手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

2022ヤングマジシャンズセッションチケット販売開始

2022ヤングマジシャンズセッションチケット販売開始

 

 来年1月8日9日。ヤングマジシャンズセッション。座高円寺、8日18時30分スタート。9日、17時30分スタート。

9日、13時から、マジックコンテスト。

 昨日(11月22日)チケット販売が始まりました。開始早々申し込みが多く、このままでは一か月以内に完売する可能性もありです。

 今回、セッションは初の2日間開催ですが、魔法使いアキッドさん、緒川集人さん、そして藤山大樹と、若手3本の大看板が揃ったため、前評判も上々です。

 緒川集人さんは、ロサンゼルスのマジックキャッスルでたびたびマジックオブザイヤーを受賞し、日本とアメリカを又に架けて活動しています。藤山大樹もたびたびヨーロッパに出かけ、大きなイベントに出演して活躍しています。魔法使いアキッドさんは、独自の舞台活動を続けていて、熱烈なファンがたくさんいます。観客動員力と言ったら日本のマジシャンの中でNo1ではないかと思います。

 この3本が舞台の上で白熱した演技を見せます。とても楽しみです。他に、明治大学のダンクさんは、ウオンドの手順で独特の演技を作り上げました。法政大学の綾鷹さんは、カードマニュピレーションで優れたテクニックを見せてくれます。二人とも昨年の学生マジシャンのトップのアクトです。

 ほかに私と前田将太が出演します。他にと言ってもその他大勢と言うわけではありません。

 

 9日にはマジックコンテストを致します。私が前々からやりたかった企画です。内容はステージマジック、10分以内、限定10名まで。参加希望者は東京イリュージョンまで、演技ビデオをお送りください。内容が良かったら採用とします。

 採用の通知が来たなら、参加費1000円をお支払いください。

 コンテストをご覧になりたい方は、入場料は1000円です。お早めにお申し込みください。(夜のショウは全席指定席ですが、コンテストの座席は自由席です)

 審査員は、藤山新太郎、藤山大樹、緒川集人、ケン正木(日本奇術協会会長)、リオ高山(六本木オズマンドオーナー)、優勝者には賞金3万円と賞状、9日の晩のヤングマジシャンズセッションに出演。更に、2022年秋の大阪マジシャンズセッションにゲスト出演できます(交通費、宿泊費、ギャラ付き)。

 二位、三位までは賞状が出ます。他に日本奇術協会会長賞。オズマンド賞(多分六本木のオズマンドに出演できると思います)。いろいろ特典があります。

 フィ-ドバック(審査員の評価とアドバイス)希望者は、受賞者発表終了後に審査員がアドバイスをします。

 ちなみに、来年秋に開催される大阪セッションも2日間開催し、二日目にコンテストを行う予定です。優勝者は賞金と賞状、プラス2023年の東京ヤングマジシャンズセッションにゲスト出演できます。これからは、東京と大阪の両方でコンテストを行い、そこで競い合い、互いに交流して、マジックのレベルを引き上げて行きたいと考えています。ご興味の方は、ふるってご参加ください。(ビデオ締切日、12月15日)。

 

大阪マジックセッション

 2021年大阪マジックセッション、11月26日(金)。18時30分スタート。大阪道頓堀の劇場、ZAZAで開催されます。現在既に、ほぼ完売の状況です。残り席はあと10枚です。参加ご希望でしたらお早めにお申し込みください。

 出演者、伝々、バーディ、黒川智紀、鈴木駿、Hnnah、ノエル、JunMaki、ザッキー、サク、前田将太、藤山新太郎

前売り3500円、当日4000円、

 

第8回、天一

 11月27日。福井市フェニックスプラザ。13時から、ディーラーショップオープン、クロースアップショウ。

 ステージマジックショウ。16時から。前売り4000円、当日4500円。クロースアップもご覧になる場合、前売り5000円、当日6000円。

 福井が生んだ偉大なマジシャン、松旭斎天一を記念して毎年マジックショウを開催しています。北陸で見られる唯一のマジックショウです。

 出演者、峯村健二、Masayo、Hannah、サイキックK、岡田透、ザッキー、サク、前田将太、藤山新太郎

 お申し込みはいずれも東京イリュージョンまで。

 

