手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

天海と島田 3

天海と島田 3

 

 昭和30年代以降、オリジナルが声高に叫ばれるようになって、当時の訳知りのアマチュアなどが既成のマジシャンに対して、「オリジナリティがない」。などとに非難する人が出て来ました。オリジナリティがあるないはマジシャンにとって何ら評価の基準にはならないと思いますが、それを素直に拝聴したとして、今現実に、どれだけすぐれたオリジナル作品が日本に残ったかと考えると、後世に残るものは余りなかったように思います。閃きは誰にでもあるでしょうが、単純な閃きを作品にして、それが独自の考えでまとめられ、後世の人がこぞって演じたがるようになるには、程遠かったと思います。実はオリジナルには法則があります。

 

 先ず第一に、自分の閃きを発展できる人は、過去の作品に精通していなければなりません。つまり、物を作り出す以前に多くの知識を必要とします。それなくして、自身でひらめいた作品がオリジナルであるとは言えないはずです。

 マジックを創作することも、企業の商品開発にしても、或いは大学の研究所で研究開発することも、ある点では同じ活動と言えます。

 創作を考える人達は豊富な知識を持っていて、知識をベースに発展を考えようとする人たちでなければなりません。そこに過去の知識が蓄積されていなければ発展も、アレンジも、そしてオリジナル開発も出来ません。適当に何かを思いついてて出来た作品は、ほとんど場合過去のコピーです。

 

 第二に、後世に残る作品は必ず方向性があります。オリジナルなら何でもいいと言うものではなく、今、ここにこんな作品が欲しいと言う、マジック関係者が求める大きな流れがあって、何かの理由でその答えが停滞しているような場合にこそ、新たな作品が生きて来ます。世界の研究開発のトレンドの部分です。先ず、社会の流れに乗って作られた作品でなければ注目されません。

 

 第三は、むしろ現在の流れとは逆行していながら、過去の作品のリメイクによってつくられる新作(?)です。埋もれた作品の中には、止まったままの作品がたくさんあります。そこに何らかのアイディアを加味して作品を見直すと、思いがけない優れた作品に生まれ変わります。

 そうした作品を世に出した結果が、新作(実は旧作のアレンジ)として評価されることが多々あります。その作品は、当然、決して100%作者のオリジナルではなく、アレンジの繰り返しから生まれた作品なのです。別段どこまでがアレンジで、どこからがオリジナルかは詮索する必要はありません。ヴァーノンいわく「自分にはオリジナルはない」。と言う言葉が全てを語っています。

 

継承としての作品

 天海師が戦前優れた創作家であると評価されたのは、師にも問題があったと思いますし、その後、日本が発展して行くに従って、師の作品がオリジナルではなかったことが分かってしまったこともまた当然の帰結です。そのことは、いずれも、未熟な日本のマジック界が作り出した虚構だったのです。

 だからと言って天海師の数々の作品がどうでもいいもの、と言うことではありません。師の集めた膨大な作品は、1920年代から1950年代までのアメリカマジック界の最も華やかな時代の、すぐれた作品を、師が、実際目で見て、指導を受け、直接習い覚えた珠玉の作品なのです。これらを天海師の手によって日本にもたらされたことは大変な財産を手に入れたことになります。

 師の審美眼を通して集めた作品は、どれも価値ある作品ばかりです。特にスライハンドやクロースアップの作品は、作者や演者に直に習った強みがあり、後世の日本のアマチュアが、本や、ビデオで覚えたものとは伝わり方に大きな差があります。

 昭和30~50年代のオリジナルブームがなぜ貧弱な結果に終わったのかと考えると、日本の知識量が小さかったからです。わずかばかりの洋書。販売された商品、そんな中から改案されて行った、アレンジやオリジナルは貧相なのは当然です。

 高木重朗先生が、「これはヴァーノンの作品の○○です」。「スラーディーニの○○です」。と言って演じて見せてくれた演技に、少年だった私は目を見張りました。ところが、その後、本人が来日して見せてくれた作品は全く別物の演技でした。それは高木先生が未熟であったわけではなく、間違って演じたわけでもないのです。本で学んだ高木先生の限界だったのです。それは個人の限界ではなく、時代の限界だったのです。

 天海師の作品には、師が直接学んだ強みがありましたし、師の優れたアレンジが加わったことも価値を増したと思います。既に1940年代のアメリカでさえ。もう忘れ去られてしまったような作品を、師が丁寧に習い、メモをし、まとめたことは、オリジナルであるか否かなど関係なく、師の残したメモや作品はアメリカにもない、貴重な資料として、日本の知識として生かせたはずです。

 ところが、オリジナルブームの反動から、天海師は評価されなくなります。又継承者もわずかなアマチュアは育っても、そこからプロが育たなくなって行きます。今、日本が抱える優れた人材が育たない大きな問題の種がここにあります。

