手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

室町の見巧者 2

室町の見巧者 2

 

 昨日は貞成親王について書きましたが、それから半世紀下った時代に生まれたのが山科言継(やましなときつぐ)と言う公家です。生まれは永正4(1507)年。亡くなったのは天正7(1579)年。元々は位の高い公家の家に生まれたのですが、家が侍に領地を奪われてほとんど無収入になるなどして、若い時分は随分生活に苦労したようです。

 この人が後年、文化人として大活躍をするのですが、今でも、山科言継が知られているのは、若いころから丹念に日記を付けたことです。後年これが「言継卿記(ときつぐきょうき)」として、室町末期から戦国時代にかけての貴重な資料となって、今も時代小説の資料として使われています。

 特に、織田信長の若いころに信長の父親、信秀に招かれ、度々尾張(愛知県)を訪れて蹴鞠や和歌の指導をしているために、織田家のこと、信長の日常などが詳しく日記に書かれています。無論この時代の信長には、後年の天下を取る片鱗すら見えません。そのころから信長を知っていると言うことで、作家の司馬遼太郎さんなどが度々「言継卿記」を資料として使っています。そこには誇張のない、日常の織田一族の生活が書かれているため、一級の資料になっているのです。

 

 話を一度戻して、順にお話ししましょう。山科言継は家が困窮していたために、早いうちから何らかの稼ぎを上げなければなりませんでした。その頃山科家では、薬草を扱う権利を持っていて、薬を売ることと、治療をすることを副業にしていました。これは医師と言ってもいいのですが、どうも医師と言うにはその腕は怪しく、擦り傷や怪我などの患者には薬を塗るなどしていたのですが、自分の子供が体調の悪いときに、自分で診ずに医者に連れて行ったと言うのですから、怪しい医者です。

 他にも、蹴鞠の指導をしたり、和歌の指導をしたり、つまり当時の公家は、教養を金に換えて生活して行かなければならなかったのです。然し、こちらの面ではかなり技術が認められていたらしく、あちこちの金持ちや、大名からお声がかかり、出張指導をして、いい稼ぎを上げていたようです。

 織田信秀も、尾張にいて、そこそこの地位はあっても、行く行く、京の公家連中と付き合いを持った時に、粗暴な真似をしてはいけないと、家臣や子供たちに京文化を身に付けさせるべく、定期的に言継を招いていろいろ習っていたのです。

 言継は、当然尾張だけに指導に出かけていたわけではなく、あちこちの大名に指導をし、尾張から駿河静岡県)の今川家にまで出かけて和歌や蹴鞠の指導をしていました。そうすると、日本中の大名の国情が良くわかることになります。頭のいい言継のことですから、余り深入りして余計なことを話すようなことはしなかったでしょうが、日記にはかなり深く諸国のことを書いています。

 この人は、身分が高かった割には誰とでも気軽に接したようで、旅の途中では、庶民が入る風呂屋(この時代は蒸し風呂)に行き、狭い風呂の中で庶民と一緒になって背中を擦り合ったなどと書いています。

 この時代に庶民と一緒に風呂に入ると言うのは勇気のいることで、蚤虱(のみ、しらみ)を体に飼っている人がざらにいた時代ですから、風呂場のような狭い部屋に入って、体を接するようなことをすれば間違いなく蚤、虱を譲り受けることになります。ところが言継はまったく屈託のない人で、誰とでも仲良くなったようです。それがためか、とんでもなく幅広い人脈を持っていて、それがその後の出世に大きく役に立って行きます。

 言継は、何にでも興味があって、晩年には、京に出て来たばかりの出雲の阿国の舞踊を街中の神社の境内で見ています。まだ阿国が11か12くらいの時で、後年の大人気になる前の阿国を見て日記に書き留めています。

 こうしたところが、言継が「見巧者」である所以なのです。幼い阿国の舞を見て、まだ人気もないうちから既にその片鱗を認めて書き留めているのです。

 言継はその後も何度か阿国の踊りを見ているようで、阿国が三条の河原で興行を打つ前、神社で興行していた資料は貴重です。

 

 言継の手妻のつながりとしては、「目付け字(めつけじ)」を、あちこちで収集していて、その面白さを伝えています。

 「目付け字」と言うのは一枚の紙に、大きく木の枝が描かれていて、枝の先の果実のところに、文字が描かれています。描かれた文字を一つ心に思ってもらい、幾つかある枝の塊を指しながら、「この枝の中に今思った文字はありますか?」、と尋ねて行きます。幾つか確かめて行くうちに、相手の思った文字を当てる。と言うもの。

 現代では年齢当てカードのように、何枚かのカードを使って当てるマジックとして生きています。(詳細は目付け字をネットで検索して見て下さい、古典としては有名なマジックです)。

 言継さんがこの目付字に興味を持ったと言うところが面白く、又類型の目付け字を集めてまとめているところがアマチュアマジシャンの草分け的な存在と言えます。

 さて、言継さんは、その人当たりの良さ、知識の豊富さなどから人に愛され、各地方の大名から支援金が届くようになり、家のほうも家業の方もだいぶ良くなって行ったようです。また、天皇家に対しての援助金も方々に頼んで資金を集め、朝廷を助けたことで位も上がり、晩年は、大名家と朝廷の交渉ごとの取りまとめる役をするなどして活躍します。織田信長も、京に上るとたびたび山科家を訪ねており、長く良い関係を維持しています。

 地位と言い、文化の造形の深さと言い、それでいて、小屋掛けなどにひょっこり入って、気軽に芸能を楽しむ姿などを見ると、室町期にはすでに庶民文化が熟していて、それを支持する人たちも大勢いたことが分かります。

 私は、若き山科言継が、背中に蹴鞠と、和歌の短冊と薬箱を持って、街道を気楽に行き来し、各大名に芸能を指導し、時に庶民と語らい、面白そうなものを見つけると、必ず日記に記し、それをまた各地方の大名への土産にして、話して聞かせるような生活をして行く姿が羨ましく思います。

 いくつかの技を持つ事によって、気ままに生きて行けると言うのが素晴らしく、私は、出来ることなら山科言継のような人生が遅れたならどんなに幸せかと思います。

続く