 と言うわけで、今日(23日)は、大阪と福井の荷造りをして、早めに発送します。それぞれ、演技の内容が多少変わりますので、少々面倒くさい作業をしなければなりません。

 福井の翌日は、福井市内にあるこども歴史文化館の館内の劇場に出演します。これも毎年行っている催しで、天一祭の一環としてやっております。

 こども歴史文化館は、名前の通り、子供が多く集まります。こうした機会にマジックをたくさん見てもらうことはファンを育てるには大きく役立ちます。

 私も幼いころ、町内のお祭りで、神楽殿に出演していたマジシャンを楽しみに見ていました。その時見ていた子供が今はマジシャンになったわけですから、子供にマジックを見せることはファンを作るためには必要です。

 こども歴史文化館は、私と前田、ザッキーさんとサクさんが出演します。まぁ、こうして26日、27日、28日と3日間マジックの旅に出ます。毎年のことではありますが東京を離れて、舞台活動をするのは、ショウが終わったあとの晩の食事が楽しみです。福井は今は、カニノドグロ、ブリが旬です。この三品で酒を飲むのが最高に幸せです。あぁ、早く福井に行きたい。

続く

 

 

 

 

 福井天一

 

シトロエン一代記 3

シトロエン一代記 3

 

 さて、お約束のシトロエン一代記を完結させなければなりません。私がなぜアンドレシトローエンのことを調べ続けたのかと言うと、この人の一生は、芸人の生き方、或いは、マジシャンの生き方に非常によく似ているからなのです。

 彼はまず初めに国立工科大学に入ります。技術者の人生としては好スタートです。然し、人は、工科大学を出たから必ず成功すると言うものではありません。

 彼は、親戚の経営する鉄工所で山歯の歯車と出会います。これは大発明でした。彼はいち早くこの権利を手に入れ、船舶会社に売り込んで若くして巨万の財産を築きます。これが最初の成功でした。人の持っていない技術や、アイディアを素早く手にいれ社会に売り込むことこそマジシャンの成功のチャンスなのです。

 次に、ヘンリーフォードの流れ作業に傾倒して、自分も自動車会社を作ろうと考えます。実際工場まで作るのですが、ここで第一次世界大戦が勃発します。彼は急遽、自動車作りを止めて、大砲の玉を流れ作業で作ろうと発案します。そしてそのアイディアを陸軍に売り込み、予算を獲得します。

 時代を見て、今、何が世の中に必要かを知った上で、柔軟に形を変えて行く。これも芸能で生きる者には大切な生き方です。

 その後、世界大戦が終わって、軍需産業は大不況に陥りますが、それを見越して、すぐさま当初の自動車産業に切り替えます。そしてとにかく安い自動車を作って販売し、大当たりをします。

 当初のシトロエン社の車は、技術的にはそう大したものではなかったのですが、価格の安さが革命的で、一気に売り上げを伸ばします。ここも芸能で生きる者は心しなければならないことです。技術のレベルが高いことよりも、今求めているものを低価格で出すことの方が、多くのお客様のニーズを掴めるのです。

 そして、エッフェル塔を使ったネオンサイン、ミニカーの販売、サハラ砂漠縦断レース、など。奇抜な宣伝方法で人目を惹き、常に話題を振り撒きました。これも芸能で生きる者は心しなければならないことです。芸能だ、芸術だと言っても、showと言う言葉の意味は見せ物です。常に珍奇で変化のあるものを提供し続けない限り、人を集めることは出来ないのです。

 アンドレシトローエンは誰よりもそれを知っていたのです。さて、ここまでが一代記の1と2でお話ししてきたことです。

 

 自動車作りと言うのは全く矛盾の塊です。お客様にどんな車を買いたいかと問えば、燃費のいい車で安全な車、室内は広く、外観は小さく、取り回しのいい車、などと言います。

 燃費を良くするなら、大きな車は無理です。然し、安全な車となると、鋼板や支柱は厚くしなければならず、ボディは重量が増えます。重くなれば燃費は悪くなります。

 大きな車は日本のような狭い道路では取り回しが悪く、接触しやすくなります。そうなら小さな車がいいに決まっています。然し、小さな車は室内が狭くなります。室内は広く、車は小さく、燃費が良くて、安全性が高い、おまけにスピードが出る車となると、もうそれは絶対不可能な要求なのです。

 ところが1930年くらいからアンドレシトローエンは、その不可能な要求を真剣に考え始めます。自動車の幅は他社並みで、それでいて室内が思い切り広い車を作るにはどうしたらいいか。

 そこから出した答えがFF車(前輪駆動車)だったのです。このアイディア自体はシトロエンのオリジナルではありません。過去に考えた会社があったのです。然し、前輪駆動と言う考えは問題が山積していたのです。

