手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

昭和の東京 2

昭和の東京 2

 

 考えて見ますと、東京オリンピック前までの東京の家庭で、電気製品と言えば、ラジオとアイロン以外なかったように思います。少なくとも私の家も、周囲の友達の家も似たり寄ったりでした。

 少し豊かな家なら、オリンピックを見たいと思って、急遽テレビを買ったり、扇風機を買うくらいのもので、掃除機も洗濯機もありませんでした。

 ここで私が何が言いたいのかと申し上げるなら、東京オリンピックが開催されるまでの東京の生活は、明治大正時代とそう変わっていなかったのです。

 母親は朝起きると障子を開けて、戸板を開けます。障子のある家は今もあるでしょうが、戸板と言うものはあまり見なくなりました。ガラスのサッシが入って、気密性が良くなったため、カーテンをすれば、戸板をする意味はなくなったのでしょうか。私は母親の戸板を開ける音で目が覚めました。

 それから母親は七輪を外に出して、練炭で火をおこします。その火の上に鍋を乗せ、味噌汁を作ります。ガスコンロの上には釜を置き、飯を炊き、朝食の支度をします。

 練炭の火の脇に炭を置き、炭に火をつけて、その火を、火鉢とこたつの中に移していました。電気や石油ストーブと言うものはありませんでした。火鉢です。火鉢には鉄瓶を置き、湯を作ります。この湯は食後にお茶を飲むためのものです。

 こたつも、電機ではなく、真ん中に陶器の行火(あんか)が置いてあり、中に炭を入れました。この行火に足を乗せると、行火の隙間から炭の火花が飛んで靴下に穴をあけてしまいます。実際、靴下やストッキングはよく穴が開きました。行火に直に足を触れてはいけないとよく言われました。

 こうして母親が早起きをすることで部屋が少し暖かくなります。すると家族が起きて来て、茶の間に集まります。

 

 家の掃除は箒(ほうき)と叩き(はたき)と雑巾を使い、すべて手で行っていました。洗濯も盥(たらい)と洗濯板を使って手で洗っていました。夏には盥で行水をしたりもしました。行水をするには、事前に盥に水を張っておき、日向に置いておきます。水がぬるんでから夕方に行水をします、これは子供にとっては楽しみでした。

 夏の夜は蚊帳を吊り、蚊が入らないように蚊帳(かや)の中で家族揃って寝ました。蚊帳の入り方は蚊帳の縁を少しめくって、足腰から入ります。大きくめくって入るとたちまち蚊が入り込みますので、遠慮がちに入ります。一旦中に蚊が入るとなかなか捕まえられず夜中中苦労します。子供にとっては家族揃って蚊帳の中で寝るのは楽しみでした。

 

 こんな昭和30年代の生活を思いつくまま書いていると、落語の世界や、夏目漱石の小説の世界を読んだ時に感じた、明治時代の庶民の生活とあまり変わっていないことに気付きます。実際、電灯とラジオがなければ、ほぼ明治時代と同じだったのです。

 そうなら、昭和30年代に育った私は明治時代がどんな時代だったかを理解できます。夏目漱石の小説を読んでも、過去の小説ではなく、ほぼ現実の生活と受け止めることができたのです。

 但し、オリンピックを境にどんどん生活が変わって行きました。電気釜、冷蔵庫、洗濯機、掃除機、クーラー、次々に新しい電気製品が入ってきて、あっという間に人の生活が変わって行きました。

 外で物売りをする人もいなくなって行きました。豆腐、納豆、アサリ、卵、金魚、風鈴、羅宇(らう=煙管の竹筒の掃除)屋、アイスキャンデー、おでん、焼きいも、夜泣き蕎麦(ラーメン)、いろいろな商売の物売りが普通に家の前の通りに来たのですが、オリンピック以降はいなくなりました。

 東京の家にサッシが入って、クーラーが備え付けられると、気密性を高めるために夏でも窓を締め切ります。すると外の音は聞こえにくくなり、道行く物売りの売り声が聞こえません。金魚屋、風鈴屋さんは夏の熱い盛りにリヤカーにガラス鉢を乗せて、重い荷物を運んで、売り声をかけて歩きますが、もう各家庭には聞こえません。かくして、金魚屋、風鈴屋さんは消えて行きました。

 

 さて、私が子供のころの記憶をたどれば明治までの庶民の生活を想像することが出来ると話しました。私は、もう少し想像力を膨らませたなら、江戸時代の生活が想像できないかと考えます。江戸時代の庶民がどんな生活をして、どんな楽しみ方をしていたのかがわかると、当時の、柳川一蝶斎の手妻がどんな風に見えていたかがわかります。そこから手妻と言うものがどんな世界を目指していたのかがわかってくるわけです。

 

 実際に、私の経験で考えても、私がマジックを覚えた11歳くらいの時代は、お客様のほとんどの人はどんなマジックを見ても不思議がりました。無論、今のお客様もマジックを不思議がって見てくれますが、昭和40年ごろのお客様と今のお客様は不思議がり方が違っていたように思います。

