 もし、彼にあと30年寿命があったなら、ブラームスの出番はなかったかもしれません。晩年は、ベートーベンの後継者のような扱いを受けて、ロマン派音楽の大家と呼ばれたかもしれません。残念なことは31歳で亡くなったことです。8番未完成と9番グレートは彼の果たせぬ夢の片鱗のような曲です。 

 

 実際、グレートはベートーベンの7番によく似ています。長い導入部の奇麗なメロディーと言い、メインテーマが出たときの強奏と躍動感。全体が陽気な曲調であるところ、第二楽章がほの暗い行進曲であるところ、などなど共通点がたくさんあります。相当にベートーベンを意識して作られています。それゆえに、7番の好きな人なら、すんなり理解できるでしょう。

 指揮は誰がいいかと言うと難しいですね。戦前からこれを演奏する指揮者はたくさんいて、名盤を残しています。一番シューベルトらしい演奏は、ワルターでしょう。できればウィーンフィルがいいのですが、今その録音があるかどうか。

 フルトヴェングラーもたくさん出しています。いつの録音が一番かと言うと、1942年の録音が迫力満点でいいですね。でも、どうもドラマチックすぎて、シューベルトと言うよりもベートーベンの曲に聞こえてしまいます。それが好きな方ならいい演奏です。

 メンゲルベルクはライブ演奏で、戦時中の1940年と42年の二つが残っています。音の良さと丸く完成した演奏は42年です。でも私は40年の方が好きです。癖が強くて、作為見え見えの演奏ですが、とにかく巧いのです。ちょうど名人の落語を聞くと、ついつい同じところで笑ってしまうように、分かっちゃいるけど嵌ってしまうのです。こんな指揮者はこの先永久に現れないでしょう。

 とまぁ、メンゲルベルク礼賛で終わってしまいましたが、youtubeを調べれば、これらの録音が残っていますので、ご興味の方は一度お聴きになっては如何でしょう。聴くときは、ヘッドフォンでボリュームを大きくして聞くと、1940年の演奏でもかなり鮮明に聞けて、臨場感があって結構楽しめます。どうぞ一度お試しください。

続く 

未完成とグレート 1

未完成とグレート 1

 

 私が小学生のころ、クラシックレコードのLP版で最も売れていたのは、ベートーベンの5番「運命」と、シューベルトの「未完成」の二曲の交響曲を裏表に入れたレコードで、この組み合わせは、どこのレコード店でも、何書類ものオーケストラ、指揮者で販売されていました。硬い、聞きずらいと言われるクラシック音楽の中でも、この二曲はドル箱の人気曲だったのです。

 それだけ売れた曲ですから、およそクラシックなんか聞かない家でも、ちょっといいステレオを持っている家なら、大概「運命」「未完成」だけはありました。

 つまり、当時は常識として、ステレオを買うと、必然的にこの二曲はかっこ付けに買っていたようです。しいてもう一曲、交響曲を買うとなると、ドボルザークの「新世界」でしょうか。昭和40年代、交響曲と言えば、この三曲が代表的な曲だったのです。

 

 今、だった、と過去形で言いましたが、最近のクラシック界の流れは、運命も未完成も演奏される機会は少なくなっているようです。ベートーベンで言うなら、5番よりも、7番の方が人気が高いようです。あのジャンボ宝くじのコマーシャルでサンバガールと一緒に、宝くじの券をひらひらさせて踊っている背後で流れている曲が7番です。確かに7番は陽気で、面白い曲ですが、コマーシャルにまで使われて、なおかつ演奏頻度も、運命をしのいでトップに立つとは思いませんでした。

 それでもベートーベンの音楽は演奏会では常に重要な位置を占めますから、5番の演奏頻度はそれなりにあります。およそ聞かなくなったのは未完成です。

 そもそも、シューベルトの8番の交響曲「未完成」は題名ではありません。何の理由かはわかりませんが、途中までしか作らなかったため未完成(英語圏ではアンフィニッシュト)、と但し書きしているだけなのです。

 通常、交響曲は4つの楽章から出来ています。それが、この曲はなぜか二つの楽章だけしか書かれておらず、曲を聴いても、これで終わりとは思えない終結をしています。実際、第3楽章は途中まで書かれていて、第4楽章もわずかな草稿が残されています。

