手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

御贔屓様との接し方 2

御贔屓様との接し方 2

 

 昨日(15日)に、長唄人間国宝、吉住慈恭さんが、熱烈なご贔屓から番町の家屋敷を一軒プレゼントされたと言う話をしました。番町と言うのは今も昔も屋敷街です。四谷の駅からビルの裏道を皇居に向かって歩いてゆくと。閑静で、大きな屋敷が並ぶ街並みが続きます。その一角の家をもらったのですから豪儀な話です。然し、これは珍しいことではありません。

 噺家三遊亭円歌師匠も番町に住んでおられますが、その家はファンがくれたものだと聞いています。

 

 なぜお客様が芸能人に対して、家をあげたいと思うほどの気持ちになるのでしょう。単なるファンではなく、演じている芸の何かがお客様の琴線に触れ、身内意識が生まれて、子供に財産を残すような気持と同じ気持ちを抱いて家をあげるのでしょうか。

 お客様が、自分の家族や子供と同じ気持ちに至るほど芸に感じ入る、と言う気持ちが本当に生まれるのでしょうか。

 貴族が芸術家のパトロンとなって生活の面倒を見る話は、かつての貴族社会の中でよくあった話です。ワグナーとルードヴィッヒ二世の関係は有名ですし、大なり小なり有名な音楽家や画家にはパトロンがついています。いや、今も、音楽家や絵画の世界などでは、パトロンが存在し、年額でまとまった支援を受けている芸術家は少なくないのです。

 

 さて、お客様が芸能、芸術作品に触れて、パトロン、ご贔屓様になってくれるのはどんな時なのでしょうか。芸術家が何をしたならお客様がそこまで入れ込んでくれるのでしょうか。

 1つは、人を超えた才能を持っている。

 2つ目は、通常の人が体験したことのない人生を体験している。

 3つ目は、独自の作品を持ち、深い世界へ誘ってくれる。

 4つ目は、愛される要素を持っている。

 5つ目は、人に見えないものが見える。

 このうち一つでも二つでも備えた芸能人ならばお客様は彼らの作った作品にのめり込むのではないかと思います。然し、多くの場合、公演のチケットを数枚買って見に来てくれるというファンはけっこういるとしても、家財産を提供してまでのめり込むと言うお客様は珍しいと思います。

 そこまで行くには、思いっきり強烈な磁力や、魔法がないと一ファンを熱烈なご贔屓にするまでには至らないでしょう。但し、私でも経験がありますが、多分に芸能は、うまく話の中にお客様を引き込むと、お客様はそこから先は自分で筋を膨らませ、自ら夢の世界に入り込んでしまうことがあります。

 

 私事で恐縮ですが、私が、蝶を演じる前に、蝶の芸を覚えたいきさつを話してゆくことを考え出し、実際蝶の芸の本質を話し始めると、かなりのお客様が、話の中で勝手に独り歩きを始め、そこから暗示にかかったかのように蝶の世界で夢想をするお客様があります。こんな時、私は、

 「私がもう少し気持ちを入れ込んで、憑依して蝶の世界を語って行ったら、お客様の心は、意のままに動かすことができるなぁ」。と思います。

 実際、私が蝶の演技の奥の話をすると、お客様はがぜん蝶を見る目が変わって行きました。私の手妻の熱烈なファンが増えてきたのです。私の手妻を、繰り返し繰り返し見に来るお客様がいます。自分が見てよかったために、子供を連れてくるお客様がいます。「こうした芸能を子供に見せておきたい」。と仰ってくれます。

 奥さんを連れてくるお客様がいます。「結婚記念日に夫婦で蝶を見に来ました」。などと仰ってくれます。二人は蝶から何を感じ取ったのでしょうか。

 仲間を何人もつれてくるお客様もいらっしゃいます。有難いことです。お客様の中で蝶の芸が勝手に独り歩きを始めています。そんなお客様に支えられて、口コミでファンが広がり、蝶の芸は続いています。

 多くのお客様は蝶をマジックとして捉えていません。どんな種仕掛けで蝶を飛ばしているのか、などと考えて見てはいないのです。蝶はマジックでも手妻でもなく、彼ら彼女らの夢の世界なのです。そうした中で私は、人をひっかけてやろうとか、驚かせてやろうなどとは考えていません。そんな必要はないのです。私は魔法の粉のかけ方を習得してしまっているのです。

 しかし同時に、そこへお客様を連れて行くことの危険さも理解できます。つまりここから先は、カリスマ占い師や、超能力者、宗教家、詐欺師などが身に着けている、ありもしないことをあると言い、見えていないことを自分だけは見えていると言う世界です。

