手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

昔の老人

昔の老人

 

 老人とはそもそもが昔の人ですが、私が子供のころに見た老人と今の老人は随分違う人たちでした。それは話し方も、着ている服も、生活の仕方も、何から何まで子供とは違う人種に見えました。それだけに、子供のころは、年寄りと言う人種がいて、自分はそうした人にはならなものなのだと思い込んでいました。

 私が小学校に入ったのは昭和35年です。東京大田区の池上小学校です。今でも池上と言う町は、日蓮宗の本門寺があって、更にその末寺がたくさん並んでいて、お寺ばかりが目立つ町です。

 そのためか池上は昔も今もほとんど変わりません。閑静な町と言えば聞こえはいいのですが、およそ発展しない町です。そもそも池上線自体が地味で、同じ東急電鉄でも、東横線が華やいで見えるのに、池上線はおよそ話題になりません。

 若い男女が自由が丘で待ち合わせをするドラマはあり得ても、千鳥町や、洗足池で待ち合わせをして池上線に乗ってデートをするドラマを見たことがありません。私が子供の頃に乗った池上線は、どれも戦前に作られた車両で、内部は木製でした。外は鉄板を鋲で止めてあり、見るからに古い作りでした。急行も快速もありませんでした。

 祖父母も同じ池上で暮らしていましたので、幼いころは池上から外に出ることはあまりありませんでした。

 

 そのころ年寄りと言うと、みんな明治生まれでした(昭和35年の頃は昭和生まれの人はみんな若かったのです)。大正生まれでもまだ老人ではありませんでした。

 祖母は毎日着物を着ていましたし、祖父も職人でしたが、仕事から帰ると丹前(たんぜん)を着て、煙管(きせる)で煙草をふかしていました。私の親父ですら、家に帰ると丹前を着ていました。

 私は普段でも着物を着ますが。丹前は着たことがありません。分厚い綿の入った着物で、まるでこたつ布団で着物を作ったような作りでした。色は茶か紺、太い縞柄が多く、子供心に年寄り臭く思いました。

 小津安二郎監督の映画を見ると、当時のお父さんが家に帰るとワイシャツネクタイを脱いで丹前に着かえ、茶の間で新聞を読んでいる姿がよく出て来ます。サザエさんの漫画でも波平さんが来ている着物は丹前ではないかと思います。あの姿は昭和30年40年代までは普通に見る風景だったのです。

 丹前は、角帯のようなしっかりした帯は締めず、兵児帯(へこおび)か、腰ひもで結んで、たった一本の紐で着付けていますので、体は楽だったのでしょう。同様に、褞袍(どてら)と言う着物も聞いたことがあります。

 新国劇のやくざ者の芝居などを見ると、やくざの親分が着物の上に褞袍を羽織って、帯も締めずに、まるで花嫁姿の打掛のようにぞろっと引きずって奥の部屋から出てくる姿があります。昔は部屋の中が寒かったので、ああした綿入れが欠かせなかったのでしょう。然し、袖が大きく、裾を引きずっていますから何も仕事はできません。仕事をしなくてもいい人の衣装だったのでしょう。私は長いこと紐で結ばない、羽織る綿入れを褞袍と言うのかと思っていましたが、丹前も褞袍も同じものだそうです。何にしても丹前も褞袍も昭和40年代には消えたようです。

 丹前は、いわばナイトガウンです。今のガウンよりもずっと暖かく、しかも色柄が斬新です。丹前を復活させて、丹前を着る文化をもう一度見直したら、案外流行るかも知れません。先ず、複雑な帯の結びが必要ありませんし、簡単に脱げて風呂に入ったり、パジャマに着替えることが出来ますから、浴衣よりもはるかに便利です。

 要は、センスのいい柄を選んで、誰か二枚目のスターに着せたなら、きっと流行ると思います。

 

 祖母の着物姿は毎日見ていましたが、今の着物の着付けとはずいぶん違いました。先ず前の合わせ方が今よりずっと浅いのです。今の着物の着付けは言ってみればお姫様に着方です。襦袢の襟と着物の襟を首のすぐ下できっちり合わせて着付けます。きれいに着てはいますが、あれでは前が重なりすぎて足が動かしにくく、歩きにくいでしょう。

 昔の年寄りは、もっと浅く着ていて、襟は帯までざっくり開いていたように記憶します。帯も、ゆるく結んであって、全体が緩かったように思います。なんで私が祖母の着物の着方が浅かったことを覚えているのかと言うと、私は祖母とよく昼寝をしました。その時よく着物に手を入れて、おっぱいを掴んでいたそうです。