 

 本来は、天海師の作品は後世の若い人たちの育成のために生かすべきものだったのです。それも誰にも彼にも教えるものではなく、能力のある若い人にのみ指導をして行くべきものにすべきでした。決して商品にせず、安易に普及させずに、上級者にのみ直接教えて行くようにすれば、いい形で能力ある若いマジシャンを育てて行けたでしょう。

 然し今現在、それは実践されてはいません。昭和と言う時代は、天海師のすぐれた作品がに日に日に埋もれて行き、スライハンドはどんどん荒っぽいものになり、オリジナルと言う得体のしれない免罪符が幅を利かせ、マジックは商品としてビニール袋に入れて販売され、結果、見識があって、技量があって、アレンジの才能を持ったマジシャンはなかなか育たなくなって行ったのです。

 直接習い覚えた優れた作品が次の代、次の代と継承さて行くことが、生きたマジックを残す方法なのですが、直接に指導する、と言う意味がどんどん薄くなっています。僭越ながら、私の知る限りの天海師の作品を、私は生徒さんに教えてはいますが、私の知っているレベルではお寒い限りです。このままでは、せっかくの日本の財産が過去の遺物になってしまいます。さて、どうしたらいいでしょう。

天海と島田終わり

 

 

天海と島田 2

天海と島田 2

 

 天海師は日本に帰国をした後、島田師の才能に着目し、島田師をプロとして育てようと考えたようですが、折からのチャニング・ポロックブームで、島田師をはじめとする日本の若いマジシャンはみんな鳩出しの方向に走って行き、天海師は大きなマジック界の流れから取り残された形になりました。

 その後の天海師は名古屋に転居し、アマチュアとの交流を深めるようになります。元々戦前から天海師のファンの多くはアマチュアであり、熱い支持層がいましたから、天海師としては余生をアマチュアと共に暮らすることは天海師の望んだ人生だったと思います。

 

 ただ、天海師の帰国により、日本の奇術界は、少し違った方向に進んで行きます。それは、1つは、オリジナル尊重の考え方であり、2つ目は、芸の継承についてです。この事をお話ししてこの章のまとめとします。

 

 戦前から天海師が日本に来るたびに、圧倒的な優れたマジックの数々を披露され、その多くは天海師のオリジナルだと喧伝されました。これが後々問題の種となります。天海師自身がそう言ったのかどうか、はなはだ曖昧なのですが、恐らく日本で指導するときに、アマチュアから、「これは先生の作品ですか?」、と聞かれ、ついつい「そうです」。と言ってしまったのではないかと思います。

 結果として、日本で「天海○○」と呼ばれる作品、技法がたくさん紹介され、「天海先生は素晴らしい」。と、長く尊敬を受ける結果となったのです。

 更に、天海師はオリジナルと言うことに極めて強い持論を持っていて、「勝手に人の作品を真似してはいけない。人の作品を本にしたり商品にして販売してはいけない」。と、オリジナル尊重の大切さを折に触れて語っていました。

 神に等しかった天海師がそう言えば、みんな右へ倣えをして、日本ではオリジナルを尊重すること、オリジナルを考えることの大切さが定着して行きます。先に書いた風路田さんが天海賞を作って若い創作家を毎年表彰するようになったのも、天海師の持論を実践した結果でしょう。それは素晴らしい成果を生みました。

 

 戦後のアマチュアのオリジナル偏重な考え方は行き過ぎていました。そもそもオリジナルが何であるかがお分かりになっていない人たちがオリジナル云々を語ろうとするのですから、無知と我儘のなせる業に陥る結果になります。

 但し、そのことは日本だけに限ったことではなく、アメリカもヨーロッパも同じでした。私は子供のころから、欧米は優れている、オリジナルを尊重する世界だ。と言う話を聞かされていましたが、それは幻想でした。

 私は20代のころアメリカにたびたび出かけ、そこでショウをしたりレクチュアーをしたりした際に、アメリカのマジック愛好家から聞かされる話は、誰が誰のコピーをしたと言う話ばかりでした。世界大会のさ中に、わずか5ドルで売られているパケットトリックを、「あれは俺が考えた」。と主張する者同士の戦いが繰り広げられていて、100個作って全部売れても500ドルにしかならない商売を、大喧嘩して争っていたのです。

 極め付きはジグザグボックスでした。アシスタントを箪笥のような箱に入れて、胴の部分だけずらして見せるおなじみの作品ですが、自分のオリジナルだと称するマジシャンが二人現れて、それぞれがオリジナルを主張して裁判にまでなりました、二人のジグザグボックスはサイズもタネも同じでした。どちらかがコピーしたことは明らかです。それを裁判で争うことは、マジック界自体にオリジナルを判断する基準がないことの証拠です。「結局アメリカも日本も同じなんだな」。と、思いました。

