手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

毛谷村(けやむら)

毛谷村

 

 昨日(6月10日)は、国立劇場に、歌舞伎を見に行ってきました。たまたま踊りのお師匠さんから9日にチケットを頂き、「もう日がないから是非行ってください」。と言われ、翌日、前田と一緒に出かけました。

 毛谷村とは芝居の名前で、正式には、英彦山権現誓助剣(ひこさんごんげんちかいのすけだち)と言う浄瑠璃芝居で、250年ほど前に作られて、大ヒットした歌舞伎です。

 全編を演じると丸一日かかる芝居ですが、今ではその中の、毛谷村の段だけが抜き出されて、歌舞伎座などで掛かります。歌舞伎ではそうした形での公演が多く、通し狂言をそのまま演じることは稀です。そのため、お客様は、途中から途中までの芝居を見ることになり、初めて芝居を見ると、何がどうなっているのか、人物のつながりが良くわかりません。ストーリーも、全く結果が出ないまま終わってしまうことが多々あります。歌舞伎が「よくわからない」。と言うお客様の言うことはもっともで、現代の公演の仕方が複雑怪奇なのです。

 今回は、歌舞伎鑑賞教室と言うことで、格安で中学生や高校生に見せることを目的としています。実際国立劇場の表には、中学生と思しき人たちが並んでいます。但し、毛谷村は歌舞伎ファンにとっては有名な芝居ですが、果たして中学生がそれを見て面白いと思うかどうか。

 そもそも、義太夫節と言う、今ではなじみの薄い音楽を使い、意味の通じにくい歌詞を語ります。果たしてどれほどの学生さんがこれを面白いと思うか。

 常日頃古典をどう残すか、腐心している身としては、歌舞伎の将来を危ぶんでしまいます。少なからぬ興味で私は客席を見渡しました。

 

 まず初めに若い解説者中村玉太郎が出て来て、基本的な歌舞伎の解説をします、そして、毛谷村に至るまでのあらすじを話します。実際この話がなければ、多くの観客は混乱するばかりです。普段の歌舞伎座でも、解説をしないまでも、幕前であらすじを役者に芝居させてもいいのではないかと思います。

 

 主人公の毛谷村六助は、剣の達人で、英彦山の山中で暮らしています。ある日、幼い子供を襲う悪漢が子供を取り巻きますが、通りがかった六助がこれを助けます。子供は六助の家で養うことにします。数日たって、身なりのいい老婆が一晩泊めてくれと訪ねて来ます。老婆を泊めると今度は、娘が訪ねて来ます。名前はお園と言います。

 話を聞くと、六助の剣の師匠である一味斎の娘であることを知り、さらに一味斎は悪漢に襲われ斬られて亡くなったと知ります。そして、一味斎の遺言で、お園は六助と夫婦になるよう言われています。しかも、先に来ていた老婆は、一味斎の女房であり、かくまっていた子供はその孫だったのです。

 親子孫と揃ったところで、師匠の敵を討つように家族に懇願され、敵討ちに出かけることになり、六助は装束を改め、師匠の形見の刀を差し、孫を抱いて山を下りる決心をして見得を切ります。と、ここで幕が閉まります。

 

 芝居が終わってあたりを見回しますと、学生さんの約半分が寝ています。それでも、騒いだり立って歩きまわるようなことはありませんでした。ほとんどの学生さんは静かに鑑賞していました。

 国立劇場も工夫をしていて、正面の壁の左右にテロップが出て来るように工夫してあって、義太夫の歌詞が映し出されます。これにより、何を言っているのか、かなりの部分が理解できます。私も何度か毛谷村を見てはいたものの、義太夫の細かな歌詞は理解しておらず、この日、テロップを見て初めて分かったことがいくつもありました。

 こうしてしっかりガードされて、芝居の内容は理解できましたが、問題は、その芝居自体にあるのではないかと思いました。歌舞伎によくあるパターンですが、突然いいなづけがやって来て、夫婦になろうと言い出したり、一味斎の妻がやって来て、一晩泊めてくれと突然言い出したり、助けた子供が一味斎の孫だったり、ご都合主義で固まった芝居が、今の若い人に受け入れられるかどうか。

 恐らくこの芝居は、役者からすれば喉から手が出るくらいやりたい芝居なのでしょう。細部にわたって感情表現が複雑で、しどころが多く、三枚目と二枚目を使い分けたり、腹の内と外を使い分けたり、役者としては面白い芝居なのだと思います。

 然し、現代の感覚で、この芝居を心から喜ぶ人が多くいるかどうかと考えると、少し、芝居そのものをいじってでも、今の人を引き付けるように筋立てを変えなければ、芝居は残り得ないのではないかと思います。

 

 私が手妻を復活させるときに、いつも苦しむことは、昔の儘に演じていては、手妻の面白さが伝わりにくいことです。手妻には面白い要素がたくさんあるのですが、その手順が未熟だとか、種そのものがあまり不思議でないなどの理由で、今に生かせない場合が多いのです。

 原作を崩すことなく、どこかで、密かに補足するなり、変えるなりしなければ残らないと思うものがたくさんありました。結局私の仕事は、手妻の作品を、表に見えないようにマイナーチェンジする作業でした。これがなければ手妻は生き残れなかったのです。

 毛谷村を見て感じたことは、歌舞伎も、大きくマイナーチェンジしなければならない時期に来ていると思いました。今、国立劇場歌舞伎座ではイヤホンガイドで芝居の内容を解説していますが、そうした親切な活動を希望する人にはいいとしても、1万円以上のチケット代を支払ってくるお客様にイヤホンガイドを付けなければ内容が理解できないと言うこと自体が問題です。

 基本的にお金を支払ったら、一般のお客様が普通に舞台を見ているだけで、内容を理解できる芝居でなければおかしいのです。まず筋立てが理解できることが第一で、芸術的に優れているかどうか、面白いかどうかの評価はその先に問われるはずです。根本的な問題に切り込んで、マイナーチェンジをしない限り、この先歌舞伎が観客を呼ぶことは難しくなると思います。

 いい芝居であることは分かるのです。然し、毛谷村が面白いと感じるには、相当に芝居を見慣れた人でなければわかりません。今来ている観客を無視して、役者の都合ばかりで芝居がなされている現状を見ると、歌舞伎は危ないと思います。

 この事は現代のマジックにも言えます。ステージマジックのウォンドやシンブルは、それそのものが何の道具であるかを観客に伝えないまま、細部にばかりこだわって、仲間内の判断ばかり気にしています。同様にクロースアップのカードも、演者がやりたいようにやりたいだけ延々と演技が続きます。一般の観客が見たなら、カード当てがひたすら続くだけに見えます。それでこの先、マジックの観客が増えて行くものかどうか。歌舞伎の毛谷村を見ながら、マジックの行く先を憂いてしまいました。

続く

 

明日はブログを休みます。