手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

昔の老人

昔の老人

 

 老人とはそもそもが昔の人ですが、私が子供のころに見た老人と今の老人は随分違う人たちでした。それは話し方も、着ている服も、生活の仕方も、何から何まで子供とは違う人種に見えました。それだけに、子供のころは、年寄りと言う人種がいて、自分はそうした人にはならなものなのだと思い込んでいました。

 私が小学校に入ったのは昭和35年です。東京大田区の池上小学校です。今でも池上と言う町は、日蓮宗の本門寺があって、更にその末寺がたくさん並んでいて、お寺ばかりが目立つ町です。

 そのためか池上は昔も今もほとんど変わりません。閑静な町と言えば聞こえはいいのですが、およそ発展しない町です。そもそも池上線自体が地味で、同じ東急電鉄でも、東横線が華やいで見えるのに、池上線はおよそ話題になりません。

 若い男女が自由が丘で待ち合わせをするドラマはあり得ても、千鳥町や、洗足池で待ち合わせをして池上線に乗ってデートをするドラマを見たことがありません。私が子供の頃に乗った池上線は、どれも戦前に作られた車両で、内部は木製でした。外は鉄板を鋲で止めてあり、見るからに古い作りでした。急行も快速もありませんでした。

 祖父母も同じ池上で暮らしていましたので、幼いころは池上から外に出ることはあまりありませんでした。

 

 そのころ年寄りと言うと、みんな明治生まれでした(昭和35年の頃は昭和生まれの人はみんな若かったのです)。大正生まれでもまだ老人ではありませんでした。

 祖母は毎日着物を着ていましたし、祖父も職人でしたが、仕事から帰ると丹前(たんぜん)を着て、煙管(きせる)で煙草をふかしていました。私の親父ですら、家に帰ると丹前を着ていました。

 私は普段でも着物を着ますが。丹前は着たことがありません。分厚い綿の入った着物で、まるでこたつ布団で着物を作ったような作りでした。色は茶か紺、太い縞柄が多く、子供心に年寄り臭く思いました。

 小津安二郎監督の映画を見ると、当時のお父さんが家に帰るとワイシャツネクタイを脱いで丹前に着かえ、茶の間で新聞を読んでいる姿がよく出て来ます。サザエさんの漫画でも波平さんが来ている着物は丹前ではないかと思います。あの姿は昭和30年40年代までは普通に見る風景だったのです。

 丹前は、角帯のようなしっかりした帯は締めず、兵児帯(へこおび)か、腰ひもで結んで、たった一本の紐で着付けていますので、体は楽だったのでしょう。同様に、褞袍(どてら)と言う着物も聞いたことがあります。

 新国劇のやくざ者の芝居などを見ると、やくざの親分が着物の上に褞袍を羽織って、帯も締めずに、まるで花嫁姿の打掛のようにぞろっと引きずって奥の部屋から出てくる姿があります。昔は部屋の中が寒かったので、ああした綿入れが欠かせなかったのでしょう。然し、袖が大きく、裾を引きずっていますから何も仕事はできません。仕事をしなくてもいい人の衣装だったのでしょう。私は長いこと紐で結ばない、羽織る綿入れを褞袍と言うのかと思っていましたが、丹前も褞袍も同じものだそうです。何にしても丹前も褞袍も昭和40年代には消えたようです。

 丹前は、いわばナイトガウンです。今のガウンよりもずっと暖かく、しかも色柄が斬新です。丹前を復活させて、丹前を着る文化をもう一度見直したら、案外流行るかも知れません。先ず、複雑な帯の結びが必要ありませんし、簡単に脱げて風呂に入ったり、パジャマに着替えることが出来ますから、浴衣よりもはるかに便利です。

 要は、センスのいい柄を選んで、誰か二枚目のスターに着せたなら、きっと流行ると思います。

 

 祖母の着物姿は毎日見ていましたが、今の着物の着付けとはずいぶん違いました。先ず前の合わせ方が今よりずっと浅いのです。今の着物の着付けは言ってみればお姫様に着方です。襦袢の襟と着物の襟を首のすぐ下できっちり合わせて着付けます。きれいに着てはいますが、あれでは前が重なりすぎて足が動かしにくく、歩きにくいでしょう。

 昔の年寄りは、もっと浅く着ていて、襟は帯までざっくり開いていたように記憶します。帯も、ゆるく結んであって、全体が緩かったように思います。なんで私が祖母の着物の着方が浅かったことを覚えているのかと言うと、私は祖母とよく昼寝をしました。その時よく着物に手を入れて、おっぱいを掴んでいたそうです。

 「この子はいつまでも赤ちゃんだよ」。と言って祖母が笑っていたそうです。おっぱいを簡単につかめるのは襟のあわせが浅かった証拠です。祖母の髪形は適当に後ろで縛っていたように思いますが、祖母の仲間はもう少し日本髪らしく結っている人もいたように思います。但し髪結いはもうこの時期にはいなかったと思います。何にしても子供が見ると不思議な髪形でした。

 家事をしているときには、手ぬぐいを頭に巻いて、姉さん被りをしてはたきなどをかけていました。舞踊で姉さん被りを見ると、実に粋な感じがしますが、日常の姿はただ手ぬぐいを巻いただけですから、いいも悪いもありません。

 さらに着物の襟を汚さないように襟に手ぬぐいを折ってかぶせてありました。買い物に行くときには割烹着を上から着て、草履をはいて、買い物かごを片腕にかけて出かけて行きました。

 夕方に池上の商店街に行くと、そんな恰好をした主婦がたくさん歩いていて、通りは割烹着の白一色でした。知人と顔を合わせると、道の真ん中で何十分も世間話をしていました。当時は家に冷蔵庫のある家庭も少なかったので、毎回の買い物をする量はわずかで、卵は一個二個と買っていましたし、豆腐や油揚げは半丁半枚で買う人もいました。味噌汁の具にするだけなら半丁半枚で十分だったのでしょう。庶民の暮らしはつましかったのです。

 夏の浴衣(ゆかた)も、お中元やお歳暮で、もらった手ぬぐいを8枚か9枚集めると、一着浴衣が縫えました。私の親父が、手ぬぐいで縫い合わせた浴衣を漫談のネタにして、「胸のところは、秩父セメント(乳のしゃれ)の手ぬぐいで、お尻のところは東京ガスって染めてあった」。などと言っていました。それが笑いになるくらいだから、手ぬぐいを集めて浴衣を作るのは普通のことだったのでしょう。今そんな浴衣を着る人はいません。

 

 私が近所にお使いに行ったときなどには「お駄賃をあげよう」。と言って小遣いをくれました。お駄賃と言う言葉も今となっては年寄り言葉で、絶えて久しく思います。

 そのお駄賃は大概が十円でした。昭和35年の十円の威力は大したもので、森永のキャラメルも、グリコのおまけつきのキャラメルも、今川焼も十円、池上線の初乗りは子供五円。池上から蒲田まで往復で十円でした。明治製菓の茶色い包装紙の板チョコは二十円か三十円したと思います。子供の憧れでしたが、お駄賃では買えなかったのです。

 私が11歳で初めて舞台に立って、ギャラをもらった時に最初に買ったものは明治の板チョコでした。自分の働きで買えたチョコを一枚全部独りで食べたときは幸せでした。

続く