 「この子はいつまでも赤ちゃんだよ」。と言って祖母が笑っていたそうです。おっぱいを簡単につかめるのは襟のあわせが浅かった証拠です。祖母の髪形は適当に後ろで縛っていたように思いますが、祖母の仲間はもう少し日本髪らしく結っている人もいたように思います。但し髪結いはもうこの時期にはいなかったと思います。何にしても子供が見ると不思議な髪形でした。

 家事をしているときには、手ぬぐいを頭に巻いて、姉さん被りをしてはたきなどをかけていました。舞踊で姉さん被りを見ると、実に粋な感じがしますが、日常の姿はただ手ぬぐいを巻いただけですから、いいも悪いもありません。

 さらに着物の襟を汚さないように襟に手ぬぐいを折ってかぶせてありました。買い物に行くときには割烹着を上から着て、草履をはいて、買い物かごを片腕にかけて出かけて行きました。

 夕方に池上の商店街に行くと、そんな恰好をした主婦がたくさん歩いていて、通りは割烹着の白一色でした。知人と顔を合わせると、道の真ん中で何十分も世間話をしていました。当時は家に冷蔵庫のある家庭も少なかったので、毎回の買い物をする量はわずかで、卵は一個二個と買っていましたし、豆腐や油揚げは半丁半枚で買う人もいました。味噌汁の具にするだけなら半丁半枚で十分だったのでしょう。庶民の暮らしはつましかったのです。

 夏の浴衣(ゆかた)も、お中元やお歳暮で、もらった手ぬぐいを8枚か9枚集めると、一着浴衣が縫えました。私の親父が、手ぬぐいで縫い合わせた浴衣を漫談のネタにして、「胸のところは、秩父セメント(乳のしゃれ)の手ぬぐいで、お尻のところは東京ガスって染めてあった」。などと言っていました。それが笑いになるくらいだから、手ぬぐいを集めて浴衣を作るのは普通のことだったのでしょう。今そんな浴衣を着る人はいません。

 

 私が近所にお使いに行ったときなどには「お駄賃をあげよう」。と言って小遣いをくれました。お駄賃と言う言葉も今となっては年寄り言葉で、絶えて久しく思います。

 そのお駄賃は大概が十円でした。昭和35年の十円の威力は大したもので、森永のキャラメルも、グリコのおまけつきのキャラメルも、今川焼も十円、池上線の初乗りは子供五円。池上から蒲田まで往復で十円でした。明治製菓の茶色い包装紙の板チョコは二十円か三十円したと思います。子供の憧れでしたが、お駄賃では買えなかったのです。

 私が11歳で初めて舞台に立って、ギャラをもらった時に最初に買ったものは明治の板チョコでした。自分の働きで買えたチョコを一枚全部独りで食べたときは幸せでした。

続く

何とかなるさ

何とかなるさ

 

またも緊急事態宣言か

 さて、政府や自治体は緊急事態宣言を実施しそうな気配です。意味のあることとは思えません。結局、緊急事態宣言を出して、半月、或いは、一か月、人の流れを止めるだけで、解除すればまた感染者は増えます。一時的に感染者の数値を減らすことはできても、感染者を根絶することはできません。結果コロナを長引かせるだけにしかすぎません。

 しかも、緊急事態の規制は飲食店や観光地を名指しで制限します。今まで何とか命脈を保ってきた観光業者も、飲食店も、この先になるといよいよ立ち行かなくなって行くでしょう。

 更に今度は学校です。大学は既に休校の状態で、それが小中学校にまで及ぶと言うと、また昨年同様の自宅待機が繰返されます。勉強も人とのつながりも分断されて行きます。あれはやってはいけないことです。

 

 何度も申し上げますが、コロナを過大にとらえすぎています。多くの人にとっては感染してもほぼ風邪と同じ症状です。ごく一部の体力の衰えた老人や、持病のある人が感染すると症状は悪化しますが、それは風邪もインフルエンザも、肺炎も同じことです。

 大阪で感染者が1000人を超えたから緊急事態宣言を出そうと騒いでいますが、1000人の感染者が、放っておけば10000人になるだろうと言うのはあり得ない話です。なぜあり得ないかと言えば、過去の1年4か月のデーターを見たならわかります。少し増えれば、また減って行き、それを繰り返しています。

 一時的には感染者が増えても、この先陽気が良くなれば収束します。昨年の推移を見ればよくわかると思います。なおかつ、ワクチンが徐々にではありますが普及しつつあります。方向は悪くはなっていないと思います。

 日本で生活する限り、この数値から極端な方向には進まないはずです。人に不安を煽るのではなく、極力日常の生活に戻ろことを心掛けるように政府も指導しないと、人の心がすさんで行きます。

 

 先の時代の読めない昨今ですが、確実に言えることは、この先のことは医者も政治家も、マスコミも、新聞も、誰にもわからないと言うことです。そうであるなら、何があっても自分で判断を立てて、自分の人生にとって、それがいいことか、間違ったことかを自分なりに判断を立てて、生きて行くほかはありません。