 マジックと詐欺の大きな違いは、自分には普通には見えないものが見える。だから自分の言うことを聞きなさいと言って、善良な市民を巻き込んで、人を食い物にする行為があるかどうかです。最終的にか金品に話をつなげてしまう行為こそ詐欺行為です。

 然し、芸能人が求めていないのに、お客様の方から金品を持ってくると言うのは詐欺行為ではないでしょう。でも、多少怪しげではあります。

 ここまで来ると、芸能も詐欺も宗教も紙一重なのかもしれません。ただそうした中で、ありもしない世界にお客様を引き込んで、夢想の世界を見せる。そこでとどめるならばそれは罪ではありません。そこからお客様の金品を奪うのでなければ、許されるでしょう。マジシャンが芸能と詐欺の逆目をはっきり認識して、舞台の上だけで夢想の世界を見せているならそれは素晴らしいイリュージョンと言えるでしょう。

 

 夏目漱石は、噺家の三代目柳家小さんの話芸にはまり込み、当代一の名人とほめちぎって言います。小さんの落語の細部まで認めたうえで、「小さんと同じ部屋にいて、同じ空気を呼吸していると思うとそれだけで幸せだ」。と書いています。最大の賛辞と言えるでしょう。漱石が小さんに家をプレゼントしたのかどうかは分かりませんが、ここまで小さんの話芸を信奉していたなら、いざとなれば家一軒くらいは贈ったかも知れません。漱石が小さんを見る思いはまさに、小さんの魔法の粉がたっぷり漱石にかかっています。

 御贔屓様としてのお客様は有り難いことと感じていますが、それ以上の関係には至らないように注意しなければいけません。あまりにお客様が芸能に入れ込むとその先は危険です。芸能はあくまで舞台の上にとどめなければいけません。

続く

 

玉ひで公演

 17日の玉ひで公演は満席です。5月6月以降のお申し込みをお願いします。詳細は東京イリュージョンをご参照ください。

 

御贔屓(ごひいき)様の接し方 1

御贔屓(ごひいき)様の接し方

 

 私が10代20代の頃は、私の親父が漫談家だったこともあって、よくお笑い芸人や、落語家との付き合いが多く(それは今も続いています)、彼らからとても多くのことを学びました。

 お笑い芸人は、今も昔も、売れている人は大きく稼ぎますが、売れるまでは殆ど稼げずに大変な苦労をします。多くは、女房や、彼女に食べさせてもらったり、水商売を手伝ったりしてわずかな小遣いを作って暮らしていました。

 御贔屓客でもいればそのお客様から小遣いをもらったりして少しは助けてもらえますが、私の知る限り、お笑い芸人でご贔屓との付き合い方のうまい芸人をあまり見ることはありませんでした。

 ご贔屓を作ることのうまいのは噺家(はなしか)で、一度見込んだお客様には、くらいついて何が何でもご贔屓にしてしまう噺家を何人も見ました。小遣いをくれそうな社長にはバーでも、寿司屋でもついて行って、場をにぎやかして、周囲を笑わせ、まるで太鼓持ちのように一緒に遊んで小遣いをもらいます。

 社長がゴルフに行くときには、一緒にゴルフをして、コンペで司会をしたり、釣りに出かけたり、極端な人は、社長が、どこそこの焼き立てのパンが好きだと知ると、早朝に有名店のパン屋に出かけ、社長の好みのパンを買い、毎朝、社長の自宅に焼き立てのパンを届けたり、全く涙ぐましい努力をして社長から小遣いをもらっていました。

 噺家には前座、二つ目、真打、と言う階級があり、昇進をすると寄席で出世披露をします。その際の配り物や、幟(のぼり)、暖簾(のれん)、引幕、新しい着物などをこしらえなければならず。大きな費用がかかります。付き合いのうまい噺家は、ご贔屓に頼んですべてを揃えてもらいますが、ご贔屓がいなければ自己負担になります。

 そのため彼らは日頃から必至でご贔屓客を作るためにあちこちで遊びながらお客様を探しています。

 

 私の親父は、さほどにご贔屓客をあくせく追いかけることはしていませんでしたが、親父は日常が面白い人でしたから自然とお客様がいて、よくお客さんと一緒に飲みに出かけていました。中には、社長の家族と一緒に海外旅行にまで連れて行ってもらったり、息子さんの結婚式で司会をしたりと、随分入れ込んで面倒を見てくれる社長がいました。中にはラドーの時計をくれる社長もいました、但し3日で動かなくなりました。

 「社長はいい人なんだよ。一度紹介してあげるよ」。などと親父に言われて出かけてみると、その社長が見るからにやくざの顔をしていて、建設会社社長とは言いながら、連れて歩いている社員がこれまた絵にかいた通りのやくざ。