 40年代のお客様はそもそもマジックを見たことがなかったのです。それだけに、新聞と水を見ても、ステッキが花に変わっても、ハンカチの色変わりを見ても、とても不思議がりました。

 マジック以前に子供がタキシードを着て、ステッキを持って出て来ただけで観客席から歓声が上がりました。タキシードもステッキも珍しかったのです。シルクハットなどをテーブルに置いただけで、客席がぞわぞわと騒ぎ出しました。なんとなく持ち物が洗練されたものに見えたようです。子供だった私はそうして大人の興味が集まることが嬉しくて、得意になって見せて回っていました。まだ多くのお客様は芸能を見慣れていなかったのです。

 特に東京は、地方から働きに来ている人が多く、そうした工員さんが工場などで働いているところに、宴会などで招かれると、工員さんはマジックを目の前で見るのが初めての体験で、全く純真に驚いてくれました。

 今考えると、実に単純なマジックを演じても拍手大喝采となりました。3つの色違いのダイスに筒をかぶせて、持ち上げるとダイスの色の順番が変わると言う、それだけのマジックでも十分拍手が取れる時代だったのです。

 昭和40年代は実に芸人にとってやりやすい、暮らしやすい時代でした。実際たくさんのセミプロ、プロが増えて、余興屋さんと言う、今日で言う芸能プロダクションに所属して、あちこちの舞台に出ていました。

 マジックの小道具をデパートで販売し始めた昭和30年代から40年代ですら、そうした簡単なマジックが出来るマジシャンを貴重品のように扱ってくれたのですから、明治、或いは江戸時代のマジシャン、手妻師は専門職として高く認められていたことでしょう。実際当時の手妻師は大きな稼ぎを上げた人がたくさんいたようです。

続く

 

昭和の東京

昭和の東京

 

 今の東京の風景がいつ作られたのか、と考えて見ますと、昭和50年代にはほとんど今の風景になっていたのではないかと思います。つまり、私の20代以降、今日まで、東京はあまり変化していないように思います。

 私がキャバレーに出演するようになった昭和40年代末には、既に新宿や、池袋、渋谷の繁華街は今の通りでしたし。三越伊勢丹高島屋も昭和の初期以来同じ形をして今の場所に立っていました。

 そうなら昭和50年代の形はいつできたのかと考えるなら、東京オリンピックを開催した昭和39(1964)年だったと思います。昭和36年ごろから東京中の道路や、建物が壊されては作り直されて行きました。道は拡張され、その沿道にあった木造の家屋はどんどん壊され鉄筋の建物に変わって行きました。

 当時の東京の表通りにある商店は、看板建築と言う作りで出来ていて、表だけを見ると鉄筋二階建てのビルのように見えますが、実は木造で、表だけ平面にこしらえてあり、一見ビルに見えます。

 この表面だけ工夫を施した店がたくさんあって、凝った家は、漆喰を鏝(こて)を使って、西洋建築のツタの模様や、エンタシスの柱を真似て作ってあったりしました。一見石造り、鉄筋造りに見えます。表は西洋風ですが、裏は普通の木造二階家で、屋根が見えなくなるように表だけ看板で隠して作ってあるのです。

 この表の作りは家を火災から守るためか、モルタルが吹き付けてあったり。ブリキ板で覆っていたり、少し豊かな商店だと銅葺で囲ってありました。銅は年月が経つと緑色に変化し、なかなか重厚な店になります。今でも、神田、日本橋界隈を歩いていると、看板建築の銅葺の家を見ることがあります。昭和初年に立てた商店としては目いっぱい贅沢な家だったわけです。

 こうした看板建築の家が、昭和36年以降、どんどん壊されて、本物のビルに変わって行きます。このころの東京はあちこち建築ラッシュで、いつでも工事が止まりませんでした。

 

 私は、池上に生まれました。繁華街に出るとなると、池上線に乗って蒲田に出ることが多かったのですが、どうしたものか蒲田の西口は整備されず、駅前は広場になっていて、その土地は空襲の後のまま、でこぼこの空き地でした。昭和35,6年なら戦争がすんで15年は経っていましたから、いい加減きれいにしたらいいものを、私の知る限りでは放ったらかしでした。

 その広場には、的屋がたむろしていて、随分いい加減な商売をしていました。伝助賭博や、賭け将棋、中には三本の長さの違う紐を手に持っていて、長い紐を引いた人に3倍の掛け金を払う。などと言うものもありました。試しに引かせると、殆どに人は長い紐を引くのですが、いざ10円賭けると、いとも簡単に短い紐を引いて、10円取られてしまいます。

 マジックをする人ならお分かりと思いますが、3本ロープのマジックです。それを日がな一日見せているだけで結構な稼ぎをあげていたのです。怪しい膏薬売りもいました。幼い私はこの人たちの口上が面白く、日がな一日見ていました。それが今では、植瓜術(しょっかじゅつ)に役立っています。