 通常自動車は、ボンネットにエンジンがあり、エンジンで回転させた動力を、シャフトを使って、後輪に持って行き、後輪を回転させます。自動車の前輪は、ハンドル操作によって、左右に移動するだけで自走しません。

 このやり方だと、自動車の中心に長い土手が出来て、左右の座席を土手で分断します。土手の中にはシャフトが通っています。これによって自動車の居住空間は狭められます。

 前輪駆動は、ボンネットのエンジンの回転を直接前輪の回転につなげるため、長いシャフトがいりません。その分室内は大幅に広くなります。ところが、前輪に直接動力をつなげるために、ハンドル操作が思いっきり負荷がかかります。動いている車をハンドルで方向を変えることは至難の業なのです。今日のようにパワーステアリング装置が付いていたら何ら問題はないのですが、1930年当時それは無理だったのです。

 そこでハンドルのギアチェンジを考えたり、タイヤを細くしたり、ハンドルそのものを大きくしたりして、随分工夫を凝らします。然しなかなかうまく行きません。その間も開発費に費用がかさみ、いつしかシトロエン社は大きな負債を抱えるようになります。然しシトローエンは、全く意に介しません。いいものを作るために没頭します。

 それがある日、会社に銀行が入り込むことになり、たちまち社長が解任されます。創立者であるアンドレシトローエンは会社を追われます。前輪駆動の成功がもうそこまで来ているのに、会社を去らなければならなかったシトローエンは無念だったでしょう。

  せめてもの慰めは、シトロエン社を引き受けたのは、タイヤ会社のミシュラン社でした。ミシュランシトローエンの親友で、誰よりもシトローエンの才能を評価していました。

 シトローエンは、失意のうちにスイスの別荘に籠り、そこで胃がんを発症し。1935年に亡くなります。

 

 前輪駆動車は、フランス語のトラクシオンアバン(トラクシオン=駆動、アバン=前)、の名称で、その後、世界中で大ヒットします。他社の車よりも断然居住空間が広く、前輪駆動のため、鼻が長く、後ろがすとんと切り落とされている、奇妙な車ですが、これが個性となって大当たりします。また正面には大きなダブルシェブロン(二つの山歯=シトロエンのエンブレム)が飾られていて、余りに大きなエンブレムであるためにこれもまた人気になります。

 但し、トラクシオンアバンが世界中を走る姿をアンドレシトローエンは見ることが出来ませんでした。それでも彼の意志である、独創性は、その後次々とシトロエン社がとんでもない車を次々発表することで、世界中の話題を浚って行きます。

 自動車の技術発展に心血を注ぎ、やがて経営が見えなくなって倒産する姿は、マジシャンの生き方とまた重なって映ります。私としても決して他人ごとではありません。

シトロエン一代記終わり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シトロエン一代記 3

シトロエン一代記 3

 

 さて、お約束のシトロエン一代記を完結させなければなりません。私がなぜアンドレシトローエンのことを調べ続けたのかと言うと、この人の一生は、芸人の生き方、或いは、マジシャンの生き方に非常によく似ているからなのです。

 彼はまず初めに国立工科大学に入ります。技術者の人生としては好スタートです。然し、人は、工科大学を出たから必ず成功すると言うものではありません。

 彼は、親戚の経営する鉄工所で山歯の歯車と出会います。これは大発明でした。彼はいち早くこの権利を手に入れ、船舶会社に売り込んで若くして巨万の財産を築きます。これが最初の成功でした。人の持っていない技術や、アイディアを素早く手にいれ社会に売り込むことこそマジシャンの成功のチャンスなのです。

 次に、ヘンリーフォードの流れ作業に傾倒して、自分も自動車会社を作ろうと考えます。実際工場まで作るのですが、ここで第一次世界大戦が勃発します。彼は急遽、自動車作りを止めて、大砲の玉を流れ作業で作ろうと発案します。そしてそのアイディアを陸軍に売り込み、予算を獲得します。

 時代を見て、今、何が世の中に必要かを知った上で、柔軟に形を変えて行く。これも芸能で生きる者には大切な生き方です。

 その後、世界大戦が終わって、軍需産業は大不況に陥りますが、それを見越して、すぐさま当初の自動車産業に切り替えます。そしてとにかく安い自動車を作って販売し、大当たりをします。