 当時私は学生で、立派なマジシャンになりたいと考えていたのに、やくざやチンピラの皆さんに囲まれて、親父から「な、いい社長だろ」、と言われても素直にうなづくことも出来ず、どんな顔でいたらいいのかも分からず、場違いな中で居づらくて困りました。

 帰る道々私は親父に「私をこんなところに連れて来ないでくれ」、と、散々に苦情を言いました。

 そんなこわもての社長ですが、マジックを見る目は実に素直で、私のマジックを喜んで見てくれました。その後会社の宴会に呼んでくれたり、社長の経営するバーでマジックをしたり、私が、藤山新太郎を名乗って披露をしたときには、松竹演芸場に花輪を送ってくれて、お祝いの品まで送ってくれました。

 そうすると、私もいつしか、社長のこわもての顔に慣れて行き、社長がいい人に見えてきました。私にも免疫が育ってきたのです。親父のことを悪くは言えません。まぁ、昭和の芸人とやくざは何かと付き合いを持っていたのです。

 

 ただし、ご贔屓様と言うのは、怪しげな人たちばかりではありません。むしろ、社会的に地位の高い、マジックを純粋に愛する方々も多くいて、何彼となく気を配ってくれて芸人やマジシャンを支援してくれました。

 私にとっての最大の御贔屓様は、クロネコヤマトの元社長の都築幹彦さんと、千葉大学名誉教授の多湖輝先生でした。このお二人が平成10年以降から最近お亡くなりになるまで、私や、弟子や、手妻を応援してくださったことはどれほど助けになったことかわかりません。いろいろな分野のアッパークラスのお客様を紹介してくださったり、大きなイベントを紹介してくださったり、随分と舞台活動を助けて下さいました。

 私の40代は、作品つくりに苦心し、弟子を育て、手妻を体系化し、著作を出しと、えらい忙しい時期でした。そんな時期にタイムリーに実力ある支援者が現れて、惜しみなくチケットを買ってくれたり、資金提供をしてくれたことは不思議な人生のめぐりあわせだったと思っています。

 

 話は少し変わりますが、明治の長唄界の名人で、四代目吉住小三郎と言う人がいました。元来が吉住流の跡取りで、本来なら何の不自由もなく長唄の家元となる人だったのですが、門閥の争いに巻き込まれ、芝居小屋に出勤が出来なくなります。当時の長唄は、日本舞踊や、歌舞伎のBGMの演奏で生活をしていたのですが、歌舞伎に出られないとなると、全く失業も同然になります。小三郎はやむなく稽古屋の先生を始めます。

 この時小三郎は舞踊の伴奏でない、純粋な演奏会のための長唄を考えるようになります。今日では何でもないことですが、明治大正期にあっては画期的なことでした。ところが、指導をしてゆくうちに、長唄演奏の矛盾に気付きます。

 今まで役者の舞踊に合わせて唄を唄っていたため、視覚的に見てお客様に筋が伝わっていたものが、舞踊なしで演奏すると、言葉だけでは伝わらない部分が多々あることに気付いたのです。

 歌詞をとんでもないところで切ったり、とんでもないところで伸ばしたりすると、全く日本語として意味が伝わらなくなるのです。ここで初めて、長唄音楽を学問として論理的に捉えて改革することになります。小三郎は後に吉住慈恭(じきょう)と名乗り、三味線名人の稀音家浄観(きねやじょうかん)との名コンビで長唄界の中心的な存在に立ちます。

 二人の演奏は多くの長唄愛好家に支持され、東京音楽大学(のちの芸大)の講師になり、更に人間国宝になります。当時の上流階級の子女が多く稽古に通い。父母の中には、慈恭の芸にほれ込み、番町にある百坪の家屋敷をぽんとプレゼントしてくれる人まで現れます。私の親父のように、すぐ壊れるラドーの時計をくれる社長とは、スポンサーの桁が違います。

 今も番町の屋敷は紫山会館と名を変えて、長唄や日本舞踊の発表会のホールとなっています。私は、太鼓持ちのようにご贔屓を追いかける芸人には賛成しかねますが、芸能で生きる以上、ご贔屓を持つことは大切だと思います。そこで明日は、ご贔屓の作り方、接し方を詳しくお話ししましょう。

続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

韓国の行く道

韓国の行く道

 

 昨日(13日)は、安田悠二さんの追悼文を書きました。書いてゆくうちに、安田さんは最晩年に、韓国の若い人たちとのつながりが離れて行き、やや孤立してゆく傾向にあったことを私は彼の様子から感じ取って憂慮していました。