 テレビや、新聞に書かれたことを鵜呑みにしないことです。政治家も、医者もあてにはなりません。ましてやコメンテーターなどと言う人たちは全く信用できません。あくまで自分の判断が大切です。

 

 地震は大丈夫か

 このところ頻繁に地震があります。しかも、日本中あちこちで地震が頻発しています。どうも要約してみると、地震は日本の中でも四か所に絞られます。一つは仙台沖。二つ目は伊豆半島沖、三つめは奄美大島近辺。もう一つは茨城県沖。

 

私の家は東西南北がきっちり区画されているようで、仙台沖の地震の時には、南北に揺れます。伊豆沖でもやはり南北に揺れますが、揺れ方は穏やかです。

茨城県になると、建物が東西に揺れます。距離的にもこれが一番近いらしく、揺れが大きいのが特徴です。奄美諸島地震はまったく揺れを感じません。

 グラグラっと揺れが来ても、揺れの方角で、大体どこの地震かがわかるようになりました。危険だなとか感じるのは茨城県から起こる東西の揺れの地震です。家がきしむような揺れ方をします。これが来ると素早く窓やドアを開放します。

 昨年五月の時も、大地震が来るのではないかと言う予感がしました。予感は当たりませんでした。しかし今年はそうした予感はまだありません。但し、こうも頻繁に地震が来ると不安になります。そこで火災保険をかけなおすことにしました。自宅と猿ヶ京の倉庫の両方です。

 今私の持っているマジックや手妻の装置は、焼けてしまうともう二度と作り直すことはできません。ゼロから起こすとなるともう私自身の気力が起こらなくなるでしょう。せめて再生する費用だけでもあればまだ何とかなりますが、資金もなくなれば終わりです。

 大地震が来るかどうかと言うことは、全くわかりません。これは誰も読めないことです。でも、来ないとは言い切れません。願わくばオリンピックのさなかに来ないことを願います。

 

 オリンピックを成功させよう

 今年のオリンピック開催は日本にとっても試練となりました。どれほど規模が縮小されても、とにかくオリンピックが開催されたならそれは有意義だと思います。逆に、何らかの理由で開催されないとなると、いろいろな意味で世界全体に陰りが生まれます。

 誰もが良かれと思って努力をしていることが達成できないと言うのは不幸です。努力をしている人がいるならそれを周囲の人は認めて讃えるべきです。聖火ランナーも、「あまりみんなが集まって、騒ぎ立てないように」。などとテレビで言っている人がありますが、何を言っているのでしょう。

 近くに来たならみんなで応援すべきですし、拍手喝さいで迎えるべきです。やるならやる、やらないならやらない、やるとなったらみんなで支援すべきです。オリンピックが自国で開催されると言うことは極めて希少な経験です。ぜひとも何らかの形でオリンピックにかかわって、経験として残すべきです。子供たちにもそれを体験してもらうようにしたらよいでしょう。

 

 私も10歳の時に社会科見学で、バスに乗って、代々木体育館を見に行った記憶があります。私などは大田区の池上に住んでいて、周囲は寺ばかりの町でしたので、丹下健三さんの作った建物はあまりに斬新で、この世のものとは思えないような、まるで手塚治虫の漫画の世界の宇宙基地のように見えました。

 今考えても、昭和39年にあのようなデザインを描いて見せ、しかもそれを実際作ってしまったと言うのはすごい才能だと思います。オリンピックにしろ、万博にしろ、国を挙げてのイベントは、常識では考えられないような巨大で、奇抜な作品を見ることができます。ぜひ子供たちに、家に閉じこもってばかりいないで。日本に生まれたことのすばらしさを体験させてあげましょう。それは得難い体験なのです。

続く

顔 2

顔 2

 

 プロマジシャンの価値は顔です。長くマジシャンを続けていると、マジシャンらしい顔になって行くのです。これはアマチュアでは達成できません。アマチュアでマジックがうまい人はたくさんいますが、技は素晴らしくても、顔がマジシャンではないのです。 

 一つの仕事を続けていれば、教師は教師の顔になって行きますし、医者は医者の顔になって行きます。医者が趣味でマジックをしても、顔は医者です。それでいいのです。アマチュアは本業を長く続けていれば、本業の顔になって行くのは当然なのです。アマチュアは本業を大切にすべきです。むしろ医者であるのにマジシャンの顔をしていたら変です。

 

 ただし、プロが気を付けなければいけないことは副業です。今の時代のように、コロナで舞台活動が出来ないとなると、ほかに仕事をしなければ生きては行けません。何らかのアルバイトをすることは致し方のないことです。