 当初のシトロエン社の車は、技術的にはそう大したものではなかったのですが、価格の安さが革命的で、一気に売り上げを伸ばします。ここも芸能で生きる者は心しなければならないことです。技術のレベルが高いことよりも、今求めているものを低価格で出すことの方が、多くのお客様のニーズを掴めるのです。

 そして、エッフェル塔を使ったネオンサイン、ミニカーの販売、サハラ砂漠縦断レース、など。奇抜な宣伝方法で人目を惹き、常に話題を振り撒きました。これも芸能で生きる者は心しなければならないことです。芸能だ、芸術だと言っても、showと言う言葉の意味は見せ物です。常に珍奇で変化のあるものを提供し続けない限り、人を集めることは出来ないのです。

 アンドレシトローエンは誰よりもそれを知っていたのです。さて、ここまでが一代記の1と2でお話ししてきたことです。

 

 自動車作りと言うのは全く矛盾の塊です。お客様にどんな車を買いたいかと問えば、燃費のいい車で安全な車、室内は広く、外観は小さく、取り回しのいい車、などと言います。

 燃費を良くするなら、大きな車は無理です。然し、安全な車となると、鋼板や支柱は厚くしなければならず、ボディは重量が増えます。重くなれば燃費は悪くなります。

 大きな車は日本のような狭い道路では取り回しが悪く、接触しやすくなります。そうなら小さな車がいいに決まっています。然し、小さな車は室内が狭くなります。室内は広く、車は小さく、燃費が良くて、安全性が高い、おまけにスピードが出る車となると、もうそれは絶対不可能な要求なのです。

 ところが1930年くらいからアンドレシトローエンは、その不可能な要求を真剣に考え始めます。自動車の幅は他社並みで、それでいて室内が思い切り広い車を作るにはどうしたらいいか。

 そこから出した答えがFF車(前輪駆動車)だったのです。このアイディア自体はシトロエンのオリジナルではありません。過去に考えた会社があったのです。然し、前輪駆動と言う考えは問題が山積していたのです。

 通常自動車は、ボンネットにエンジンがあり、エンジンで回転させた動力を、シャフトを使って、後輪に持って行き、後輪を回転させます。自動車の前輪は、ハンドル操作によって、左右に移動するだけで自走しません。

 このやり方だと、自動車の中心に長い土手が出来て、左右の座席を土手で分断します。土手の中にはシャフトが通っています。これによって自動車の居住空間は狭められます。

 前輪駆動は、ボンネットのエンジンの回転を直接前輪の回転につなげるため、長いシャフトがいりません。その分室内は大幅に広くなります。ところが、前輪を回転させるために、ハンドル操作を車輪に伝えるのは思いっきり負荷がかかります。動いている車をハンドルで方向を変えることは至難の業なのです。今日のようにパワーステアリング装置が付いていたら何ら問題はないのですが、1930年当時それは無理だったのです。

 そこでハンドルのギアチェンジを考えたり、タイヤを細くしたり、ハンドルそのものを大きくしたりして、随分工夫を凝らします。その間も開発費に費用がかさみ、いつしかシトロエン車は大きな負債を抱えるようになります。然しシトローエンは、全く意に介しません。いいものを作るために没頭します。

 それがある日、会社に銀行が入り込むことになり、たちまち社長が解任されます。創立者であるアンドレシトローエンは会社を追われます。前輪駆動の成功がもうそこまで来ているのに、会社を去らなければならなかったシトローエンは無念だったでしょう。

  せめてもの慰めは、シトロエン車を引き受けたのは、タイヤ会社のミシュラン社でした。ミシュランシトローエンの親友で、誰よりもシトローエンの才能を評価していました。

 シトローエンは、失意のうちにスイスの別荘に籠り、そこで胃がんを発症し。1935年に亡くなります。

 

 ところで、前輪駆動車は、フランス語のトラクシオンアバン

(トラクシオン=駆動、アバン=前)、の名称で、その後、世界中で大ヒットとなります。他社の車よりも断然居住空間が広く、前輪駆動のため、鼻が長く、後ろがすとんと切り落とされている、奇妙な車ですが、これが個性となって大ヒットします。また正面には大きなダブルシェブロン(二つの山歯=シトロエンのエンブレム)が飾られていて、余りに大きなエンブレムであるためにこれもまた人気になります。

 但し、トラクシオンアバンが世界中を走る姿をアンドレシトローエンは見ることが出来ませんでした。それでも彼の意志である、独創性は、その後次々とシトロエン社がとんでもない車を発表することで、世界中の話題を浚って行きます。