 東釜山大学マジック科の講師をして、若い韓国のマジシャンを育てたこと。そして韓国にFISMを誘致して、FISM釜山大会を開催にこぎつけたこと。ここまでは安田さんの大きな成果でした。

 しかしその後、何度か安田さんと会い話をしたときに、私は、安田さんの心の中に虚無感を感じました。FISMの成果の後に韓国の奇術界をどこに持って行こうとしているのか。あるいは韓国の奇術界の中で安田さん自身がどう生きて行こうとしているのか、その将来像を安田さんは見失っているのではないか。と感じたのです。

 

 その虚無感は、かつて、マーカテンドーさんからも感じました。マジックと言う狭い世界でスターになったまでは成功なのですが、さてその先どうするのかと考えると、仕事がない、自分のするマジックがないのです。

 仕事がないまま、自分をほめてくれるコンベンションばかりを相手にして、そこにマジックショップを出して、若いマジシャンにちやほやされることに安らぎを求めているのです。いや、これは彼を否定して言っているのではありません。

 誰でも自分を認めてくれる人がいる所へ行くことは幸せです。然し、それで収入になるのかと言えば、一年間、世界中のコンベンションを回って、遊んで終わってしまう人生です。マジック界で名前を挙げたなら、その名前を百倍生かして、外の世界に向かってプロマジシャンとして生きて行かなければいけないはずなのです。

 然し、彼はそれが出来ないまま、コンベンションに耽溺して、自分を知る者の中でしか生きて行けなかったのです。テンドーさんのことはここまでにしておきます。

 テンドーさんと安田さんはほぼ同年齢だったと思います。この二人に共通して言えることは、熱烈なFISM信奉者でした。但し、安田さんのほうが幾分冷めた見方をしているかなぁ、と思っていました。

 然し、大学の講師になって以降、安田さんが、FISMに肩入れする傾向が強くなって行ったように見えました。FISMはプロから見たならスタートラインであって、到達点ではないのです。プロとすればFISMは冷静に見つめて、少し離れて付き合ってゆくべきものなのです。なぜならそこから収入は望めないからです。FISMを誘致したから、FISMで入賞したからと言って、直接マジック界の発展につながるものではありません。また、プロとして安定した生活など全く望めないのです。

 入賞は名誉なことではありますが、プロであるならそこから先に、生きる道を見つけることの方が何十倍も重要なことなのです。それをプロである安田さんは分かっていると思っていました。然し、彼と会って話を聞くたびに、案外心の中はマーカテンドーさんと同じく、名誉をゴールと捉えている節がありました。

 

 私なら、大学のマジック学科がなくなったなら、私塾を開いて、「どうしたら、マジックで食べて行けるのか」、を実践して教える道を考えたでしょう。

 実はそれこそプロマジシャンが後輩に教えて行かなければならない道なのです。実際には、ライブハウスなどを借りて、毎月、お客様を前に、生徒を舞台に出し、自らも舞台に立ち、実践的に生きて行くための舞台活動を指導して行くべきなのです。

 わずか7分か8分のコンテスト演技が評価されたからと言って、それでその先の人生が楽に生活して行けるものではないのです。マジシャンは、マジックが好きであるがゆえにコンテスト演技を過大に評価してしまいます。然し、実際に、一般のお客様にとっては、世の中にもっと楽しいこと、面白いことはたくさんあるのです。

 その中でどうやって、お客様の興味をマジックに向かわせるか、それを指導するのがプロの道なのです。

 私は、安田さんはそれを心得ていて、次の手を打とうとしていると思っていました。然し、FISM釜山大会以降安田さんの活動は鈍って行きました。

 しかも、安田さんの影響が縮小するのと比例して、韓国の奇術界もパワーダウンが始まります。狭い韓国国内にマジシャンが増えすぎたのです。たくさん増えた若いマジシャンが次にどう生きていったらいいのか。その手段を指導できるリーダーが見つからないのです。

 ある意味、FISM釜山が韓国奇術界のピークだったのかもしれません。これは私が前に言ったように、FISM(あるいはコンベンション)を目的にしてしまうと、成功を手に入れた後、退潮が極端に激しく襲い掛かって来るのです。

 何百人にも増えた、カード四つ玉を演じる若者はどこで食べて行ったらいいのですか。その先が示せないために、コンテストの入賞者は、ディーラーとなってコンベンションで小道具を販売するようになります。ディーラーの道が最終目的ならばそれでいいのです。プロになることが目的ならやっていることは違います。ならばどう生きていったらいいのですか。

