手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

昭和の東京 2

昭和の東京 2

 

 考えて見ますと、東京オリンピック前までの東京の家庭で、電気製品と言えば、ラジオとアイロン以外なかったように思います。少なくとも私の家も、周囲の友達の家も似たり寄ったりでした。

 少し豊かな家なら、オリンピックを見たいと思って、急遽テレビを買ったり、扇風機を買うくらいのもので、掃除機も洗濯機もありませんでした。

 ここで私が何が言いたいのかと申し上げるなら、東京オリンピックが開催されるまでの東京の生活は、明治大正時代とそう変わっていなかったのです。

 母親は朝起きると障子を開けて、戸板を開けます。障子のある家は今もあるでしょうが、戸板と言うものはあまり見なくなりました。ガラスのサッシが入って、気密性が良くなったため、カーテンをすれば、戸板をする意味はなくなったのでしょうか。私は母親の戸板を開ける音で目が覚めました。

 それから母親は七輪を外に出して、練炭で火をおこします。その火の上に鍋を乗せ、味噌汁を作ります。ガスコンロの上には釜を置き、飯を炊き、朝食の支度をします。

 練炭の火の脇に炭を置き、炭に火をつけて、その火を、火鉢とこたつの中に移していました。電気や石油ストーブと言うものはありませんでした。火鉢です。火鉢には鉄瓶を置き、湯を作ります。この湯は食後にお茶を飲むためのものです。

 こたつも、電機ではなく、真ん中に陶器の行火(あんか)が置いてあり、中に炭を入れました。この行火に足を乗せると、行火の隙間から炭の火花が飛んで靴下に穴をあけてしまいます。実際、靴下やストッキングはよく穴が開きました。行火に直に足を触れてはいけないとよく言われました。

 こうして母親が早起きをすることで部屋が少し暖かくなります。すると家族が起きて来て、茶の間に集まります。

 

 家の掃除は箒(ほうき)と叩き(はたき)と雑巾を使い、すべて手で行っていました。洗濯も盥(たらい)と洗濯板を使って手で洗っていました。夏には盥で行水をしたりもしました。行水をするには、事前に盥に水を張っておき、日向に置いておきます。水がぬるんでから夕方に行水をします、これは子供にとっては楽しみでした。

 夏の夜は蚊帳を吊り、蚊が入らないように蚊帳(かや)の中で家族揃って寝ました。蚊帳の入り方は蚊帳の縁を少しめくって、足腰から入ります。大きくめくって入るとたちまち蚊が入り込みますので、遠慮がちに入ります。一旦中に蚊が入るとなかなか捕まえられず夜中中苦労します。子供にとっては家族揃って蚊帳の中で寝るのは楽しみでした。

 

 こんな昭和30年代の生活を思いつくまま書いていると、落語の世界や、夏目漱石の小説の世界を読んだ時に感じた、明治時代の庶民の生活とあまり変わっていないことに気付きます。実際、電灯とラジオがなければ、ほぼ明治時代と同じだったのです。

 そうなら、昭和30年代に育った私は明治時代がどんな時代だったかを理解できます。夏目漱石の小説を読んでも、過去の小説ではなく、ほぼ現実の生活と受け止めることができたのです。

 但し、オリンピックを境にどんどん生活が変わって行きました。電気釜、冷蔵庫、洗濯機、掃除機、クーラー、次々に新しい電気製品が入ってきて、あっという間に人の生活が変わって行きました。

 外で物売りをする人もいなくなって行きました。豆腐、納豆、アサリ、卵、金魚、風鈴、羅宇(らう=煙管の竹筒の掃除)屋、アイスキャンデー、おでん、焼きいも、夜泣き蕎麦(ラーメン)、いろいろな商売の物売りが普通に家の前の通りに来たのですが、オリンピック以降はいなくなりました。

 東京の家にサッシが入って、クーラーが備え付けられると、気密性を高めるために夏でも窓を締め切ります。すると外の音は聞こえにくくなり、道行く物売りの売り声が聞こえません。金魚屋、風鈴屋さんは夏の熱い盛りにリヤカーにガラス鉢を乗せて、重い荷物を運んで、売り声をかけて歩きますが、もう各家庭には聞こえません。かくして、金魚屋、風鈴屋さんは消えて行きました。

 

 さて、私が子供のころの記憶をたどれば明治までの庶民の生活を想像することが出来ると話しました。私は、もう少し想像力を膨らませたなら、江戸時代の生活が想像できないかと考えます。江戸時代の庶民がどんな生活をして、どんな楽しみ方をしていたのかがわかると、当時の、柳川一蝶斎の手妻がどんな風に見えていたかがわかります。そこから手妻と言うものがどんな世界を目指していたのかがわかってくるわけです。

 

 実際に、私の経験で考えても、私がマジックを覚えた11歳くらいの時代は、お客様のほとんどの人はどんなマジックを見ても不思議がりました。無論、今のお客様もマジックを不思議がって見てくれますが、昭和40年ごろのお客様と今のお客様は不思議がり方が違っていたように思います。

 40年代のお客様はそもそもマジックを見たことがなかったのです。それだけに、新聞と水を見ても、ステッキが花に変わっても、ハンカチの色変わりを見ても、とても不思議がりました。

 マジック以前に子供がタキシードを着て、ステッキを持って出て来ただけで観客席から歓声が上がりました。タキシードもステッキも珍しかったのです。シルクハットなどをテーブルに置いただけで、客席がぞわぞわと騒ぎ出しました。なんとなく持ち物が洗練されたものに見えたようです。子供だった私はそうして大人の興味が集まることが嬉しくて、得意になって見せて回っていました。まだ多くのお客様は芸能を見慣れていなかったのです。

 特に東京は、地方から働きに来ている人が多く、そうした工員さんが工場などで働いているところに、宴会などで招かれると、工員さんはマジックを目の前で見るのが初めての体験で、全く純真に驚いてくれました。

 今考えると、実に単純なマジックを演じても拍手大喝采となりました。3つの色違いのダイスに筒をかぶせて、持ち上げるとダイスの色の順番が変わると言う、それだけのマジックでも十分拍手が取れる時代だったのです。

 昭和40年代は実に芸人にとってやりやすい、暮らしやすい時代でした。実際たくさんのセミプロ、プロが増えて、余興屋さんと言う、今日で言う芸能プロダクションに所属して、あちこちの舞台に出ていました。

 マジックの小道具をデパートで販売し始めた昭和30年代から40年代ですら、そうした簡単なマジックが出来るマジシャンを貴重品のように扱ってくれたのですから、明治、或いは江戸時代のマジシャン、手妻師は専門職として高く認められていたことでしょう。実際当時の手妻師は大きな稼ぎを上げた人がたくさんいたようです。

続く