手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ザルツブルグ

ザルツブルグ

 

 オーストリアの西側にザルツブルグと言う都市があります。モーツァルトが生まれた町としても有名で、山間の中の静かな都市です。この都市は、近郊の山から天然塩が取れることで古くから発展しました。ヨーロッパの中央の山間部で塩が取れると言うのはおかしな話ですが、実は、はるか昔はこの辺りが海の中にあり、その後土地が隆起して山となり、残った海水が乾燥して、岩塩となって洞窟に残されたのです。

 ザルツブルグと言うのは、塩の町と言う意味で、ザルツ(Salz)=英語のソルト。ブルグ(burug)=英語のバーグ=城、砦。つまり英語のソルトバーグ=ドイツ語のザルツブルグです。この近郊の岩塩は今に至るまで取りつくせないほどの塩を 産出しています。

 実は、かつて世界中で塩は金銀に匹敵するほど高価なもので、特に山里ではなかなか簡単には手に入らないため、ザルツブルグは塩を一手販売することで巨万の富を得ました。冷蔵庫のない時代は、肉や魚の保存に腐心しました。塩漬けにしたり、燻製にしたり、ソーセージにしたりして保存しますが、いずれにしても肉の加工に大量の塩が必要だったのです。ザルツブルグの近郊で取れる塩は、レンガのように四角く切り取って、ライン川の水運を利用して各地に運ばれました。ザルツブルグは山里にありながら、塩のお陰で長いこと大発展をしていたのです。

 芸人や芸術家が町に集まってくるのは、その町が豊かだからで、ザルツブルグで、モーツァルトの父親が宮廷音楽家として生活していました。それも、王が塩の専売権を持っていたお陰です。何の理由もなく山里で音楽家をしていられるわけはないのです。

 

 砂漠と言うと、ラクダがたくさん連なって隊商を組んで進んでゆく姿がよく知られていますが、そのラクダは何を運んでいたのかと言えば、多くは塩の塊です。世界を見渡しても、塩を産出する土地は栄えます。砂漠の真ん中にあっても、昔の海が干上がって、塩として残った土地があります。

 山から塩を切り出して、ラクダの背に乗せて、四方の砂漠のオアシスにある市場に行って、塩を売るのです。この隊商がいなければ、オアシスが、いくら砂漠の真ん中で水が出ると言っても、人は生きては行けません。塩は水と並んで貴重品なのです。

 砂漠でも、ヨーロッパでも、塩はしばしば金と同格に取引されました。そのため、給料の何割かを塩で支払われることもあったのです。サラリーマンのサラリーは元々は塩(ソルト)を意味する言葉で、実際金と同様に支払われていたのです。

 

 日本では、塩はもっぱら海水を煮詰めて作っていました。然し、これは簡単なようで難しく、海水を煮詰めるためには大量の薪が必要です。薪を山からとって来て、火を焚くと言うことは手間がかかりますから、塩はとても高価になります。

 一から煮詰めていては際限なく薪が必要ですので、海岸に塩田を作り、田んぼのように畔を作って、そこに海水を撒きます。それを天日で乾かし、少し乾いたら、また海水を撒き、乾かすことを繰り返します。但し、途中で雨が降れば、乾いた塩がみな流れてしまいます。

 そのため、塩田は雨の少ない地方で作られました。瀬戸内海の岡山県とか、四国の香川県などは江戸時代は見渡す限り海岸線は塩田だったのです。

 毎日天候を見て、様子を見ながら海水を乾かしてゆきます。当時はポンプなどはありませんから、桶に海水を汲んで、天秤で担ぎ、ひしゃくで塩田に海水を撒く作業を朝から夕方まで毎日行います。水を撒くにしても、一か所に水たまりが出来たならなかなか乾きませんから、まんべんなく遠くの方まで水を飛ばして、ひしゃくで撒いて行きます。これがなかなか技術です。水を担のも、汲んで来るのも相当に重労働です。昔は、男も女も、子供までも、この潮汲みをしました。

 舞踊で「潮汲み」と言う踊りがありますが、きれいなお姉さんが奇麗な着物を着て、桶を担ぎ、潮を撒く動作を舞で演じます。本当の潮汲みはあんな奇麗なものではありません。毎日塩田に出ていたら、顔は真っ黒に日焼けしますし、肩は男並みにがっしりしてきて、腕は太くなり、全く男と見まごうばかりの肉体労働者になります。

 塩田で潮を乾燥させたなら、塩をかき集め、窯に入れて、完全に水気を取るために焚いて行きます。これが塩釜です。砂浜のあちこちに釜屋があって、そこから煙が上がって行きます。潮を汲んで塩田に撒く仕事、薪を買って焚いてゆく仕事、何から何まで人手のかかる仕事ですから、日本でも塩は高価だったのです。

 

 さて塩は、多くは魚の干物を作るとき、或いは味噌、醤油を作るときに大量に必要になります。江戸期になって、塩がふんだんに使えることで、干物は日持ちするようになりました。私が子供の頃に食べた塩鮭は切り身が真っ白になるくらい塩が吹いていました。このまま食べるととにかく塩辛いのですが、お茶漬けにすると、塩の中に鮭の脂がしみ込んでいて、味わいが深くて、うまみを感じました。鮭の皮についている粒の塩を舐めると、濃厚な脂のうまみが染み出て、絶品の旨さを感じました。

 と言うわけで、塩はその昔は高価なものだったのです。同様に、塩と大豆で作った醤油は、更に高価で、いい醤油はなかなか庶民の口に入らなかったのです。今、寿司に醤油をつけて食べますが、江戸時代の屋台の寿司屋で小皿に醤油が注がれることはありません。江戸時代の寿司は始めから漬け(づけ=醤油漬け、酢漬け)になっていて、味が付いていましたから、客が勝手に醤油を注ぐことなどできません。それだけ醤油は高価だったのです。

 同様に蕎麦つゆです。醤油とみりんと鰹節で味付けしたそばつゆは、江戸時代の高級品ですから、客がつゆを残して帰るなどと言うことは考えられません。昔の人なら一滴も残さず呑んだはずです。今は塩分の取りすぎなどと気遣って、蕎麦つゆを残す人もいますが、江戸の人だったら、夏の暑い盛りに裸足で、重い桶を担ぎ、ひしゃくで海水を撒く潮汲み女の苦労を知っているはずですから、有り難く蕎麦つゆを残さず呑み干したでしょう。私も、血圧を気にしつつも。蕎麦つゆは蕎麦湯と合わせて、残さずに呑んでいます。ザルツブルグの話がなぜか蕎麦つゆになって終わります。

続く