 然し、そのアルバイトを長く続けていると、徐々に体に染みついて行きます。コンビニで働いていればコンビニの店員になって行きますし、飲食店でアルバイトをしていれば飲食店の店員になって行きます。

 自称俳優だと言う人は私の周囲にもいますが、そうした人と一緒にいると、動作が何となく居酒屋の店員を思わせるとか、コンビニの店員をのような人がいます。それは長時間話をしていると、顔や動作に出てきます。

 自称俳優に、年間何日俳優をしているのかと尋ねると、自主公演を年に二回開き、その都度、一か月稽古をして、本番を三日すると言います。つまり俳優は年に二か月しかしていないのです。あとはずっと水商売をしているのです。それを十年続けていれば俳優とは言い難く、顔はすっかり「お水」の顔になっています。

 顔は決して作ってできるものではありません。自然自然と日ごろの動作が体に身についてきて、やがて顔がそれにふさわしいものになって行きます。

 

 江戸から明治にかけて、東京に寄席がたくさんできました。寄席と言うのは、初期のころは、飲食店の二階を借りて、そこで数人の噺家が落語を聞かせたり、講釈を聞かせたりしていたものが始まりで、専門の寄席と言うのは少なかったようです。

 噺家自体も、噺だけで生活して行ける人は東京でも数人で、みんな昼はほかの仕事をしていたようです。噺家の多くは大工、左官、鳶などの仕事をしていて、晩になると寄席に出ていたそうです。当然噺家の多くは職人の顔をしていたわけで、話し言葉も職人丸出しだったわけです。

 「するってぇと何かい、あっしに一杯呑ませてくれるてぇのかい」。などと言う口調は、職人の口調であって、江戸の標準語ではないのです。喋っている人が大工だったり左官だったりするためにそんな口調で語っているのです。

 噺家は昭和になっても職人や商売をしていた人が多かったと言いますから、これが噺家の顔、と言う顔はなかなか生まれづらかったのではないかと思います。方やあっちの座敷、こっちの宴会と引っ張りだこの人気噺家がいた陰で、じっと職人仕事をしながら、夜に上がる寄席の舞台を生きがいにしていた噺家もまた大勢いたわけです。

 

 話は戻って、よくマジックの雑誌に、手首から先だけの写真で、コインやカードを解説している人がありますが、もし演者がプロであったなら、あんな写真は撮らせないはずです。マジックにとって大切なのは、手順と同等に表情が大事です。表情の見えない写真などマジックではないのです。

 そのことはyoutubeでマジックを種明かししている人も同様です。手先だけで解説してもそれは演技にはなりません。それは種明かしをしているだけです(種明かしをしているのですからその通りです)。その映像を見た人は種を覚えたことにしかなりません。これでは芸能としてのマジックは育ちません。

 また、顔を覆面して演技するのもダメです。顔を出せない理由があるのかもしれませんが、覆面してマジックをしていてはショウにはなりません。お客様にすれば得体のしれない人に思えて、警戒心が先に立ってしまいます。マスクをする、サングラスをすると言うのは、演者が自らの心を閉ざしています。これは芸能の否定なのです。

 こんなことをしていては、いつまでたってもマジシャンとお客様との心がつながりません。種がわかるかわからないか、お客様を挑発しているだけでしかないのです。これではお客様がマジシャンを育ててやろうと言う、暖かな心は芽生えないのです。

 

 話は変わりますが、私が幼いころは紙芝居屋さんが町内の子供の集まる場所にやってきて、連日紙芝居を見せてくれました。子供たちはスカスカの煎餅を買って、それを食べながら紙芝居を見るのが楽しみでした。然し、いつの間にか紙芝居屋さんは来なくなりました。

 私が中学生になったころ、偶然空き地でその紙芝居屋さんを見つけました。ハンチング帽をかぶり、黒縁の眼鏡をかけて、やせて小さな体つきは、私が五歳のころに見た紙芝居屋さんそのものでした。無論、昔よりも年を取って貧相になっていました。私は思わず走って自転車を追いかけて行き、「おじさーん」、と大きな声で呼びかけました。

 すると、おじさんは信じられないような暴力的な言葉を投げてきました。「うるせぇ、このやろ、来るんじゃねぇ」。と言って、自転車で走り去って行きました。私は素直な気持ちで子供の頃に紙芝居を見せてもらったことを伝えたかったのです。然しおじさんは逃げ去って行きました。

 昔なら、空き地に行けばすぐに30人も40人もの子供が集まって、にぎやかに紙芝居が出来たのに、その空き地で見たときには、子供が3人4人しかいませんでした。テレビが普及して、子供は紙芝居を見なくなったのです。

 そんな流行から取り残された姿を、大きくなった昔の子供に見られるのは恥ずかしかったのでしょうか。幼いころのおじさんの語り口は今も忘れていません。子供心に魅力的な話し方で、毎日紙芝居を見るのが楽しみでした。それゆえに10年近くたって空き地で見つけたときには嬉しかったのです。