 自動車の技術発展に心血を注ぎ、やがて経営が見えなくなって倒産する姿は、マジシャンの生き方とまた重なって映ります。私としても決して他人ごとではありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

と名乗り、

大谷選手の時代

大谷選手の時代

 

 本当は今日(11月20日)、シトロエン一代記の3回目を書いて、シトロエンを終わらせようと考えていたのですが、昨日(11月19日)大谷翔平選手が、MVPを獲得したため、急遽内容を変えて、お届けします。シトロエン一代記はまた数日のうちに書きます。

 大谷翔平選手が、アメリカンリーグのMVP(年間最優秀選手)に選ばれるであろうことは、随分前から多くの関係者の間でささやかれていました。

 それゆえ、かくなりつるとは知りながら、いざ、発表されると、その実感はまたひとしおです。これは、日本人としての偉業ではなく、全ての野球選手の中での偉業と言えます。

 

 MVPと言うのは、アメリカンリーグナショナルリーグの両球団のチームの中から、それぞれ一名が選ばれます。その選出方法は、全米記者協会に所属する記者のうち30人による投票で、投票する記者は、名前を公表し、選手に与えた得点までも公表します。

 選ばれる選手は、優れた選手であることは勿論ですが、第一に、所属するチームに多大なる貢献をした、という実績を最も重視します。

 ことの発端は、1910(明治43)年に始まり、当初は優れた選手に自動車を一台プレゼントすると言うものだったのですが、翌年の1911年から今の形式になりました。

 つまり大谷選手は、110年に及ぶ歴史の中での優秀選手として選ばれたわけです。ちなみに、110年間の中で満票を取った選手は、19名で、全体の受賞者の約五分の一にも満たないのです。選ばれることすら至難な中での満票ですから、その功績は偉大です。

 過去には20年前にイチロー選手が受賞しています。日本人としては二人目の快挙です。

 この一年はアメリカのニュースを伝え聞いていると、全米で大谷熱が異常に盛り上がり、それに連れて、長らく低迷していた野球が、新聞や、テレビなどの話題に乗る機会が増えて来ました。

 観客動員も、はっきりと増加していて、特に大谷選手の絡む試合となると通常よりも二万人も多い観客動員を見せるようになりました。たった一人の選手の出現が二万人を集めてしまうのです。

 アメリカの球界としても、大谷選手の登場は待ちに待ったものでした。と言うのもアメリカの野球界は、フットボールや、バスケットボールの人気に押され、観客動員数も、テレビの視聴率も減少し続けています。このまま行ったなら、野球は今の球団も球場も維持することが難しくなると思われていたのです。

 ここらで何としてでもスターを作らなければならない、とは野球関係者もファンもみんなが考えていたことです。そこに現れたのが大谷選手です。アメリカ人の考え方として、これほどのチャンスを手に入れて、それをみすみす逃すようなことは考えられません。

 すべてのルールを書き換えてでも、大谷選手のやり良いように、球界が一丸となって大谷翔平と言う、大スターを育てて行かなければならないと理解しているのです。つまり、大谷選手の活動は、一球団の一選手を語っているのではなく、アメリカの野球界の浮沈が関わっているのです。

 

 土産売り場に置いてあるエンジェルスの赤いシャツは、17番の背番号だけは販売と同時に即完売です。相手球団の応援団までもが争って、大谷のシャツを買い求めます。どこの球団の観客席を見ても赤シャツ17番を着た子供が必ず映像に映ります。

 相手球団の応援をする子供たちが、エンジェルスのシャツを着ていることなどかつてあり得なかったのです。然し、それを誰も咎め立てできません。大谷フィーバーは止まらないのです。

 

 彼らはみんな大谷選手になりたいのです。白人の子供で、日本人をそこまで愛したことなど今までなかったでしょう。しかも、その両親までも、大谷選手の活躍を喜びます。

 なぜなら、大谷選手は人間として模範的な人物だからです。野球選手の中には、ホームランは打てても、薬物中道患者であったり、飲酒が元で暴力沙汰を起こしたり、子供のころ万引きをして家計を助けていたり、野球選手となって人気が出た後で、いきなり莫大な収入を得たことで、女性関係で乱れていたり、

 つまり、スポーツマンとして尊敬は出来ても、人間として模範的な生き方をして見せられない人もいたのです。それは野球選手に限らず、多くのスポーツ選手は、ハングリーな暮らしの裏返しでスポーツをしています。