 更には、その後の天海師自身も、日本では「天海○○」で名を馳せて、創作家の権化(ごんげ)のように尊敬されていたのですが、時代が経つに従って、「天海○○」の原案者が分かって来てしまいました。天海フォールスノットも、天海ロープ切りも、ともにダイ・ヴァーノンの作品です。そのほかの原作者も分かって来て、今では天海師自身の作品は少ないことが分かったのです。アメリカ国内では創作家としてではなく、巧いマジシャンとして認められていたのです。

 但しそうなると、天海師を拠り所として成り立っていた戦後のオリジナル尊重のブームは一体何だったのかと言うことになります。ここではそもそもオリジナルとはどういうものかについてお話しします。

 

 オリジナルを考えると言うことは、机の上に白い紙を置き、ペンを持ち、目をつむって上を向き、ひたすらマジックのことを考えていると、ある時、突然天から作品が下りてきてマジックが生まれる。そう考えている人がいるなら、それはマジックの創作をしたことのない人です。そんな風には作品はうまれません。

 先ず、創作をしようとするその第一歩が間違いです。何もないところから何かは生まれないのです。「何かを作ろう」、ではなく、「今あるものをより良くしよう」。とするところがスタートでなければ作品は出来ません。常にアレンジを考えている人、それの積み重ねからしか作品は生まれないのです。

 先に、天海ロープ切りやフォールスノットがダイ・ヴァーノンの作品であると書きましたが、当のダイ・ヴァーノンはそのことをオリジナルであるとは喧伝しません。むしろ生前氏は、「自分にオリジナルはない」。と言っていたのです。つまりヴァーノンさんをしても、やってきたことはアレンジの繰り返しであり、そうした結果が「オリジナルに近い作品?」になって行ったのです。ヴァーノンさんの作品の素晴らしさは多くのマジシャンが知っています。然し氏はそれが自分の才能だけではないことも承知しているのです。オリジナルを考える場合、先ずそこに気付いている人でないと作品は生まれません。

 そうは言っても世の中には、独創的な演技をする人も、人の考えないような作品を生み出す人も存在します。特に海外のマジシャンを見ると、その人のその作品だけが目立って見えますから、すごい創作家だと考えてしまいがちですが、実際には、その国では案外ポピュラーなマジックだったりして、そのマジシャンのどこまでがオリジナルなのかは判断しきれないことが多々あります。

 だからと言って、オリジナル性が薄いから、独創性が欠けるからなどと外から付加したような判断をしてはいけないのです。何度も言いますが、オリジナルとはアレンジの繰り返しから生まれるものなのであり、創作家は決して自分の作品をオリジナルとは呼ばないのです。

 と、ここまで書いて紙面が尽きました。この続きは月曜日に書きます。

続く

 

 

天海と島田 1

天海と島田 1 

 天海師は帰国後、相当に多忙な毎日を過ごしていました。その間も島田師の存在に気をかけて何度か指導をしたようです。何しろ、世界で誰もやったことのない8つ玉を完成させて、36個の玉を次々に出現させた島田師ですから、奇術界ではどこでも話題沸騰でした。

 天海師にすれば、こうした若者が日本にいたと言うこと自体驚きで、自身がアメリカで学んで来たスライハンドの技法や手順を、島田師に伝えたいと言う思いは強かったようです。

 天海師はアメリカで活動しつつも、何度も戦前に日本に帰って来ています。昭和5年、10年、15年、23年と4回帰国をしています。天海は帰国をするとすぐに天勝一座に組み込まれ、一年間日本中を興行して回ります。不入りのない一座にゲスト待遇で出演したため、天海師に支払われたギャラは法外なものだったようです。

 天海師の演技は、天勝一座に出演するたびに大きな話題になり、日本のアマチュアマジシャンはこぞって天海の技を見たさに天勝一座の興行を見に行ったそうです。

 そうした結果、天海師は日本の奇術界では神格化され、その演技、技法は極めて高い評価を得ていました。と言うのも、戦前の日本では海外のマジシャンが来日する機会が少なかったため、天海の来日がほぼ唯一と言っていいくらい、欧米の風を感じさせる演技だったのだと思います。

 そうした戦前からの実績から、昭和33年の天海師の帰国は、大きな期待が高まっていたのです。しかし、いざ帰国をしてみると、日本国内の様子が変わってしまったことを感じずにはいられなかったようです。

 

