手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

如月も僅か

如月も僅か

 

 2月は昔の言葉で如月(きさらぎ)と呼びます。旧暦は一か月ずれますから、今の三月が如月になります。如月とは、漢字を見る限り何のことだかわかりませんが、着物を更に重ね着すると言う意味ではないかと思います。つまりまだ寒いと言うことです。

 話は鎌倉時代のことです。頼朝、義経兄弟が不仲となり、義経は都を追われます。僅かな家来を連れて逃避行を重ねます。東海道や中山道は警備が厳しいため、北陸道の山道を辿って奥州に落ちのびようと考えます。義経主従は山伏姿に変装して関を通り抜けようとします。 これが今も歌舞伎や能で演じられている勧進帳(能では安宅)です。その歌舞伎の出だしに語られる長唄の歌詞は、

 旅の衣は篠懸(すずかけ)の、露けき袖や萎(しお)るらん。時しも頃は如月の十日の夜。月の都を立ち出でて。

 ようやく出ました如月です。私の話は持って廻って長いのが欠点です。つまり義経主従は芝居では、2月の10日に京を去り、恐らく10日ほどかけて能登の国(石川県)の安宅の関を通過したわけです。山中で、人通りもないところばかりを歩き、しかも粗末な身なりですから、さぞや寒かったでしょう。

 毎朝寒い寒いと言っても、我々の生活している寒さとは桁が違います。能登の山中なら夜は確実に零下でしょう。そこで野宿するわけですからまともに寝られるかどうか。寝たとして、翌朝目が覚める可能性があるかどうか。そのまま永久に目が明かないことだってあり得るのです。毎日が生きるか死ぬかの瀬戸際だったと思います。

 民家を見つけて食べものを求める事もあったでしょうが、うっかり人と接触をすると通報される可能性があるため、よほどのことがない限り里に出ることはなかったでしょう。大概は険しい山道を辿り、獣を捕まえて飢えをしのいでいたのでしょう。

 然し、主従で10人も20人もいる人数の食べ物を、連日確保することは容易ではなかったはずです。山で遭遇した鹿や猪を仕留めたならご馳走で、蛇やネズミでも食べられるなら幸運だったと思います。

 何もなければ、草や木の皮や虫でもかじるよりほかはなく、雨が降れば煮炊きも出来なかったでしょうから、草や木の皮を生でかじるよりほかはなかったでしょう。義経一行は全く山伏修験道を実践しつつ逃避行を続けていたわけです。

 

 と、話は長くなりましたが、旧暦2月20日(いまの3月20日)ごろでも昔の山中は、とんでもなく寒かったでしょう、ましてや今日の2月26日(旧暦1月26日)なら耐えきれないほどの寒さだったと思います。

 如月と言う月はいまだ寒い、と言うことが言いたくて義経の話をしたわけです。それでもこの数日は暖かくなってきました。然し、気を付けないといけません。又急に寒くなることがあります。こうした気温の変化でお年寄りが病気になることが良くあります。

 以前の私は、どうして僅かな温度の差で年寄りが病気になるのか皆目わかりませんでした。「セーター一枚でも余分に着たら済むことではないのか」。そう思っていました。いやいや気温の変化が筋肉や内臓に大きく作用して、体が自由に動かなくなるとは考えもしませんでした。

 雨の降る日は関節が痛いだとか、寒い日は起き上がれないだとか、僅かな気温の差で生活が出来ないことがある。と言うのは若い健康な人には理解できないことなのです。未だ私はそこまでの体になってはいないのは幸いです。それでも、仕事が続くと少し疲れます。今まで何もしないでぼおっとしていることなどなかったのに、何もしないで動かないでいると心地よいことに気付きました。危ないですねぇ。少しずつ年を取って来ているのでしょう。

 まだまだ体の動くうちに新しいマジックのアイディアを考えて、手順を作って、稽古して、新しい仕事先を見つけて、活動をして行かなければなりません。仲間を見ていると、だんだんとみんなが活力を失いつつあるように見えます。

 

何とか元気を出してやって行こうよ、と激励する立場であるものが体が動かなくなってはいけません。まだまだ積極的に活動して行かなければなりません。仲間のためにも、家族のためにも、弟子のためにも。

 

 続く