手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

国葬のその後

国葬のその後

 

 マスコミでは、国葬に反対する人で国会周辺は溢れ返っていると騒ぎ立てましたが、一体どこにそんな騒ぎがあったのでしょうか。実際の葬儀は、粛々と厳かに行われました。延べ4000人以上もの参列者を巧くまとめ、一般参加の数万の参列者は、時間を延長してまで献花を認めて、整然とした良い葬儀だったと思います。

 みんなが反対している、などと言う人がいる中で、実際反対していた人はごく一部の人たちで、これはいつものことで、さえないデモが騒いでいたのみでした。

 むしろ、世界各国の弔問来賓の思いが厚かったのは印象的でした。インドや、オーストラリアの首相が来日したのは大きく、アジア各国、太平洋諸島や台湾の代表迄来日して、久々アジア各国が集まったのは、日本がアジアの中の盟主である証を示したと思います。他のどのアジアの国の元首が亡くなってもここまで大きな葬儀にはならないでしょう。

 ブータンの国王は家族で弔問に来て、何日か日本に滞在して、子供たちと日本の文化を観光して回ったようです。良いことです。こうした機会があったからこそ日本とのつながりが未来に続いて行くのです。

 

 大阪のお好み焼きチェーン、千房の会長、中井政嗣さんは、前日から白菊の献花を買い求め、朝から新幹線で東京に向かいました。中井さんは国葬の招待を受けていたわけではありません。かつて安倍さんから勲章を授与してもらったことの感謝のために個人で弔問に出かけたのです。一体何時間並んだことやらわかりませんが、その思いは純粋で、感謝を込めて手を合わせたのでしょう。何万人と行列を作った一般弔問客の一人一人の心の中には様々な思いがあるのです。

 

 国葬の際に、弔辞を述べた菅元首相の言葉は素晴らしいものでした。文章が銘文だとか、格調高いなどと言うのではなく、実に心のこもった率直な内容でした。一緒に政界にいて、常に活動してきた人にしかわからない、安倍さんの人柄、苦悩、行動力、そうしたものが切々と語られていました。「とんでもない苦境にあっても、ふと横顔を見ると、にこにこ穏やかに笑っていた」。などと言うところは長年女房役として政治に携わって来た人でなければわからない、孤独を背負っている安倍さんの素顔だったと推察します。

 全体の締めに、伊藤博文の盟友で、明治の元勲山形有朋の句を読んでまとめるあたり歴史を感じさせ、今も脈々と日本歴史が続いていることを実感させます。いや、日ごろガースーさんなどと軽く言ってしまって申し訳なかったと思います。大変な人格者だったと改めて見直しました。

 

 この弔辞を悪意でもって批判した、テレビ朝日のコメンテーター玉川徹さんは、みんなから批判され、今謹慎処分になっています。何を言っても結構ですが、冠婚葬祭にケチをつけるのはおよしなさい、その人の人格が疑られます。

 その後玉川さんはテレビで謝罪されましたが、電通に対する謝罪がほとんどで、肝心の菅さんへの謝罪をしていません。元総理の心の底から語った弔辞を否定して、それで許されるものではありません。玉川と言う人は一体何者なのでしょう。どうしてあんな傍若無人な物言いをして、それで通ってしまうのでしょうか。

 

 さて、その国葬を推進した岸田首相は、どうも不人気で支持率を下げています。下がっている理由は明らかであ、統一教会の問題を表に出し切っていないからです。安倍さんと統一教会はかなり昔から繋がっていましたが、それもこれも統一教会が明らかに間違った組織であると言うことを法律で規制していないからこうなったのです。

 安倍さん個人がいい悪いといよりも、宗教に対して、まだはっきりとした考えが法律で示されていないのです。そして、法律が緩いことで助かっている宗教は、実は統一教会だけではないのです。これを突っついて表に出せば、あらゆる宗教がさらされて大騒ぎになります。無論、いずれはこうしたことは表に出して、フェアな組織にして行かなければなりません。

 しかし、宗教家と資金作りは永遠の問題です。どんなにきれいごとを言っても、信者から資金を集めなければ教団は維持できません。やむなく宗教は政治家を国会に送り込むなどして、資金作りをうやむやに済ませようとします。この、「うやむや」、と言うところが政治家の稼ぎの場なのです。宗教のうやむやに入り込んで、政治家自身の利権までも摺り込ませて、いろいろな問題点をうやむやに紛れ込ませているのです。日本の闇の世界です。

 

 よく、繁華街の勧誘で、知らず知らずのうちに英会話のセットを買ってしまった。とか、化粧品を買ってしまったなどと言う被害がありますが、あれこそがうやむやな世界の入り口なのです。いいか悪いかの判断がないまま、相手に引きずられて、言いなりになってしまう。気付いてみると大きな金額の負担を背負っている。

 何がいけないかと言うなら、「要らない」。「必要ない」。とはっきり断らないから結局負担を引き受けてしまうのです。統一教会も同じです。考えのはっきりしない人、気持ちの弱い人に漬け込んで、どんどん協会に引っ張り込もうとします。否定すると、「悪魔がやってくる」、「災難が起きる」と脅して、金を取ります。当事者は抜け出せない。と苦悩します。でも、抜け出せます。「要らない」。「必要ない」。とはっきり言えばいいのです。

 実は私も大学浪人中に、同級生からねずみ講に参加しないかと誘われたことがありました。出掛けて行って話を聞くと、会議室の一室でお粗末な集会をしていました。私がそこのリーダーの言ったことをいくつか論破すると、私は別室に呼ばれ、意見され、追い出されました。そしてそのあと同級生に私は思いっきり文句を言いました。「こんなバカな集会に呼ぶな」。「こんな組織が儲かるわけがないだろう」。

 私の勢いに押され、友人は退会しました。同じような話はもう一件ありましたが、同じようにその友人も退会させました。

 大切なことは、いけないことはいけないとはっきり言うことです。そうは言っても、自分で言えない心の弱い人が宗教に嵌る場合が多いようですから、出来れば少ししっかりした仲間を見つけて、その人に相談することです。どんなうまい誘いも、見せかけの親切も、客観的に見たなら明らかな矛盾があります。矛盾を見逃さないことです。事の始まりは単純なことでも、いい加減にことを済ませていると、相手は人の弱みに入り込んで来ます。気を付けることです。人助け、などと言っている組織に限って人にたかります。宗教全てが悪いわけではありませんが、一部の宗教も、ねずみ講も、人の心の弱さが儲けの種なのです。

続く