 当初は島田師も、天海師の指導を喜んで受けていたようです。然し、徐々に天海師の考え方に疑問を持ち始めます。島田師いわく、「天海さんの演技は、不思議が生まれるまでに手順が煩雑で、やたらに難しいんだよね。カードでも、シルク一枚でも、スチール(観客に気付かれないように取って来る行為)をしたら、それを右手から左手にパス(気づかれないように握ったものを反対の手に移す)、またパスを繰り返して、お客さんがスチールをしたんじゃないかと言う疑問が消えたころ、いきなりシルク一枚、カード数枚が出て来る。それは確かに不思議だけれども、その不思議はシルク一枚が出たと言う不思議にすぎない。苦労してやった演技が、お客さんに与えるインパクトはとても小さいんだよ。不思議と言うのはもっとダイレクトであるべきで、もっと強烈なものでないと仕事にならないんじゃないかと思ったんだ」。

 と、はっきりと否定的な考えを持つようになります。つい半年前に荻窪公会堂で天海師の演技を見て、立ち上がれないくらい感動したものを、いざ習ってみると、仕組みが複雑で、とんでもなく難しい技法のため、島田師は音を上げてしまいます。

 天海師にすれば、8つ玉のような難解な手順を作り上げた島田師なら、十分に天海の技法を習得するだろうと考え指導をしました。が、そうはならなくなっていました。どうもこの辺りから日本の奇術愛好家が、受け身なだけで天海師を受け入れる状況ではなくなってきたようなのです。戦後になって情報が増え、マジックの考え方が変わって行ったようです。

 

 そして決定的な出来事が起きます。昭和36年に、映画の「ヨーロッパの夜」が封切されて、その中でチャニングポロックが鳩出しの演技を披露します。鳩出しのことは天海師もアメリカにいた時に随分見ています。

 私は直接天海師がポロックをどう考えていたかの資料は持ってはいませんが、コスキーさんや、ロサンゼルスで私のマネージメントをしてくれていた、アーノルド・ファーストさんから聞くところによると、かなり鳩出しには辛辣な批判をしていたようです。

 実際、鳩出しの演技は、従来のスライハンドの技法を否定して生まれてきたものです。右手でスチールした鳩を右手で出してしまい、そこにはパスも改めもありません。しかも鳩のサイズは手のひらよりも大きいため、明らかに保持するのに無理があります。手に持った時点で出す以外方法がないのです。体に仕込む際にも、鳩はかなり大きいため、6羽も7羽も体に仕込むこと自体かなり無理があります。無理に無理を重ねてインパクトを作り上げることがいいことか、結果として種仕掛けの暴露につながり、スライハンドの寿命を縮めてしまうのではないか。天海師はそんな風に考えていたようです。

 然し、天海師やスライディーニと言った、古典的(今となってはですが)なスライハンドマジシャンの思いとは裏腹に、鳩出しは世界中で爆発的なブームになり、映画までもがポロックの演技を取り上げるようになって、ついに日本にも上陸します。

 

 鳩出しは、いわば鉄砲伝来のようなもので、馬に乗って一騎打ちをしていた昔の戦いから、集団の戦いに変わり、それまでの戦争の形をそっくり変えてしまうような出来事だったのです。アメリカ中のナイトクラブではポロックのスケジュールが奪い合いになるほどの人気を手に入れます。

 「ヨーロッパの夜」と言う映画は、決して大作映画ではなく、ヨーロッパのナイトクラブで演じられていた様々な演芸を羅列しただけの企画だったのですが、そこで演じられていた芸がとびきりの技量とセンスのある芸だったため、映画自体たちまち人気となります。その中でもポロックの演じた鳩出しは大人気で、日本でも話題になり、特にマジック愛好家が何度も映画館に出かけ、8ミリを使って映像を盗み取り、ひたすら鳩出しの研究を始めました。

 昭和36年当時の日本の若手マジシャン、引田天功や、島田晴夫が鳩出しの飛びついて、真似をし始めるのは当然の流れだったのです。島田師は鳩出しに夢中になります。と同時に天海師との関係は疎遠になって行きます。

 こうした流れを天海師は傍観するのみだったのでしょうか。いずれにしろ、天海師は昭和36年に、心筋梗塞になり、入院をします。その後たびたび体調不良が起こり、昭和40年には故郷の名古屋の引っ越してしまいます。

 

 「天海さんは日本に帰って来るべきではなかった」。とは、私を良く面倒見てくれたアマチュアの松田昇太郎(設計技師)さんの言葉です。昭和5年新橋演舞場で見た天海のすばらしさをたびたび私に語って聞かせてくれた松田さんにとっては、日本に帰国をして、病気のせいもあってか技量が衰え、よく失敗した天海師を見て、そう言ったのです。

