手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

昭和の東京

昭和の東京

 

 今の東京の風景がいつ作られたのか、と考えて見ますと、昭和50年代にはほとんど今の風景になっていたのではないかと思います。つまり、私の20代以降、今日まで、東京はあまり変化していないように思います。

 私がキャバレーに出演するようになった昭和40年代末には、既に新宿や、池袋、渋谷の繁華街は今の通りでしたし。三越伊勢丹高島屋も昭和の初期以来同じ形をして今の場所に立っていました。

 そうなら昭和50年代の形はいつできたのかと考えるなら、東京オリンピックを開催した昭和39(1964)年だったと思います。昭和36年ごろから東京中の道路や、建物が壊されては作り直されて行きました。道は拡張され、その沿道にあった木造の家屋はどんどん壊され鉄筋の建物に変わって行きました。

 当時の東京の表通りにある商店は、看板建築と言う作りで出来ていて、表だけを見ると鉄筋二階建てのビルのように見えますが、実は木造で、表だけ平面にこしらえてあり、一見ビルに見えます。

 この表面だけ工夫を施した店がたくさんあって、凝った家は、漆喰を鏝(こて)を使って、西洋建築のツタの模様や、エンタシスの柱を真似て作ってあったりしました。一見石造り、鉄筋造りに見えます。表は西洋風ですが、裏は普通の木造二階家で、屋根が見えなくなるように表だけ看板で隠して作ってあるのです。

 この表の作りは家を火災から守るためか、モルタルが吹き付けてあったり。ブリキ板で覆っていたり、少し豊かな商店だと銅葺で囲ってありました。銅は年月が経つと緑色に変化し、なかなか重厚な店になります。今でも、神田、日本橋界隈を歩いていると、看板建築の銅葺の家を見ることがあります。昭和初年に立てた商店としては目いっぱい贅沢な家だったわけです。

 こうした看板建築の家が、昭和36年以降、どんどん壊されて、本物のビルに変わって行きます。このころの東京はあちこち建築ラッシュで、いつでも工事が止まりませんでした。

 

 私は、池上に生まれました。繁華街に出るとなると、池上線に乗って蒲田に出ることが多かったのですが、どうしたものか蒲田の西口は整備されず、駅前は広場になっていて、その土地は空襲の後のまま、でこぼこの空き地でした。昭和35,6年なら戦争がすんで15年は経っていましたから、いい加減きれいにしたらいいものを、私の知る限りでは放ったらかしでした。

 その広場には、的屋がたむろしていて、随分いい加減な商売をしていました。伝助賭博や、賭け将棋、中には三本の長さの違う紐を手に持っていて、長い紐を引いた人に3倍の掛け金を払う。などと言うものもありました。試しに引かせると、殆どに人は長い紐を引くのですが、いざ10円賭けると、いとも簡単に短い紐を引いて、10円取られてしまいます。

 マジックをする人ならお分かりと思いますが、3本ロープのマジックです。それを日がな一日見せているだけで結構な稼ぎをあげていたのです。怪しい膏薬売りもいました。幼い私はこの人たちの口上が面白く、日がな一日見ていました。それが今では、植瓜術(しょっかじゅつ)に役立っています。

 

 JRは当時は国鉄と言い、国電蒲田駅から池上線に乗り換えるのに、どうしたものか、廊下の床がなくて、地面に戸板が敷いてあり、なぜか人は戸板の上を歩いて池上線のホームに向かっていました。これが、一度に何百人もの人が戸板の上を歩くためにバタバタとやかましい音がしていたのを覚えています。なぜあの程度の物を何年も放っておいたのでしょうか。

この近辺一の繁華街である鎌田がこれですから、昭和30年代の東京は何とも貧しい風景でした。

 蒲田の駅前には2mほどの高い櫓が組んであって、そこにテレビが置かれていました。夕方になると厳かにテレビの扉が開き、放送が開始されます。テレビは午後は放送されていなかったのです。

 私の記憶している限り、放送されていたのはプロレスで、しかも力道山が出ていました。アメリカのシャープ兄弟とか言う悪役のレスラーを、空手チョップと言うすご技で次々に倒して行きました。今見ると平手で相手をたたくだけですので、あれで外人が倒れるとは思えませんが、当時はいとも簡単に外人が負けたのです。それを通行人がびっしりテレビを取り囲み、熱狂して観戦していました。

 つい15年くらい前まで日本はアメリカと全面戦争をしていたわけですから、そのアメリカ人をやっつける力道山は大スターです。太平洋戦争の屈辱を、力道山が晴らしてくれたわけです。

 そうした風景が消えていったのは、オリンピックの時で、オリンピックのお陰で東京の町が一変しました。都心に高速道路ができ、環7通りは立体交差になり、新幹線が大阪まで出来、羽田の飛行場が、新しいビルになり、海外からの飛行機の発着が飛躍的に伸びました。羽田に着いた乗客は、モノレールで都心まで行けるようになりました。品川の海辺あたりで、新幹線とモノレールと高速道路が並走する場所があり。それを撮った写真が新聞に載っていました。まるで鉄腕アトムに出て来る未来の風景のようでした。

 私は新幹線が出来た時も見に行きましたし、羽田も池上からバスが出ていて、友達を誘ってバスに乗って飛行場まで行きました。世界中の飛行機が発着していて、それは壮観でした。モノレールも見ました。乗ってみたいとは思ましたが、料金が高すぎて乗ることが出来ませんでした。

 この時、子供心に、明らかに日本が変わって行っていると言うことがわかりました。新しいものがどんどんできて行く中で、都電(市電)はほとんど廃止され、町の道路から、あの大きな体が消えて行きました。

 池袋には、トロリーバスが走っていました。外から電気を引き込んで、電気で動くバスです。面白そうなので一度だけ乗りました。乗ってみると別段普通のバスと変わりませんでした。トロリーバスを走らせるために道の上に電線が張り巡らされていて、近所の人にとってはうっとおしかったのでしょうか。昭和40年代には都電と共に消えて行きました。バスがあれば別段なくてもいい乗り物ですが、パンタグラフを付けたバスと言うのが珍しく、何となく宇宙的で、トロリーバスの好きな子供は多かったのではないかと思います。町の変化とともに、普段の生活がどんどん変わって行きました。

続く