 

 JRは当時は国鉄と言い、国電蒲田駅から池上線に乗り換えるのに、どうしたものか、廊下の床がなくて、地面に戸板が敷いてあり、なぜか人は戸板の上を歩いて池上線のホームに向かっていました。これが、一度に何百人もの人が戸板の上を歩くためにバタバタとやかましい音がしていたのを覚えています。なぜあの程度の物を何年も放っておいたのでしょうか。

この近辺一の繁華街である鎌田がこれですから、昭和30年代の東京は何とも貧しい風景でした。

 蒲田の駅前には2mほどの高い櫓が組んであって、そこにテレビが置かれていました。夕方になると厳かにテレビの扉が開き、放送が開始されます。テレビは午後は放送されていなかったのです。

 私の記憶している限り、放送されていたのはプロレスで、しかも力道山が出ていました。アメリカのシャープ兄弟とか言う悪役のレスラーを、空手チョップと言うすご技で次々に倒して行きました。今見ると平手で相手をたたくだけですので、あれで外人が倒れるとは思えませんが、当時はいとも簡単に外人が負けたのです。それを通行人がびっしりテレビを取り囲み、熱狂して観戦していました。

 つい15年くらい前まで日本はアメリカと全面戦争をしていたわけですから、そのアメリカ人をやっつける力道山は大スターです。太平洋戦争の屈辱を、力道山が晴らしてくれたわけです。

 そうした風景が消えていったのは、オリンピックの時で、オリンピックのお陰で東京の町が一変しました。都心に高速道路ができ、環7通りは立体交差になり、新幹線が大阪まで出来、羽田の飛行場が、新しいビルになり、海外からの飛行機の発着が飛躍的に伸びました。羽田に着いた乗客は、モノレールで都心まで行けるようになりました。品川の海辺あたりで、新幹線とモノレールと高速道路が並走する場所があり。それを撮った写真が新聞に載っていました。まるで鉄腕アトムに出て来る未来の風景のようでした。

 私は新幹線が出来た時も見に行きましたし、羽田も池上からバスが出ていて、友達を誘ってバスに乗って飛行場まで行きました。世界中の飛行機が発着していて、それは壮観でした。モノレールも見ました。乗ってみたいとは思ましたが、料金が高すぎて乗ることが出来ませんでした。

 この時、子供心に、明らかに日本が変わって行っていると言うことがわかりました。新しいものがどんどんできて行く中で、都電(市電)はほとんど廃止され、町の道路から、あの大きな体が消えて行きました。

 池袋には、トロリーバスが走っていました。外から電気を引き込んで、電気で動くバスです。面白そうなので一度だけ乗りました。乗ってみると別段普通のバスと変わりませんでした。トロリーバスを走らせるために道の上に電線が張り巡らされていて、近所の人にとってはうっとおしかったのでしょうか。昭和40年代には都電と共に消えて行きました。バスがあれば別段なくてもいい乗り物ですが、パンタグラフを付けたバスと言うのが珍しく、何となく宇宙的で、トロリーバスの好きな子供は多かったのではないかと思います。町の変化とともに、普段の生活がどんどん変わって行きました。

続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

澤田隆治先生

澤田隆治先生

 

 一昨日(5月16日)澤田隆治先生がなくなりました。享年88。 

 私が澤田先生から聞いた経歴を記憶の限りつなげて行きますと、澤田先生は富山県で生まれ、幼いころ、お父様の仕事(三井商船と記憶しています)、で、満州か大連に渡り、戦後日本に戻り、神戸大学を卒業し、大阪朝日放送に入ります。そこで与えられた仕事は、ラジオで素人の演芸番組を作ることでした。これが募集をかけるととんでもない数の応募があり、それを一人ずつ見て行くことがそもそもの仕事で、そうした中に、中学生だった横山やすし桂枝雀レッツゴー三匹の正司、ルーキー新一など、その後の演芸界のスターになる人たちがアマチュアでひしめいていたそうです。

 先生は、彼らの台本の手直しまで手伝ったり、番組に出られるように工夫し、番組のスターを作って行きます。と同時に番組自体も様々な工夫を重ねて視聴率も跳ね上がって行きます。

 番組が絶頂の時に、急遽、新規に出きたテレビ局に移るように勧められます。ここで、それまでラジオで培ってきた人脈を生かして、若いお笑い芸人を使って演芸番組を作って行きます。但し、テレビと言うものがどんなものかもわからず、ただ闇雲に番組を作ることになります。然し、社内を見渡しても、新聞社から出向してきた人、ラジオから出向してきた人など様々で、誰一人テレビの専門家などいなかったのです。

 そんな中、手探りで演芸番組を手掛けているうちに、マイクの前で落語を喋るとか、漫談を喋ると言うものが、余りテレビ的でないと言うことに気付いてきます。当時のマイクは、感度が弱いため、例えば落語が人物を仕分ける際も、上手(かみて)、下手を向いて、役を変えることを嫌い、「正面を向いたまま喋って下さい」。などと注文していた時代です。