 それは間違った考えではありません。然し、それゆえにアメリカではスポーツ選手を格下の生活者と見る人は多いのです。子供がスポーツ選手になりたいと言い出すと、半分は子供の夢を尊重しつつも、半分は早くその夢が覚めることを心の内で願う親は多かったのです。

 そうした中で突然出てきた大谷選手です。マウンドでのプレーの姿勢も素晴らしいですし、インタビューでの話し方も言葉を選んで、実に謙虚です。実際頭がいいのでしょう。

 身長も高く、顔立ちも少女漫画の主人公のようでさわやかです。その生活態度に暗い影がないのです。大きな車も買わないし、高級な衣装も買いません。ごく普通の生活をしています。そうした大谷選手に子供が憧れるなら、親は安心です。

 つまり大谷選手はアメリカ人の普通の生活をする家庭の中で安心して子供に見せられる野球選手なのです。

 

 全米野球ファンは来年の活躍に期待しています。恐らくこれからのアメリカの球界は、大谷の実績が原点となって、大谷を中心となって動き出すでしょう。

 但し、毎回申し上げますが、二刀流は危険です。今回MVP  を取ったのですから、これで一区切りとして、投手としての出番を減らして、自身の健康管理に注意した上で、打者に専念したほうがいいと思います。

 無理を重ね続けていると選手生命が早くに終わります。記録が出せなければ、ファンは簡単に離れて行きます。ここから先は何とか長い選手生命を送れるように、自己管理をして行った方がいいと思います。

 

明日はブログをお休みします。

 

今日の玉ひではお休みです。

 

大谷選手の時代

大谷選手の時代

 

 本当は今日(11月20日)、シトロエン一代記の3回目を書いて、シトロエンを終わらせようと考えていたのですが、昨日(11月19日)大谷翔平選手が、MVPを獲得したため、急遽内容を変えて、お届けします。シトロエン一代記はまた数日のうちに書きます。

 大谷翔平選手が、アメリカンリーグのMVP(年間最優秀選手)に選ばれるであろうことは、随分前から多くの関係者の間でささやかれていました。

 それゆえ、かくなりつるとは知りながら、いざ、発表されると、その実感はまたひとしおです。これは、日本人としてではなく、全ての野球選手の中での偉業と言えます。

 

 MVPと言うのは、アメリカンリーグナショナルリーグの両球団のチームの中から、それぞれ一名が選ばれます。その選出方法は、野球記者による投票で、投票する記者は、名前を公表され、選手に与えた得点までも公表されます。

 選ばれる選手は、優れた選手であることは勿論ですが、第一に、所属するチームに多大なる貢献をした、という実績を最も重視します。

 ことの発端は、1910(明治43)年に始まり、当初は優れた選手に自動車を一台プレゼントすると言うものだったのですが、翌年の1911年から今の形式になりました。

 つまり110年に及ぶ歴史の中での優秀選手として選ばれたわけです。ちなみに、110年間の中で満票を取った選手は、19名で、全体の受賞者の約五分の一にすぎません。選ばれることすら至難な中での満票ですから、その功績は偉大です。

 過去には20年前にイチロー選手が受賞しています。日本人としては二人目の快挙です。

 但し、この一年はアメリカの野球界をニュースなどで伝え聞いていると、全米で大谷熱が異常に盛り上がり、それに連れて、長らく低迷していた野球が、新聞や、テレビなどの話題に乗る機会が増えて来ました。

 観客動員も、はっきりと増加していて、特に大谷選手の絡む試合となると通常よりも二万人も多い観客動員を見せるようになります。たった一人の選手の出現が二万人を集めてしまうのです。

 アメリカの球界としても、大谷選手の登場は待ちに待ったものでした。このまま行ったなら、野球は今の球団も球場も維持することが難しくなると思われていたのです。

 ここらで何としてでもスターを作らなければならない、とは野球関係者もファンもみんなが考えていたことです。そこに現れたのが大谷選手です。アメリカ人の考え方として、これほどのチャンスを手に入れて、それを逃すことは考えられません。

 すべてのルールを書き換えてでも、大谷選手のやり良いように、球界が一丸となって大谷翔平と言う、大スターを育てて行かなければならないのです。つまり、大谷選手の活動は、一球団の一選手を語っているのではなく、アメリカの野球界の浮沈が関わっているのです。

 

