手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

風姿花伝を読む 2

風姿花伝 を読む 2

 

  鎌倉、室町時代の猿楽(能)が、今の芸能とはかなり違ったものだったと言うのは幾つか証拠があります。当時演じていた猿楽の番数が、今日演じようとするととても半日では演じ切れないのです。と言うことは当時の猿楽は、今演じられている能の寸法よりも、相当にスピードアップして演じられていたようなのです。 

 そうなると、今日見るような、橋掛かりから、そろりそろりと時間をかけて出て来るような、幽玄の能ではなかったのでしょう。もっともっとスピーディーで素早い展開だったはずです。しかも、私が想像するには、かなりその場にいる観客を意識して、アドリブなども入れたりして、サービス精神あふれる舞台だったのではないかと思います。そうでなければ、ほとんどの人が文字も読めず、めったに芸能を見る機会のなかった民衆が、木戸銭(入場料又は米)を支払って見に来るとは思えないのです。つまり高尚な芸を目指しつつも、決して俗から離れて猿楽を演じることは出来なかったと思います。

 

 更に、観阿弥は、生きて行くために経営面でも相当な苦労をしたのだろうと推測されます。そもそも室町以前の興行と言うものは、貨幣が発達していませんから、木戸銭を銭では貰えず、田舎のお百姓が、自分が育てた米や、麦、粟、蕎麦の実などを持参して、木戸口で、升で計って入場していたと思われます。

 これは、相当に大変な作業だったと思います。雑穀の相場を知っていなければなりませんし、かき集めた雑穀を仕分けるのに手間がかかります。更に大量に集まった雑穀を都に持って帰るわけにもいきませんから、恐らく、寺か、町の庄屋などに頼んで、金銀に変えて貰ったのでしょう。この作業が相当に煩雑で、経営の才能がないと利益が出るかどうかはかなり際どいものだったと思います。

 その上、当時は寺の境内に囲いを作り、天井のないところで興行するため、例えば晴天10日間、猿楽の興行をするとして、当地に赴いても、実際、5日も6日も雨が降ったなら、ほとんど興行は経費倒れして収入などなく、やむなく、衣装や小道具を質に入れて、身一つで帰って来なければならない場合もあったはずです。昔の興行と言うのは全く水物で、やって見なければどうなるかわからないものだったのです。

 と、私は見て来たような話をしますが、実際、私の親父などは、戦争中から地方都市に出かけて、演芸大会などに出演していましたが、時には大雨や大雪で人が来ないこともあったようですし、逆に、大入り満員の時もあり、座員は気を良くして、町の料理屋で座敷を借り切ってどんちゃん騒ぎをしていた時に、町に大津波がやって来て、何もかも波にさらわれて、身一つで東京に帰ってきたこともあったようです。

 それが昭和20年代の話です。芸能は常に不安定だったのです。ましてや室町時代の初頭ではどんな災難が起こらないとも限りません。それでも室町時代になると、大量の宋銭が出回るようになり、銭払いが定着して、興行は楽になったとは思います。

 とは言うものの、大量の銭を背負って帰ることは出来ず、結局は、寺か、町の金持ちに金と交換してもらわなければならなかったでしょう。

 恐らく観阿弥は、地方の神社などの祭礼に出向く時でも、取り決めの出演料などはなかったでしょう。全く現地に行って、木戸銭を貰うことが全てで、多少の支度金は貰ったかもしれませんが、ほとんどは自前で興行していたのです。

 こんなことはつい最近まで芸能はそうしたものだったのです。私の親父は、生涯仕事の依頼が来た時に、出演料を言ったことがありませんでした。全ては相手の見計らいだったのです。親父とすれば、芸能は遊びの延長であり、職業ではなく、人に金額を要求できるものではなかったのです。それは親父に限らず、昭和30年代40年代の芸人はみなそうでした。

 ましてや観阿弥の時代ならば、働くと言うのは、汗水たらして、米や麦を作ることであり、きれいな着物を着て若い男が舞を舞うなんて言うものは労働ではなかったのです。当然、観阿弥にとっても出演料などと言う考えはなかったのです。

 観阿弥は猿楽一座の座長として、興行全般を取り仕切り、銭の交渉から、座員の給金、天気の心配から、観客の集まり具合まで、何から何まで関わっていたのです。生きて行くことが余りに煩雑で、気持ちの休まる時がなかったでしょう。但し、こうしたことは風姿花伝には全く書かれていません。

 

 それでも観阿弥一座は、数多くある猿楽一座の中では人気が高かったようで、やがて大きな転機が訪れます。それは、都のとある神社で興行した際に、三代将軍足利義満が見に来たのです。そして世阿弥の舞を気に入りました。時に世阿弥13歳でした。

 早速将軍家の館に呼び出され、褒美を貰います。その上で、観阿弥世阿弥親子は、足利将軍家の庇護を受けることになります。

 これは飛んでもない出世です。足利幕府と言うのは、当時日本最大の権力者でした。但し、政治の上では矛盾に満ちていて、鎌倉幕府を倒したまでは大功績でしたが、その後、後醍醐天皇と仲たがいをし、やむなく北朝天皇家を起こし、日本に南朝北朝二つの天皇家を作りました。分裂は天皇家だけでなく、足利一族も兄弟が仲たがいをし、戦いに継ぐ戦いを繰り返し、少しも国が治まらなかったのです。それがどうにか統一を見せたのが、三代将軍義満のころからで、この時期から足利の権勢が大きくなって行きます。

 その上り坂の将軍に見初められたのですから、世阿弥は幸運だったと言えます。世阿弥は、恐らく今日のアイドルスターのように、飛び切り格好良く、見るからにスター然とした人だったのでしょう。義満には男色趣味があったと多くの本に書かれています。世阿弥は義満に寵愛され、今日のジャニーズタレントの出世物語にように、多大な援助を貰い、日本一の芸能界の人気者に成長して行きます。

 それを父親である観阿弥はどう見ていたのか、恐らく、猿楽一座で生きて行くことの苦労を知っていた観阿弥にすれば、息子が足利将軍の庇護を受けることに抵抗などあろうはずもなく、一家、一族の繁栄を維持するための千載一遇のチャンスととらえていたでしょう。13歳の息子の心の傷には目をつむったのです。生きて行くためには今とは比べ物にならないくらいの苦行を強いられた時代に、人もうらやむような成功を手に入れるための代償はまた大きかったのです。

 続く