 ところがこれをテレビに持ってくると、全くテレビ画像に動きが発生せずに、視聴者は動かない写真を眺めているのと同じで退屈に感じてしまいます。

 そこで先生は、「テレビには動きが必要だな」。と気付きます。お笑い番組は、テレビ開局以来人気がありましたが、ラジオとテレビで笑いがどう違うのかが制作者側が気付いていなかったのです。先生は、「テレビの求めている笑いは、素の語りよりも、むしろ喜劇なのではないか」。と気付きます。

 この時代の喜劇の大御所は、榎本健一古川ロッパ、関西では永田キングと言った人たちですが、大阪の放送局が、榎本健一を毎週招いて芝居をすることは、できた当初のテレビ局では予算がなさ過ぎて到底できません。

 そこで、大阪で下済み生活をしているお笑い連中を出すことを考えます。歌手志望の藤田まこと白木みのる財津一郎、素人演芸会のルーキー新一など、全くの新人ばかりを集めて喜劇番組を手掛けます。それがてなもんや三度笠でした。

 これが空前の大当たりをします。大阪のローカル番組で始めたのですが、たちまち全国放送になり、スポンサーの前田のクラッカーも全国的に売れるようになります。内容は歌あり、ギャグあり、立ち回りありで何でもありの30分番組ですが、出演者は一躍スターになって行きます。続いてごろんぼ波止場、スチャラカ社員など立て続けに喜劇を発表して、テレビの喜劇ブームを作ります。一時期は3つの番組の合計視聴率が100%に達し、100%男と異名を取ったそうです。

 やがて先生は、全国放送を作るのに大阪にばかりいては不便であると言うことで、東京に移ります。そして東阪企画を作ります。東京で、ズームイン朝、花王名人劇場などを手掛けます。

 

 花王名人劇場ではお笑いブームを予測して、横山やすし西川きよし明石家さんま、ツービートなどを起用して、一躍漫才ブームを起こします。漫才が大当たりしたことを幸いに、今度はマジックを育てようとして、ミスターサコーを起用し、その後ナポレオンズを育てます。

 その頃に私も何とか使ってもらおうと、何度か会社にお伺いして、接触を図りました。然し、はかばかしい結果は得られませんでした。何しろ、敏腕プロデューサーですから、人を近づけないような威厳がありましたし、生中なことを言うとたちまち論破され、否定されてしまいます。顔つきもライオンのような顔をしていて、恐ろしい人だったのです。そもそもが使われる立場と、使う立場の人ですから、芸人は何一つ意見が言えません。「この人に認められることは簡単なことではないなぁ」。と思いました。

 ところが、私が芸術祭大賞を受賞したときに、先生から電話がかかって来ました。

「いや、芸術祭と言うのはね、奨励賞や新人賞はなんとか取れるんやけどね、大賞と言うのは、落語や講談のような古典芸能以外では取れんのですよ。私はマジックの世界で大賞は永久に無理かと思うていたんや。

 僕も何度かお笑いの番組で芸術祭に参加したんやけどね、奨励賞までは取れたんや。でもね、大賞は取れなかった。それをあなたが全く個人で取ったと言うのはすごい。ぜひお食事を招待したい」。と言ってくれたのです。

 実際レストランに行くと、私の隣に先生が座って、付きっきりで話をしてくれました。以前にお会いしたときの先生とは全く別人でした。そして受賞をまるで自分事のような喜んでくれました。

 先生は、生涯かけて、お笑いの世界で番組を作ってきたのですが、笑いとか喜劇と言う世界がいかに世間で社会的地位が低いか。いや、世間どころか、テレビ局の中ですら、お笑い番組は閑職で、どんなに視聴率をとっても扱いが軽いことを常に嘆いていました。

「歌舞伎からは人間国宝が次々に出るけども、榎本健一さんや、森繁久彌さん、渥美清さんは国宝にはなれん。なぜかと言えば喜劇やからや。そうした点ではマジックも全く同じや。マジックをしている限り、国宝にはなれんのや。でもあんたはすごい。その殻を破ったのや。マジックの世界ではこのことのすごさがわかっていない。三度の芸術祭賞受賞なんて誰も取れん」。

「でも先生、私は、芸術祭賞を取るたびに、奇術界の先輩から嫌われて行きます」。

「それは僕も一緒や、番組が当たるたびに同僚から嫉妬され、邪魔ばかりされてきた。いわれなき中傷をいくらも受けた。若くして成功するものは常に周囲は敵ばかりや。でも負けたらあかん。悪口言う人になるよりも、言われる立場の人のほうが百倍も幸せなんや」。

 その後私のテレビ番組をいくつか作ってくれました。そして、私が大阪文楽劇場でリサイタル公演をするときにはプロデュースを引き受けてくれました。そのブログを書いているさ中、一昨日に死亡の知らせがありました。