 その後になって、草稿を元に全曲を作り上げた人がいます。そしてお披露目をしてみると不評でした。やはりシューベルトが作らないとだめなようです。

 シューベルトがなぜ途中で止めてしまったのかは謎です。元より、誰かに依頼されて書いた曲ではないようですので、他に収入になる仕事を頼まれて、そっちの作曲をしているうちに、交響曲のことは忘れてしまったのでしょうか。

 未完成はメロディーが奇麗なためにとても人気があります。然し、実際聞いて見ると、内容が深く、決して万人受けする曲ではありません。軽い気持ちで聞く音楽ではないことはすぐにわかります。シューベルトとしては珍しく、内容をしっかり詰め込んで本格的な交響曲の作曲をしようと試みたのです。それだけにたった二つの楽章ですが、かなりボリュームのある内容になっています。

 二つの楽章とも12分くらいあって、両方聞いて25分と言うのは、クラシックをあまり知らない人にとってはちょうどいい時間です。仮にこの曲が四つの楽章が完成していたなら、50分もの曲になってしまい、もうそれはマーラーや、ブルックナーに匹敵する大曲になってしまいます。世間一般からは敬遠されるでしょう。

 

 そもそも、当時のLP レコードと言うのは、片面30分~35分程度しか曲を入れることが出来ませんでした。運命35分、未完成25分はちょうどいい長さだったわけです。長い間、マーラーや、ブルックナーがポピュラーではなかったのは、曲によっては1時間を超えるものがあって、LP版に収まらなかったからです。

 当時のレコードは高価で、一枚2000円から2500円しました。アルバイトの学生の日当が1200~1500円の時代にです。二枚セットで4000円を支払って、一曲のブルックナーを買うと言うのは、音楽ファンにとっては負担だったのです。

 

 話を戻して、シューベルトはわずか31年の生涯の中で1000曲に及ぶ歌曲を作曲したのですが、晩年に(と言っても20代後半ですが)、短い、軽い曲ばかりを書くことに少し疑問を感じ、もう少し内容の深い、厚みのある曲が作りたくなったようです。

 どうやらベートーベンの5,6、7番の交響曲を聞いて刺激を受けたようです。ベートーベンのような偉大な作曲家が同じウィーンの町に住んでいれば影響を受けないわけはありません。未完成は相当に苦労して作り上げたようです。

 私は学生のころから、どうしてこの曲がこんなにポピュラーに扱われているのだろうと訝(いぶか)しく思っていました。二つの楽章とも短調で、シューベルトとしては重たく暗い曲調になっています。表現している内容は、満たされない自己の告白であり、古典派の音楽でありながら、語られていることは私小説のようで、決して万人受けする内容ではないのです。

 しかも、この曲は途中で終わっていますので、最終的にシューベルトがこの先話をどうまとめようとしていたのかが分かりません。ある意味ブラームスの曲に似ていて、理解しにくい曲なのです。それでいてメロディーが奇麗なため、昔から頻繁に演奏会に上がっています。

 人気曲ではあっても指揮者とすれば、この曲を演奏することは、今も複雑な心境だろうと思います。例えば、有名な2時間の映画を1時間で切って、途中で幕が下りたなら、どんなに面白い映画でも、見ている人はみんな消化不良に陥るでしょう。実際未完成はそれと同じなのです。結末の見えないまま終わってしまうのです。この不完全な音楽が180年演奏され続けてきたわけです。不思議な魅力の曲だと言えます。

 演奏は、フルトヴェングラーではだめです。曲想が大きくて、ドラマを作り過ぎます。メンゲルベルクはメロディーは抜群に奇麗ですが、細かな細工が少し邪魔をします。ベストはブルーノワルター指揮のウィーンフィルがいいと思います。但し古い録音ですから、今聞けるかどうか。

 ワルターこそはシューベルトに寄り添って、彼の才能を愛し、素直に奇麗なメロディーを指揮しています。時代は1820年代、日本で言う文政時代のウィーンの、ほの暗い夕暮れ時、有り余る才能を持ちながらも、自分の才能に疑問を抱いているシューベルトが、寂しく、街角に立って人々を眺めている姿が目に浮かんできます。そこにワルターは愛情をもって接して、彼を支援しています。私は中学生の頃はひたすら感動して聴きましたが、今、色々な人の演奏を聴いても、今一つ感動できず、結局ワルターを聴き直してしまいます。

