手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

悪に強きは善にもと

悪に強きは善にもと

 

 このセリフは歌舞伎の河内山宗俊(こうちやまそうしゅん)が高僧に扮して、大名屋敷に乗り込んで、強請(ゆすり)、語りをしてまんまと金品をせしめ、帰りの玄関先で、思いがけなくも大名の家来に顔見知りのものがいて、素性がばれ、引くに引けなくなって、ふてぶてしくも居直る時の有名なセリフです。それまで高僧として上品な話し方をしていたものが、素性がばれると一転し、

 「何だ何だ、こんなひょうきん者に出てこられたんじゃぁかなわねぇや。いかにも俺は河内山だ、静かにしねぇか。悪に強きは善にもと、親の嘆きが不憫さに、娘の命を助けようと、腹に匠の魂胆を、練塀小路に隠れもねぇ、お数寄屋坊主の宗俊が、頭の丸いを幸(せぇーうぇい)に、衣でしがを忍岡(しのぶがおか)」。

 と、七五調のセリフが続いて行きます。この後、宗俊は、居直るだけ居直って、大名の家来をやり込めて、まんまと金を強請取って帰って行きます。河内山宗俊の芝居はさておいて、セリフに出て来る、「悪に強きは善にもと」が興味です。悪に強い者は、善にも強いと言う意味でしょう。強いとは何か、拡大解釈すれば、悪い仕事の出来る奴は、いい仕事も出来ると言う意味なのでしょうか。

、実際、宗俊は、大名に無理強いされて、連れて来られた町娘を、救出しようと大名屋敷に乗り込み、まんまと娘を奪回し、ついでに強請って、自分のギャラまでしっかり取ったのですから、善人でありながら同時に悪人です。

 善人でありながら同時に悪人とは、おかしな人のように見えますが、現実には、善人と悪人の区別などできるものではありません。両方兼ねている人はいくらでもいます。疑う前に自分の心の中を覗いてみればお判りでしょう。常に善意と悪意が交差しているはずです。そもそも人は立場や見方で良くも悪くも見えます。

 どこからどう見ても悪人と言う人はなかなかいませんし、同時に全ていい人と言うのもまず見ることはありません。

 

 何が言いたいのかと言うなら、東京オリンピックの賄賂事件で捕まった高橋治之さんです。5000万円のリベートを受け取ったとか、紳士服の青木に便宜を図ったとか。角川からもリベートをもらったとか、次から次とリベートの問題が出て来ます。

 高橋さんは、元々が電通の社員で、車内では、スポーツ関連のコネに強い人で、高橋さんに相談すれば、世界のスポーツ関係者とはすぐに連絡が取れて、難しい話も簡単に解決するそうです。そんな人なら、たとえ5000万円でも、一億でも、リベートを渡して話を進めてもらったなら、交渉がはかどるのでしょうから、頼みごとが集中するのは当然でしょう。

 リベートが集まると言うのは、仕事のできる人だから集まるのです。仕事のできない人に何を頼んでも無駄です。政治でも役所の仕事でも、特定の人に話をすると、あっという間に話が解決することはよくあります。

 そう言う人は、何をどうしなければいけないかを知っているのです。うまく行かないときでも、どうしたら前に進むのかの解決策を知っているのです。そうした人と仕事をすれば、仕事は驚くほどはかどります。

 今回、新聞に載った高橋さんを見ると、まるで悪代官のように見えるかも知れません。然し、私はそうは考えません。見るからに仕事が出来そうで、きっとこの人なら、難しい話も簡単に解決してくれる人だと思います。リベートの金額がそれを裏付けています。

 恐らく高橋さんは、何でも素早く決断をし、膨大な仕事をあっという間にかたずけてしまう人なのでしょう。仲間や後輩からは怖がられる人ですが、上役や仕事先からは逆に頼られる人なのでしょう。それゆえに、世界中のスポーツマンから信頼され、そしてオリンピックの理事になって、バリバリ仕事をしたのでしょう。

 そうした人がリベートをもらって逮捕されると周囲はすぐに怨嗟(えんさ)の嵐です。、リベートは法に触れるからいけない。特定の人に利益を誘導するからいけない。と言うのはその通りです。良いか悪いかを問われればよくないのです。

 しかし、物事が進まず、いたずらに人件費ばかりがかかってムダ金を消費しているよりも、仕事を巧く繋げてスムーズにさせる人に頼った方が、よほど経費がかからず仕事が成功することもあります。物事はきれいごとだけでは進まないのです。と、こういうふうに書くと、今の時代はあちこちから非難されます。いけないことはいけないと正論で責め立てられます。

 いけないことは分かっています。私は高橋さんを知りません。弁護する立場でもありません。然し、今までいろいろな人を見て来て、あの人の顔を見ると、きっと仕事のできる人だと思います。然し、出来る人には必ず裏があるのです。裏を認めてやれるかどうかで事業のスピードは大きく変わって来ます。

 

 賄賂政治で知られた江戸時代の老中田沼意次は、賄賂について、「命の次に大切な金をくれると言う人はよほど奇特なの人だから、特別に扱ったやらなければいけない」。と、露骨に賄賂を肯定しています。そう言って通ってしまう時代は分かりやすいと思いますが、田沼意次ほど露骨ではないにしても、今日に至るまで贈賄がなくならないのはそれが必要なものだからでしょう。表向きはみんないけないと言っても、結局無くならないのは、心の奥でもらうことをよしと思う人が多くいて、渡す方でも、「これくらいのことはしておかないと、後で睨まれるといけない」、と、気を回しておくから無くならないのでしょう。

 できればこの際、高橋さんの口から言ってほしいのです、「世の中で、命の次に大切な、金を俺にくれようとする角川や青木はいい会社です。こうした会社は是非引き立ててやらなければいけません。皆さんも文句を言う前に、金を持って来なさい。わずかな金を惜しんで、嫉妬しても成功にはつながりません。成功するためには私とつながることです。そうすれば必ず面倒を見ます」。

 判で押したようなわかりやすい悪人が現れることを希望します。悪ければ悪いほどいい仕事もできるのでしょうから。

続く