 強面のプロデューサーが、実は人一倍悩み、苦しみ、仲間の嫉妬におびえ、指針のない人生を手探りで生きていたのです。偉大な先人に合掌。

澤田隆治先生終わり

 

 

 

コロナはどうなる

コロナはどうなる

 

15日の玉ひで

 一昨日、玉ひでの公演がありました。前半の若手マジシャンのコーナーも定着してきてお客様が楽しみにしています。トップは早稲田康平さん。カードマニュピレーションから、カメレオンハンカチ、ジャンボカードを使ってのあて物。手慣れた演技です。二本目は前田将太のロープ手順、ハンカチロープから三本ロープ、そのあとテーブルクロス引きを一人で演じました。喋りはまだ不慣れですが、よく受けていました。3本目はザッキーさんのハンカチに通うコイン、往年のフレッドカプスを忍ばせます。あまりに地味な手順のため演じる人は少ないのですが、いいマジックです。そのあとはライジングカード。どちらもやり込めば得意芸になるでしょう。

 私は、袖卵、サムタイ、植瓜術(しょっかじゅつ)、間に前田が入って、金輪の曲。取りに蝶のたはむれ。袖卵でいきなり袋の中で卵が割れて、袋を汚してしまいました。こんなことは人生で初めてです。汚れた袋で何とか残りの4つの卵を出しましたが、やりにくかったです。あとはいつもの通り。お客様は満席でした。中にはもう4回見に来ているお客様もいて、つくづく有り難いと思います。来月から2年目になります。継続は力とはこのことです。

 

コロナはどうなる

 結局、緊急事態宣言は解除されずに今月いっぱい延長になってしまいました。私事でいうなら、この延長でいくつかの舞台がなくなりかけています。また、大阪や名古屋の指導もずっと中止したままです。猿ヶ京のマジックの合宿なども延期になってしまいました。

 正直これは大変困ります。多少なりとも国や都から保証が出るならよいのですが、どうも出なそうな気配です。この現状では生活が出来ません。但しこれはみなさん同じでしょう。

 但し、緊急事態宣言を延長したからと言って、それでコロナウイルスが収束するのかと言うと、なかなか難しいのではないかと思います。こんな風に小出しに緊急事態を続けるなら、いっそ法律を変えて、ロックダウンをしたほうが効果はあるでしょう。

 但し、私自身はロックダウンは反対です。でも、こんなあいまいな形の緊急事態宣言なら、まだロックダウンの方がましです。私が思うには、恐らくこのまま緊急事態宣言を延長しても、高い数値で感染者が増えて行くばかりだと思います。その後は、ワクチンの効果が出て来て、徐々に収まって行くのではないかと思います。

 

 今のイギリス型ウイルスが当初のウイルスよりも感染しやすいとは言いますが、だからと言って爆発的な繁殖は考えられません。なぜならば、これまで爆発的なウイルスの繁殖がなかったからです。

 当初、飲食店、劇場、デパートなどが感染源になるからダメで、電車、バスは大丈夫だと言っていましたが、そんな筈はありません。ソーシャルディスタンスの一番守られていないのは通勤電車でしょう。

 山手線、中央線のラッシュは依然として続いています。あの、人と人との顔が20㎝程の距離でぎゅうぎゅう詰めに押し込まれていて、みんなが30分40分同じ車内にいて、それで感染の心配がない。と言うなら、デパートにいようと、劇場にいようと、焼き鳥屋にいようと、どんな状況にいても感染しないはずです。

 結局、この1年4か月。通勤電車はまったく規制をせずに走っています。あれほどの混雑を野放しにして、関東、関西のコロナの感染者が今の程度で済んでいるのは奇蹟の様に思います。すなわち、コロナの感染力と言うのは弱いものなのでしょう。

 実際、世間が大騒ぎをするほどには死者も増えてはいません。ほとんどの死者は、体力のない老人か、重い持病を持った人たちです。そうした人たちは別段コロナでなくても、肺炎でも、インフルエンザでも罹れば亡くなりやすい人たちです。コロナウイルスによって日本人が大幅に死んでいるわけではないのです。

 そうであるなら飲食店などに対する緊急事態宣言も意味がないと思います。劇場もホテルも観光地ももちろん、自粛をする意味はないと思います。

 

 不可解なのは、連日テレビで、自粛を訴えていた医師会の会長が、自ら支援する政治家のパーティーを開いて、人集めをしていました。これでは医師の本心が丸見えです。医師会会長は通り一遍の謝罪をしましたが、本来これで済む話ではありません。然し、謝ってお終いです。私の知る医者のほとんどは、みんな、コロナは風邪だと言っています。医師である手前、「感染に注意しなさい」。とは言いますが、その実みんなコロナは風邪だと思っているのです。

 但し、今回の医師会の会長による自民党議員のためのパーティーは、緊急事態宣言の説得力を著しく貶められました。自民党を支援するパーティーがOKなら何でもOKなはずです。これではますます、国民に自粛を求めるのは難しくなるでしょう。

 

