手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

終戦記念日

終戦記念日

 

 毎年8月になると、太平洋戦争(大東亜戦争)や、日支事変などの記録映像がテレビで放送されます。そして、広島、長崎での原子爆弾の記念式典。ハワイ攻撃や、沖縄戦ガダルカナルの攻防戦など、当時の映像をこれまで何十回見たことか。

 私の子供の頃は、ほとんどの家の父親が戦争を経験していたため、家では父親と母親が毎日戦争の話をしていましたし、学校では先生が授業そっちのけで戦争の話をしていました。

 私の子供の頃ですから、昭和40年くらいです。その頃の教師や近所の大人は、40歳くらいであればみんな軍隊に行っていたのです。彼等にすれば20年前の出来事はついこの間のことです。実際20代で軍隊や、戦争を経験したなら、生涯忘れることは出来なかったのでしょう。いくら語っても語りつくせないくらいの体験だったのでしょう。

 教師は、戦争の体験を熱弁しつつも、必ず話のお終いに、「でも、戦争はいけない」。と言いました。そう言っている教師が、また数日すると、中国での戦いや、南方での戦い、巡洋艦に乗って、敵の船を大砲で撃破した話を面白可笑しく話していました。「何だ、結構楽しんでいたんじゃないか」。と思うのですが、楽しかったとは決して言いませんでした。

 よく当時の大人が話していたことですが、「日本が満洲を取ったとき(昭和7年)に、戦争をやめておけば、今頃大きな領土を持っていて、いい生活が出来たんだ。その後の空襲もなかったし、原爆も落とされなかったんだ」。と言っていました。

 まるで博打の止め時を間違えたかのような言い方です。でも、ほとんどの日本人の大人たちはそう思っていたようです。もしそうやって、満州を手に入れたときに、戦争をやめていれば、朝鮮半島も、満洲も、台湾も、樺太も日本領です。国土は今の7倍くらいはあったでしょう。

 そうであれば、日本の仕事場は広くて、たくさんの仕事があったでしょう。天勝などは、日本中の劇場を回るのに二年かかったと言っていました。日本国内だけでなく、朝鮮半島満洲、台湾、樺太と、各都市の劇場を回るだけで二年かかったのです。

 芸能だけでなく、樺太油田も見つけ出したなら、石油に困ることのないでしょうし、満洲には、たくさんの鉄鋼や石炭の資源がありましたし、大豆やジャガイモなどたくさんの農作物も手に入ったでしょう。台湾には米やバナナや砂糖が豊富に採れました。

 日本はとても豊かな国になっていたはずです。しかし、もしそうなっていたなら、誰も「戦争はいけない」。とは、言わなかったでしょう。日本国内の軍部が残って、たくさんの軍人が存在したでしょう。

 その軍部が、おとなしく、その後一切の戦争をしなかったかどうか。と考えるなら、そのまま今日まで戦争をしないとは考えられません。一度成功を手にすると必ず、同じことを繰り返しすのが人の常ではないかと思います。

 まさにギャンブルと同じで、大勝ちしたときにやめるのはいい決断なのですが、その後、全くギャンブルをせずに足を洗えるのか。といえばそれは無理でしょう。戦前の日本のように、戦争を一つ起こすたびに、日本の景気が大きく上向いていた時代は、ほとんどの国民は、少し不景気になると、「またそろそろ、どこかで戦争しないかな」。と次の戦争を当てにしていたのです。

 戦争が国の需要を賄っていたわけです。そうした国が、強い軍隊を持っていれば、必ず、負けるまで戦争を続けることになるでしょう。「あぁ、満州を取ったときにやめておけば」。というのは、ギャンブルをする人の後悔であって、それが止められないのがギャンブラーなのでしょう。

 

 石原莞爾と言う参謀は、今でも天才的な軍略家と呼ばれています。この人が満州事変を画策して、関東軍を動かし、わずか1万人の関東軍を使って、当時の満洲の中国軍30万人を抑え込んで、瞬く間に満洲全域を手に入れました。余りの戦いの見事さで、日本も中国も、呆気にとられ、あっという間に満州国が建国されます。

 然し、この戦争は、昭和天皇が許可したものではありません。天皇に無断で関東軍を動かし、勝手に満洲を占領したわけです。これは軍律に違反しています。しかし結果良ければすべて良しで、誰も軍の暴走を、非難する人がいなかったのです。むしろ石原莞爾は英雄として評価されたのです。

 ところが、その後、石原莞爾の後輩連中が、石原の手法を真似て、無断で中国の熱河地方を侵略し、更には上海事変、南京事変と次々に侵略を開始します。無論すべて天皇に対して無許可で軍部が独走します。石原莞爾は、この時、自分の失敗を悟ります。

 石原が熟慮を繰り返してようやく手に入れた満洲を、同じ手法で、中国侵略に使って行ったのです。これが結果において、中国と抜き差しならない長期の戦いになって行ったわけですから。満州事変だけを取り上げて、「ここで止めておけばよかったのに」。と、は言えないでしょう。

 国民も、陸軍が、熱河を攻めれば「それまた戦争だ」。と日本国内の企業は大喜びをしたでしょうし、上海を攻めえば、国を挙げて祝ったのです。そんなことをしているうちに、どんどん戦争の深みにはまって行ったのですから、どこかで区切って、歴史を止めることなどまず不可能です。

 それでも、その後の太平洋戦争の、ガダルカナルの戦いや沖縄戦、日本国内の空襲、原爆投下などの悲惨な状況は防げなかったのか、と悔やまれます。

 唯一の可能性は、国民党の蒋介石総統が、日本の近衛首相と会談をして、和平を結ぼうとしたときがありました。この時中国と和平協定を結んでいれば、その後の太平洋戦争は起こらなかったのです。なぜ、この協定が結ばれなか明日お話ししましょうお話ししましょう。

 続く