 それを教えるのが指導者なのです。カードや四つ玉に凝り固まっている若者を集めて、いかにカードや四つ玉だけでは生きて行けない(生きて行ける人もいます、が、それは一国に一人か二人いれば十分です)。と言うことを教え、そこから基礎をみっちり教え込み、何がマジックが、何をお客様は喜ぶのかを実践で教えて行くのが本当の指導家なのです。

 私は安田さんが、大学の講師を終えた後に、実践指導に移行してゆくのかと思っていました。然しそうではなったようです。そしてその結果、今、韓国の奇術界は混迷を深めています。基礎を学ばず、自分のしたいことだけをして、お客様を見ない若いマジシャンが溢れ返っています。それで生活して行けないことは明らかなのです。彼らに足らないのは基礎なのです。基礎からマジックの良さを見直さないから食べて行けないのです。韓国はまったくマーカテンドーさんの人生を繰り返しています。

 さて、基礎を指導する指導家はどこにいるのでしょう。そして韓国のことは韓国だけの問題ではなく、日本も同様なのです。日本の奇術界こそ遅れに遅れているのです。みっちり基礎指導ができる指導家こそ次の時代のリーダーなのです。

続く

 

マジシャンの想いで

マジシャンの想いで

 

 昨日(4月12日)、マジシャンの安田悠二さんが亡くなりました。半年ほど前から癌で入院しているとは伺っていました。私とは20代の頃からお付き合いで、国内でも海外でも、会うと酒を飲みながら、深夜まで話をした仲間でした。然し、恥ずかしながら、彼の年齢も、彼のプライベートな情報も知ることがありませんでした。マジックでつながり、マジックで終わった仲間でした。

 今こうして思い出してみると、彼は私より4,5歳年下だったように思います。初めて会った時から、礼儀正しい人で、義理堅く上下関係を守る人でした。そのことはそのまま彼の厳しい人生の中で学んだ生き方だったのでしょう。

 

 彼は在日朝鮮人であることを隠しませんでしたので、あえて申し上げますが、ご両親が在日朝鮮人で、悠二さんは日本で生まれています。本名は、安聖悠(アン・ソンウー)と聞いています。一時期この名前で舞台にも立っていました。子供の頃は東大阪に住んでいて、屑鉄拾いなどして相当に大変な生活をしていたようです。そのころの苦労はいろいろ聞いていますがここでは書きません。

 それゆえかどうか体も鍛えていて、喧嘩は強そうでした。私の向うっ気の強さなどはまったくのはったりで、どこで駆け引きをしようかと、始めから妥協が見えますが、彼はいざとなれば命を捨てて戦う男だなと思わせる秘めた闘志が見えました。つまり喧嘩をしてはいけない相手なのです。

 私がイリュージョンを始めたころ、彼もイリュージョンをやりだして、独自のアイディアで作品を作り、かなり評判を得ていました。何分彼は、大阪で活動をされていたので、仕事で出会うことはありませんでした。

 イリュージョンと言うと既製品を使う人の多い中で、彼はマジックを独自に読み込んでゆく姿勢が立派で、私とは波長が合い、度々会ってはいろいろな話をしました。私が大阪でショウをすると、よく私の舞台を見に来ました。会えば喫茶店で話をしました。

 1991年FISM横浜で彼はコンテストに出て、イリュージョン部門で入賞しました。その時私はFISMのゲスト出演でした。横浜で一緒に一杯やって世間話をしました。

 ある時は名古屋のUGMの山本さんの家に泊まり込んで、夜明かしで話をしたこともありました。彼はマジック界の裏情報をたくさん仕入れていて、飛び切り面白い話をたくさん持っていました。私もいろいろ情報を持っていましたので、一緒に飲むと裏話合戦になりました。

 

 いつのころからか知りませんが、韓国の東釜山(ひがしぷさん)大学にマジック学科が出来て、彼はそこの講師に収まりました。このころの韓国はまだまだマジックのレベルが低く、日本の協力が必要でした。

 当時の韓国では、テレビなどで五月雨式に入ってくる情報が頼りで、若い韓国のマジシャンはマジックを体系的に理解することが出来ませんでした。無論、戦前の日本統治時代からマジシャンはいましたし、戦後もキャバレー時代があって、それなりに活躍していたマジシャンもいたのですが、1990年代以降に起こった韓国のマジックブームは、過去の歴史を切り離して、コンベンションに出場するマジシャンを、若い人が追いかけるようになり、そこから新たなスターが生まれて行きました。リ・ウンギョルなどがその先頭に立っていました。FISMで入賞し、在日朝鮮系で朝鮮語を話す安田さんは、韓国国内のマジックの講師として、最も求められる指導家だったのでしょう。