 ただ、何度も申し上げますが、コロナウイルスはそもそも感染しにくいウイルスです。確かに緊急事態宣言をしなければ、感染者は増えるでしょうが、これまで、連日満員電車を走らせていても一日最高3000人程度の感染者だったわけですから、この先も似たり寄ったりの結果になるでしょう。この先は一定のところで高止まりするはずです。

 そして、そのうちにワクチンが広まってきますので、私は案外早くにコロナは収束するのではないかと思います。早くとは言っても、ワクチンが行き渡るのには半年かかりますから、遅くとも年内には収まると思います。

 

オリンピックはどうなる

 そこで、オリンピックですが、とても微妙なところだと思います。私はオリンピックはやったほうが良いと思います。国や都が立候補をして決めたことですから、国際的な信用からも簡単にやめてはいけません。

 反対者は、海外からくる選手や関係者によって、コロナウイルスが運ばれてくることを懸念する人が多いのだと思いますが、検査機関を設けて、医師を配して、万全な状態で大会を運営するわけですから、これは信用して、是非やったらいいと思います。

 観戦チケットを、国内の観客だけの入場にするとか、客席数を減らすこともやむを得ないと思います。それでも何としても開催することは必要です。

 昨年の延期の時点で、今年開催することに決めたのですから、今回やらないという選択肢はないはずです。アスリートもそのための努力をしてきていますし、国も東京都も膨大な費用と、スタッフを使って来たのですから、オリンピックは開催したほうが良いと思います。

続く

 

NHKラジオ深夜便 4

NHKラジオ深夜便 4

 

   翌月には、キョードー大阪本社内で記者会見が行われました。新聞社五社が集まり私へのインタビューです。記者会見で思い出すのは、20年ほど前、種明かし問題でテレビ局を訴えたとき以来二度目のことです。あれは後味の悪い思い出です。でも今回の記者会見は私の芸能に対する評価ですのでとても気分のいいものでした。どこの新聞社も手妻や水芸のことを大きな記事にしてくれて紙面に載せて下さいました。

 会見を終えて、外に出ると外は晴天でした。私はこんなに晴れやかな気持ちで大阪の街を歩いたことはありませんでした。中之島のビル群が皆私の仲間のように見えました。つくづく「人生なんて、誰を知って生きているかで同じ景色でも、全く違って見えるものなんだなぁ」。と知りました。

 一社が私の手妻を新聞記事にしてくれるたびに、すぐに東京の私の事務所にチケットの申し込みが30件くらい集まりました。特に朝日新聞はかなり大きな特集を組んで記事を載せて下さったので、100枚近くチケットが売れました。

 ラジオも効果が大きく、トーク番組に出て、雑談を交えて30分程度話をすると、すぐにチケットの申し込みがありました。ぴあを通してチケットを買ってくださるお客様もあり、一日の文楽劇場の公演チケットはたちまち売れて行きます。

 劇場から「文楽劇場に置いてあったチラシが、足らないからすぐに持ってきてくれ」。などと言う電話がかかって来て、対応が間に合わない状態になってきました。今まで40年以上もリサイタルを開催して来て、こんなことは初めてでした。

 私は生まれて初めて、大きな劇場に出演して、チケットを売ると言うことはどういうことなのかを知りました。自分で切符を売って歩いていてはとても間に合わないのです。多くの人に協力をしてもらいつつ、話題を作ってマスコミが記事にして、その噂をお客様が知ってチケットを探して、初めて800人の劇場が満席になるのです。

 当日は満員御礼となり、当日券を求めてくるお客様をかなりお返しする結果となりました。私の公演で、こんなことは今までなかったことです。せっかく来てくださったお客様には誠に申し訳ない思いでいっぱいでした。

 劇場の担当者さんが、「こんなだったら、3日間くらい開催しても良かったですねぇ」、と言ってくれましたが、それは結果論で、始めは半分も埋まらないんじゃないかと思っていたのですから、満席になっただけでも感謝です。

 

 私の公演が満席だったと言う話はすぐに吉本興行に伝わり、本社内で噂話になっていた。と、あとで澤田先生から伺いました。まさか私の手妻の公演が、吉本興行本社で話題にされるとは思ってもいませんでした。

 そればかりか、キョードー大阪の橋本社長がものすごい気持ちの入れようで手妻を応援しているという噂まで伝わっていました。無論噂は事実ですが、私のたった一日の手妻公演がそんな風に噂になると言うのはむしろ光栄の至りです。

 リサイタルはいつでもそうですが、朝早くに楽屋入りし、機材を搬入して、道具を組み立て、邦楽さんと音のきっかけを打ち合わせをし、そしてリハーサル、ここまでが大体5時に終了し、食事をしているうちに、お客様が楽屋を訪ねて来ます。食事は半分もできないまま、お客様の対応をしながら、小道具のセットをし、舞台周りのチェックをし、衣装を着るともう本番です。まったく休みのないままそれから2時間公演をします。何分出演者裏方、邦楽の演奏家まで総勢20人を東京から引き連れてきています。大阪でお願いしている音響照明、撮影班まで入れると40人近い人が動いています。そうした人たちから何かと私が呼ばれますので、全く体の休まるときがありません。