 と言うわけで、夜な夜な、未完成を聞いていますが、同時に、シューベルトの9番「グレート」も聴いています。その話はまた明日お話しします。

続く

 

初音ミケⅡ 5

初音ミケⅡ 5

 

 年末の大掃除も済み、今日は朝から二階の事務所でデスクワークを していました。このところ一階のアトリエはあまり使いません。事務所でかたずけをしていて、ふと時計を見ると、11時です。「あぁ、いつもならミケが来る頃だな」。そう思って、外階段を下りようとすると、ちょうどミケが家の前を通りかかりました。

 「ミケ、やっぱり来ていたんだね」。「えぇ、少し待ったわ。誰もいないから近くを見回りしていたの。家の前を掃除したのね。珍しく綺麗になっているわ」。「珍しくは余計だ。猫にも掃除が分かるんだ。もうあと二日でお正月だからな」。私は階段の三段目に腰を下ろしました。

 幸い外は暖かで、風もなく、いい天気です。ミケはいつものように、ドアの前でお座りをします。「下の部屋は人の気配がしないけど、このところ二階で作業しているの」。「うん、パソコンの調子が悪くて、二階でやっているんだ」。

 ミケは日向でゆっくり毛繕いを始めました。

 「それにしてもこの間、久々にミケが野良のニ毛を追っ払うのを、三階で聞いていたけど、お前は強いねぇ、相手に狙いを定めたら一瞬で倒してしまったじゃぁないか。まるで宮本武蔵だね。有無も言わさずに屋根の上から叩き落したね。お前の母親も強かったけど、もう今ではオヤミケ以上だね」。

 「やめてよ。喧嘩が強いなんて自慢にならないわ。あたしはただ自分の縄張りを守っているだけよ。でもねぇ、高円寺も最近は年寄りがだんだん亡くなって行って、今まで猫に餌をくれていたお婆さんが一人減り、二人減りして、だんだん野良猫にとっては暮らしにくくなっているのよ。

 裏のアパートだって、もう誰も餌をくれる人はいないもの。最近アパートにネパール人が住むようになって、あの人たちは冬は寒いらしくて、ガラス戸を絶対に開けないのよ。だからあたしらが外で哭いても気付かないんだわ。全然餌をくれないの。

 ただこのアパートは道の奥にあって、めったによその人がこないし、静かだから、暮らすにはいいところよ。これで餌さえあれば猫にとっては天国よ」。

「そうは言っても、お前はもう飼い主の家があるんだから、ここに戻って来る必要はないだろう」。「そんなの分からないでしょ?。今の家だっていつ追い出されるか知れないもの。その時のために避難場所を確保しておかないと、あたしらはいきなり明日から野良猫になることだってあるんだから」。「あぁ、そうかぁ、飼い主あっての暮らしだものねぇ。宮仕えは大変だねぇ」。

 「あたしの母親だって、中野の独り住まいのお婆さんの家に養われて、老後は安泰か、と思っていたのよ。それがお婆さんが亡くなって、行くところがなくなったら、あたしに譲ってくれた裏のアパートに戻って来たでしょ。あの時は随分困ったわよ。毎日もらう餌を親子で半分ずつ分けて食べなきゃいけなくってさ、親のためとはいえ、辛かったわ」。

 「そうだった。お前がいたお陰でオヤミケは幸せだったんだなぁ。あの時を思えば今のお前は体はしっかりしているし、毛並みはいいし、この町内では一番立派な猫だよ」。「有難う。あたしは恵まれているのね」。ミケは暖かい日差しの中で、ゆっくり手足を舐めています。

 

 そこへ前のラーメン屋のお兄さんが、裏口のドアを開けて向かいにしゃがみこんで煙草を吸い始めました。いつも11時過ぎになると、仕込みを終えて、ここでしゃがんで煙草を吸っています。

「もう店は終わったんじゃないの」。「ええ、昨日大掃除を済ませました。今日から来年3日まで休みです」。

 するとミケはお兄さんに気兼ねをしてか、「あたしこれから見回りに行って来るから」。と言って、立ち上がり、裏のアパートの方に行ってしまいました。

 ラーメン屋のお兄さんは「先生、いつも猫と何か話しているみたいに見えますよ」。「そう、ミケはね、人の言葉が分かるんだ。無論、実際に言葉を発したりはしないんだけど、テレパシーのようなもので会話が出来るんだよ」。「それってマジックの一種ですか?」。「マジックとは関係ないと思う。私はほかの猫とは交信できないんだけど、ミケと、ミケのお母さんとは交信できたんだ、もうオヤミケは三年前に亡くなったけどね」。