 あるとき彼は、私の書いた「手妻のはなし(新潮社刊)」を、大学に何冊か購入させて、それをテキストとして講義に使っていると言いました。

 「でもこれは日本のマジックの歴史書であって、韓国のものとは違うでしょう」。と言うと、「講義は、アジアのマジックと言うくくりで話しています。日本の歴史を語るのではなく、アジアのマジックの発展過程をここから調べて話しているのです。何分、マジックの本で、年月日がはっきり書かれているものが少ないのです。実際こうした本はほかにないので、とても大学の授業には役に立っています」。

 思わぬところで私の本が役に立ったのは喜ばしいことですし、彼が私の本を読んでいてくれたことはうれしく思いました。

 その後、いろいろないきさつから韓国がFISMを誘致することになり、彼がその代表者に選ばれます。内部では一つにまとめるために随分苦労があったようです。彼としては、FISM釜山大会に北朝鮮を入れたいと考えていたようですが、内部の対立でそれがかなわず、彼は途中で役員を降りる結果になります。

 彼の人生や、これまでの実績を思えば、FISMに北朝鮮を入れたい気持ちはよくわかります。彼とすれば絶対に引けないところだったのでしょう。然し、国情の違いはいかんともしがたかったようです。

 ここで彼が自我の主張を抑え、釜山のスポンサーと妥協をしていたら、彼は「韓国のマジック界の父」としてその名を残したでしょう。然し、彼の想いは韓国だけでなく、朝鮮半島全体の融和にあったのだと思います。彼は名よりも血を重んじたのです。彼の行動を見るとこの結果はいかにも彼らしく、同時に同情を禁じえません。

 それでもFISM釜山は成功し、韓国のマジック界は大きく発展しました。然し、これ以降彼は少し韓国国内の地位が下がったように思えました。東釜山大学のマジック学科も廃止され、その立場は一層小さくなったように思います。

 元々、日本国内での彼の立ち位置は常に微妙なものだったと思います。朝鮮籍を語ることで、舞台の本数も、活動も狭められていたでしょう。傍から見ても彼の生き方は苦労が見えましたが、それもこれも、今、彼がこうして幕を閉じて思うことは、彼の人生は必然だったのです。

 北朝鮮の国籍を隠さずにマジック活動をしてきたことも、FISMで入賞したことも、そして、日韓の懸け橋となって韓国のマジック界の発展に寄与したことも、FISMを釜山に誘致したことも、すべて、安田悠二さんがいなければ誰もなしえなかったことです。このことのために自分が生まれて来たんだと言うことを、当人も自分の過去を振り返ってかみしめていたことと思います。

 折々に会って話をするだけの至って浅いご縁ではありましたが、その人生は一本筋が通っていて立派だったと思います。どなたかが追悼文を書けばもっと詳細に文章を書くでしょうが、このまま彼の名前が消えてしまうことはもったいないと思うので、私の知る範囲で書きました。合掌。

 

 

寒の戻り

寒の戻り

 

 昨日(4月10日)、日中は春の陽気で良い天気でしたが、夕方から急に冷え込み、ジャケット一枚で歩くには少し寒いくらいでした。これを「寒の戻り」と言うのでしょう。朝の陽気を信じて軽装で外出した人には厳しい帰り道になったのではないかと思います。

 私は朝から家に籠りっきりで、この日はマジックを習いに来る人が3組、5人の指導をしました。朝10時から穂積美幸さんにシルクとロープの手順を指導。12時から群馬から習いの来る高校生のローマ君に、手妻の陰陽水火の術を指導。2時からは、ザッキーさん、早稲田さん、古林さんの3人に12本リングを指導しました。

 12本リングの指導は今回試験をして、全員合格しました。以後は外で披露しても構いません。この芸はどこで演じてもお客様の反応がいいものです。きっとそれぞれの得意芸になるでしょう。

 そのあと、卵の袋の指導を始めました。手妻のレパートリーの中にも卵の袋はありますがそれとは少しハンドリングが違います。これは私が20代、30代のころに得意にしていたお客様を舞台に上げて、お喋りをしながら演じる洋服での卵の袋の手順です。

 12本リング、サムタイ、卵の袋は、私が一人の演技をしていたころの得意芸でした。正直申し上げてこれでマンションが買えたのです。どれも何千回と演じました。人生の中でこうした手順を手にれられたことは、マジシャンとして活動するうえでは幸運だったと言えます。

 然し、その後になって、私が和のマジックの専門になってしまいましたので、今となっては、どれも演じることがありません。そのため頼まれれば指導しています。但し、習う人も、ここまで習うには相当基礎を積んでいる人でないと教えられません。私の指導では中級から上級者の扱いです。

