手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

三国 帯のまち流し

三国 帯のまち流し

 

 一昨日と昨日(10月5日6日)、福井県坂井市三国で開催されたお祭りに出演するため伺いました。三国については度々ブログでも書いていますが、江戸時代に北前船の交易で栄えた町で、町の商人は大きな財力を持ち、豪壮な家を建て、とても豊かに暮らしていました。

 その町並みがそっくり今も残っていて、九頭竜川の河口から川沿いに長く続く街並みは、歩いているだけでも150年、200年前の世界に入り込んでしまったかのように素晴らしい景色を残しています。

 本や映像で三国の町の美しさを見ていた私は、一度、三国の街並みを見て見たいと思っていたものを、今年の6月に龍翔館博物館(元は明治初年に建てられた小学校で、5階建ての和洋折衷の天守閣のような建物。今は丘の上に移築され、博物館になっています)から出演の依頼があり、そこに出演するために三国に一泊泊まり、翌朝に町を散策しました。

 その時に町並みの豪華さ、調和の取れた美しさにすっかりはまってしまい、三国のファンになってしまいました。更には、数日後、町の祭りに実行委員をされている森田さんから、10月5日の祭りの出演依頼を頼まれ、何と言う幸運と喜びつつ、お引き受けした次第です。

 祭りの名前は「帯のまち流し」と言い。町全体が細い一本道に発展した、細長い町であることからこの町を帯に見立て、町の端から端まで踊りで流して歩こうと言うものです。夕暮れ時の6時ころから踊りが始まり、二時間くらい練り歩いて町はずれの港まで至ると言うものです。

 元々三国には三国節という唄があり、座敷などで三味線太鼓に合わせて唄っていたものを、祭りのときに、三国節に合わせてみんなで踊ろうと言うものです。揃いの浴衣や法被姿で、女性は鳥追い笠をかぶり、ゆったりと静かに踊って行きます。富山の風の盆にも似た雰囲気です。

 さて、その踊りは、日暮れから始まりますが、昼から観光客は大勢来ていて、それぞれ食事をしたり散策をしたりして楽しんでいます。その中で、私は、4時半と6時半の二回。森田銀行の建物の中で、手妻を致します。

 森田銀行とは、地元の財力のある家が建てた銀行で、町ではほとんど唯一と言ってよいほど、煉瓦造りで、西洋建築の建物です。今は資料館として残っていますが、この建物の中で舞台を拵えてショウを致します。

 外観が煉瓦造りで、内部はまるで東京駅のステーションホテルの一部分であるかのような古風な造りですから、街中ではとにかく目立ちます。この建物を建てた森田さんは当時は自慢だったでしょう。石材もたくさん使っています。室内の装飾は、石ではなくて漆喰を使って、それらしく作ってあります。知らずに見たなら、石造りと区別がつきません。

 

 さて私は朝9時30分発の北陸新幹線に乗って、12時15分に芦原温泉駅に到着、そこから車の迎えで三国に入りました。そして、龍翔館に伺い、笠松館長にお会いして、しばらく話をしました。笠松間ちょいは、元々福井市の子ども歴史博物館の館長をされていて、その折、天一祭を立ち上げる時に随分とお世話になりました。それから龍翔館を後にして、出演者の控室に入って、道具のセット。4時に森田銀行に入り、衣装を着付けて、4時半に一回目の公演をしました。

 内容は、引き出し、柱抜き(サムタイ)、お椀と玉、蝶のたはむれ。です。いつも演じている手妻ですから、なんの問題なく出来ますが、演技の途中に、松旭斎天一先生のこと。三国の町のこと。かつてあった三国の湊座の話など交えて手妻を演じて行きました。今はなくなった湊座を復活させて、町のシンボルになったらいいと思います。

 町は伝統保存にばかりこだわっていると、どんどん抜け殻の様なものになってしまい。しまいに町自体がが死んで行きます。今も現役で生き続けていて、人の役に立っている町でないと、人は暮らして行けませんし、そこに若い人も集まりません。

 町を残すのではなく、生かさなければ町にはなりません。そのことは手妻も同じなのです。昔の芸能を只守って残していても、それで手妻は生きては行けません。手妻を演じることで今の人たちの役に立たなければ残り得ないのです。

 昔のマジックを、昔のまま、着物を着て演じていたのでは、それは陳腐な芸です。それを見て感動するお客様も育たず、演じて見たいとする若い人も集まっては来ません。全ては残すのではなく、生かす才能にかかっています。

 それだけに演者のセンスが問われます。如何に古典芸能であっても、お客様にすれば、あっても無くてもは残りませんし、ましてや手妻で生きて行くことは出来ないのです。

 

 さて、お客様は大変に喜んで下さって、見たお客様が町中で噂をしてくれました。お陰で二回目もたくさん集まってくれました。二回目は池田市長も見えました。そこで再度「湊座を作って下さい」。とお願いすると、「何とかしましょう」。と言ってくださいました。

 さぁ、そうなると、上手くすれば、町のシンボルとして湊座が復活するかも知れません。明治20年代に松旭斎天一が出演した湊座が、落成して、劇場として生かせるようになれば、きっと面白いものになると思います。私もこれからは、福井と東京を何度も往復するような活動をするかもしれません。少しでも三国が賑やかになって、若い人たちが三国に住むことがステータスと感じるようになって、充実した生活が送れるようになったなら楽しいと思います。そうなることを期待して、少しあちこち宣伝してみようと思います。

続く