 「すごい才能ですね。テレビに売り込んだらいいじゃないですか。そんな人どこにもいないですよ」。「そうなんだけどねぇ。もっともっと、たくさんの猫と交信できるなら、人前で見せることもできるけど、今のところミケ一匹だけだからなぁ。しかも、私とミケは言葉を発しないんだ」。「そうそういつもじっと見つめ合っていますよね」。

 お兄さんは私が猫と交信していたのを随分前から知っていたようです。

 「あなたは、私とミケの交信を知っていたの?」。「えぇ、まぁ、休憩に出ると大概ミケがドアの前で座っていて、奥で先生がずっと猫を見ていますから、何かテレパシーでも送っているのかなぁ。と思っていたんです」。

 「そう知っているんだ。其れなら話すけど、私も不思議に思っているんだ、どうして私が猫と交信できるのかが分からないんだ。ミケはテレパシーではないと言うんだ。猫シンパシィだと言うんだ」。

 「猫シンパシィですか?。何ですかそれは」。「交信方法の一種だと思うんだけど、何で私が猫と交信が出来るのかが分からないんだ。週に一辺ああして私の家の前にやって来て、10分くらい猫シンパシィで交信をするんだけど。猫目線で世の中を見るのは楽しいよ。普段の生活が全然違うものに見える。ところで、どうしたの、店から独立するという話は」。

 「ええ、先週、先生に紹介して頂いた銀行さんと話をしてきました。どうやらうまくお金を借りられそうです」。「よかったねぇ、今までまじめにやって来たのを評価してくれたんだね。上手く満額回答が出たらお祝いをしようよ」。「有難うございます」。「新装開店は3月かなぁ」。「わかりませんけど。それより、一度、私もミケと話をしてみたいんですけど、紹介してもらえますか?」。

 「紹介も何も、毎週ドアの前に遊びに来る猫だから、別段私が紹介する理由もないよ。話をしたければ、月曜日の朝11時に待っていてよ」。「いいんですか。是非話をさせて下さい」。「随分御執心だね。何か考えがあるの」。

 「いえ、何となく、先生と猫とのやり取りを見ていると、何だか知らないけどそこに独特のパワーがあるように見えるんです。あの姿は神々しくさえ見えます。先生とミケとのパワーがもらえたなら、今以上に私の仕事がうまく行くように思えるんです。ぜひ仲間に入れて下さい」。「パワースポットかい。猫と手品師とラーメン屋かぁ。変わった取り合わせだなぁ。まぁいいよ。でもあまり過大に考えないでね」。

続く

 

プーチンさん癌悪化

プーチンさん癌悪化

 

 去年暮れあたりから、プーチンさんが癌だと言う噂がウクライナ側から流れています。確かにこの1年を見ると、プーチンさんの表情は、徐々に悪くなっているように見えます。癌のせいでしょうか、分かりません。これほど大きな戦いをすれば、誰でも顔色ぐらいは悪くなると思います。元々、そう人相のいい人ではなかったのですから、こんなものかも知れません。

 政治の世界では、指導家の生命が失われれば、大きく政局が動くことは多々あります。死んでも世の中に何ら影響を与えない政治家なら、いないも同じです。人に影響力を与える人の死は、国も時代も動かします。どんな重要な人でも寿命が来ればこの世を去らなければなりません。それは自らが望むと望まぬとにかかわらずです。人の寿命は当人の自由にはならないのです。自身の寿命を変える方法は自殺か、暗殺しかないのです。

 今プーチンさんは、自らの病気に怯え、周囲からの暗殺を恐れ、幾重にも人間不信に陥っているでしょう。こうした毎日を送ることは精神的に、重い刑罰を受けているのと同じことです。それでも、「だから戦争をやめよう」。とは思わないでしょう。

 飽くまで自分のしていることは正しいのです。実際、こんな状況に至っても、ロシア国民の多くはプーチンさんを支持しています。大多数の指示がある限り、プーチンさんは、自分こそは歴史に残る帝王だと信じ続けるのです。

 

 一方ゼレンスキーさんは、昨年末にアメリカに行って、アメリカ議会で一層の支援を呼びかけました。アメリカは支援をする考えです。今の状況で、ウクライナに武器や、生活物資を支援することは、アメリカにとっては好機なのです。