 さて初の文楽劇場は、私が舞台に現れたときはものすごい拍手でした。考えたなら当然なことで、お客様は私が見たくて来ている人たちですから、声援がものすごいのは当たり前です。でも、800人のお客様から一斉に上がる拍手は迫力が違います。

 特に水芸です。暗転の中、木頭(きがしら)が鳴り響いて、東西東西の掛け声で、舞台がパッと明るくなった瞬間、一面真っ赤な橋の欄干が見えたときに、お客様はものすごい歓声をあげました。この時私は「やった、これで今晩の興行は大成功だ」。と確信しました。

 水芸は幕末期に大坂で活躍した手妻師、養老瀧五郎や、吉田菊五郎が工夫の末に完成させたもので、今の水芸の形式は大阪で出来上がったのです。それを大阪で見ることがなくなったと言うのは残念なことです。何とか大阪の、しかも道頓堀の地で年に一回くらいは水芸が見られるようになったらいいと思って今回、文楽劇場を借りたわけです。

 そうした私の想いを理解してか、お客様は実に熱心に見てくださいます。水芸は後半に行くにしたがって盛り上がり、大水(たいすい)をすべて出し終えると、お客様は熱烈な拍手をしてくださり、それが止まりませんでした。音楽は完全に終わってしまいましたが、やむなく演奏家リタルダンド(繰り返し)をして、拍手が続く限り曲を演奏をし続けてくれました。

 公演が終わった後はロビーに出て、お客様をお見送りしました。大阪のお客様は人懐っこくってなかなか帰ろうとしません。私に一生懸命話しかけてくれます。私もそれが嬉しくて、しばしこの時間を楽しみました。

 殆どのお客様が帰った後、ロビーの奥に橋本社長さんが残っていらっしゃいました。

 「藤山さん客席が一杯になって良かったですねぇ、皆さんとても喜んでいましたよ」。

 「有難うございました。おかげ様で満席になりました。こんなに気持ちの良い舞台は久々でした。皆様のご協力のおかげです」。

 「私も見たいと思っていた水芸が見られて幸せでした。こうした芸能は何としても残さなければいけません。また、困ったときにはいつでも相談に来て下さい。協力しますよ」。

 何ということでしょう。何百回感謝しても足らないほど助けていただいた社長から、また相談に来てくれと言われました。思えば半信半疑で引き受けたNHKラジオ深夜便トークショウの細いご縁が、蜘蛛の糸のごとくここまで伸びて、大きな実を結びました。人の情けは有り難いものです。こんな舞台を体験し、これほどの余韻に浸れる人生を経験したことは最高の幸せでした。

 文楽劇場はその後、翌年にまた公演しました。やはり満席で、この時も水芸をいたしました。有難いことです。本当は今年あたりもう一回文楽劇場で公演したいと考えていたのですが、コロナ禍でどうにもなりません。「やったらきっと大阪のお客様は喜んでくれるだろうなぁ」。と思いつつ、それが果たせないままこうして過去の思い出に浸っています。

NHKラジオ深夜便終わり

 

 今日は玉ひでの舞台がありますので今から出かけます。チケットは完売です。悪しからず。

 

 明日はブログはお休みです。

 

 

NHKラジオ深夜便 3

NHKラジオ深夜便 3

 

 話は前後しますが、10年前に私が京都でどこか定期的に手妻がしたいと言う話をした時に、知人から、京都で和装グッズメーカー山仁の経営者、山本さんを紹介していただきました。山本さんは演芸好きで、年に数度、山本さんのお宅で、地域の人を集めて寄席を催していました。山本さんのお宅は大変古い町家で、京都市文化財に指定されています。その家の大広間のふすまを取り払って、50人ほど人を集めて落語会を開いていました。

 その企画に私も入れていただいて、年に一回、合計3年ほど手妻をいたしました。お家も雰囲気も申し分ありません。山本さんは人集めから、食事まで献身的にご支援下さいました。とても有り難いことでした。然し、ご自宅で、善意で寄席をしているのですから、私が毎月一回公演することは無理です。

 そこで、何とか毎月一回の公演が出来るようなの座敷はないかと、山本さんにお世話になりつつも、あちこち売り込みを続けました。然し、うまく行きません。歌舞練場での開催も、場所を借りる段取りをして、国から補助金が下りるところまで話が進みましたが、余りに接待費や、謝礼などに費用が掛かりすぎるために急遽取りやめました。

 東京に戻って.対策を練り直しました。まず、文化庁に問い合わせると、会場は京都でなくてもいいと言うことでした。そこで京都を諦めて大阪国立文楽劇場を予約しました。座席数は800です。ここは以前から出てみたいと思っていた劇場です。

