手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

水売り、冷や水売り

水売り、冷や水売り

 

 江戸時代には、水売りと言う商売があり、江戸の間中ずっと長くこの仕事は続きました。江戸の町は大半が埋め立て地のために、井戸を掘っても塩気の強い水しか出て来ません。洗濯や掃除には使えても、飲料水にはなりません。本所深川当たりでは、飲み水が足らず、やむなく水売りから水を買っていたようです。

 一口に水売りと言っても随分細かく区別がされていて、そもそも、水売りがどこの水を運んで来るかで水の値段が違います。山の手の方の、天然に湧く井戸を持っている家と契約をして、そこから運んでくる水なら上等です。それらは無料ではなく、なにがしかの水使用量を支払って汲んで来るので、運び賃の別に使用料が乗ります。

 江戸の政府は、江戸の町が水が足らないことを知って、早くから水道を架設します。初めが神田上水で、これは井之頭公園の水を水路を作って江戸の町までつなげ、街中からは掛樋(かけひ)と言う、木製で蓋つきの樋(とい)を作って樋を地下に埋め、地下水路によって、江戸中に水道をはわせました。水はところどころに取水場を設けてそこから水が汲めるようになっています。

 江戸の長屋で井戸端会議をしている姿がさし絵に出て来ますが、その井戸はほとんど井戸ではなく、水道の取水場です。

 この水も只ではなかったのですが、庶民の生活を思い、格安で使用が出来ました。この水の管理が複雑で、江戸の政府は水役人と言う役職を作り、常に水道を管理していました。水が足らなければ先々まで水が行き渡りませんし、多すぎると、取水場から水が溢れてしまいます。

 そこで、ところどころ水を逃がす場所を設けます。この水の逃げ口は、吐き樋(はきとい)と言い、水が勢いよく川に流れ落ちていました。吐き樋は何か所かあり、三越本店の裏にある一石橋のところにもありました。ここに、水売りが集まって、水を分けてもらうのです。これも役人の管理があり、鑑札を渡した業者のみしか水をもらうことが出来ません。

 桶に水を入れて水を売り歩くという、至って簡単な仕事をしている水売りですが、決して誰でもできるわけではなく、組合に加入して、水代を支払っているものにしかできない仕事だったのです。

 この水売りも、大きな商いをするものは、伝馬舟(てんまぶね)でたくさんの水桶を運び、江戸でも特に水が足らない、本所深川あたりまで船で運び、そこから契約をしている武家屋敷や、奉公人の多い商店と契約をして毎日水を運んでいたようです。

 小さな商いだと、二つの桶に水を張って、天秤棒で振り分けて担ぎ、あちこちの長屋や店に売り歩いていたそうですが、一荷がおよそ一斗(18㎏)で、水の値段は、近所なら一荷4文、遠いところだと40文から80文(一文25円)したと言います。

 

 こうした生活用水を運ぶ水売りとは別に、冷や水売りと言う商売もありました。

これは、桶自体が磨き込まれた清潔な桶を使い、服装も当時の流行の柄の着物を着て、頭に置き手拭いをした格好のいいお兄さんが、「えーひゃっこい、ひゃっこい」と言いながら繁華な場所を選んで飲み水を売って歩きます。重い桶を担いで生活水を売っている水売りとは大きな違いです。

 水は一杯4文です。それに砂糖を入れたり、白玉を入れたりして、涼を演出します。江戸時代に砂糖はとても高価ですので、砂糖水に白玉入りと言うのは贅沢です。今日でいうタピオカティーでしょうか。12文(300円)くらい取ったようです。

 水は井戸の水から持って来ます。初めはかなり冷たい水ですが、それでも半日江戸の町で流して歩いていれば水は温まってしまいます。なるべく日陰のところを縫って歩いたとしても、やがては日向水になってしまいます。

 それを「ひゃっこい、ひゃっこい」と言って売っていてはお客様に文句を言われます。そこで一工夫して、錫(すず)で作った器で水を出します。錫は銀色で輝きがあり、見た目も涼しそうに見える高級食器です。水売りが歩いていると、肩に担いでいる棚に飾った錫器がこすれて、チリンチリンと金属音がして、それだけで涼しげに感じたことでしょう。

 少々水がぬるくても、高級な器で、涼を演出するというところが江戸の人の工夫です。なおかつ白玉と言う、ツルリンとした触感がまた人の心を捉えたのでしょう。ツルリンの白玉に、砂糖の甘い水を錫器で飲めるならちょっとした贅沢だったのでしょう。喫茶店などなかった江戸の町で、水売りは人気な商売だったようです。

 

 矢田挿雲と言う、大正から昭和初期にかけて「江戸から東京へ」という随筆を書いて大人気だった作家がいました。私は学生の頃、この江戸から東京へを買い求め、片端から読み漁りました。なんせ、冊数だけで8冊くらいあったと思います。なかなかの大著です。私はこの人の文章に憧れました。あっさりとして簡潔な書きっぷりが江戸を紹介するのにぴったりでした。

 そこに水売りが出て来ました。この水売りは恐らく明治になってからの人だったのでしょう。わずかな水代で商いしている水売りが、お客がうっかり茶碗を落として割ってしまった時に、恨み言ひとつ言わずに「割れたものは仕方ありませんや」。と言って、損料も取らずそのまま去って行ったと書かれていました。それが何とも江戸っ子らしいと言っていました。

 水売りにすれば、茶わん一つは、稼ぎの何分の一かを失ったことになります。暑い夏の日に重い水を担いで商いして、ようやく得た金が茶わん一つで呆気なくなくなるのは辛いはずです。然し、仕方ない、と言って細かなことは言わずにあきらめる所が江戸の文化なのだと教えられました。

 日頃、芸術文化などと偉そうなことを言いつつ、それの片隅で生きる者にとって、文化とは何かと問われたときに、矢田挿雲翁の書いた水売りの何気ないセリフを思い出します。

続く