 土産売り場に置いてあるエンジェルスの赤いシャツは、17番の背番号だけは販売と同時に即完売です。相手球団の応援団までもが争って、大谷のシャツを買い求めます。どこの球団の野球を見ても赤シャツ17番を着た子供が必ず映像に映ります。

 相手球団の応援をする子供たちが、エンジェルスのシャツを着ていることなどかつてあり得なかったのです。司会それを誰も咎め立てできません。大谷フィーバーは止まらないのです。

 

 彼らはみんな大谷選手になりたいのです。白人の子供で、日本人をそこまで愛したことなど今までなかったのです。しかも、その両親までも、大谷選手の活躍を喜びます。

 なぜなら、大谷選手は人間として模範的な人物だからです。野球選手の中には、ホームランは打てても、薬物中道患者であったり、飲酒が元で暴力沙汰を起こしたり、子供のころ万引きをして家計を助けていたり、野球選手となって人気が出た後で、いきなり莫大な収入を得たことで、女性関係で乱れていたり、

 つまり、スポーツマンとして尊敬は出来ても、人間として模範的な生き方をして見せる人は限られていたのです。それは野球選手に限らず、多くのスポーツ選手は、ハングリーな暮らしの裏返しでスポーツをしています。

 それは間違った考えではありません。然し、それゆえにアメリカではスポーツ選手を格下の生活者と見る人は多いのです。子供がスポーツ選手になりたいと言い出すと、半分は子供の夢を尊重しつつも、半分は早くその夢が覚めることを心の内で願う親は多かったのです。

 そうした中で突然出てきた大谷選手です。マウンドでのプレーの姿勢も素晴らしいですし、インタビューの話し方も言葉を選んで、実に謙虚です。実際頭がいいのでしょう。

 身長も高く、顔も少女漫画の主人公のようでさわやかです。その生活態度に暗い影がないのです。大きな車も買わないし、高級ないショウも買いません。ごく普通の生活をしています。そうした大谷選手に子供が憧れるなら、親は安心です。

 つまり大谷選手はアメリカ人の普通の生活をする家庭の中で安心して子供に見せられる野球選手なのです。

 

 全米野球ファンは来年の活躍に期待しています。ただし毎回申し上げますが、二刀流は危険です。今回MVP  を取ったのですから、これで一区切りとして、投手としての出番を減らすなどして、自身の健康管理に注意したほうがいいと思います。

 無理を重ね続けていると選手生命が早くに終わります。記録が出せなければ、ファンは簡単に離れて行きます。ここから先は何とか長い選手生命を送れるように自己管理をして行った方がいいと思います。

続く

 

シトロエン一代記 2

シトロエン一代記 2

 

 1919年、シトロエンはA型を発表して瞬く間に大ヒットをし、ルノープジョーなどと並んで一躍フランスを代表する自動車メーカーに成長しました。ところが、販売して気付いたのですが、余りに安価に価格設定したため、少しも利益が出なかったのです。

 多くの人が買える自動車を作りたい、と言う理想が先走ってしまい、経営的には利益が出なかったのです。しかし、他社より遥かに安い車を作ったことでその名は世間の話題となり、宣伝効果としては大成功をします。

 そこで、すぐに1921年にB2を発表し、これも爆発的なヒットをします。今度はしっかり原価計算をして利益が出ました。

 その成功に気を良くしたシトローエンは、奇抜な宣伝を次々に考えます。先ず子供のためにミニカーを販売します。今ではミニカーは何でもないおもちゃですが、自動車を精密に小型に作ったおもちゃはシトローエンが考え出したもので、発売後爆発的な人気を呼びます。以後新車が出るたびに種類を増やして子供たちにシトロエンを認知させて行きます。

 社名をシトローエンから、シトロエンに変更します。シトロエンはシトロン(柑橘系の果物)、に似た響きがあって覚えやすいと言うことでシトロエンと言う社名にします。後には、実際に黄色いボディの車まで作って、シトロンそのものになって販売します。それまでの車は黒ばかりだったものが、黄色い車が出たため町の雰囲気まで一変し、一躍人気になります。

 シトローエンのアイディアは益々冴えわたり、飛行機でCitroënの文字を空に書くことを考えます。こうした広告は今までになく、独創的だったためにこれも話題になります。

 さらにはエッフェル塔を広告塔にすることを思いつき、ネオンサインでCitroënとものすごい太い文字で縦書きのアルファベットのネオンを出しました。この宣伝効果は絶大でした。

