手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

言葉の壁 2

言葉の壁 2

 

 島田師は、アメリカで活動するようになってから、毎年マジックオブザイヤーを受賞したり、テレビにも数多く出演し、大変に有名なマジシャンになりました。ラスベガスの5年契約が決まり、文字通りトップスターの地位に駆け上ろうとしていました。

 ところがここから先が難しくなります。先ず、ディアナさんとの不仲が始まります。それはそのままディアナと仲の良い、キャッスルのオーナー、ビル・ラーセン夫人のアイリーンとの不仲につながります。元々は島田師の浮気が原因ですから、ディアナとアイリーンが組んでしまうと、キャッスルは出入りできなくなります。

 やがて別の理由で、ビル・ラーセンとも関係が悪くなり、いろいろな問題が生じて、島田師はアメリカのマジック界で孤立して行きます。

 こうしたときに、師の悩みを聞いてくれるような親密な仲間がいなかったことが師を孤独にしました。ここでも言葉の障壁を強く感じたことと思います。重ねて、アッパークラスのアメリカ人のパーティで、なかなか師が認められず、大きな仕事を手に入れることの難しさを知ります。

 これまで、師を温かく迎え入れてくれた、マジック愛好家の輪の中だけではどうにも解決のできないことが次々に起こります。それだけ師の名前が大きくなり、師の活動を維持するには、仲のいいマジックの好きな弁護士や、小さな経営者ではどうにもならないところに来ていたのだと思います。

 やがて師は一人で酒を飲むことが多くなり、一時は体を害して、危険な状態に陥ります。

 こうした時期、私はマジックキャッスルで島田師にお会いしています。キャッスルのバーでお会いして話を伺ったこともありましたし、寿司バーにも連れて行ってもらいました。師は熱心に私と何時間も話をしたがりました。私も興味から随分いろいろ話を伺いました。師が私に話をしたがったのは、アメリカの中で親しく話せる仲間がいなかったからでしょう。と言って、決して私が親しい仲だったわけではありません。私はマジックの後輩に過ぎないのです。

 

 私は、さほど人に誇れる才能は持ち合わせてはいませんが、唯一、昔から人の話を聞くことが好きでした。これまでも、一度私と縁が出来ると、私と話しをしたがる人が数多くいました。それは、私が安易に相手の話に相槌を打ったりせず、むしろ、疑問点を指摘したり、時系列の間違いを問うたりしました。そうすると、相手の頭の中で、自身の考えがまとまって行くことを補助する結果になったのです。

 長年考えがまとまらずに悩んでいたようなことを、私が、思考にインデックスを付けてあげて、考えの順序を並び替えると、相手は喜んでくれます。島田師も同様でした。いつしか、私と話をして、自身の頭の整理をするようになって行きました。これは私にとっても島田師の思考が分かるため、とても面白い経験になりました。

 その後、師が度々日本に来て、傘出しや、鳩出しの指導をするようになった時でも、師から電話が来るようになり、よく、有楽町のガード下の焼鳥屋などで会いました。

 私は、師と話をした時に、その都度簡単にメモを取っていて、少しずつ師の足跡が分かるように記録していました。そして、「これをどこかに残しておかないといけないな」。と、思うようになりました。実際、本にしたのはそれから10年以上も後のことですが、実際、平成(1989年)になって以降の師を見ていると、「功成り名を成した才能ある人が、一流の看板を抱えたまま、年を取って行くことは、決して簡単なことではない」。と思いました。

 支持者が減り、仕事が減り、収入が減って行く中で、一流を維持することの難しさ。なおかつ次に何をして行ったらいいのか。と言う人生の進路を見据えて行動することはとても困難な道です。

 同様に、私自身も、バブルが弾けてイリュージョンの仕事を減らしていました。大きく稼いでいた時期は終わりを告げ、この先どう生き残るかを模索している時期でした。平成6年7年と言うのはまったく先の見えない時代でした。

 結果として、私は手妻を再構築して、より古典に近づけて、不足部分は創作をして行く活動をしていましたが、費用と時間がかかるばかりで仕事にするのはとても苦労しました。

 

 その間、師も、自身の演技を見直しているようでした。新しい奥さんとしてキーリーさんを迎え、若い女性と新鮮な生活に入りました。無理をせず、大きな仕事を狙わず、師を認めてくれている理解者を大切にして活動するようになって行ったのです。

 この過程で師の考えがどう変化して行ったのかを知ることは出来ませんが、ある意味、原点に立ち返って自身の人生を考え直して行った節があります。

 師は元々、傘出しをあまり評価していませんでした。飽くまで名前が売れるための手段として演じていたのであって、芸能としてみたときに限界があると言っていました。「何しろ、60㎝もあるものをダイレクトにスチールしてくるのには無理があるよね。あれは欧米人に受けるために作ったアクトなんだ」。

 「ましてやドラゴンは、ラスベガスに出演したいがための手順であって、本当に自分自身がやりたい演技ではなかった」。と、言っていました。飽くまで師の本文は、鳩出しにあり、鳩出しの演技を認められることが師の喜びだったようです。

 そこから徐々に師は鳩出しに特化して行き、鳩の演技が深まって行きました。私はその鳩の演技を日本に招き、九州大会に出演してもらいました。又、ザ・マジックで対談をし、更には「タネも仕掛けもございません(角川出版)」を出し、多くの読者に師の活動を知ってもらうように努めました。

 「タネも仕掛けも」が出来上がって、本をお渡ししたときに、師はとても喜び、後で「何度も読んだよ」と言われました。およそ人前で語ることの不得意な師が、常に言葉の壁の前で、言いたい言葉も見つからず、悶々としていた中で、自身の人生が本になったことはとても嬉しかったらしく、その後に寿司屋にまで招待されて感謝されました。

「僕のところだけでなく、他のマジシャンも全部読んだよ。懐かしかった。いい本だったよ。どうも有難う」。と何度も礼を言われました。

 「タネも仕掛けも」の刊行は平成22年。私は50代で5冊の本を出そうと考えていたその4冊目の刊行でした。残念ながら今その本はありません。アマゾンの古書で時々出るそうですが、少しプレミアがついて販売されているそうです。ご興味ありましたら探してみてはいかがでしょう。引田天功、アダチ龍光、伊藤一葉、島田晴夫、私のお世話になったマジシャンへの偽らざる思いが書かれています。

続く