 戦前は神様扱いをされ、天海師の演じる技法は一つ一つが珠玉の輝きを持っていたものが、知らず知らずに光が失せてしまったのでしょうか。その後に来たポロックのあまりに大きな成功が、まるで浦島太郎が生まれ故郷に戻って来たかのような、場違いな印象を感じて、失意の中、玉手箱を開けざるを得なかったような状況になって行ったのでしょうか。その当たりはまた明日お話ししましょう。

続く

 

 

 

ジェラルド・コスキー 3

ジェラルド・コスキー 3

 

 私がジェラルドコスキーさんについて書く理由は、コスキーさんは「マジックオブ天海」と言うハードカバーの本を出したからです。

 私と天海師との縁は皆無でした。年齢的にはお会い出来る可能性はあったのですが、名古屋在住の師と東京住まいの私ではチャンスがありませんでした。師は私が17際の時に亡くなり、その頃私は夏休みのたびごとに名古屋に行ってショウをしていた時でした。そうなら会えないものでもなかったはずですが、その頃には天海師はもう病院に入院されていました。一度でもお会いできればどれほどよかったかと惜しまれます。私が天海師の作品に接したのは、天海師の死後で、多くは二代目松浦天海さんから習って知りました。

 その後、「マジックオブ天海」を入手して、天海師の生い立ちから、作品を知ることになりますが、何しろ英文の本ですから、私の英語能力では知れています。その著者であるコスキーさんに会いたいと言う気持ちは強く思っていたのです。それがマジックキャッスルに出演したことで思いが達せられたことは幸いでした

 実際、コスキーさんから聞いた天海師の日常や、作品は随分印象的なものでした、何しろ一緒に活動して、親友だった人から見せてもらう天海の演技は説得力のあるものでした。

 

 コスキーさん曰く、天海師は、大正13(1924)年に天勝一座で渡米して以来、アメリカに残り、ボードビルの仕事場で活動して、昭和33(1958)年に帰国をするまで、30余年に渡ってアメリカで活動しました。この間、天海師は多くのアメリカマジシャンと交流を持ち、有能なマジシャンには積極的に近づいて行き、レッスン料を支払ってマジックを習得しました。師が学んだ作品は膨大で、当時のアメリカのマジシャンの中でも抜きんでて多くのことを知っていました。又は独自のアレンジの才能があり、必ず、習った作品を自分流に改案し、改案のたびに仲間に見せていました。

 師の作品は会うたび変化をし、より洗練さを増して行きました。師は時々人に指導もしましたが、習いに行くたびに前回習ったものとは違ったものになっていました。生徒が「この間習った演技と違う」。と言うと、師は、「この方がいいからこっちを覚えなさい」。と言ったそうです。わずか二週間ほどの間でも手順が変わったのです。

 それらの作品を、師は膨大なメモを作って残しました。絵のうまくない師は、例えばロープの作品をメモするのに、毛糸を使って、メモに色の違う毛糸をノリで張り付けて、複雑なロープの重なりを自分流に記録していました。そのメモは誰に発表するものでもないもので、ただ自身の忘備録として残したものでした。

 そうしたことにかかる時間は膨大なもので、審美眼を持って師が選んだ作品はどれも一級品で、アメリカのスライハンドの、最も層の厚い時代の作品として、何としても残しておきたい極めて貴重な財産だったのです。それゆえ、コスキーさんは著作にして残そうとしたのでした。

 然し、忘備録に過ぎない師のメモは、よほど彼の作品を理解した人が、愛情をもって向き合わなければ本にならないものでした。時にイラストレーターに書き直させたり、写真を入れたり、文章を加筆するなどして苦難の末に完成させたのです。それもこれも天海師とコスキーさんの友情のなせる業だったのでしょう。

 私は、コスキーさんから出版の話が直接聞けたことは幸いでした。別段私は天海研究者ではありませんが、あれほど偉大な功績を残したマジシャンでありながら、私と同時代に天海を研究をする人が殆ど日本で現れないことを残念に思っていました。

 日本では昭和40年代から50年代に、風路田政敏さんが天海賞と言う催しを毎年12月1日(天海師の誕生日)に開催して、有能な作品を生んだ人を讃えていました。

 その催しも今はなく、天海師は日本でもアメリカでも、日に日に名前が薄れて行きました。今日では、「あぁ、天海パームを考えたマジシャンか」。と言われる程度で、師の実力はほとんど知られていません。

 

 話を勧めましょう。昭和33年4月21日に横浜港に帰国。狭心症はだいぶ良くなったようですが、日本ではもう舞台活動は控えて、隠居をするつもりでいたようです。ところが、その年に催された杉並公会堂のマジックショウや、読売ホールのマジックショウに出演することになり、杉並公会堂で、天洋さん(日本奇術協会会長)が連れて来た少年、島田晴夫師と出会い、島田師は楽屋で挨拶代わりに4ツ玉を演じます。

