手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ベルディ レクイエム

ベルディ レクイエム

 

 昨晩(10月2日)、NHK 教育で21時からNHK交響楽団のコンサートがあり、そこでベルディのレクイエムが演奏されました。クラシックで、しかも宗教音楽などと言うと、きっと陰気臭くて、チンプンカンプンで、聞く前から拒否反応を起こす人があるかと思います。

 然しながら、ベルディのレクイエムだけはちょっと毛色が違います。オペラの大作曲家が晩年に精魂込めて書き上げた大作で、ある意味ベルディの集大成ともいえる作品なのです。宗教音楽でありながら、妙に人間臭く、音楽自体はまるでオペラのようにドラマチックで、時にミュージカルの如くに、メロディーは親しみやすく、ちょっと音楽好きならすんなり入り込めます。二、三度聞くとどの曲も口ずさめるようになり、一度覚えてしまうと、風呂に入っていても、掃除をしていてもメロディが出て来て、頭から離れられなくなります。

 そんな音楽でありながら、日本では、クラシックである、宗教音楽である、と言うだけで、いやいや、レクイエムと言うジャンルそのものが毛嫌いされています。

 

 レクイエムとは日本語では鎮魂曲(ちんこんきょく)と訳します。死者の魂を鎮めるための曲と言う意味で、言ってみればお経のような音楽です。ここでお経と言ってしまうと、またまたつまらない音楽なんじゃないかと勘ぐる人もあろうかと思いますが、さにあらず、そこはベルディと言う当時の流行作曲家が作った作品だけに、初めから終いまで聞いている者を飽きさせない技量があり、 ベルディが如何に偉大な作曲家であるかが一目瞭然の、キラキラとした才能がちりばめられています。なおかつ通俗性も相まって、何とも親しみ深い作品です。

 古来から、レクイエムと言うのは多くの作曲家が手掛けていて、モーツァルトや、フォーレブラームス、など、大作曲家が精魂込めて書いていますが、同じ内容を音楽にしているにもかかわらず、これほど作曲家によって違う曲になると言うのが面白く、それだけ個々の作曲家の死生観がくっきりと表れる作品です。

 その中でベルディは、ドイツ系の作曲家が持っている暗さがなく、宗教音楽に見られる諦観の要素が薄く、むしろ将来をどこか楽観視しています。あっちの世界も決して悪くないんじゃないのか。と思わせるような陽気な部分も多々あります。そうした点で、多くのレクイエムの中でも一番馴染みやすく、面白く作られていると思います。

 

 最近ではこのベルディのレクイエムの、最後の審判の部分がよくバラエティー番組に使われています。死者が集められて、生前の行為を一つ一つ審査されて、天国に行けるか地獄に落とされるかを決められるところです。いきなりオーケストラの強奏で始まり、ティンパニーと太鼓がフォルテシモで打ち鳴らします。如何にも神のお裁きが始まる前で、人々がうろたえている様子が描写される劇的な部分です。クイズ番組の重大局面でよくこの曲を使います。

 ドラマの展開は全く東洋の閻魔様のお裁き、地獄の沙汰とまったく同じ考え方のようです。多くの亡者は神の前に膝ま付いて、生前の罪を謝罪して、許しを乞うのですが、ここのベルディーの曲が何ともオペラのアリアのようで、亡者の嘆きの曲が実にのどかなのです。娑婆を捨てて亡者となった連中にしては妙に色気があったり、艶やかだったりして、謝罪しつつも本心ではあまり反省していないな。と裏を感じさせたり、ひとまずこの場は謝っておいて、後でまた彼女とじっくりイチャつこうなどと下心を持っていそうだ、などと勘ぐらせるような、やけになまめかしい音楽が次々に出て来ます。このあたりがイタリア人と言うか、特にベルディの音楽の面白いところかと思うのですが、神を語りつつも、世俗の快楽からぴったりついて離れないのです。

ベルディを聞いた後でブラームスを聞くと、「ブラームスってなんてつまらない野郎だ」。と思ってしまいます。でもよく考えて見たなら、ブラームスの方が正解なのです。この曲はレクイエムなのですから。

 

 指揮は、今年からNHK交響楽団のメイン指揮者になったファビオ・ルイージ。イタリア人。N響はドイツ系の指揮者が多かったのですが、フランス人のシャルル・デュトワ以降、ラテン系の指揮者に目覚めたらしく、デュトワ以降オーケストラ自体が陽気で艶やかな音を出すようになってきたように思います。

 ルイージさんは見たところ相当に神経質そうで、結構リハーサルが細かそうな印象を感じます。然し、それでいて出来上がった演奏はたっぷり歌が聞こえて来て、カラッと陽気で、「あぁ、矢張りイタリアの指揮者なんだなぁ」と、実感させます。

 この人の演奏した、チャイコフスキーの5番などもいい演奏でした。ああいう芸術と俗のせめぎ合いのような音楽を演奏させると巧い指揮者です。

 ところで、ベルディのレクイエムにはトスカニーニとNBC交響楽団の壮絶な録音が残っています。あれを聞いてしまうとどの指揮者も物足らなく感じますが、但し70年以上も前の録音です。今回のルイージさんさんは同じイタリア系の指揮者と言うこともあり、歌わせ方と全体のバランスが素晴らしくいい演奏でした。

 

 私自身は二日間休んで、腰痛もすっかり良くなり、体調も回復してきました。日曜日は午前中アトリエの掃除をしていると、何の連絡もなしに中国人の若い人が訪ねて来ました。この人はいま日本語を学ぶために留学に来たそうです。

 いきなり私の家を訪ねて来て、「私が子供のころ、FISM北京で水芸をした藤山先生ですね」とおかしな日本語で挨拶されました。そこで私もうっかりと、「私、藤山あるよ」。と言いました。私自身がなまる必要はないのです。子供のころテレビで私を見ていた子供がもう大学生です。水芸に憧れて、日本のマジックを習いたいそうです。教えないものではないけども、弟子はもう取りません。レッスン指導なら引き受けますよ。と話しました。

 私のところに、和を学びたいと中国から生徒希望が来ると言うのは、和に対する期待が世界的な流れのようです。そうならもっともっと私は貴重品扱いされてもいいはずですが、現実は見過ぎ世過ぎに忙しく動いているばかりで、天然記念物のような扱いは受けていません。まぁ、掃除をしながら中国人と話をして、夜にはベルディのレクイエムを聴いてゆっくり出来たことは幸せと思うべきでしょう。

続く