手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

リサイタル 独演会

リサイタル 独演会

 

 私は、学校を卒業して、舞台活動に入るとすぐに独演会を始めました。独演会とは今日のリサイタルと同類の意味です。然し、現実にはリサイタルなどと言うような大それたものではなく、知り合いのパブの片隅の舞台を借りるなどして、毎月自身の公演を続けて来たのです。これは自身の判断でしてきたことですので、収入とは無関係でした。

 なにがしかの入場料はもらいましたが、それはほとんど場所代や手伝いの人件費に回り、私の収入にはなりませんでした。毎月一回、小さな店でショウを開催し、少し作品が出来て来ると、今度はちゃんとした舞台を借りて公演するようになりました。舞台となると音響、照明、舞台方と経費が掛かり、そうそう頻繁に開催できませんでしたが、それでも年に一二度の開催を続けて来ました。

 そのころマジシャンで自分の会をする人は少なく、アマチュアマジシャンが全国にたくさんいたため、私の独演会はかなり遠くからも見に来て下さる方がいて、開催するたび大勢の方々が見に来てくださいました。

 始めはスーツケース一つだけで1時間半くらい演じるような内容で初めにスライハンドを演じ、ゾンビボール、途中喋りのマジックがたくさん入り、ロープや、カード、シルク物、お終いに12本リングを演じると言う内容で。そうした内容を、毎回3分の1ほど中身を変えて演じていました。

 今から考えると大した内容ではなかったのですが、マジックショウと言う企画が少なかった時代はそれでよく人が集まったのです。お客様も様々で、当時サラリーマンだったケン正木さんなどは常連で、まったく素人のお客さんとして毎月見に来てくれました。

 当時の私は二十代半ばで、スライハンドと喋りネタのマジックで活動していました。何しろどうにかなりたい一心で、先輩マジシャンを訪ねてマジックを習いに行ったり、資料を調べたり、アメリカに行ったり、空いている時間にはひたすら台本を書いて、喋りネタを増やしていました。自分のマジックをお客様が見たときに、どうしたら面白いと言ってもらえるか。ひたすら毎日マジックと喋りを考えていました。

 

 今私は、秋に一度リサイタル公演をしています。これは座高円寺で開催することが多くなっています。他にも、マジックマイスター、ヤングマジシャンズセッション、大阪セッション。天一祭、と、4っつのステージを定期開催しています。

 ほかに、日本橋アゴラカフェで毎月公演をしています。ここは小さなステージで、20~30人のお客様を対象に、実験的な公演をしています。これが昔から継続してきた独演会と言えます。アゴラカフェと同じ企画は、春までは玉ひでの座敷て行って来ました。10人から20人と言う小ぢんまりとした座敷です。全く純和式手妻公演を続けて来たのです。ここが約3年続きました。その前は神田明神。更に前はコレド室町の座敷で2年。その前は神田明神脇の古い日本建築の座敷で5年近く公演してきました。更に前は赤坂金竜の座敷、その前はと言うと吉祥寺のB-ポイントと言うライブハウスで10年以上独演会を開催してきました。いずれも毎月休まず公演し続けてきたわけです。

 なぜそうした活動を続けて来たかと言えば、自分自身の作品が欲しかったからです。テレビのニーズなどに答えようとすると幾らでも作品が必要です。更に、この道で生きていると、自然自然と今やっていることがこなれて来ます。カードでもボールでも、リングでも10年やればそれなりにこなれて巧くなって行きます。

 然し、それが本当に巧いと言えるのかどうか。私は若いころから、「慣れ」と「巧さ」は違うのではないかと考えるようになったのです。と言うのも、マジックに限らず、才能ある先輩の芸には、落語家でも漫才師でも、役者でも、「慣れ」で出来て行く巧さとは違う、独自の才能が見える人がいたからです。

 「慣れ」ではない「巧さ」とは何か。どうしたら才能が開花するのか。そこの探求は、ただ電話がかかって来て引き受けた舞台に数出ているだけでは出来てこないのではないか。と、考えるようになったのです。

「巧さ」とは、人が考えないような所に光を見出す人の事で、光とは生きて行く上で悩んだこと、考えたこと、苦しんだことの蓄積があって、それを解決したときにできるものなのではないか。しかしそうしたことを自分の演技から掴もうとするなら、出来上がった演技(こう考えることが既に間違いなのですが)を演じ続けて、気付いてくるものではなく、毎回演じていても、一つ一つに疑問を持って、反復する時間が必要なのだと気付いて来ます。実際頼まれた舞台で反復して演技するなどと言うことは出来ません。それは、自分を理解してくれる少数のお客さんの前でマイナーチェンジを繰り返すことで修正して行くことです。それをする場が独演会なのです。

 独演会を経験せず、リサイタルも開かず、営業と称する舞台だけをひたすら繰り返して演じていると、演技はこなれて上手にはなって行きますが、いつしかスタイルが古くなり、目垢が付いて、飽きられてきます。

 目垢(めあか)と言うのは、骨とう品屋さんで何十年も飾ってある骨董品のことで、毎回見に行って毎回同じところにある品物は、もうお客様が目慣れてしまって、全く興味の対象にならないことを言います。どんなにいい物でも目垢がついては売れないのです。

 巧いとは言ってもこなれた巧さでは価値がないのです。芸能は常に観客にドキッとするような発想を提供し続けなければいけません。それは60歳を過ぎても70歳を過ぎても、舞台に出続ける限り、人が気付かないような些細な発想を料理のスパイスのように、あちこちにちりばめて提供し続けるのが芸能に生きる者の使命なのだと思います。

 そんなことを考えて、もう45年も独演会を続けて来ました。もう少し何とかしよう、もう少し面白いことをしよう。そう考えて日々舞台に上がっています。

続く