 この手順は、戦前天海師が理論上は可能と言うことで、メモして、和歌山の金沢天耕さんに伝えていたもので、1つのボールが片手でいきなり4つになると言うものです。天耕さんはそれを本にして仲間に配っていたものを、10代の島田師が読んで、工夫をして作り上げたものでした。

 島田師がそれを難なく手順にしていることに天海師は驚き、「そこまでできるなら、きっと両手で演じて、8つにすることも出来るはずだ」。とアドバイスをします。島田師はそれを聞いて、すぐに練習を始め、その年の秋の天洋大会で8つ玉を発表してセンセーショナルなデビューを果たしました。

 天海師は島田師を見て日本にこれほどの技術を持った若者がいたことに驚き、早速自分の元に習いに来るように伝えました。無論、授業料など取りません。この時、島田師まだ17歳です。

 天海師にとっては、日本の奇術界ははまだまだ未開発で、何とか若い人材を育てたいと考えていたようですが、どうやらこの時、自身の後継者の一人として島田師を考えていた節があります。翌年からはNETテレビ(今のテレビ朝日)から。毎週日曜日の夜に天海師を中心としたマジックショウがレギュラー化され、一年以上続きます。

 実はこの番組を熱心に8ミリで撮影して記録していたアマチュアさんがいて、(当時はビデオがないため、テレビに向かって8ミリで撮影をしていたのです。8ミリフイルムは高価で、毎週二巻のフイルムに納めるのはとても費用の掛かることでした。

 今その数多くのビデオを納めたものが私の家にあり、そこで在りし日の天海師の演技を知ることが出来ます。

 この頃天海師は原宿に家を借りて暮らしていました。、帰国後の天海師は多忙で、かなりあちこちで公演をしていたようです。その合間を縫って、若き島田少年を指導したようなのですが、実はこの関係はあまりうまく行きませんでした。その理由は明日お話ししましょう。

続く

 

ジェラルド・コスキー 2

ジェラルド・コスキー 2

 

 私がコスキーさんに会って、訪ねたかったことは、当時、天海さんは社会の大きな流れに抗することが出来なくなって帰国を考えたのか,或いは、病気で活動が難しくなったので帰国を考えたのか、どっちだろうかと言う点でした。

 実はアメリカでも第二次世界大戦前後から社会の様子が大きく変わって行き、それまでアメリカ全土にあって非常に賑わっていた、ボードビルショウ(寄席、演芸、演芸場)の人気が下火となり、劇場は閉鎖され、多くの芸人が仕事を失いました。

 代わって大戦後はナイトクラブが流行りだし、アルコールを楽しみながら、ショウを見るスタイルが主流となって、多くのボードビルに出演していた芸人たちは、ナイトクラブに移って行ったのです。

 具体的に言えば、カーディーニの時代はボードビルが主流だったのですが、チャニングポロックになるともうナイトクラブの時代になっています。カーディーニと同様に、ボードビルで活躍した天海師は、ナイトクラブに仕事場を変えて出演していたのか。それともナイトクラブを嫌って別の仕事をしていたのか。もう天海師の望むような仕事場は無くなっていたのか。

 そのあたりをコスキーさんに尋ねてみたのですが、実はあまりはっきりとした答えは返って来ませんでした。確実なことは、大戦後、アメリカ各地でマジック大会が頻繁に開催されるようになり、天海師は大会に引っ張りだこだったようです。内容もスライハンドですし、その腕は早くから認められていましたし、ステージも、クロースアップも出来る人でしたので、アマチュアの求める姿に合致していたのでしょう。

 然し、いかにマジック大会でもてはやされていたとはいえ、当時のマジック大会は規模が小さかったので、謝礼も大きな金額は支払えなかったでしょう。やはりベースとなる舞台が続く間に大会に出るようでなければ、生活して行くのは難しかったはずです。

 ボードビルでも、ナイトクラブでも、天海師は60を過ぎたあたりから、アメリカ各地を3日ないし6日公演しては移動してゆく仕事に疲労を感じていたのではないかと思います。アメリカでは日本とは比べ物にならないくらい移動距離が離れていて、しかも、アメリカのショウビジネスは、交通費、宿泊費、食事代が全てギャラに含まれます。当然かなり高額のギャラをもらいますが、ボードビルの劇場閉鎖によって、次の仕事先まで一週間も二週間も日程が空くこともあったでしょう。そうすると、たちまち宿泊費や交通費で赤字が膨らみます。徐々に仕事が難しくなって行ったのではないかと推測されます。

