手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ごきげんよう

ごきげんよう

 

 昔の良いお家に生まれた子女は、友達と遊んで別れる時に、「ごきげんよう」、とか「ごきげんようさようなら」。と言って別れました。私が子供の頃でも、お婆さんで品のいい人は「ごきげんよう」。と言っていました。それを聞くと、「あぁ、あの人は育ちのいい人なのだなぁ」。と思いました。

 然し今、ごきげんようと言う挨拶は聞きません。そもそも。ごきげんようと言う意味は何でしょうか。相手に気持ちを推量して、「一日中よい日でありますように」。と言う意味でしょうか。そうなら英語の「have a nice day」、と同じ意味でしょう。

 江戸時代からあった言葉でしょうか。江戸時代なら「ご機嫌よろしゅう」、とか言う言葉を何かで読んだ記憶があります。そこから明治になって発展した言葉ではないかと思います。

 散々遊んだ仲間がその後も一日よき日でありますようにと祈るのは随分奥ゆかしい意味だと思います。でも、今、楽しかった気持ちが、1時間2時間するとたちまち寂しくなったり不幸になったり、それほど人の心は短い時間にいろいろに変化します。

 毎度私のブログに出て来る、ブラームスの音楽のように、ほんの数小節ごとに陽気になったり暗くなったり、今自身の幸せを仲間に語っていたかと思うと、突然悲観的になって、迷いの中に落ち込んで行く。ブラームスはつかみにくい音楽です。そんな音楽を好き好んでなぜ聴くのだろうと、批判しながら、私自身もついつい聞いてしまうのがブラームスの魅力です。然し、ブラームスは少し極端です。

 そこまで行かなくても人の心は常に揺れ動きます。昨日銀座の山野楽器に入ろうとしたときに、一階の広々としたレコード売り場がすっかりなくなっているのを見たときは少なからずショックでした。自分自身が小遣いを貯めて、夢を膨らませて出かけたレコード売り場が消えていたことは、何かもう二度と帰らない人生を、まざまざと見せつけられた思いがしました。店にすれば単に儲からなくなったから他のものを販売しただけなのかも知れませんが、私にすれば未来永劫常にそこにあるものと思っていたものが無くなっていたわけですから驚きです。

 そのことは、私が10代20代に出演した浅草松竹演芸場が、今はそっくり無くなっている姿を見て、「あぁ、ここに演芸場があったんだ、ここに北野たけしさんと一緒に出演していたんだ」。と思って眺めても、そこには跡形もなくすべてが消えていて、なにも残っていないことと同じです。

 同様に、毎年大阪道頓堀のZAZAでヤングマジシャンズセッションをしますが、そのとき必ず出演する若手マジシャンに「ここには中座と言う歌舞伎小屋があって、なかなか簡単には出演することのできない一流劇場だったんだよ。東京の歌舞伎座を小型にしたような瓦屋根の立派な劇場だったんだよ」。と話しますが、彼らは「あぁ、そうですか」、とぽかんと聞いているだけで、そこに何の感慨も夢もありません。ないのは当然で、中座の遺構は跡形も残っていないのですから。想像のしようがありません。私の言うことは単なるノスタルジーにしか聞こえないでしょう。

 それを思うにつけ、ブラームスの、言ってもしょうのない愚痴の数々を若いころは、「なんでこんなことをくどくど言うのか」、と思って聞いていましたが、気が付いてみれば私自身がブラームスと同じことをしているのではないかと気付きました。

 幾ら望んでも返ってこない日々。それを知りつつなぜか追い求めることが如何に空しいか。知りつつもついつい語ってしまうのが愚痴なのでしょう。

 

 話は変わりますが、サッカーのワールドカップでドイツに勝った日本勢がその余勢をかってコスタリカと戦いました。巷の評価では楽勝と言っていましたが、その楽勝であるはずのコスタリカの試合のうまさに驚きました。

 そもコスタリカは、日本に対して徹底した守りの試合をしました。前半戦は、日本が13本のシュートを出したのに、コスタリカはわずか3本でした。「これなら日本は間違いなく勝てる」。とみんなが思ったことでしょう。しかしどうもそうではなかったようです。

 後半になって、日本勢が浅野だの、攻めの強い選手を投入してきます。知らず知らずに日本勢が前進して、後ろが手薄になったころ、ボールがぬけて、それがあっという間に一点につながります。後半戦のコスタリカのシュートはこれ一回だけです。

 その後は日本がシャカリキに攻め立てますが、コスタリカは守る一方で、幸運に手に入れた一点を固く維持します。結果はこの一点が勝敗を決して、コスタリカの勝ち。

 サッカーは経済力がある国が必ず勝てると言うものではありません。また日本のようにしゃにむに責め立てても勝てるものではありません。地味な試合でしたが、ドイツ以上に考えさせられる試合でした。

 さて、今週の金曜日は強敵スペインです。ドイツ戦のような幸運が来るのか、はるかに厳しい戦いとなるのか、それは分かりませんが、互いに決勝をかけた瀬戸際の戦いになるでしょうから、熾烈なものになることは間違いありません。楽しみにしたいと思います。

 

 開催国であるカタールは、昔から少数の王族が支配する土地で、交通の要であるところから、19世紀からトルコや、イギリスが関与して、間接統治していたのですが、第2次大戦後、1960年に独立して晴れて王族の国家になりました。

 アラビア半島に突き出た小さな国で、福島県より少し大きいくらいの面積ですが、石油と天然ガスの埋蔵量が世界屈指で、アラビアの中でも有数の富裕国です。今回のワールドカップも、インフラや競技場の建設に30兆円もかけたと言うのですから桁違いの投資です。

 恐らくカタールは今が最盛期の国家でしょう。この先も石油が売れ続けるといいのですが、さて30年後はどのような世界になっているでしょうか。ハイウェイや競技場も残って、たくさんの人が繁栄を謳歌しているでしょうか。

 あるいは、世界が石油資源から別の資源に移り、石油消費がかすんで行くかもしれません。そうなったときに、かつての繁栄は跡形もなく消えているかもしれません。廃墟の中で、年取った日本人が、「かつてここでスペインと日本がサッカーで戦ったんだ。それはすさまじい戦いだったよ」。と語っているかもしれません。それを聞いている子供には砂漠の他には何も見えず。「この爺さん何を言ってるんだ」。と言う目で眺めていることでしょう。世の中は変化することが常であり、残すこと維持することは並大抵なことではありません。何事もなく穏やかに過ごせて、互いにごきげんようと気遣えることはそれそのものが幸せな行為なのでしょう。

続く