手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

詩さんの涙

詩さんの涙

 

 パリオリンピックたけなわです。連日遅くまで観戦していて、ついつい朝が早く起きられません。そのためブログも遅れてしまいます。

 日本柔道は大活躍をしていますが、阿部詩さんは早くに敗退してしまいました。その際に、会場全体に響くような大声で泣きはらしました。翌朝私はブログで、「これまでの色々なことを思えば涙が止まらなくなるのはよくわかります。泣くのは仕方のないことです」。と書きました。

 然し、ネットでは何人かの人は、「人前で大泣きするのはみっともない。勝っても負けても表情にあらわさないのが武道の在り方だ」。と言う人もありました。それはその通りです。然し、だからと言って、負けて涙を流す敗者を、「大声で泣くな、武道家として恥ずかしい」。とコメンテーターが言えるものかどうか。

 私はブログの中で人を中傷するのは好みませんが、特に、東国原さんのコメントは少し気になります。この人は元々北野武さんの弟子になって、漫才をしていた人です。つまり芸人として長く活動していた人ですね。

 然し途中から宮崎県知事に立候補して、政治家になり、宮崎県で大きな成果を上げた人です。更にその余勢をかって東京都知事にまで立候補しています。都知事は残念ながら当選しませんでしたが、その後は評論家、コメンテーターとなってテレビに出演し続けています。

 頭が良くて、切り返しの早い人ですから、テレビにはぴったりの人なのでしょう。然し、どうも私の見るところ、この人はいつの間にか、社会道徳を盾に、高所から人を語るようになってきました。いわゆる政治家としての発言が目立ちます。

 果たして、この人の過去の行いを見て、道徳を語れる人なのかどうか。いつ芸人をやめて教条的な、人を諭すような考えを持つようになったのか。訝しく思います。

 芸能の価値観と一般社会の考えとは180度真逆に存在します。芸能と言うのは、やってはいけないこと、言ってはいけないことを肯定して、人の愚痴や、間違った行いを百に一つも掬って認めてやる。あるいは許してやることが芸能の本質なのです。

 疑う前に、世界中の演劇や映画を見て下さい。ほぼすべてやってはいけないことのオンパレードです。人を殺してしまった。ものを盗んでしまった。戦争を起こして国を破滅に追い込んだ。そんな話がこれでもかと出て来て、過ちを繰り返し演じています。

 漫才や、コントでも同じくです。言ってはいけないことをペロッと言ってしまうお調子者に対して、常識的な役をしている相方が、必死になって打ち消します。然し、本当に言いたいことは、間違いを正す相方のセリフではなく、言ってはいけないことを言ってしまうお調子者のセリフです。

 みんなが言いたくても言い出せないこと。それをうっかり言ってしまう、はみ出し者の言うことに人は共鳴するのです。芸能とは言わば、やってはいけないこと、言ってはいけないことを何千年も弁護して支え続けてきたことで成り立っているのです。

 

 歌舞伎の勧進帳は、頼朝との政争に敗れた、弟の義経が、都を追われ、僅かな家来とともに能登の国まで落ちのびて行きます。その山中で粗末な酒宴を催しているときに、弁慶は主のあまりにみすぼらしい姿を見て、思わず涙を流します。

 どんな苦境に陥っても、人を束ねて行く立場の者が人前で涙を流すことは間違いです。然し涙が止まらなくなります。長唄では「ついに泣かぬ弁慶も一期の涙殊勝なり」と唄います。そして、「判官御手を取り給い」と、義経がそっと気遣って、弁慶に手を差し伸べます。それを見た弁慶は感激のあまり、一層涙が止まらなくなり、逆に人目をはばからず大泣きします。歌舞伎の名場面です。

 歌舞伎ではいい場面ではありますが、当時の常識で考えるなら、武士がみだりに大泣きすることはみっともないことです。然し人は、時に、常識を踏み外してでも自身の感情を爆発させます。それが偽らざる心であって、人はここに感動します。

 それゆえにこの場面は語り継がれて行きます。この一コマは決して歴史の教科書の中では残り得ない話です。言ったところで愚痴に過ぎません。然し、芸術の中では繰り返し語られます。全ての思いを超えて語りたい真実があるからです。

 阿部詩さんの涙が、芸術としてこの先も語られるのかどうかは知りません。然し、真実の涙であることは事実です。侍とはこうあるべきもの、柔道家はこうでなければならない、と言うのは、事実ではありますが、法律ではありません。柔道のルールですらないのです。

 侍心と言うのは個々の心の中にあるものです。自らをどう律して生きるかは自らの判断にあります。外部のユーチューバーやコメンテーターが「こうあるべき」。と、教え諭すべきものではないのです。あれだけ毎日努力をしている人に誰が物を教えられるのですか。

 敗北に対して、無言でひたすら耐えている人も立派ですし、我慢できずの大泣きした人もまた、理解できることです。人の心は右に左に大きく動きます。どっちに動こうとも、その人の実績を見れば、それは納得のゆく行いなのではないですか。

 東国原さんは、自身の原点を思い出して、人を芸能の考え方から見直してみてはどうでしょう。間違っていること、やり過ぎたことこそ、芸能が助けて弁護してやらなければならないのではないでしょうか。自分自身が高所に立ってものを言っては芸能の存在意義はなくなってしまいます。いつの間にか立派になられて、ご自身がたけしさんの弟子で、お笑い芸人だったことを忘れてしまったのでしょうか。でも、それこそが東国原さんが都知事に選ばれなかった理由なのではないですか。いつの間にか弱者に冷淡になっていませんか。

続く