 然しおじさんは逃げて行きました。なぜ逃げたのか、中学生だった私には皆目わかりませんでした。今にして思えば、時代を終えた芸にすがって生きる姿が恥かしかったのでしょう。おじさんは、恥ずかしさとみじめさと貧しさのないまぜになった複雑な表情をしていました。

 過ぎ去った芸にすがって生きるのは恥ずかしい行為なのでしょうか。そうなら私も古い芸能をなりわいとしている身として、おじさんの姿を自分事と考えなければいけません。私はあまりに堂々と何の恥じらいもなく古い芸能を演じていますが、私の芸にも、あの恥じらいとみじめさが見えなければ、本当の芸能ではないのかも知れません。芸とは恥ずかしいもの。おじさんの芸こそ本物。おじさん顔は萎れて、歪んで卑屈でした。でも嫌な顔ではなかったのです。十年経ってもすぐにわかるようないい顔だったのです。あの顔は今も忘れられません。

続く

 

 

 以前に、マジシャンはほかの社会のトップに比べて、いい顔をした人が少ないと話しました。あまりに漠然としたいい方です。私の言ういい顔とはどんな顔か、もう少し詳しくお話ししましょう。

 いい顔とは奇麗な顔を指しているのではありません。一つの仕事を50年、60年とやり続けていると、その職業でなければ出てこないような、独特な顔になって行きます。そんな人を見ると、「あぁ、この人は一つの職業を長く続け来たなんだなぁ」。と、顔を見て納得します。

 毎日木を削って、木工作品を作る。土をひねって壺や茶碗を作る。機(はた)を織って、織物を作る。第一線の舞台女優として、常に客席を満席にし続けている。オーケストラの指揮者として、一癖も二癖もある演奏家たちを統率して、優れた音楽を提供し続けている。

 なんにしても、一つことを続けてくれば、その生き方は独自であるわけで、そこから出来てきた人格や、表情は誰も作り得ないもので、しかも、長く生きるには偽物では通用しません。こうした顔に接すると、一緒にいるだけでその人の人生を体感したようで、幸せな気分に浸れます。

 然し、社会のトップの人と長い時間一緒にいると言う機会はなかなかありません。そうした時間を手に入れたとしたなら、それは人生の至福の時と言えます。遠目にわずかな時間トップの人を見るのと、いろいろ質問をして話を聞くのとでは大違いです。時に話をしたことで全くその人を誤解していたと気づくこともあります。

 

 私がマジック界でいい顔をしている人だったと思うのは、昔でいえば、アダチ龍光師匠です。ロープ切りだの、リングなどを得意にしていて、およそ派手さもなく、一人で喋りながらお客様を笑わせていた人ですが、晩年に行くに従って、喋りは噛んで含めるような味わい深いものになり、お客様も年寄りの昔話を聞くかのようにのんびり楽しんでいました。

 テレビにもよく出ていましたので、道を歩くとみんな知っていました。地味で自己主張をせず、穏やかな人柄で、みんなに愛されました。小学校の校長先生のような風貌で、度のきつい眼鏡をかけ、口ひげを生やし、いつも黒のタキシードでマジックをします。私は年を取ったらこういう顔の人になりたいと思っていました。然し今その年齢に近づいて思うことは、なかなか歳が近づいたからと言って、あの境地には至りません。あの人柄、あの芸にはなかなか到達できないのです。好々爺であり、すべてを悟っていながら、まだどこか少しインチキ臭い。そんな裏も表もある顔がマジシャンの到達すべき顔なのだと思います。

 

 いい顔と言う点では、初代の引田天功さんと言う人は、素晴らしいいい男でした。背が高く、肉付きが良く、顔は甘い顔立ちで、巨人の高橋由伸さんのような雰囲気がありました。然し、45歳と言う年齢で亡くなったためか、人としての面白みとか、厚みと言ったものは感じられませんでした。

 女性関係はやりたい放題で、あのまま生きていたら結婚詐欺で訴えられただろうと思う話がいくつもありました。まったく危ない人生で、あの時心筋梗塞で死んだことは、名誉の死であり、天の恵みだったと思います。

 性格は、猜疑心の強い人で、いつも後輩に自分の立場を侵されると言う恐怖心にさいなまれ、若手の家に電話しては、「お前の演技はまるでなっていない」。と嫌味を言い、若手がテレビ出演する際には、わざわざプロデューサーに電話してその若手を外したりしました。

 私もそれをされた一人です。随分迷惑をこうむりました。然し、当人はその時の都合だけで生きているわけですから、悪気などなく、全く無意識に若手の邪魔をしました。

 天功さんの悪行を語ればきりがありません。でも、テレビの業界など少しでもかじれば、先輩と称する人はそんな人ばかりです。テレビで成功する人の席はあまりに少ないのです。引田天功と言えども、その社会でしがみついて生きて行かなければならない一人なのだと思えば、それもやむなしなのかと思います。