 また、ナイトクラブは、アルコールを呑んでお客様が遊んでいるため、ショウの内容は、よりインパクトの強いものを求める傾向がありました。カーディーニも、天海も、軽妙に、テンポよく次から次とマジックをするのですが、その演技は小味で、大きな不思議、大きなインパクトと言うものはありません。そのため、ボードビルでは一級の扱いを受けていましたが、ナイトクラブでのマジシャン全体の評価はかなり低かったようです。

 ナイトクラブで大きく評価され、その後マジックの世界を変えたのはチャニングポロックでした。一枚のスカーフを手の中で揉んでいると、そこから鳩が出て来る。と言う演技は衝撃的で、デビューするや、アメリカでもヨーロッパでも引っ張りだこでした。

 ポロックがチャベツスクールを卒業して、ナイトクラブに出演するようになったのが1955(昭和30)年ころ。但し、初めは後年の鳩出しとは少し違うものだったようです。

  私が興味を持っているのは、ポロックのデビューと、天海師の引退時期との関係で、ほとんど時期が一致しています。この間にアメリカのショウビジネスに何があったのか。直接ポロックの影響ではないまでも、同時期に、やたら鳩を出すマジシャンが増えて、鳩を出さなければギャラが高く取れない、とか、もっと、もっと刺激のつよいマジックが求められるようになった可能性があります。

 天海師にすればボードビルで、それまで演じていた演技がすんなり喝采を持って受け入れられたなら、何ら問題なく仕事先をナイトクラブに移して行ったはずです。然し、実際はそうではなかったようです。ここは興味深いところです。

 

 無論、鳩を出すマジシャンはポロックだけではありませんでしたし、そもそも鳩出しはポロックが元祖なわけではありません。1940年代以降から、多くのマジシャンが、ウサギに変わって、扱いやすい鳩を使うようになっていました。

 そうしたマジックと入れ替わるかのように、ボードビルの衰退が、多くのマジシャンを失業させ、その中のかなりのマジシャンがマジック大会に活路を見出して行ったのは事実のようです。今日、多くのマジック愛好家がスライハンドと考えているようなマジックは、ボードビルのマジシャンが、マジック大会に入って来て、伝えたマジックで、アマチュアの間でスライハンドを演じる人が増えたのは、実はボードビルで鍛えた老齢なマジシャンから習った演技でした。

 このせわしなくマジシャンが入れ替わって行く時期に、天海師は引退をして帰国をします。天海師は、アメリカで活動している間、年金に加入していましたので、帰国後は日本にアメリカから年金が支給されるようになりました。当時の物価で行くなら日本とアメリカでは数倍物価が違っていましたので、天海夫婦は日本で楽に暮らして行けるだけの収入がありました。

 天海師は、その年金で穏やかに暮らして行こうと考えていたようですが、日本では天海師を待ち構えていたかのようにテレビ出演が始まります。

続く

 

ジェラルド・コスキー 1

 

ジェラルド・コスキー 1

 今では、ジェラルド・コスキーと言ってすぐにわかる人はもういないでしょう。長らくロサンゼルスに住んで、SAM(ソサエティ オブ アメリカン マジシャンズ)の役員をしていて、マジックキャッスルのオーナー、ビル・ラーセンを助け、キャッスル設立に協力をし、第二次大戦前から石田天海との交友があり、戦争中、戦後の長きにわたり天海夫婦を助け、物心両面から天海師を支えました。戦後になって「マジックオブ天海」と言う本を出しています。

 コスキーさんはイギリス系ユダヤ人で、見るからに穏やかな紳士であり、私が会った1970年代末で、既に70歳を超えていたと思います。私はキャッスルで氏に会うたびに、天海の話が聞きたくて、氏が現れるとバーで飲んでいても起立で迎えました。すると、アメリカのプロマジシャンは、「新太郎はなぜコスキーを起立で迎えるのか」。と不思議がりました。コスキーさんはアマチュアマジシャン(セミプロ?)なのです。

 それはコスキーさんが戦中戦後苦労していた天海さんを助けた経緯からであり、更に天海の作品を良く知っていて、実際演じて見せてくれたからです。ご当人は天海から習い覚えたマジックで、日本スタイルの手順を持っていて、時折パーティーを頼まれるとジャパニーズマジックを見せていたそうです。

 私がキャッスルに出演すると、必ず何日か見に来て、その都度話をしました。一度は、キャッスルの近くにある氏のマンションに招待されました。高級で広くて、きれいに整理された部屋に通されて、天海の写真を見せてもらい、30年以上にわたる交友をまるで昨日の話であるかのように訥々と語ってくれました。

 「私は何年もこの部屋に人を引きれたことはない。でも天海を知るものなら歓迎したい」。コスキーさんはそう言って喜んでくれました。

 ヴァーノン、ビルラーセン(一世)、コスキー、天海と言う人たちの付き合いは、1940年代から、50年代にかけてのことで、無論私の知らない時代です。ビルラーセンは、父親のビルラーセン一世(親子同名)の時代に、ドイツからロサンゼルスに渡って来て、ロサンゼルスのアッパークラスを相手にマジックを見せて評判をとった人でした。

