手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

栄光を掴んだのか

栄光を掴んだのか

 

 6月1日。福井に向かう新幹線の中で、田代茂さんから電話を貰い、名古屋の田中太郎さんが亡くなったのを知りました。同時に、かつて六本木のオズマンドでショウをしていた岡井康彦さんも亡くなったことを知りました。共に30代半ば、これから活躍して行く年齢です。残念と言う外はありません。

 去年の11月の天一祭で、田中太郎さんのショップの人が、販売をしていたのを見て懐かしく思い、今年1月になって、不意に田中太郎さんに電話をしてみました。そして1月26日に名古屋の錦通りにあるバーモメントスに出かけました。

 その時の様子は、私のブログ、「モメントス」と言うタイトルで1月27日に書いています。田中太郎さんは10代の頃、石丸(本名)君と言い、ときどき私の公演を手伝っていました。その後、クロースアップを見せるバーなどに出演するようになると、だんだん縁も遠くなり、会うこともほとんどありませんでした。ただ、早くからアルコールが好きで、呑み出すと止まらないところが見ていて心配でした。

 今年1月に、久々モメントスで会っても、矢張りアルコールはやめられないようでした。「典型的な破滅型の人生だな」。と思いました。至って縁の薄い人でしたが、それでも私よりも若くして亡くなってしまうのは残念です。

 そもそも今年の1月に、私がなぜ彼の店に行こうと思ったのか、それが謎です。彼のクロースアップに興味があったわけでもなく、縁が続いていたわけでもなく、ふいに思いついて出かけて、その半年後に亡くなってしまったのです。実に不思議な縁でした。

 

 6月1日の田代さんからの電話は、同様に岡井康彦さんが亡くなった話を伺いました。岡井さんは、学生のころからスライハンドがうまく、特に天海さんの7枚カードが得意でした。北見マキさんに習い、一門となったようですが、プロ活動はせずに、大学の職員として働いていたようです。

 それが、六本木のオズマンドと言うシアターレストランに専属タレントとして招かれて出演するようになりました。大学の事務員との二足の草鞋でしょうか。それが良かったのかどうか、私は早速オズマンドに行き、演技を見ました。

 イリュージョンや、クロースアップまで多彩にこなしていました。多彩と言えば聞こえは良いのですが、演技はどれも「わが心そこにあらず」。の感じで、情熱をこめて演じているようには見えませんでした。

 すると、彼はその数日後に私の事務所に来て、何を演じたらいいのかと質問を受けました。どうも、今やっているマジックショウに納得が行かないようなのです。然し、いろいろ聞いていると、マジックの作品の悩みではなく、自分自身が何となくマジシャンとしておさまりが悪いように感じていることが分かりました。

 彼の言わんとすることは分かります。店にいて、スライハンドからイリュージョン、クロースアップをしていても、どこか彼の居場所がないのです。唯一、7枚カードをしている時だけは自信を持って演じています。それでも、プロの表情にはなっていないのです。上手なアマチュアがカードを演じているように見えました。

 当人もそのことに気付いているようで、「この先どうしたらいいでしょう」。と私に聞いて来ました。私は、「逆に君は何がしたいの」。と尋ねました。

 「君がどんなマジシャンになりたいのか、どんなマジックをしたいのかは、私が教えることではなくて、君が探し出して来ることでしょう」と言うと、「そうか、そうですよね、どんなマジシャンになりたいか。そこが必要なんですよね。そうです。そうなんです」。と自問自答していました。

 その後も何度か岡井さんの舞台は見ましたが、常に自信なさげで、気持ちが入っていないような舞台でした。そのうちオズマンドもやめてしまい。勤めに専念していたようですが、精神的な病になったと聞きました。

 人の意見をよく聞く人で、先生の北見マキさんのアドバイスを受けたのか、7枚カードが地味だからと、お終いの方で和傘を出す手順を作って、コンテストに出たりしていました。その手順の感想を私のところに聞きに来た時には困りました。

 「そもそも、カード手順と和傘は相性が悪いでしょう。無理無理派手にしたところで、あなた自身が納得のゆく演技にならないでしょう」。と言うと、「そうなんです。納得行かないんです」。と素直に認めていました。なまじ人の言うことを素直に受け入れてしまうことが、後になって自分のしたいことがまとまらない結果になってしまい、一層自分が見えなくなるのだな、と思いました。

 

 誰でもそうですが、プロの世界に入って見ると、周囲にプロと見比べたときに、自分の考えが余りに粗末であることに気付きます。そんな中で自分はどう生きて行ったらいいのか、と悩むことから、プロの道はスタートします。悩むことはいいことで、プロは悩まなければうまくならないのです。そのスタートラインに立った瞬間から、岡井さんはプロとして生きることの恐ろしさを知ったようです。

 そしてその先どう生きたらいいか、と考えて、どうしていいのかわからずに、「12本リングを教えて下さい」。「紙卵を覚えたい」。と言って紙卵一式を購入したり、道具や手順に答えを求めているうちに目的がわからなくなってしまったようです。熱心に私のところに来て、話を聞きたがるのはいいのですが、話から、インスピレーションを感じて、何か新たな考えが出て来ることはなかったのです。

 私には、彼の本当の悩みが何なのかは分かっていました。

 彼は本来、アマチュアとしてマジック活動して行く人だったのでしょう。多少の話題を集めて知られ始めたときに、周囲から持ち上げられて、期待値が上がって行くに従って、自分がそれに応えられないことが分かったのでしょう。何とか期待に応えようとして演技をして見せるだけでいっぱいいっぱいだったのだと思います。そうした中で精神が崩壊して行ったのだと思います。

 何にしても30代半ばの短い人生でした。田中太郎さんと言い、岡井康彦さんと言い、彼らは一瞬でも栄光を掴めたのでしょうか。そしてマジック人生に満足できた時があったのでしょうか。いろいろ考えると複雑な思いがします。

続く