 そのため、基礎指導の人とは一緒には指導できません。そこで受講者を分けなければなりません。結局1日がかりの指導になりました。

 

 夜には、6時から歯医者さんの予約をしていたので駅前まで行きました。随分と冷え込んできたので、コートを羽織って行きました。ザッキーさんと、早稲田さんと、古林さんが昨日の私のブログを見ていて、駅前の立ち飲みに興味を示していましたので、一緒に立ち飲み屋さんへ行きました。私は彼らに一杯だけアルコールをプレゼントして歯の治療に出かけました。私は少々疲れていましたので、一杯飲みたかったのですが、治療前に私が酒を飲むことはできません。

 その治療が随分長くかかり、7時を少し過ぎてしまいました。「あぁ、もう彼らはいないだろうなぁ、と思って、店をのぞいてみると、ガラス製のシャッターの中でザッキーさんと早稲田さんが残って飲んでいました。

 「お待ちしていました」。と言って迎えてくれましたが、別に義理堅く、歯の治療をする私を待たなくてもいいのです。一杯飲んだらおとなしく帰ったらいいのです。立飲みと言うのはそういうところですから。

 外はだいぶ寒くなってきています。店はガラス戸を閉めて、ガラス戸とカウンターの間、幅がせいぜい40㎝の隙間で、二人はまるで満員電車のつり革につかまっているような狭い空間で呑んでいました。この極限の状態でも飲みたいとする酒飲みの執念はあっぱれです。などと言いながら、私も、その空間に割り込みました。

 それにしても狭い。これ以上狭い空間もありません。まるでゴキブリが冷蔵庫の裏に張り付いて生活しているような感覚です。然し不思議と居心地がいいのです。冷蔵庫の裏なら電気の熱がありますから暖かです。ここも中は幸い暖かです。なんとなくゴキブリが冷蔵庫の裏に住み着きたくなる料簡がわかってきました。考えてみれば男はこうしたどうしようもないほどの狭い空間が好きです。結局、私もなんだかんだと能書きをたれながらも2日間連続で立飲みをすることになりました。もはや常連です。

 

 コロナ禍にあって、仕事がないと嘆いているなら、今、自身のレパートリーを増やしておくことは有効です。マジック活動を続けていると、10年に一度は必ず仕事の依頼のないときがあるのです。そんな時にじたばたしても、どうなるものでもありません。ないときはみんなないのです。

 プロ活動をしている人、或いはこれからプロになろうと言う人は、そうした時期が必ず来ると言うことを覚悟しておかなければいけません。一年、二年分の生活費を貯金している人は立派です。それが出来なくても、とにかくアルバイトをして生きる分は稼いで、余力で次の時代に備えてレパートリーを増やすために指導を受ける時間が作れる人は次の時代に生き残ることができます。

 

 どうやらザッキーさんも早稲田さんも今の指導を受ける状況を喜んでいます。ほぼ個人レッスンのような状況で、事細かに私の50年以上の蓄積を習えるのですから、価値はあるはずです。私が元気なうちにしっかり学んでおくといいのです。そして稽古帰りに一杯飲めることは幸せな人生です。

 私が20代の頃は、習いに行く傍から師匠連中が亡くなって行きました。上手く習えたものもありましたが、今思えば、「あぁ、あれも習っておくべきだった。あのことも聞いておくべきだった」。と思うことばかりです。いなくなっては何一つ習うことはできません。人が人と出会うときは、そこに必然があります。その必然を生かせる人のみが次の時代の切符を手に入れられるのです。

 夜8時を前に私は帰ることにしました、だいぶ寒くなりましたが、ハイボールが効いていますからあまり寒くはありません。ご機嫌で帰りましたが、この生活は癖になりそうです。ついつい数百円で呑めるとなると、まるで、コンビニで袋菓子を買うような気持で酒が飲めますので、体には要注意です。然し、幸せです。幸不幸は紙一重か。

続く

 

明日はブログをお休みします。

 

 

 

 

 

 

 

春はうれしや

春はうれしや

 

 昨日(9日)は女房とシステムキッチンのショウルームに行ってきました。場所は練馬ですので遠くはありませんが、電車で行くのは乗り換えが不便ですので、車で行きました。どうも、最近、自宅で使用している台所も洗面所も風呂場もあちこち故障が出てきて、どこも使用するのに不便なため、そっくり買い替えることにしたようです。

 然し、簡単に言って水回りを取り換えるのには大きな費用が掛かります。今、コロナ禍のさ中で我家にそんなことができるのかどうか。私のほうが心配になりますが、女房は既にその気です。きっと長年ため込んだへそくりがあるのでしょう。