 いつの時代でも、欧州の戦乱はアメリカに巨万の富をもたらします。対岸の火事は、アメリカの繁栄につながるのです。そのことをアメリカは承知していますから、表向きは戦争不拡大、早期終結を唱えますが、その実、欧州が、だらだらと解決の当てのない戦争をすることを密かに望んでいます。

 いつの時代でも、ひとたび欧州が不穏になれば、アメリカ企業と、ユダヤ系金融業者は大儲けをするのです。ゼレンスキーさんはその本拠地に乗り込んで、金や武器を貸してくれと言いに行っているのです。

 まさに株や競馬でぼろ負けをして、サラ金に借金しに行くサラリーマンと同じ、と言っては言い過ぎですが、武器も金もなくて戦うとなれば、アメリカへの借金はやむを得ないと言うことでしょうか。アメリカにとっても、ユダヤ商人にとってもウクライナは有り難い顧客と言うことになります。

 それでもウクライナが返済能力のあるうちの借金なら問題はないのですが、この先返済できなくなって行ったらどうなるのでしょうか。そのことは同時にロシアにも言えます。今回の侵攻はもう泥沼の状態です。東部ウクライナの4州は手に入れましたが、今も戦いは続き、一進一退を繰り返しています。ロシアとすれば、今の現状をウクライナが認めさえすればすぐにでも休戦して和平協定を結びたいでしょう。

 然し、ゼレンスキーさんは決してここで和平は結べません。この状況での休戦では一方的に攻め取られて領土をかすめ取られることにしかならないからです。然し、そうは言っても、この先自力でロシアを追い払うことは不可能です。アメリカや欧州から借金をして、或いは武器を貸してもらって戦っている状況で、何でも自分の思う通りに事が進むものではありません。

 先週、ゼレンスキーさんは、欧州、アメリカを歴訪している、岸田総理に、「ウクライナに寄って話をしませんか」。と持ち掛けて来ました。なぜウクライナに来てほしいかは明白で、借金の申し出でしょう。荒廃した国土の再建を日本に依頼しようと言うのです。

 然し、わざわざウクライナまで出かけて行って、金を貸すほど岸田総理は人がいいわけではありません。貸すなら貸すで、「金を貸すのはいいけども、ここでひとまず休戦したらどうか」。と休戦を持ちかけることが大切でしょう。当てもなく戦っていても問題の解決はないはずです。互いが、資金が枯渇し始めて、疲労困憊してきたのでは勝者はいなくなります。そこでここらで仲裁するのが、仲間として正しい判断なはずです。

 

 ロシアは躍起になって、いよいよ衛星国を参戦させようと、ベラルーシに派兵の要請をしています。ベラルーシは決してウクライナとの戦いは望んではいないでしょうが、ロシアに逆らって、石油やガスを止められたら生活は立ち行かなくなりますので、消極的ながら参戦するしかないのでしょう。

 そうなると、ベラルーシと国境を接するポーランドや、更に隣に位置するドイツは身構えます。ドイツもポーランドウクライナに戦車を提供することを決めていますので、ベラルーシがいつ攻めて来るかも知れません。結局このままでは、戦いは一層拡大してしまいます。

 

 この戦いは世界不況を招くと以前書きましたが、実際、欧州では、石油ガスの燃料費が数倍に高騰しています。日本も石油の値段が上がってはいますが、日本は中東から石油を買っていますので、値上がりはさほどではありません。欧州はどこもロシアから買っていますので、これを他国の石油で間に合わせようとすると、コストがかかり過ぎて値上げ幅が大きいのです。各家庭で月に10万円の燃料費が出ている国もあると聞きます。そうなると、ウクライナを手放しで支援することも出来なくなります。

 ロシアとしても、欧州の経済制裁のために石油やガスが売れず、仕方なく、中国に格安で買い取ってもらっています。儲けているのは中国で、ウクライナ侵攻は、中国には追い風になっています。逆に、ロシアは経済が冷え込んでいます。

 この先のことは分かりませんが、仲裁国が現れて、とりあえずでも和平がなるのでしょうか。あるいは、この先戦争が拡大して、NATO軍とロシアとの戦いになるのでしょうか。どうなるのかは分かりませんが、今、仲裁が入れば、少なくとも世界不況はある程度は押さえられます。どうにかするなら今だと思います。

続く