 実は、大阪では何年か前にリサイタル公演をしていました。場所は、なんばグランド花月の向かいの、ワッハ上方と言う劇場で、席数350人。小さいですが素晴らしいつくりの劇場でした。3年間定期的に公演しましたが、その後、大阪市の経営難から劇場自体が閉鎖されてしまいました。

 以来、大阪での公演はなくなってしまったのです。でも、その時に私の公演に通ってくれたお客様の名簿があります。大阪で公演するなら、100人や200人は愛好家が集まるでしょう。そこで思い切って文楽劇場を借りてみることにしました。

 然し、借りてみたものの、文楽劇場を満席にする自信がありません。そこで、大阪で抜群の知名度のあるTVプロデューサーの澤田隆治先生に相談をしました。すると先生は、まず国立文楽劇場を借りたことをほめてくれました。

 「国立劇場で公演するとは随分思い切った企画だね。文楽劇場ならばみんな注目してくれる。いい宣伝になる」。

と言って、すぐに地元の有力者を何人か紹介してくれました。南の商店会の会長さんの千田さんや、お好み焼きのチェーン店の社長の中井さんなどに話をしてくれました。翌月。私は大阪の手妻の指導の後、ラフなチラシを作成して、大阪市内にある会社の挨拶回りをしました。京都の閉鎖的な対応とは打って変わり、大阪は話が早く、たちまち協力が得られました。

 無論、澤田先生の応援ばかりに頼っていてはいけません。自分自身でも何とかお客様を開拓しなければいけません。マジックショップや、マジッククラブの会長さんに声をかけて、ポスターを張ってもらったり、チラシを配ってもらうように話をしました。マジックリン古林さんと仰るマジックショップのオーナさんは、積極的に支援して下さいました。真田豊実さんは、ワッハ上方の公演以来、度々切符を引き受けてくれました。然し、殆どは訪ねて行ってもうまく行きません。

 指導の合間に、こまめにマジックショップを訪ねて、ポスターを張らせてもらい、チラシを置き、さて、「チケットを10枚預かってくれますか」。と話をすると、ショップのオーナーは下を向いて考え込んでしまいます。「10枚ですかぁ」。「いや、買ってくださいと言うのではありません。置かせてくれますかと申し上げているのです」。「10枚ねぇ」。しかたなく「じゃぁ5枚」。「5枚ねぇ」。と下を向いてしまいます。

 この時私は、自分の置かれている立場を理解しました。頼ってはいけない人たちをひたすら訪ね歩いていたのです。多くは自分の店を維持するのに精一杯の人たちです。そこを頼ること自体が無理なのです。大阪の路地裏にあるマジックショップを訪ね歩きながら私は考えました。

 「60歳を過ぎて、自分のリサイタルのチケットを自分で売り歩かなければならない。結局これまで生きてきた実績など何もないに等しいんだなぁ」。

 と、悟りました、と同時に、諦めているばかりではいけません。こうした時に、どうしたら人生を好転できるだろうか。とひたすら考えました。

「もし、私の人生をスティーブ・ジョブズが歩んだとしたなら、彼ならどんな風に生きるだろう。彼も大阪の細い路地を切符を持って売り歩くだろうか」。

自分はどこか自分が間違った生き方をしているのではないかと思いました。

 

 その時、ふと、キョードー大阪の橋本福治社長のことが思い出されました。相談すれば協力していただけるかもしれません。いやいや、私のような、大した技量もない手妻師など応援してくれるわけがない。お願いするだけ無駄だ。そう思いましたが、でも、もしやと思い、東京に戻ってすぐに手紙を書きました。

 するとすぐに橋本社長さんから直筆で、丁寧なご返事が来たのです。内容は、「支援をしたいから、来月会社に来てください」。と書いてあります。

 翌月、キョードー大阪の本社に行って驚きました。会議室に通されると、そこには社長から専務から部長から、営業部長から、役員の皆さんが並んで待っていてくれたのです。何事かわかりませんが、橋本社長さんが仰るには、

「支援します。さっそく宣伝活動をしましょう。先ず新聞社5社を集めて、プレス会見をします、場所はここでいいですか。そしてテレビ局に声をかけて、宣伝のできる番組に出演してもらって文楽劇場の宣伝をかけます。朝日放送系列でいいですか。来月から本番までの、大阪に来る日を知らせてください。その間にテレビやラジオのスケジュールを作って宣伝をかけますから」。

 あまりの突然な話に、ただただ驚くばかりです。私は、

 「いや、それほど大きく宣伝していただかなくても、あの、私の方でできるお礼はわずかしかできませんが」。「結構です。そんなことはどうでもいいのです。とにかく劇場がいっぱいになるように私の方でも動いてみます」。

 なんと言うことでしょう。一か月前までは、自分で大阪の路地裏をチケットとポスターを持って売り歩いて、5枚のチケットすら断られて、どうしていいか悩んでいたのに、この日は、大きな本社の会議室で、役員全員を集めてマスコミを使っての大々的な広報の話です。人生が180度ひっくり返った瞬間でした。

続く