三代目吉田菊五郎
私は、吉田菊五郎の水芸に大いに興味があります。今に残る松旭斎派の水芸とは違う、別の水芸があったと言うことが大きな興味です。しかも天一が活躍していた時代とほぼ同時代に、大阪の中座や弁天座などの大歌舞伎を演じていた劇場を、自らの看板で満席にしていたと言うのがすごいと思いました。
然し、その水芸は二代、三代と継承されることなく、消えて行きました。その大きな原因は、第一次世界大戦以後の不況が大きかったようです。大劇場に人が集まらないようになり、仕事も減って立ち行かなくなって行ったようです。二代目は一座を縮小し、数名で出来る手妻の内容に作り直し、小さな劇場や、地方の祭りなどに出演していたようです。その際、三代目になる息子も手伝っていたようです。
いつのころからか、鶴橋の駅から少し歩いた、猪飼野(いかいの)と言う土地に、文化住宅が出来て、吉田一家は移り住みます。恐らく、二代目、三代目同居だったのでしょう。その文化住宅が三代目の終の棲家になります。
文化住宅と言うのは、言って見れば長屋ですが、二階建てです。間口は二間(3.6
m)幅ですが、二階に部屋が幾つかあるために、不便な暮らしではありません。 但し、大道具をする奇術師が暮らすとなると道具の置き場に困ったでしょう。つまり二代目は文化住宅に移るにあたって、多くの道具を処分したのでしょう。
引っ越した時期は、大正11年くらいではないかと思います。その理由は、大正12年ころに東京の三代目帰天斎正一が、関東大震災で被災して、大阪に移って来たからです。その帰天斎に三代目菊五郎が、「家の隣が開いているさかいそこに越して来たらどうや」。と声をかけたのでした。
菊五郎と帰天斎とは以前から交流があったようです。帰天斎に引っ越しを進めるからには、菊五郎自身がそれ以前に猪飼野に住んでいなければなりません。文化住宅は新築だったと聞いています。いろいろ考えると大正11年ころに引っ越したのではないかと思います。菊五郎も帰天斎も以後そこの文化住宅に住むことになります。
私は吉田菊五郎師とも帰天斎とも面識がありません(共に私が10代の頃亡くなっています)。菊五郎師は、帰天齋と仲が良かったようです(帰天斎、明治15年生、菊五郎、明治22年生まれ)。奇術研究家で岡山に住んでいた山本慶一氏が、吉田菊五郎の使用した早替わりの衣装を持っていて、それは帰天斎が持っていたものを譲り受けたと話していました。
「藤山さんが必要なら、差し上げましょうか」。と言って下さったのですが、その時は遠慮をしました。今になって思えば、貰っておくべきだったと思います。
きわめて個性的な仕掛けで、着物の背中に鯨の長い髭がジグザグに、荒く縫い込まれて差し込んであって、70㎝もある長い髭を引き抜くと、着物が左右にパラリと外れて、一瞬で衣装が替わる仕掛けでした。これなら誰の手も借りずに一人で衣装替わりが出来ます。
慶一氏はこれを帰天斎から譲り受けたそうです。恐らく帰天斎は、菊五郎氏が 亡くなる時に形見分けとして、幾つかの道具や衣装を貰ったのでしょう。
昭和38(1963)年、渋谷の東横百貨店(今の東急デパート)にあった東横ホールにて、「これが日本の奇術だ」と言うタイトルで、新旧の日本を代表するマジシャンが公演をしました。これは奇術研究家の平岩白風個人が企画した公演で、この時、一部が手妻でした。
一徳斎美蝶(箱積みと一本傘)、松旭斎天春(夕涼み)、帰天斎正一(蝶と夫婦引き出し)、吉田菊五郎(万倍傘)、二代目松旭斎天勝(水芸)、と言う、当時の手妻師の大看板が出演しました。私はこの時8歳でしたから、残念ながらこの公演を見ることは出来ませんでした。
この時、菊五郎は、バケツを改良した容器に水を入れて、その中から様々な品物が出て来ろ万倍芸を演じます。絹の反物を出し、その反物の中から傘を20本も出しました。傘は和傘だけでなくパラソルも出すと言う変わった趣向で、舞台一面傘だらけにします。その中でさらに大幕を出します。その幕が旭日旗で、大きな派手な幕の裏側で素早く衣装が変わって、お終いになります。
吉田流の伝統的な早変わりは残りましたが、バケツを使った夕涼みは、戦後間もない時代に作ったためか、和の芸能としては違和感を感じます。今となっては何とも言い難いものです。また、和傘だけでは飽きると思ったのかパラソルまで出すと言うところが、何とも昭和の芸です。時代を反映させて、生き残りをかけて観客にアピールしているのでしょうが、手妻の衰退の原因が見えるように思います。
私の知る限りにおいても、昭和30年代40年代の手妻師は、BGMにラテン音楽を使ったり、ベンチャーズを使ったり、洋服に蝶ネクタイで蝶を飛ばしたり、蒸籠や、連理の曲を普通に洋装で演じていました。それが昭和のモダンだったのです。生き残るためにはそうする以外なかったのでしょうか。
さて私の知る三代目吉田菊五郎はここまでです。至って縁の薄い人ではありましたが、何とも忘れることのできない人です。その後、帰天斎の芸養子になった正華師匠を訪ねて度も猪飼野のご自宅に伺いました。文化住宅は昔のままで、そこにお一人で暮らしていました。
お宅には帰天斎の道具や衣装などは何もありませんでした。隣に菊五郎さんが住んでいたことも伺いましたが、今は別の人が住んでいると仰っていました。菊五郎も帰天斎も80年以上共に隣同士に暮らして、今は何も残っていません。
私は二代目菊五郎のビラ絵に10代の頃から憧れ、裃姿で傘を出して噴水の中に立っている格好が気にいって、その絵柄を顔だけ書き換えてもらって今も名刺に使っています。当時は、「あぁ、こんな舞台が出来たなら、どれほど幸せだろう」。と思いました。どうやらそれは達成できたように思います。
然し、私が作った世界がこの先残り得るかどうか。未だ安定した専門劇場を持たない手妻が、この先どうしたら残り得るのか、何人か育った弟子も、この先安定して生きて行けるものかどうか。いろいろ考えると心配の種は尽きません。初代、二代目の菊五郎の晩年も、私と同じことを考えていたのでしょうか。
続く