 然し、この業界のトップの顔としては未完成だったように思います。もっともっと年を取っていい性格も悪い性格も説得力が出てきたならば、それはそれで含みのあるいい顔になって行ったのかもしれません。45歳と言うのはまだまだ生な年齢だったのでしょう。インチキ臭さは多分に持ち合わせていましたが、この業界を代表とする顔と称するには物足りない顔だったと思います。

 

 今、マジック界でいい顔をしているなぁ、と思うのは、マギー司郎さんです。60になったぐらいから、急に穏やかな顔になって行って、いい人相になったように思います。かつてのアダチ龍光師を彷彿とさせます。

 お客様も、マギーさんのマジックに一切期待せず、ただボヤっと眺めていて、マギー司郎と一緒にいることを幸せと感じているようです。いいですねぇ、マギー司郎の芸に費用対効果を求める人はいません。ただ彼が存在していることに満足をしています。芸人の理想です。

 

 海外の人でいい顔と言うと誰でしょうか。古くは、チャニングポロック、フレッドカプス、ノームニールセンは、他を圧倒するほどいい顔をしています。そこを別格とするなら、サルバノのはいい顔をしていました。小型のフレッドカプスのような演技をするマジシャンで、優れたテクニックを持ち、それなりにマエストロの風貌も備えていながら、どことなくインチキ臭く、話をしていると、矛盾の塊のような人でした。

 ポーランド人ですが、ユダヤ人が嫌いで、ユダヤ人の狡さや、周囲と溶け込まない協調性のなさなど、彼の話を聞いていると、ヨーロッパ人がなぜユダヤ人を嫌うのかがよくわかりました。そうでありながら、人類愛を平気で語るような人でした。その矛盾がまたまたこの人の魅力なのでしょう。

 興味の尽きない人でした。かつても東欧で生きて行くのは幾多の苦しい人生だったと思いますが、晩年は、顔からは灰汁(あく)が抜けて、見飽きのしない何ともいい顔になっていました。

続く

 

時雨で玉ひで

時雨で玉ひで

 

 一昨日(17日)は玉ひでの公演でした。このところ人の集まりもよく。この日は満席でした。もっともっとたくさんお客様が集まるなら、一日二回開催にしたいと思います。更にもっと増えたならそれを二日開催にしたいと思います。そんな日が早く来たならいいなぁ、と思います。

 そのうち、玉ひでの玄関先よりも手妻のショウの行列がたくさん並んで、その行列目当てにダフ屋が出るくらいになったなら素晴らしいと思います。ダフ屋は出る、綿あめ屋は出る、たこ焼き屋は出る。門前市をなす勢いになったなら、私の芸は本物です。

 

 一昨日の若手は4本出演しました。前田将太、早稲田康平さん、せとなさん、戸崎拓也さんの4本です。全体のバランスを考えて、前田は私の演技の間に入れました。前半は早稲田、せとな、戸崎の3本でした。いつもは忙しくて、じっくり若手を見ることが出来ませんでしたが、この時は全員しっかり見ました。

 

 早稲田さんは、つかみでカードマニュピレーションを快調速で演じました。これがオープニングにとてもいい雰囲気を作りました。軽くファンカードを見せ、そのあとすぐに連続出しをしてさらりと見せています。

 そのあと喋りながらお客様に千円札を借りて、一万円にし、また元の千円に戻し、その千円にサインをしてもらい、たばこ状に丸めて火をつけます。そして手の中に入れて消してしまいます。そのあと紙袋からレモンを取り出し、レモンの中から印のある千円が出てきます。

 千円を使っての演技も手順になっていますし、全体が手馴れています。一度は一万円になった札を千円に戻したときの、お客様の失望感をもっと膨らませて面白く話をこしらえたなら一芸として完成するでしょう。喋りが充実すれば、より早稲田さんの手順としてお客様に認知されるでしょう。

 

 せとなさんは2年前に、彼が高校生の時に一度マジックマイスターに出演してもらっています。手順はほぼ同じものですが、前に見たときよりも落ち着きが出てきて、いい仕上がりになっています。

 グラスとウォンドを持ち、空中からシルクが出現して、ウォンドが何度も玉に変化します。その玉が出たり消えたり、グラスの中に入ったり、お終いは増えて8つ玉になります。よくまとまった手順です。総体に地味な演技ですが、これはこれでありでしょう。

 8つ玉の後は喋りながらのカード当て、現象も、喋りも、もう少し工夫の欲しいところです。まだ自分のスタイルと言うものが出来ていません。これから何度もこの舞台に出て、この手順をまとめていったらいいと思います。