 確かに今の家は31年経っていますので、あれこれ壊れてきても致し方ありません。洗面所は、蛇口も、シャワーもまともに水が出なくなっています。仕方なく、洗顔は風呂場で用を足しています。

 台所も、コンロの鍋を乗せる台が一つ壊れてしまって、鍋を乗せると傾くようになってしまいました。それを前田が真鍮とねじで修理して何とか直しましたが、女房は前田の手作りに不満です。今年に入ってから、買い替えの話が本格化しました。

 32年前、高円寺の家を建てる時にも、どこかのショウルームを見て歩きました。その時には最新式のものを買って家に備えたのです。当時としては何もかもが最新式で自慢だったのです。

 ところが、先月、ショウルームに出かけたときに、こまかくキッチンや風呂場のシステムを見てまわり、その進化に驚きました。キッチンに既に皿洗い気が収められていますし、レンジ。オーブンも機能に入っています。ゴミもいくつか分別できるようにビニール袋が収まっています。それでいて、キッチンのサイズは30年前とほとんど同じです。細かな雑貨も機能的にうまく収まるように工夫がされています。実に見事なパッケージングが出来ています。

「なるほどこれなら女房が欲しがるわけだ」。と納得がゆきました。この30年の進化は素直に認めなければいけません。

 

 そこへ行くとマジシャンのテーブルや、乗っている道具は進化していないなぁ、と思います。相変わらず手作りで、ベニヤにスプレーを塗ったもので済ませている人がたくさんいますし、中には布をガムテープで止めて風呂敷を巻いた状態でマジックテーブルにして済ませている人もいます。見るからにやっつけ仕事で、これでは世間のアッパークラスの人がマジックを見たときに、少しも本物の芸能と認めてはくれないでしょう。

 我々は、テーブル一つ作るにも、ただマジックショップで買ってくるのでなく、世間の人がどんなテーブルに興味を持っているか、メーカーはどんな苦労をして作っているのかを知る必要があります。

 

 話を戻して、女房はショウルームでの契約を済ませて、一日幸せそうでした。私は帰宅後、駅前に買い物に出ました。その帰りに、ふと、あの奥行き1mの店へ行ってみようと思いました。そうです、大風(おおかぜ)で店が倒壊した立ち食いそば屋です。

 蕎麦屋は倒れて初めて、店の奥行きが1mしかなかったことがわかってしまいました。間口が5間(9m)近くあるために、大きな店のように見えたのですが、表が立派なだけで全く奥行きのない店だったのです。世間ではドリフの舞台装置と呼んで笑っていたそうですが、全く舞台の大道具のような店でした。

 そこが倒壊して店をやめてそのあとに立ち飲み屋が出来たのです。つくりは黒を基調として、しゃれて出来ています。いくらしゃれても奥行きは変わりません。そこへ行ってみました。始めに、1000円でシールを買うのがルールだそうです。シールは百円玉がシールになっていて、百円ごとにはがして、飲み物を頼みます。ハイポールは400円(シール4枚)、つまみは200円とはがしてゆきます。少々面倒ではありますがルールに従います。

 ハイボールと、ウズラの串揚げを頼みました。カウンターはまったくの立ち飲みですが、立って呑んでいるとくたびれて来ますので、店と外との段差に、板を並べて、椅子代わりにしてあります。ここに腰を掛けると、今まで見ていた高円寺の景色がぐっと低くなり。まるで犬が眺めている世界にように感じます。

 長年高円寺に住んでいて、この姿勢で景色を見たことはなく、これはこれで新鮮でした。向かいの桃太郎寿司も、その上の中央線も、道行く人も、何を見ても新鮮に見えます。これまで普通に眺めていたものがどれも巨大に見えます。高円寺の景色を見て、巨大に感じたことはこの時が初めてです。一緒に立ち飲みをしていたサラリーマンと座って世間話をしながら飲みましたが、季節は春の盛りで、暑くもなく寒くもなく、ちょうどいい陽気です。

 ハイボールは紙コップで、中身は取り立てて大したものではありませんでした。然し、ウズラの串揚げは、その場で揚げたもので、しかも、醤油味にガーリックソルトが振ってあります。串に卵が3つ刺してあって、それが2本ついてきて200円です。これは安い。しかもうまいと思いました。つまみの味が気に入りました。毎日ここに入り浸るのも見た様が良くはありませんが、時々はここで呑もうと決心しました。

 呑み終わって、風に吹かれて、5分歩いて家に帰りました。いい気持ちです。直腸の手術の経過が良かったからこうして酒が飲めるのです。ありがたやありがたや。楽しみが増えました。

続く