 しかし、第二次大戦中は、ドイツ系であると言う理由で差別を受け、仕事にも恵まれず、随分苦しい生活を余儀なくされたようです。父親のビルラーセンは、戦後、随分天海を助けたようです。天海とラーセン一家との付き合いは二代に及んでいるわけです。

 

 アメリカ国内では昭和初年から日本人の排斥運動が盛んになりました。有色人種に仕事を奪われた低所得のアメリカ人が、アジア人憎しで、天海の出演する劇場の楽屋出口にたむろしていて、天海を見つけると何人かで寄ってたかって殴り倒すと言うようなことが何度かあったようです。別に天海が悪いわけではありません。日本人であるだけでひどい仕打ちを受けたのです。あまりに物騒なので、天海師は一時ハワイに活動を移しました。ある日、明け方にサイレンが鳴り、街は静まり返り、何事かと街を訪ね歩くと、今、真珠湾攻撃があったと言ったそうです。

 天海師は戦時中、日本人であることを隠し、中国服を着て、「テンハイ」、と、中国読みをして活動していました。舞台活動は戦後に至っても苦労の連続だったようです。

 

  戦後はロサンゼルスを起点にアメリカ国内で活動を再開します。天海師にとってはまだまだ受難な時代でした。それでも、仲間の協力で仕事を世話してもらい、全米各地で公演をして、生活は徐々に安定して行きました。

 然し運の悪いことに、1953年、シカゴの興行先で、天海師は突然倒れます。狭心症でした。長くアメリカで活動して、しかも日本人として、いわれなき差別を受けて、たくさんのストレスを抱え、それが重なって心臓に負担が来たのでしょう。

 この時、シカゴで入院していた天海師に、次々とマジシャンが見舞に来て、天海の苦境を察して、5ドル10ドルと見舞いの金を持ってきてくれたそうです。日頃差別に苦しんでいた天海師にとっては仲間の支援は有り難かったそうです。ひとまず退院したのちにロサンゼルスに戻ります。

 せっかく仕事が順調になって来て、生活も安定していたのですが思わぬところで舞台活動を止められてしまいます。その苦境を察して、コスキーさんは、仲間に声を掛けて資金集めを始めます。ところが天海師はその申し出を断ります。

 「自分がこうして生きて来れたのも、多くのアメリカの仲間が支えてくれたからだ。これ以上何かをしてもらってもお返しすることが出来ない。だから何もしないでほしい」。と言いました。その上で、日本に帰国する意思を伝えました。

 コスキーさんは天海と言う人の欲のなさ、気持ちの美しさにすっかり惚れ込んでしまいます。そこで盛大なお別れパーティーを企画します。そこには天海を知るお客様、マジック関係者、多くの人が集まり華やかな晩餐会が開かれました。

 ここで天海師は挨拶をし「私が30数年アメリカで活動が出来て、マジシャンとして生きて来れたのはひとえにアメリカの仲間が暖かく支えてくれたからだ」。と挨拶しました。そこにはアメリカ人が如何にひどい仕打ちをしたかと言うことは一言も述べませんでした。偏に仲間に感謝をしました。そして、

 「もう一つ、私が今日までマジシャンとして活動できたことは、妻のお絹のお陰です。お絹が仕事がないときも、食べ物のないときも、文句を言わず支えてくれたからこそ今日があるのです」。ここで天海は涙声になり、「私は天海と言う名前で多くの皆さんに評価をされて幸せな人生を送ることができました。然しどうか、私が受ける名誉の一端をお絹に与えてやってください。私にはかけ替えのない妻なのです」。

 そう言い終えたとたん、会場の人々は立ち上がり鳴りやまない拍手を送りました。コスキーさんは、金品を受け取ろうとしない天海師に、SAMの生涯名誉会員の称号を送りました。この時代のSAMは極めて保守的な組織で、有色人種はなかなか会員に入れなかったのです。入会書の欄に、髪の色、肌の色、目の色まで書かせた時代です。ましてや日本人を名誉会員にするのは当時としては生易しいことではなかったはずです。然し、コスキーさんは役員に根回しをしたらしく、何とか天海師を名誉会員にしました。

 こうして1958年3月、天海お絹夫妻はアメリカを立ち、日本に帰国をします。

続く

 

 アゴラカフェは、9月10月、藤山の手妻公演、若手の公演はお休みします。Daiさんの演劇集団によるマジックショウのみ、9月25日、10月30日、公演します。カズカタヤマさんの公演は、9月29日、6時から公演します。お間違いのないようにお越しください。