 

 戸崎拓也さんはシルクの出現からシルクのカラーチェンジ、そこからロープシルクにつながり、メキシカンロープの手順を演じます。メキシカンロープ自体、今、演じる人が少なくなってしまって珍しいもになってしまいました。このマジックを持ってくるところが彼のマジック好きの証でしょう。

 メキシカンの、たくさんの輪になったロープから一本持って、ノットを作って、そのノットが外れて、小さな輪が出来ます。この辺りが彼の工夫です。いくつもの小さな輪が出来て、小さな輪がつながったりします。随分地味な手順ですが、これはこれで面白いと思います。

 この日は緊張していたのか、演技が走り気味で、何となくすかすかした演技に見えてしまいました。手順自体があっさりしたものなだけに、もう少し気持ちを入れて演じないと、お客様に演者の意思が伝わりません。持ち時間は決してつなぎの時間ではありません。自身の発表の場ですから、自分の主張を徹底的に籠めた演技を期待します。

 この日の三人の演技は、お客様には好評でした。脇で見ていても基本的な部分でもお客様から歓声が上がります。逆に考えれば、一般のお客様はほとんど生のマジックを見たことがないのです。マジックはまだまだ入場料を支払ってでも見に行く芸能として認知されていないのです。

 

 そのあと私が二つ引き出しと、紙片の曲。お椀と玉、若狭通いの水、の四作を演じました。そのあと、前田が三段返しと金輪の曲を演じました。三段返しと言うのは、米と水、そして紙うどんを一緒に演じたもので、米、水、うどんの三作で三段返しです。

 金輪の曲はいつも演じている。和のリンキングリング。三段返しと金輪を一緒に演じると15分あります。15分間お客様を飽きさせずに見せるのは簡単ではありません。前田には本舞台で15分を任せたのは初めてです。

 幸いお客様が真剣に見てくださいましたので、問題なくできましたが、私が聞いているとどうも喋りが固い。まだ自分が心を開いて喋っていません。もう少し話に遊びが出て来て、自分を素直に語るようになったなら、お客様はリラックスして、安心して長時間見ていられるようになるでしょう。

 今のところは教科書通りに演じることでまぁまぁ及第点です。

 

 そのあと再度私が出て、蝶のたはむれです。蝋燭明かりを使って、客席を一周して蝶を飛ばします。お客様にこの場の絵柄を焼き付けたいがために、直火の蝋燭を使って江戸時代のやり方で演じています。幸い好評です。

 

 さてこうして4月の公演も終わりました。終演後は出演者と楽屋で雑談をしました。極力若い人といろいろなことを話しておこうと思います。大して役に立つ話もできませんが、ここでの話はあとで役に立つこともあると思います。

 アメリカのこと、韓国のこと、FISMのこと、リサイタルの開き方、自主公演の仕方、などなど、4時に解散。車で帰宅をしました。

 この日は朝から小雨が降ったりやんだりしていました。だんだん暖かくはなくなってきましたが、ぱっと晴れないのがうっとおしくて冴えません。

 時雨そぼ降る中を外堀通りを走ると、並木も外堀も桜の花が散って、葉の茂った桜の木が並んでいます。そこに恵みの雨を受けて、緑が生き生きとした桜の姿を眺めていると、実に心地よく景色に見とれてしまいました。

 そしてふと、昔安いファンカードで「雨のパリ」と言うタイトルで、ぼんやりとした雨もよいのパリの大通り風景が描かれたカードがあったのを思い出しました。扇状にして広げると、全く予想しなかった色彩が出てきます。子供心に奇麗だと感心しました。今、窓の外から見る外堀通りはその絵柄とは違いますが、この風景も結構いいなぁ、ファンカードにしたら奇麗かなぁ、と、五十数年前の自分の思いがよみがえり、自分の心が十代の頃と何も変わっていないことに気付きました。

続く

 

御贔屓様との接し方 3

御贔屓様との接し方 3

 

 今日(17日)は、昼から玉ひででの公演です。実は私が玉ひでさんの舞台で毎月公演するのは、ご贔屓さんとのご縁をつなぐためであり、同時に新しいご贔屓さんを作って行くことが目的なのです。

 現在のところ、40人入る客席に、20人を限定として公演しています。常識的に考えたならこれでは収入になりません。然し、問題ありません。別段収入を得るために公演しているわけではないのです。あえて毎月公演している理由は手妻をご覧になりたいお客様との縁を絶やさないためです。

 私は長く舞台活動を続けてきましたので、私には少なからず手妻を見たいと言うお客様がいます。また、たまにテレビなどに出演すると、必ず、「藤山さんはどこで公演しているのですか」。と言う問い合わせがあります。そうしたお客様の質問に、半年先や一年先のリサイタル公演のスケジュールの話をしても、人の興味はつながりません。