 夜にパリの街を歩いていると、どこにいてもシトロエンの文字がキラキラ輝いているのですから。

 実際、リンドバークが飛行機で大西洋横断をした時に、闇夜の中で有視界でパリの街を見つけ出します。そこで有名なセリフ、「翼よあれがパリの灯だ」。と言った話は彼の伝記にも書かれていますが、このリンドバークの言った、「パリの灯」と言うのは間違いなくエッフェル塔に輝くシトロエンの文字だったのです。

 

 更に1925年から、自社の車の耐久性のすばらしさを宣伝するために、サファリラリーを開催します。アフリカのサハラ砂漠を縦断する企画です。砂漠を当時の自動車で縦断すると言うことは無謀な行為であって、誰も達成した人はありません。

 今日までも続いているサファリラリーの発案者はシトローエンです。現代の考えで見たならそう無理な話ではありませんが、ガソリンスタンドもなく、修理工場もなく、砂ばかりの土地で灼熱の太陽のもと、どうやって未成熟だった当時の自動車が砂漠の縦断を果たすのか、それは困難の連続だったのです。それをあえてシトロエンはやってのけたのです。

 この冒険は予想以上の効果を生み、世界中の自動車愛好家から信頼を勝ち取り、縦断を成し遂げたことが会社の性能の高さを実践で示すことになったのです。

 以後、シトロエン社は、様々なラリーを企画して、ゴビ砂漠を超えて、北京まで行くラリーまでやって見せたのです。

 このサファリラリーは今も続けられています。自動車の耐久レースと言う点ではとても重要なラリーなのです。シトローエンの発想が今も続いているのです。

 

 この間にも車は大改良がされて、ボディ全体が一枚の鋼板で成形される車を発表します。これは今では当たり前のことですが、昔の車は、エンジンを納めている鼻先の部分と、人の乗る客車部分は別に作られていました。

 つまり当時の自動車はまだ馬車の形から変化をしていなかったのです。それを鋼板の一体型のボディ。つまり今日の自動車の形に改めています。当時としては画期的な自動車でした。

 さらに、車全体を一切木製を使わず鉄のみのボディを達成しています。現代の感覚からすれば、そんなことは当たり前と考えてしまいますが、床から天井から細部の部品まで鋼板を使い、強度を増した設計になっています。つまり1920年代以降に車は急激に今日の形になって行きます。アンドレシトローエンと言う人は、今日でいうならスティーブンジョブスのような、先駆者であり、経営者として、科学者としての先端を行く人として欧州の中で大いに持てはやされたのです。

 第二次世界大戦前までのフランスでは、約三分の一の自動車がシトロエンで、会社としては欧州最大の自動車メーカーだったのです。世界的に見ても、生産量第一位はアメリカのフォード車で、二位がシトロエンだったのです。今日ドイツ車の影に隠れて、冴えなくなってしまったフランス車の現状を見ると隔世の感があります。

 

 彼は大変なギャンブル好きで、しかもアルコール好き、ナイトクラブにはしょっちゅう出入りして、半端なく遊び続けました。こう書くと成り上がりのスケベ親父の様に思われるかもしれません実際そういう面も多々あったようです。

 然し、同時にシトローエンは、作曲家のモーリスラベルの良きパトロンでもあったのです。当時すでにフランスを代表する作曲家として名を成していたラベルですが、彼は極度の人嫌いで、社交界の類には一切出て来ることはありませんでした。

 彼は身長の低いことに強い劣等感を抱いていて、立って記念写真を撮ることを嫌がりました。パーティーの中にいると一人だけ埋没してしまうため、パーティーも嫌いでした。そのためほとんど外出をしなかったのです。

 然し、人の心を掴むことに長けていたシトローエンとは馬が合い、度々彼のパーティーには出席したようです。シトローエンとラベルの不思議なつながりは長く続きました。

 

 ここまで私が如何にシトロエンが先進的な自動車作りをしてきたかを熱を込めて語りましたが、この先もまだまだ世界に先駆けて独創的なアイディアを発表して行きます。

 ところが、余りに独創的なため、開発費に費用がかかり過ぎ、いつしかシトロエンは儲かっていながら莫大な開発費によって大きな負債を抱え、身動きが出来なくなって行きます。

 その最たるものがトラクシオンアバン(前輪駆動)でした。彼の自動車作りの最大の事業がトラクシオンアバンだったのですが、同時にこの事業が彼の人生を終わらせる結果となりました。トラクシオンアバンとは何か、その話はまた明日。

続く