手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

結局センスがない 

結局センスがない

 

 もうずいぶんネットやニュースなどで叩かれている話なので、私がここで書くまでもないことですが、スシローチェーンで湯飲みを舐めまわしたり、寿司の皿を舐めて戻したりした高校生が、寿司チェーンに大きな損害を与えたとして、莫大な損害賠償を請求されることになりそうだと言う話。

 これを高校生の側に立って弁護する人は先ずいないでしょう。既に世間のほとんどの人からぼろくそに言われています。でも、こうしたことは今に始まったことではなく、昔から繰り返されていて、しかもいくら批判されても次々に出てきます。

 数年前に、コンビニのアイスクリームの展示ケースの中に入って、悪ふざけしていたアルバイトが批判されました。当人たちはさほど悪意もなく、こんなことをやったら仲間に受けるだろうと思ってネットに乗せたのでしょう。

 今回も同じです。何でこんなことをするのか、と言うと、「あいつ、あんな馬鹿のことをしている。面白い奴だ」。と言われたいのでしょう。

 でも現実には大批判の末に巨額請求です。その差は何なのでしょう。それは結局のところ、笑いのセンスがないのです。笑いを履き違えているのです。馬鹿馬鹿しいことをすればそれが笑いにつながり、仲間の話題になり、自分がヒーローになれると思って行動するのでしょうが、笑いとはそんな簡単なものではないのです。

 

 笑いと言うのは両刃の剣です。笑いを作ることは、時として周囲の人や、自分自身が傷つき、怪我をして、批判されることも多々あります。笑いを作ることがどれほど大変なことか、そこに覚悟がないまま、無責任に面白そうだと、甘い判断をして笑いを作ろうとすればやがて大怪我をします。

 多くのお笑いタレントを見ても、どれほど多くのお笑いタレントが、わずかな判断ミスで人生を棒に振って、失業したり、出演チャンスを失っていることか。笑いとは、武器を持って戦うのと同じくらい、とても危険な行為なのです。

 笑いは、爆薬や、劇薬のようなもので、お笑いタレントは、それを日常保持しながらアドリブで、常に危険にさらされつつ、劇薬を薄めて周囲に配慮しながら使っているのです。多くのお笑いタレントは、信じられないくらい小心な人が多いのです。何でこんなことにくよくよ悩むのだろう。と思うほど対人関係に悩んでいます。それでいて、テレビや舞台では実に大胆に笑いを展開します。

 舞台が終わった後で、ひたすら一人で反省し、悩んでいます。どうも笑いにかかわる人たちはマゾ的な要素が強いように思います。きつい洒落を言っておきながら、周囲に気を使いつつ、ひたすら自己批判を繰り返します。それでも最後の線は守ります。やってはいけないこと、人に危害を加えないことのぎりぎりの線で自身のギャグを止めます。限界が見えていないと仕事としては成り立たないのです。

 それはある意味、プロレスに似ていて、額から血を流したり、パイプ椅子で相手を殴ったりして大乱闘を繰り広げて、スポーツ新聞を賑わしていても、翌日になると別の会場で同じような試合を繰り返しているのです。あんな戦いをしたら、翌日入院だろうと、プロレスファンは思いますが、決してそうではなく、ちゃんと明日の仕事のことも考えつつ、手加減をして殴っているわけです。

 お笑いタレントも同じで、「あんなことを言ったら大喧嘩になるだろう」。と思わせて、その実、事前に内容を相手に伝えてあったりします、その上で、言われた相手もものすごい反論をしますが、全ては読み込み済みです。相対喧嘩(あいたいげんか=仕組んだ喧嘩)なのです。普通に喋ったなら、誰も注目しない事でも、相手の尊厳に踏み込んできつい批判をすれば、世間は騒ぎます。そのぎりぎりのところまで踏み込んで相手の欠点をつき、笑いなり共感を集め、ひとしきり盛り上がった後で、どこかで終息させるからプロの技なのです。

 つまり攻めるだけ攻めてもどこか逃げ道を作っておいて、収束できるようにするのがプロです。今回の高校生の行為はやりっ放しで逃げ道などないのです。一線を踏み越えて、救いのないところまでやってしまっています。しかもしていることが不快感が先立って、笑いにつながっていないのです。何が笑いなのかわかっていないのです。笑いのセンスのない人が、笑いを知らずに笑いを作ろうとした結果があれなのです。

 日常、テレビで頻繁にお笑いタレントが出演している番組はありますが、彼らにすれば日々、戦々恐々の思いでコメントを言っているのです。一度でも悪印象を持たれたら二度と使ってはもらえません。滑ったらしばらく使ってはもらえません。と言って委縮していては仕事になりません。

 まるで高さ20mの上に綱を張って綱渡りをさせられているような思いで毎日テレビに出演しているのです。そんな条件で気の利いた笑いを要求されているのです。笑いが決して簡単な芸能でないことは明らかなのです。人を笑わせるくらい難しいことはありません。

 

 江戸や明治の人は、センスのない人の行為を「無粋(ぶすい)」。と言ってたしなめました。粋ではないと言うことです。江戸っ子の社会で無粋と言われることは、恥ずべき行為になります。金があるとか、姿、形がいいとか、人柄がいいとか、そうしたことを突き抜けて、当時の人は粋でありたいと願ったのです。粋と言うことは最高の褒め言葉だったのです。

 無粋は犯罪ではありません。でも、江戸で生きるためには必要なマナーだったのです。現代では、何かをしでかした人を、すぐに犯罪者扱いにして葬り去ってしまいます。間違いは間違いですが、そうして犯罪者に仕立てても同じことを繰り返す人が次々出て来ます。要は犯罪者にする一歩前で、周囲の目があれば未然に防げるのではないでしょうか。

 バカなことをする、くだらないことをする前に、同じ馬鹿なことでも、行動にルールがあれば、周囲は許します。ルールとは何かといえば、笑いが分かるとか、洒落心があるとか、粋だとか、そう言うことを事前に学んで行動していれば、刑事事件など起こらなかったのではないかと思います。

 これだけ世の中に笑いが普及したら、笑いとはどんなものなのか、どうしたら笑いが作れるのか、笑いを勘違いして、周囲に犠牲者を作り出すことのないように、学校の授業の中で数時間かけて教えてもいいのではないかと思います。一線を越えた人を助けてやることは出来ません。然し、そこへ行くまでの間に誰かが道を教えてやれるような社会が必要です。

続く