 「毎月人形町玉ひでさんで公演していますよ」。と言えば、お客様は行きやすいですし、日程も作りやすいでしょう。必ず、そこに行けば、私を見られると言う場所を持つことはご贔屓さんを作るためには大切なことなのです。

 また、出演依頼の電話が来る時に、いちいち電話で内容を話すよりも、「今月、玉ひでさんで公演がありますから、そちらでご覧になりませんか」。と、公演にご招待して、一度見ていただき、それから出演の打ち合わせをしたほうが、相手方も安心して出演依頼ができるわけです。

 あくまで玉ひではショウケースとして宣伝に利用しているわけです。ここの舞台で演じて収入を得ようと考えても、それは知れたものです。それよりも手妻を、市民会館や、ホテルのパーティーなどで買っていただいたなら、何十倍もの収入になるわけですから、結果として玉ひでの舞台は大きな効果を生むことにになります。

 

 合わせて、玉ひででは弟子の前田や、若いマジシャンの出演の場を設けています。前田は、まだ自分自身で出演の場を作るようなことはできません。然し、一人で稽古ばかりしていても上達はしません。お客様の反応を確かめつつ演技を作って行かなければ、プロの演技は完成しないのです。それは若いマジシャンも同様です。

 なぜ日本のマジック界のレベルがこうも低迷しているかと言うなら、日本でショウを演じる場所が少なくなってしまったからです。演じる場所がたくさんあれば、それに比例して上手いマジシャンも現れます。そうであるなら、私のように長くマジシャンとして生きてきたものは、若い人が出演できる舞台を積極的に作って行かなければいけません。少しでも舞台のチャンスを作って、熱意ある人には出演を呼び掛けています。

 玉ひでは靴を履いて演じることのできない座敷の舞台ですので、タキシードを着た人にはやりにくい場所です。然し、どんな場所でも、そこにお客様がいて、マジックを見たいと思ってくださるなら、その場は有り難い場所です。ここを勉強の場と考えて、自身の演技を作って行こうと考えているのなら、どんどん活用したらよいのです。

 幸い出演希望者は増えています。もっともっと増えて来たなら、日にちを変えて若手だけの一日を作ってもいいと考えています。そして、こうした場を、東京だけでなく、大阪でも、名古屋でも、福岡でも仙台でも、作って行こうと考えています。何とか年間20日くらいは、日本中を回ることで舞台のチャンスがあれば随分若いマジシャンには励みになると思います。それを数年のうちに作り上げたいと考えています。

 

 さて、こうした活動を私のお客様に見ていただき、弟子を育てる、若手の場を作る、ショウケースとして利用する、ご贔屓さんと語らいをする(これは今は、コロナでできない状況です)。と、私の活動全般を見ていただくことで、ご贔屓さんはより緊密にマジックを捉えて下り、一層のご支援がいただけるものと考えている次第です。

 魏贔屓産地うのは、砕いていうなら、外部の人に仲間になっていただくことなのです。そのためには実際にマジシャンが日頃どのような活動をしているのか、を包み隠さず見せることが大切で、すべてをひっくるめて、納得の上でご贔屓になっていただくことが大切だと考えています。

 

 また演じる若手同士も、何人も一緒になって舞台をすることが大切です。なかなかマジシャンが何本も一緒になる仕事場と言うのは少ないのです。仲間同士が演技が終わってお茶を飲みながら様々な話をすることは有意義です。私が若いころも、随分古い芸人さんやマジシャンから楽屋で色々な話を聞きました。それは今もいろいろに役に立っています。

 一人で部屋の中でマジックの稽古をしていては、結局同じことを繰り返すだけに終わってしまいます。新しい考え方。独自の発想などと言うものは人と交わっていない限り手に入らないのです。人との縁があるから普段知り得ない情報がたくさん手に入るのです。マジシャン同士の交流の薄くなった今日としては、なんとしても楽屋の語らいは復活させなければいけないと考えています。

 と、様々なことを考えつつ、玉ひでさんの舞台を続けています。来月からは、大樹が、単独で毎月、玉ひで公演をするそうです。いいことです。自分で公演をして、そこから手妻やマジックを発信していったらいいと思います。 

 同じ場所で活動すると言うことは、同じ演技ばかりできませんから、創作活動をしなければならなくなります。自然自然に作品も増えてきて、それが財産になって行きます。お客様を作り、仕事を作り、作品を作り、いいことづくめなわけです。そうならマジシャンはみんな自主公演をすべきなのです。そこを躊躇していては先がなくなってしまいます。少しでも意欲のあるマジシャンが出てくることを望んでいます。

 と言うわけで、これから玉ひでに向かいます。

続く

 

 明日はブログをお休みします。