手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

初音ミケ 9

初音ミケ 9

 

 オヤミケが死んだ後は家の周りで猫を見ることが無くなりました。いや、全くではありません。三日に一度くらいロイクーがやって来て、美佐子さんにねだってキャットフードを食べに来ているようです。ロイクーは警戒心の強い猫で、いつでもきょろきょろあたりを見回し、人の顔を見るとさっと逃げて行きます。およそ可愛げのない猫です。

 季節は春、新緑が美しく、過ごしやすい日々になりました。いつもの散歩コースを歩いていても外気の温度がちょうどよく、実に心地よく感じます。ぶらぶら歩いて中央線のガード下に来ましたが、ミケもオクゲもいませんでした。「今日は二匹の散歩の日だろうに、どうしているのかなぁ」。と思いつつそのまま駅まで買い物に行き、自宅に戻りました。

 その深夜、私は書斎で書き物をして、少し疲れたので寝ようかと外に出ると、偶然、ミケが玄関に立っていました。「ミケ、久しぶりだねぇ。どうしたんだ、こんな時間に」。普通なら私が近づくと警戒して、逃げるはずなのですが、この時は全く動じません。無論、私はミケを触ったりはしません。彼女がべたべたした付き合いが嫌いなことを知ってますから。

 「先生久しぶり、随分遅くまでお仕事しているのね。灯りがついていたからもしやと思って寄ってみたの」。「こんな遅くにお前と会うとは思わなかったよ、オクゲも一緒かい?」。「いいえ、オクゲは夕方まで一緒にいたんだけど、先に帰りました」。「ミケはこんな時間に何をしているんだい」。「あたしは今は飼われている身ですから、毎日のパトロールが出来ないの。それで週に二日の外出するときに、深夜にパトロールをしているの」。

 「お前にはもう飼い主がいるんだからパトロールはいらないだろう」。「とんでもないわ、猫にとって縄張りは命の次に大切なものよ。これを欠かしたら何かあったときに生きて行けないもの」。「そう言や裏の美佐子さんの家に、時々ロイクーが来て餌をもらっているよ」。「知ってる、あいつは母親が生きているときからちょくちょく美佐子姉さんの家から母親の餌を盗んでいたのよ。あいつは泥棒猫よ、大嫌い」。

 「でも今は美佐子さんのところも飼いネコがいないんだから、ロイクーが餌を食べたっていいだろう」。「とんでもないわ、無断で餌を食べるなんて猫の道徳に反するわ」。「猫に道徳があるんだ」。「勿論よ。裏のアパートはあたしがオヤミケから継承したんですからね、あたしのものよ。もしロイクーを見つけたら思いっきりパンチしてやるわ」。

 ミケはロイクーの話になると向きになります。私は表でしゃがみこんでしばらくミケの話を聞くことにしました。

 「ところで、お前は最近体が一回り大きくなったねぇ」。「わかります?。恥ずかしいわ。飼われるようになって、毎日三食食事が付いて、しかも家の中にずっといるもんですから、随分太りました」。「太った姿を見ると、晩年のオヤミケと瓜二つだねぇ。見分けがつかないよ」。

 「最近、仲間からも言われます。元々あたしは四匹いた兄弟の中でも、一番母親に似ていましたからね。太ったらなおさらですよね」。「でもさぁ、オクゲは昔から飼い猫だったのに、あいつは細身だよねぇ」。「えぇ、あの猫は多分胃腸が弱いんでしょう。食事もあまり食べませんし」。「そうなんだ。胃が弱いのかぁ。ミケが太りだしたら一層その差が目立つよね」。「あんまり太ったって言わないで下さいよ」。

 「そうか、気にしているんだ。それにしてもオクゲは大人しいよね」。「えぇ、いい亭主ですよ。飼い主からチーズや煮干しをもらうと、必ずあたしの前まで持ってきて、先に食べるように勧めてくれます。心根が優しいんですよ」。「よかったねぇ、いい亭主と巡り会えて」。

 ミケはまったく私を警戒しなくなりました。恐らく、飼い猫になって、人慣れしてきたからでしょう。目の前50㎝の距離で話をしても警戒しないで話をします。やろうと思えば背中を触るぐらい出来るでしょう。でも私は触りません。ミケを遠目に観察するのが好きなのです。ミケは近況を話した後、パトロールの途中だと言って帰って行きました。

 ミケとオクゲが夫婦仲のいいのは幸いですが、ミケが野良猫の習性が抜けずに、単独行動をとるようになったのは心配です。これほどオクゲに愛されているのに、深夜にパトロールをしていて大丈夫かといらぬ心配をしました。

 

 それから一週間して、小雨の降る日中、突然、私の家の横からミケが飛び出してきました。改めてミケを見ると、体格はいいし、毛並みが奇麗で、この辺りでは一番押し出しのいい猫に成長しています。

 「ミケ、どうした」。「あら、先生、美佐子姉さんのところに行って、ロイクーが来ていないか確かめていたの」。「こんな雨の中を歩いていたら体が汚れるよ」。「大丈夫、庇(ひさし)のある所ばかり歩いているから大して濡れないわ」。「オクゲは?」「あそこにいるわ」。アパートの階段下で雨宿りをしていました。私が視線を送るとすぐにやってきて挨拶します。

 「こんにちわ」。「オクゲは毛並みもいいし、人懐っこいし、素直ないい猫だね」。オクゲは頭を私の足にくっつけて来てスキンシップをします。オクゲはクロネコですが、四本の足先だけが白く、それがとても上品に見えます。「オクゲは細いね」。「はい、子供の時から太らないんです」。「ミケのことは好きかい?」。「勿論、いつでも一緒にいて、体を寄せ合っていたいです」。

 オクゲの仕草からミケへの愛情が良くわかります。いつでもミケを眺めていて、ミケに寄り添って、暇さえあればミケの毛並みを舐めてやっています。「僕はミケの体を隅から隅まで舐めてあげるのが好なんです」。「官能的だね。まぁ、猫だからいいけど、人間だったら変態だよ」。実に甲斐甲斐しいのです。ミケはオクゲの愛情に一瞥(いちべつ)もくれず、「今日一日、雨はやまないわ。ロイクーも来ないようだし、もうこれで帰ります」。と言って、二匹は去って行きました。

 先頭をミケが堂々と歩きます。オクゲはミケに従って後ろを付いて行きます。去り際にオクゲは何度も私を振り返って、小さな声で「ニャー」と言って挨拶します。気持ちの優しい猫です。

 

 その翌週、裏のアパートで大騒ぎがありました。ついにミケがロイクーをとっちめてたのです。私は書斎の窓を開けてパソコンを見ていると、ミケは家の庇の上に潜んで、じっと身動きせずにロイクーを見ています。何も知らずにロイクーは美佐子さんの濡れ縁に置いてある餌に集中してむさぼり食っています。好機を見つけたミケはいきなり庇から飛び降りて襲い掛かり、ロイクーの首に噛みつき、猫パンチを数発浴びせます。びっくりしたロイクーは何が何だかわからないまま、あわてて逃げて行きました。勝負は一瞬でした。怒らく高円寺南の町内ではミケが最強猫なんだと思います。

続く